そうだ! 湯屋へ行こう。

春野 セイ

第1話



 湯屋(銭湯)には、実にさまざまな人たちがやってくる。

 混みあっていれば、わいわい、ガヤガヤ、賑やかなものだ。


 湯屋ゆやは元来、混浴だったが、風紀が乱れるとかで、男が入る時間と女が入る時間とに分けている湯屋もあるそうだ。

 中の様子を窺えば湯が冷めないように工夫してあり、薄暗くもくもくの湯気で視野は悪い。

 ぶつからないよう声をかけもって入るのが礼儀であった。


 その湯屋にさんすけという職業がある。湯銭を払えば、客の背中を流すなど手伝いをしてくれる男がいた。



 その日、堀内道場では門弟もんていたちの間で、その三助が話題となった。

 その者に背中を洗ってもらうと、富くじが当たったとか当たらなかったとか、ひ弱な者が強者つわものになっただとか? 迷い猫が見つかっただとか? よくわからないが、運が向上するらしい。


 はやし兵馬ひょうまはそういう話が大好きで、友だちの三浦みうら半之丞はんのじょうの方へくるり、と顔を向けると、


「今すぐ湯屋へ行こう! 半之丞っ」


 と目を輝かせて云った。


 え? と当然のごとく、半之丞は渋った。


「ぐずぐずしていると、みんなに運を奪われてしまうよ」


 と、半ば本気で云うので、仕方なく頷いた。


 まあ、一度行ってみて、ただの客寄せだということが分かれば、目が覚めるだろうなどと、わりと失礼なことを考えていた。


 稽古が終わり、二人で噂の三助がいる御幸みゆき町の湯屋へ行った。

 湯屋の二階へ大小(刀)を預ける時も、兵馬はすでに富くじでも当たったか? の浮かれ具合でいるので、もう十分でないかと半之丞は落ち着いた気持ちで眺めていた。


 今日は、成沢なるさわ忠弥ちゅうやは非番の日で会えなかった。

 かといって、落ち込むわけではない。

 今では顔を見られるだけでしあわせなので、別にわざわざ三助に背中を流してもらわなくても、けっこうなのである(強気)。


 湯屋は、体を洗う場所と湯に浸かる場所に分かれていて、その出入口のはざま石榴ざくろぐちと呼ぶ。


 半之丞が着物を脱いで後から行くと、洗い場ではすでに兵馬が三助に体を洗ってもらっていた。

 まだ若い三助で、彼の特徴は細目であったが、むき出しの腕はたくましく、力がありそうだ。


「半之丞、こっちだ」


 兵馬に呼ばれて、隣へ座る。

 三助に米糠まで使って背中を洗ってもらって、兵馬はもう、しあわせそうだ。

 背中を洗い終えると、今度は体を揉んでもらえる。こわばった筋肉をほぐしてくれるのだ。


「素晴らしい体つきをしていらっしゃいますね」


 三助がそう云うと、兵馬が嬉しそうに答えた。


「そうかな。わたしはいつもポッチャリしているって云われてばかりで」

「そんなことありませんよ。この張りのある腕、ほとんどが肉でしょう」

「俺たち、堀内道場の門弟なんだ。最近になって、江戸から忠弥さんが帰国きこくされてね」

「堀内道場の方々は大勢来てくださいヤスよ。そういや、先程まで成沢の旦那はここにいらっしゃいやしたぜ」

「えっ‼」


 突然、半之丞が声を上げたので、話していた二人はびっくりした。


「どうしたんですかい、旦那。突然大きな声で」

「い、いや、その……」

「忠弥さんはもう湯に浸かられたのかい?」

「いや、水を浴びてくるって云って、あ、戻ってきやしたぜ」


 三助がペコッと頭を下げる。

 そこへ手拭いを肩にかけて大柄な男がのそりと戻ってきた。

 半之丞の横に来て、隣に座るぞ、と声をかけた。

 半之丞は心ノ臓が止まりそうになり、返事もできず、体がかちこちに固まってしまった。


「お主らも来ていたのか」

「忠弥さん、今日は非番でしたね。会えないと寂しいですよ」


 兵馬が肩を揉んでもらいながら、さらりと云う。

 そ、それ、俺も云いたい、と先程とは真逆のことを思ったが、云えるものなら、云ってみろである。


「休みとはいえ、体を鍛えんと一日が始まらんのでな。汗をかいたし、ゆっくり湯に入りに来たわけよ」

「俺は運を上げてもらいにきたんです」

「へえ……? それはまた……」


 忠弥が返事に困っている。

 半之丞は心ノ臓をバクバクさせながら、顔を動かすことすらできなかった。

 いや、ここでためらっていては男じゃない。


 以前、忠弥のために背中を洗って差しあげたいと思ったではないか。

 半之丞は、覚悟を決めて顔を上げた。

 男前な上に盛り上がった筋肉を見てくらくらする。

 自分の腕が楊枝に見える。

 比べてガクッとうなだれた。


 忠弥は、さっさと体を洗ってしまうと、俺は先に湯に入るぞ、と柘榴口へと向かってしまった。


 忠弥に話しかける機会を失い、茫然自失の半之丞。すると、三助が隣で大きなため息をついた。


「いやー、成沢の旦那は野郎の俺が見ても、いい体つきでいらっしゃる。あれほど見事な体躯の方はそうはいねえ」

「ですよね~」


 と兵馬が頷く。


「惚れちまうよ」


 三助の褒め言葉に、半之丞は顔を上げた。


「や、やはり、忠弥さんは誰の目から見ても素晴らしい方なんですね」

「そりゃあ、ねえ。こんな大勢の体を洗っているあっしが云うんですから、間違いねえ!」

「そんなに、すごいんですね……」


 半之丞は自分の目に狂いはなかったのだと、と今さらながら思った。

 忠弥さんに惚れてる男は自分だけではなかったのだ。

 ああ、あの時、背中を洗わせてください、とひとこと云えたら。


「かたくてしなやかな筋肉、触らせてもらえるだけでありがてえことです。成沢様は滅多に頼みませんからねえ」

「えっ? そうなのですか?」


 半之丞の食い付きがいいので、三助は調子に乗ってペラペラと話し始めた。


「そりゃあ、そうですよ。江戸まで行って帰国されるだけでも、骨が折れるってえのに、非番の日まで鍛えてるったあ。そりゃあ、どこもかしこもいい感じに鍛えられてるでしょうし、あっしの知っている世間なんて、湯屋ぐらいなもんですがね」

「半之丞、そろそろ俺たちも湯に入りに行こうよ」


 珍しく、兵馬の方から急かすように声をかけてきた。

 そうだった。

 忠弥はすでに向こうへ行っていたのだ。


「じ、じゃあ、湯に浸かりに行って参ります」

「いってらっしゃいまし!」


 三助がさらに目を細めてにっこり笑った。


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