キリマンジャロの豹、韃靼海峡の蝶、讃岐国多度郡五位聞法即出家語の源大夫

@selgey

第1話


アフリカのキリマンジャロ山は、別名「神の家(ンガジェガ)」ともよばれている。その頂近くに、不毛の頂上を目指し登り、力尽きて死んだ豹の亡骸があるという。豹が何を求めて頂上を目指したのか、知る者はない。




 本を探し出すという点ではその機能は放棄してしまったオレの本棚の中から、確か新潮文庫だったとは思うが、「キリマンジャロの雪」を含むアーネスト・ヘミングウェイの短編集を発掘するなんて言うのは、ちょっと面倒だからやっていない。この引用がどなたの翻訳なのかはわからない。


 いずれにしろ、ウェブで「キリマンジャロの雪」を検索すると、この冒頭のくだりは必ず書いてある。おそらくはこの部分を読んだ人は、もれなく何かを感じてしまうのだろう。それは、絵にかいたような作られたような、消費財のような感動ではない。感銘というにも何やら怪しい。心に、うっすらと、しかし何か確実に澱が降ってくるような、そんな感じ。またはとても小さい小さい棘が刺さるような感じ。




 吉田秋生氏の「バナナフィッシュ」にも、主人公アッシュ・リンクスがこのくだりを諳んじる場面があったかと思う。だから何だ、ということはないのだ。ないのだけれど、早朝の日の出、または日が沈む時間、山の上や崖の上、かりそめにも地の果てを感じるようなところで、たった一人で景色に圧倒されるときに、なぜかこのフレーズを思い出してしまう。逆にこのフレーズでそういう場所に自分がいる事を想像する。凛とした冷気に我が身を晒す自分を。








てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていった


安西冬衛




分け入っても分け入っても青い山


種田山頭火




 山頭火の方は、周り中のいたるところから蝉の声、そして至近には、アブ、ブヨなんかの羽音。流れる汗、渇き。鬱陶しさを通り越し半分心が死んだ感じで体が山の奥へと自動的に踏み込んでいく感じの、盛夏を思わせる。


 安西冬衛の方。韃靼海峡とは間宮海峡、大陸とサハリン、当時の樺太の間の海峡の事を言う。安西はこの詩を詠んだとき、すでに死病の床にあって、望郷の念を詠ったとのことであるが、そういう背景は置いておくとして、蝶と海峡、海という絶望的な対比。夏であっても涼しい、或いはうすら寒いことが想像されるところである。韃靼海峡という地名の語感に薄っすら漂う物々しさに異郷を感じさせ、それが元気なときであればある種の焦燥感に近いもの、死の床にあれば諦観が漂ってくる。それでも蝶は行くのである。勇気でもなく蛮勇ですらない。運命に導かれて、という感じが一番近い気がするが、それもどこかしっくりこない。波の音も蝶の羽音も勿論そんなものはない。多分何らかの音はあるんだろうが、支配するのは静寂だ。




 傍目には、なんでそんなことを、と割と多くの人が思うんじゃないか? 孤独にあって、しかし、取り憑かれたように、それでもどこかを目指す。








讃岐国多度郡五位聞法即出家語




 小学生の時だ。日本説話集、みたいな題名の児童書を、多分両親ではない、父方の祖母に買い与えられたような気がする。児童向けだから、それに坊さんの説法がついてくるわけでもない。概ね、グリムやイソップのような舶来ものの童話集よりは淡白な、小話的エピソードが連ねられており、読みやすかった。多くは忘れてしまったが、一つだけずっと頭の片隅に残っていた話がある。


 名前も忘れた。なんかある村に、ヤンチャの限りを尽くした厄介者がいたんだが、ある時阿弥陀仏の事を聞き、剃髪をして、阿弥陀仏の名を呼びながらひたすら西を目指したのだという話。子供心に、なんじゃそりゃ? だったのである、まず。そんな落語に出てくる長屋の粗忽もののはっちゃんみたいな思い付きで、いきなり旅に出るって、なんなの?


 最後も唐突で衝撃だった。果たして阿弥陀仏の返事を聞くことが出来たその男は、近隣の僧侶に、西の果ての崖の上に木の股に座り、七日経ったらまた会いに来てくれと言い、七日後僧侶が再び訪れてみれば、蓮の花を咥えて事切れていた、という話。読んでる側に自己移入の魔も与えないくらいに、厄介者と言われた男はあっけなく往生するのである。誰かに打ち取られるという訳もなく、他じゃみられないぐらいに安らかに。なんなの?なんなの?なんなの?


 話のあらすじはさほど複雑ではない。それどころか、子供が好むようなハラハラドキドキがあるわけではない。起承転結がない。序破急がない。最初のあたりで男が如何に厄介な乱暴者であったかという描写があったのみだ。しかし、では、「この文章の作者は何を言いたかったのでしょう(配点10点)」となると、まるで答えられない。あの話はなんだったんだ?




 インターネットというものも便利なもので、ある時、子供ときに読んだあの話を探して観ようと思った。それより前に、図書館で今昔物語の索引をみてあの話を探し出そうとしたが、できなかった。「おおい、阿弥陀仏」という男の呼びかけだけは覚えていて、それでググってみたら、見事にヒットしましたよ。Xで瀬川環さんという方が漫画にして載せておいでだ。興味があれがご覧いただければよかろう。


https://x.com/segawatamaki/status/1299901304056225793?s=20






 かのエピソードのタイトルは「讃岐国多度郡五位聞法即出家語」といい、男の名前は「源大夫」という。瀬川さんの漫画ではなかなかワイルドで屈強そうな男だったが、子供のころ読んだ本の挿絵では小太りのそれでもどこか愛嬌のある風貌をしていなかったかと思う。




 言うまでもなく、浄土宗? 浄土真宗? の言うところの悪人正機のエピソードであるのだが、現代人にとっては大の大人であっても感覚的に理解できないところがある、あれだ。


「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」


 処罰意識が強い、寧ろそれが娯楽になっているのではないかとさえ思えてしまう現代日本人にとって、いくら悔い改めようとしていたとしても、やったことにはきっちりそれ相応のバツが与えられるべきで、という、意味不明の上から目線で厳罰を求める心根には全く持って理解不能のだろう。とはいえ、ここで、それを掘り下げるつもりはあまりなく。




 はっきり言おう。オレはこのエピソードに惹かれていたのだと思う。それは何故かと非常にうっすらとではあるが半生以上の時間を費やして、考えるでも考えないでもなく、やはり考えていたのだが、


 これと思ったことに、この源大夫が直線的に突き進んでいった、ということだったんじゃないかと思う。大河があれば泳いで渡り、道なき山の斜面があれば藪を突き進み、切り立った崖があれば、よじ登るなり、滑り降りるなり。おそらくは迂回ということをほとんどしなかったのではないかと思われた。






 キリマンジャロの豹の有り様も、韃靼海峡の蝶の有り様も、源大夫の有り様も、現代のオレたちならばそうしない。それぞれが孤独であったが、孤独であることこそ、現代人が最も避けようとしていることの一つである。


 しかし、豹も蝶も源大夫も不幸だったのか? オレにはとてもそうとは思われぬ。




 関係ないのだが、綾波レイの初登場が包帯ぐるぐるだったことが、ひょっとしてアニオタのすそ野を女の子に広げていったような気がしている。それは、現実生活ではどうであれ、あの無表情の包帯ぐるぐるが女子たちの心象にかなり近いものだったからなんじゃないかと思っている。


 それに似たような事なのかもしれない。絶望的とも思われる、或いは普通には有り得ない程荒涼としている、キリマンジャロの斜面、寒風が吹く間宮海峡、西の果て崖の上。誰かと会って話をすれば愚痴のオンパレードにもなってしまうが、しかし、不幸ではない。どこかで、そういうシチュエーションを望んでいる。






ここで思い出した。




その車は


まるでくるおしく、身をよじるように走るという


その悪魔と呼ばれる車は、事故をかさねてもかさねても走り続けようとする 魅せられた者たちはもう


いくところまでいくしかない


湾岸ミッドナイト




 そう。言ってることが些か若々しくてこっぱずかしいが、突き抜けて行きたいのだ、たった一人であっても。

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