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 父が倒れた。仕事帰りに駅で倒れ、頭を打ったらしい。頭蓋骨の内側で多く出血し、打った左側に血が溜まって、脳が右側に寄ってしまっている。脳の中央には、生命維持に重要な役割を果たす部位があって、そこが圧迫されてしまうともう命はないのだそうだ。


 父はこれまで、幸せとは言い難い人生を歩んでいた。それなのに、どうしてまたこんな。なぜ世界はこんなに父に冷たいのだろう。悲しさより先に私を満たしたのは、怒りの方だった。


 父はいつまで幸せだったろう。子供時代のことは、私と妹に楽しく語って聞かせてくれた。そのときは幸せだったのだと思う。そして父は私たちにとってありがたいことにも、子煩悩だった。私たちの好きな食べ物をたくさん買ってきてくれたし、他にも欲しいものは大体のものを買い与えてくれた。旅行やら遊園地やら色んなところに連れて行ってくれたし、調子が悪いときには学校まで車で送ってくれ、時々は母に代わって自作のご飯を出してもくれた。塾講師だった父は、時々の愚痴はあれども、仕事の話だって楽しそうにしていた。四十過ぎまで、多分それなりに満足して生きていただろうと思う。


 けれども父は、生きるのが本当に下手だった。父の運命を最初に変えたのは、仕事先を変えざるを得なかったことだろう。私は父や母から断片的に話を聞いただけだから、どこまで正確に事態を把握しているか分からないが、こう理解している。父の務める塾は、パソコン販売会社と契約を結んだか何かで、生徒たちにパソコンを買うよう促すことになった。父の塾では週ごとにインターネットで学習到達度テストを受けることになっていたから、その口実もあった。しかし塾には数台のパソコンを常設していて、早めに来るか授業後に残れば、それを使ってテストは受けられる。パソコンの購入はマストではない。教室の長だった父は、生徒にパソコン購入を促さなかった。結果教室の業績が上がらず、「やる気のない者は不要だ」というようなことを言われ、徐々に仕事を取り上げられていき職を追われることになった。父が代わる前の社長と懇意であったことも一因かもしれない。集団いじめのようなものがあったのだと、私は考えている。


 社会人として、父のスタンスは間違っていたかもしれない。業績を上げることは、組織としては必要なことだ。私ももう社会人だから、その考え自体は理解できる。先にも述べたように、父はとにかく生きるのが下手だった。父は、自分の教室の生徒が受験となれば、少ない小遣いを使って神社で各々に学業守を買ってくるような講師だった。貧しい家庭の生徒には、こっそり無償で授業をしたりもするような講師だった。だから父はどうしても、不要だと思われる物を生徒に売れなかった。組織の方針に従えなかった。結果、凋落ちょうらくの道を歩むことになってしまったが、私は父が間違っているとは思えない。私も父の血を引くからだろうか。


 父は前の社長が経営する小さな塾に移った。給料も退職金も保証すると言われていたが、やや田舎だったその地域での塾経営は、少子化の煽りを覿面てきめんに受けることになる。給料はみるみる下がっていった。父は深夜から未明にかけて牛乳配達のアルバイトを新しく入れて、毎日三時間弱の睡眠で働いていたが、やがて塾の経営維持すらできなくなった。あると言われていた退職金は全く払われず、父は遂に正社員の身分を失った。


 私たち家族は、持ち家に住んでいた。現代から考えればほぼ暴利に近いローンがあったと聞いている。父は正社員の身分を失っても、そして私たち娘がそれぞれ巣立った後も、自分より長生きするだろう妻の居場所を守るために、月々十万円、さらにボーナス払いが年二回四十万円のローンの返済を、アルバイトを掛け持ちして必死に続けていた。父はもうこの頃には両親と弟を亡くしていて、我々家族以外に親戚はほとんどいなかったし、友人だって多くはなかったから、誰にも愚痴は言えなかったと思う。深夜から未明は牛乳配達、日中は家庭教師や宅配業で疲労困憊だっただろう。何度か牛乳配達中に、小さな物損事故も起こしていたのだそうだ。父は運転が得意だったから、多分疲労からだと思う。父は命を懸けて家を守っていた。社会人になってもう実家を離れていた私たちは、少しの仕送りはしたけれど(これは父の誇りを大いに傷つけていたと思う)、そのことをしばらく知らないままだった。


 結局ローン破綻して引っ越しすることになるのだが、家をもっと早くに売っていたらと、私も妹も思った。だが父は既に両親からの遺産もローンに捧げていたから、後には引けなかったのだろうと思う。また、頑張れば頑張るほど、これまでの頑張りが何としても家を守りたいという気持ちを強くさせたことは想像に難くない。住宅関係の仕事についていた妹が半ば強制的に家を売る話を進めなければ、そろそろ借金を作っていたはずだ。でもきっと、父にはもうそんなに先を見通す力は残っていなかった。既に自由な時間はほとんどなくて、物理的な思考時間もそうなかったくらいだ。


 家を失った父は、緊張の糸が切れてしまった。私たちとて、長く住んできた思い出の地や思い出の物の多くを失うことにものすごい喪失感を覚えて、比喩でも何でもなく本当に心に穴があいたような心地だったから、父や母のショックはもう筆舌に尽くしがたいほどだったろう。金銭面の理由から父は車も手放して、趣味の一つの運転もできなくなったから、気晴らしの手段もない。父は胃腸が弱くなって、トイレを心配して家庭教師の仕事もできなくなってしまった。前述したように塾講師だった父は、子供に勉強を教えることが生き甲斐だった。その生き甲斐も失くした。


 父に残ったのは、お酒だけだった。いや、もっとずっと前から、個人的な楽しみなんてお酒くらいだったのかもしれない。妻や娘からやめろやめろと言われて、どうにか煙草はやめてもお酒はやめられなかった。胃腸が弱くなった父は食も細くなって、それでもお酒はやめられない。体が弱くなって、本当はお酒なんて飲める体ではないのに、それでも仕事帰りにお酒を飲んだ。量は大したことはない。でも、缶ビール一本でもう駄目だったようだ。私たちが叱るから、父は帰り道にコンビニやらスーパーやらに寄って、隠れてお酒を飲む。その帰り道に足をもつれさせて転び、救急車で二度運ばれた。そのときは事なきを得たが、二度目に運ばれたとき、救急隊や病院への申し訳なさと、父の体への心配から私は「次にお酒を飲んだら、お父さんとは縁を切るからな」と言った。ようやく、父はお酒をやめた。でも、もう遅かった。


 今回、父がお酒を飲んだかどうかは分からない。飲んでいなくとも、父はまっすぐに歩くことが怪しいくらいの体だったから、自然と転んでも不思議ではないのだ。とにかく父は頭を強く打ち、頭蓋骨を開く手術を受けた。医師の尽力によって一命はとりとめたが、打ちつけたのは左の前頭葉、右半身の動作や言葉をつかさどる部位らしい。目覚めた父は、幸運にも右半身に障害はなく、また、おそらくこちらの発する言葉は理解できる。だが、自分で自由に言葉を扱うことができなくなった。


「家に帰ったら美味しいもん食べよな。何が食べたい?」


 私がこう尋ねたら、父は「やっぱり」と答えた後で、長いこと黙り、最後にこう言った。


「冷蔵庫」


 私だってショックだったが、父はもっと傷ついた顔をしていた。言いたいことが言えなかったのだろう。喋り好きだった父は、寡黙になった。それでも、病院へのお見舞いを何度か続けるうちに、不意に父が言った。


「下に、梅の、梅が」


 私にはよく分からなかったが、母が意図を理解した。


「梅のジュース?」


 父が頷く。私はよく分からなかったが、梅のジュースは私の好物だ。その場はそれ以上新しい情報は出ず、結局その単語以外何も分からなかったのだが、後から引っ越した実家の一番近い自販機に、梅の炭酸ジュースが置いてあるのを私は見つけた。きっと、父の言いたかったことはこうだ。


「家の下の自販機に○○(私の名前)の好きな梅のジュースが売っているから、飲みぃ」


 父は私たち娘が帰省するたびに、私たちの好物を買いそろえて迎えてくれた。家の下に私の好きなジュースが売っているのを見つけて、「今度帰ってきたときに買ったろ」と思っていたのだろう。だからそれが言葉になって出てきたのだ。それが一番、泣けた。父はこんなときまで、娘のことを考えている。


 父は、職も金も家も誇りも時間も趣味も、最後には言葉までも失った。今の父に残っているものなんて、せいぜい家族くらいだ。きっとはたから冷静に見れば、父の凋落は自業自得に見えるだろう。仕事を続けるために、父は志を曲げるべきだった。無理だと分かった段階で、家を手放すべきだった。体が弱る前に、酒をやめるべきだった。でも、父は優しすぎた。優しすぎたから上手く生きられなかったし、上手く生きられなかったから余裕を失った。何かを考える余裕がないから、どんどん状況は悪化したし、状況が悪化しても誰にも頼れなかったから、お酒だけが支えになってしまった。全部全部、悪循環だ。


 今書いたように、父の自業自得な部分が大いにあるのは分かっているし、私たち家族の不足だってきっとかなりある。けれども、一つずつの選択がこんなところに帰結するなんて、誰もそのときには読めなかった。


 なぜこんなことを書くことにしたのか、実のところは私にも分からない。父のことを書かずにはいられなかった。私は最初父の運命に怒りを感じたけれど、振り返ってみれば怒りを感じる権利なんてないのかもしれないとも思う。正しいことを正しいと言っていては生きられない世界のいびつは確かに存在するのだろう。父の前に最初に立ちふさがったのは、間違いなくその歪だった。私が怒りを感じたのは、多分その原点に対してが一番大きかった気がする。父は、歪に立ち向かって、敗北した。敗北しないようにする方法も、その選択の後にいくつかあったのだろうけれど、父にはできなかった。私たち家族にも。


 後から理由をつけることになるかもしれないが、私は父の生きざまを、一人でも多くの人に知ってもらいたかったのかもしれない。知ってもらって、歪に立ち向かおうとしている人には、どうか父のようにならないよう、荒波への覚悟と何らかの事前の策を持ってほしいと思っているのかもしれない。そして歪を前に屈する人には、大きな流れに逆らわないでいることをどうか恥と思わないでほしいと言いたいのかもしれない。意味を探してみたけれど、これ以上のことは、やっぱりよく分からない。もしかしたら、単に父の自慢がしたかったのかも。こんな話は、あまり自慢に見えないかもしれないが、私はこんな愚かな父が好きなのだ。


 父は今も生きている。前のお見舞いで話したことを覚えてくれてはいないから、記憶力の方も怪しいようだが、それでも生きている。とても恵まれているとは言えない父の人生を、これからでも、私たち家族がたとえ少しだけだって恵まれている方に引っ張っていけたらいい。この文章を書いたからには、前向きに終わらせてやると決めていた。そう言えば私は、結末が気に食わない暗い物語を、私の世界の中で明るく改竄するために文章を書き始めたのだっけ。文章とは違って、現実の世界の結末を動かすのは難しいけれど、きっとやってやれないことはないのだ。母の失敗談を聞いた病床の父は、笑っていた。笑えるのなら幸せになれるはず。そうやんな、お父さん。物書きの本領の発揮どころかもしれない。

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