M.I.T

大柳未来

本編

 左腕に着けているスマートウォッチに向かって囁く。

「こちらエージェント。今夜は絶好の侵入日和。これが終わったら是非デートさせてもらいたいな」


 時は深夜。断崖絶壁のところに豪邸が建っている。

 柵を乗り越えて敷地に侵入し、オレは堂々と玄関前まで来ていた。監視カメラはオペレーターのハッキングにより静止画を録画し続けている手筈になっている。オレの侵入はバレてはいない。


「ターゲットの自宅前に着いた。ロックの解除を求む」

 通信すると、右耳につけたワイヤレスイヤホンより女性の声で回答が返ってきた。


「――ロック解除完了。無駄口を叩く暇があったら目標の部屋に早くに向かってください」

 ガチャ、という何かが動いた音が聞こえる。そっとドアを引くと――開いた。防犯上の理由か、中は明かりがつけっぱなしになっていた。


 屋敷内は広く大理石の床で構成されていて、調度品は一部を除いてシンプルなものが多い。芸術品は置いておらず、豪華と思う物はシャンデリアぐらいだろうか。


 ひときわ目を引くのはキャットタワーや大規模な猫用のアスレチック。猫が休む専用の小屋。常に流れている水飲み場……事前のブリーフィングの通り、相当の愛猫家ということが伝わってきた。


 人や猫の気配を感じないため、一歩足を踏み入れようとした時通信が入った。

「待って! ストップ!」

 慌てて後ずさる。


「どうした。もう少しで入るところだった。問題発生か?」

「えぇ――そちらのボディカメラから映像を分析したわ」


 オペレーターがこちらの状況を常に把握できるように、潜入工作員はカメラを体につけることを義務付けられている。

「例のセキュリティがすでにここから張り巡らされてる。支給した靴に履き替えて」


「何っ!? 予定と違う! 別日にリトライすることはできないのか」

「できない。ここの家主はめったに外出しない。次の外出予定は半年後よ。『半年間待ってください』とあなたがクライアントに交渉してくれるなら、延ばしてもいいわ」


 思わず舌打ちする。ショルダーバックから靴を取り出し、履き替えを始めた。

 オレのような潜入工作員は多少のトラブルでもその場の機転で切り抜ける訓練は受けている。実践でも修羅場をくぐってきた。だが、ここのセキュリティは大分特殊だった。


 まず、ターゲットの執務室に潜入しPCから機密情報を盗み出すのが今回の任務だ。執務室には鍵が掛けられていない代わりに温度センサーが備えられている。幾重にも重ねてかけられたロックを解除して、どこかに隠された温度センサー解除スイッチを押して解除しないといけない。


 その温度センサーが玄関からすでに張り巡らされているという報告だったのだ。オレは即座に支給された靴に履き替える。


 靴底には小さい肉球が親指の真下と小指の真下、かかと部分にも間隔をあけて横並びに二つ配置されている。肉球部分は温度管理ができるようになっており、猫の体温と同様まで上げることができる。


 温度センサーに猫が引っかからないようにした配慮を利用しようという算段だ。猫の足の運び方まで再現はできないがセキュリティを騙すのはこれで十分というわけ。

「どれだけ猫が好きなんだか……」


 靴を履くと自動的に肉球部分の温度が上昇する仕組みになっている。しばらく待つとオペレーターから声が掛かった。

「三十秒経った。足の裏をボディカメラに見せて――肉球部分の温度、三十八度を確認。改めて潜入を許可するわ」


「了解した」

 オレは内部に潜入し、ドアを閉める。音を立てないようにしながらなるべく足早に目的地へと向かう。


 内部の監視カメラもオペレーターが欺瞞工作を施しているため安全だ。事前に間取り図は頭に入れていたため、殺風景な廊下や階段を迷いなく歩み――執務室に到着した。


 執務室内は流石に猫用の調度品はなく、本棚や間接照明などのインテリアが置かれている。おそらくリモートでのミーティングで見栄えを気にする故だろう。

 デスクトップPCはスタンバイ状態になっていた。


「見つけたわね。USBメモリを挿して」

 言われた通りに支給されたUSBメモリを挿す。するとパスワードが自動入力され、PCが立ち上がった。


 PCにはメッセージが表示されている。

『本人確認が完全ではありません。網膜スキャナーを装着してください』

 PCには有線でゴーグル上のガジェットが繋がっている。


「これを付ければいいのか」

「えぇ、お願い」


 事前にターゲットの瞳をコピーしたコンタクトレンズをつけているため、そのままゴーグルを装着する。PCの画面上に『スキャン開始』という文字が表示された。多少の待機後、『スキャン完了。ようこそ』というメッセージが表示され、PCは今度こそ操作可能な状態になった。


「ゴーグルを外せばPCは操作不可能になる。そのまま着け続けて」

「了解」

 潜入工作員は作戦に必要な情報以外知らされることはない。


 ターゲットの詳しい素性。抜き出す機密情報の詳細は分からないし、知りたくもない。代わりにオペレーターが遠隔操作で情報を抜き出してくれる。オレが挿したUSBメモリに情報が抜かれれば、それを持ち出して任務完了というわけだ。


 画面には黒のウィンドウに専門用語の英単語が羅列され――何らかのコマンドが実行されているのだろう――ダウンロードの進捗率が表示され始めた。

 最初は1%と表示され、ゆっくりと数字が増え始める。


 靴を履き替えるタイミングこそ異なったが。予定通りの進行。このままつつがなく終わると思っていた、異常が発生した。

 オレはつとめて冷静に現状を報告する。


「オペレーター、聞こえるか」

「聞こえてるわ」

「靴のつま先が赤く発光している。どういうことだ」


「まずいわね……予定より早く充電が切れかけてる。充電切れの二分前に発光。一分前に点滅し始めるわ」

「充電が切れてからしばらくは持つんじゃないのか」

「床の材質からして数秒しか持たない。熱伝導率が高すぎるの」


 画面を確認する。ダウンロードの進捗率は80%を超えていた。ペースとしてはあと一分半以内で完了するだろう。

「予備の靴を届ける時間も、再充電の時間もないわ。ターゲットが外出から戻ってくるまであと十分を切っている」


「仮に温度センサーに引っかかった場合はどうなる?」

「その家の周囲にマシンガンを持った男たちが短時間で押し寄せて包囲される。ヘリコプターまで出動する徹底ぶりよ。逃げきれないと考えた方がいい」


「――分かった。ダウンロードが完了したら即座にメモリを抜いて大丈夫か」

「えぇ。ウィンドウは自動で閉じて元に戻るからそこの心配は要らない」


「なら、あとは純粋な時間との勝負。ダウンロードが完了したら全力で走る」

 靴を見ると点滅し始めた。進捗率は94%。


 早く――。

 早くしろっ――。


 ――96%。

 ――――98%。

 ――――――99%。


 100%。

 ウィンドウが閉じていき、最初のスタンバイ画面に戻る。

 USBメモリを引き抜き、走り出した。


 もう充電切れまで三十秒を切っている――!

 廊下を駆け、右へ、左へ曲がり思いきり地面を蹴る!


 階段を駆け下り、出入口の広間まで差し掛かった。

 どう考えても間に合わない――!


 靴の点滅が収まり、赤い光が消える。充電切れの合図。

 ジャンプして外に出ようとしてもドアは開いていない。


 オレは即座に靴を脱ぎ始めた。

「エージェント! 何をしている!?」


「猫の肉球の形を厳密に感知してるわけではなく、あくまで温度で感知しているんだろう!? だったら――」


 オレは靴の上に立つと靴下を脱ぎポケットに捻じ込む。

 その後両足の親指だけで自立。靴を左手で持った。


「ぐうぅぅぅッ!!」

 両親指にのしかかる重みに耐える。警報は鳴っていない。施錠音も聞こえない。読み通り。オレの親指は猫の足と同じだと判断された――!


 一歩、一歩歩みを進める。

 歩こうと片足を持ち上げた瞬間にも片方の足に全体重が掛かる。


 冷や汗がぶわっと吹き出すが耐える。

 叫びたい衝動を抑えるのに必死だ。

 耐え続け、一歩、また一歩と前進する。


 ドアまであと三歩というところで、目の前に黒い塊が現れた。

 思わず目を凝らす。その塊をよく見ると目があり、耳があり、口かある。ピンク色の舌をしまい忘れたまま、こちらをじっと見つめていた。


「頼む――いい子だから――いい子だか、ら――近づかないで――」

 黒猫は一瞬体を沈めたのち、オレに飛びかかってきた。


 猫パンチが顔面に炸裂する。

 後ろに体が持ってかれるところを――前に体重をかけ――右手を伸ばし、右足を出した。


 指先がドアノブに届き、かろうじて持ちこたえる。

「……はぁ……はぁ……」


 ドアノブを支えにしながら慎重に体をドアに近づけ、ドアを開けた。

 外に向かって倒れ込む。


 オレはドアを閉め、大の字になっていた。

「あぶな……かった……」

「本当によく頑張ったわ。エージェント。でも、あと五分でターゲットが自宅に到着する。急いで現場から離脱して」


「でも、オレ頑張れなくなっちゃたな……もう動けないかも……」

「――デートに行きますから、早く離脱してちょうだい!」

「そうこなくっちゃ」


 オレは涙をにじませながら、そそくさと豪邸を立ち去った。


 了







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