雨、時々、ミドリ君

いちご

雨、時々、ミドリ

 ミドリ君のベランダは植物で溢れている。溢れているというのはとても正確な表現で、ミドリ君のベランダは、上からは緑のカーテンが、下には緑の絨毯が、隙間もないくらいにわぁっと、植物たちの生命力でもって満ち溢れている。ミドリ君のベランダは、私の住むアパートの部屋の窓の向こうの、ほとんどお向かいさんに位置している。私の住むアパートとミドリくんの住むアパートは別の建物だけれど、車一台がギリギリ通れるくらいの道幅を挟んで向かい合って建っており、だから私は自分の部屋の窓を開けて、視線を左斜め下に少し下げるだけで、まるっとミドリ君のベランダに茂る植物たちを覗き見る事ができるのだ。

 ミドリ君の部屋のお隣さんのベランダには、すっかりくたびれた洗濯物がいつも様々にぶら下がっていて、そのまたお隣さんのベランダには大きなゴミ袋がいつも溜まっている。街中どこを見ても生活感に溢れ、年中ドブ臭い空気の漂うこの街に、まるでそこだけ別世界みたいに、ミドリ君のベランダだけがいつでもこの街にまるで似つかわしくない、柔らかい生命力に満ちた香りをふわりと辺りに漂わせながら、その場にぽっとささやかに発光するように存在している。

遠目にも目立つショッキングピンクのゾウの形をしたジョウロで、ミドリ君はいつも楽しそうに植物たちに水をあげる。のっぽな体を小さく折り曲げて、ちょこまかと植物たちの世話を焼くミドリ君のその様子は、私の目には何だかとても可愛いらしく映る。私の住むアパートと同じような具合に、建物の老朽化によりしっかりと年季の入ったコンクリートむき出しの廃退的な雰囲気の漂うアパートの小さなベランダで、けれども植物たちのお世話をするミドリ君が決して殺伐とした雑な気持ちでいないことは、植物に触れるミドリ君の指先や、全身から醸し出される穏やかな雰囲気からよく伝わってくる。目的地まで辿り着く途中で一人、道端に立ち止まってちょこっと小首を傾げ、空に浮かぶ雲でも眺めながら考え事をするように、いくらでも通り過ぎて行けるようなことをふと立ち止まって考えるような、そんな些細な瞬間をそっと束ねたような丁寧さが、ミドリ君の輪郭を作っているように私は思う。そして同時に、例えばそうやって道端で一人小首をかしげているミドリ君の傍を、誰かが猛スピードで走り去って行ったとしてもまったく意に介さないような、少しも気が付かないような集中力に、ミドリ君のその丁寧さは支えられているように思われる。だって、私が私の部屋の窓からミドリ君のベランダを見ているなんてこと、ミドリ君はちっとも気が付かない。でもそのお蔭で、私はいつでも遠慮なくミドリ君のベランダを眺めることが出来るのだけれど。

 そんな不思議なお向いさん、ミドリ君の本当の名前は多分ミドリ君じゃない。けれども今から数か月前に向かいのアパートに引っ越して来たミドリ君を窓越しに一目みた時から私は、あぁこの人の名前はミドリ君だなと思ったから、だからそれ以降、私はこっそりと胸の内で彼をミドリ君と呼んでいる。


モモへ。今日も手紙を書きます。

過ごしやすい初夏の季節があっという間に過ぎて、こちらはそろそろ梅雨の時期になる頃です。相変わらず低気圧には弱い私ですが心配しないで下さい。そちらの天気はどうですか?モモは元気で過ごしていますか?モモが今日もどこかで笑っていてくれるなら、私はそれだけで安心です。

雨の日に傘をささずに楽しそうに濡れながら歩いたモモが、私はとても好きでした。


 月曜日から土曜日の朝六時から夜の十二時まで、私は近所のお弁当屋さん、ミカサミートで働いている。ミカサミートは、痩せた店主と、良く肥えたその奥さんとで切り盛りされるこの街のお弁当屋さんで、朝から晩までとほんど客足が途絶えることは無い。物によってはワンコインでお釣りがくる安さと、シンプルなのに何度でも食べたくなる癖になる味が、地元住民や近隣労働者の胃袋を掴んでいる。お店はお世辞にも綺麗とは言えなくて、庇は破けているし、年季の入ったレジスターは手垢ですっかり黒ずんでいる。メニューも黒の極太マジックでハンバーグだとかカレーだとか、簡単にメイン料理を殴り書きした紙を壁に貼っているだけ。大雑把なメニュー表には値段も書いてないけれど、いつもやって来る大抵常連のお客さんたちは大体の値段を知っているから、何も言わないでさっと来てはさっと買って帰って行く。どこで情報を仕入れて来るのか、時々、観光客らしきお客さんもやって来る。そういうお客さんからは女将さんは通常の値段の割増でお金をとる。お金を持っている人から多くのお金を貰うのは正しいことなのだというのが女将さんの考え。観光客のお客さんはみな、纏っている空気感が地元の人たちと全然違うからすぐに分かる。何が良いのか分からないけれど観光客たちは、こんな年中ドブの臭いのするごちゃごちゃした薄暗い街にわざわざやって来て、誰に見せるのか知らないけれど沢山の写真を撮って満足して帰って行く。時々、私も一緒に写真に写るように誘われるけれど、私は写真があまり好きではない。写真なんて、思い出を残すなんてことが悲しいことに思われるから。

 私が自転車に乗って出勤すると、女将さんは毎朝私に一瞥をくれる。特に挨拶を交わす訳でもなく、不機嫌そうな目で私をじろりと見るだけ。私は毎回伏し目がちにおはようございますと言って、さっとエプロンを身につける。

夏は暑くて冬は寒い狭い厨房で、使い込まれた鍋でご主人が腕を振るい、出来上がった料理を女将さんがプラスチック容器に手早く詰め、完成したお弁当を私が隙間なく一つ一つ表に陳列し、レジを打ってはまた一つ一つ減らしていく。これが基本的なミカサミートの商品の回転フォーメーションだ。この流れにのって、私は毎日黙々と働く。時に接客の合間に棚を拭いたり、表を掃いたり、こまめに清潔を保ちながら黙々と、静々と働く。女将さんが両替えに行っている間だってきちんと店番をするし、無遅刻、無欠勤、休憩時間の一分だって守らなかったことはない。

店名からも分かる通り、ミカサミートはお弁当屋さんの前は精肉店だった。だからお弁当の具はお肉が多い。一番人気はから揚げで、次が豆腐ハンバーグ、そして三番目以降は豚の生姜焼きや肉じゃがなどが団子状態で続く。このランキングはこの近隣に重労働者と高齢者が多い事を表している。お弁当の白ごはんには全部海苔が乗っていて、メインの他にもう一品付け合せが付く。付け合せは大体スパゲッティサラダかポテトサラダかマカロニサラダで、歯が悪くても食べられそうな、それでいてお腹に溜まる物という共通項がある。付け合せは全部女将さんの手作り。女将さんの気まぐれで、時々鮮やかな色に着色されたお漬物が付く時もある。

「配達行って来な」

そう言っていつも、女将さんは私の背中と両手に、持てる限りのお弁当を積む。お昼のピークの少し前の時間、女将さんの命令が発令されると、沢山のお弁当とお供に私はミカサミートを出る。お弁当の配達先の大半は、近辺の古い集合住宅だ。身寄りがなく、外に出歩く体力も少なく、お金も少ない高齢者が多く住んでいて、そういった人からは本来上乗せされるべき配達料金は取らないと言うのが女将さんの方針。お弁当たちの重みを全身で受け止めながら、配達に向かう道の途中にあるミドリ君の住むアパートの前を通ると、私はいつもほとんど無意識に見上げてしまう。そうしてミドリ君のベランダにいつも変わらず植物たちが元気に育っているのを見ると胸の中が安心する。例え空が晴れていても、どこか肌にまとわりつくような陰気臭さの漂う、エレベータなどない配達先であるその集合住宅まで、けれども私が挫けずに毎日階段を登り降りして配達を行えるのは、ミドリ君のおかげかもしれない。

 毎週日曜日は私は仕事を休む。女将さんとご主人は毎日年中無休で朝から晩まで働いている。

「皆さんこんにちは。ラジオ英会話のお時間です」

日曜の朝はいつもの決まった時刻にラジオのスイッチを捻る。今日もノイズ交じりにすっかり耳の親しんだ文言が流れて聞こえてくる。

「六月に入り、すっかり梅雨の季節ですね。今日は雨の日に使える英会話を学んで行きましょう」

明るい音楽と共に始まるラジオ英会話。いつもモモと聞いていたこのラジオ番組を、私は今もずっと聞き続けている。モモと私は約三年間、この部屋で共に過ごした。モモは私にとって、とてもとても特別な人。モモを言葉で表現するのはとても難しくて、でも、モモを言葉で表す一番近しい最大公約数は多分、神様だと思う。モモは私の神様だった。

私がこのラジオ英会話を聴くのは、別に英語が好きだからではない。むしろどちらかと言えば私は英語は嫌いで、けれども毎週日曜の朝、この部屋からモモがいなくなった今も、私は毎週欠かさずこのラジオ英会話を聞き続けている。

モモ。

モモが居なくなって数年経つのに、胸の中でその名前を呼ぶだけでまだ息が詰まるように苦しくなる。モモは語学が堪能だった。ラジオ英会話を一緒に聴きながら、モモは私の発音の間違っている部分があれば、その都度丁寧に修正箇所を教えてくれた。モモは家にいてもよく英字の手紙のやりとりや、電話で英語の会話を楽しそうにしていた。その様子を見ていた私が、モモに羨ましいと言ったら、モモが私にこのラジオ英会話を見つけてきてくれて、それが私がこのラジオ英会話を聴き始めたきっかけ。けれどもあの時私が本当に羨ましかったのは、英語を話せることではなくて、私の知らない言葉で、私の知らない世界のことを、私をすっかりそっちのけにして、モモと楽しそうに話す誰かのことだったのだけれど、モモがわざわざ私にこのラジオ番組を探してきてくれたことが嬉しくて、それから私は毎週日曜の朝にモモとこのラジオ英会話を聞くようになった。今はラジオと私だけになってしまって、モモだけが居ないまま、ラジオ英会話は変らず続き、私も変わらず聞き続けている。時折雑音を吐きだしながら、変わらず私の傍にいてくれるラジオの硬い頭を、労わるように指先で撫でてみる。ふと唐突に部屋のどこか、例えば小さな二人掛け用のソファの上にでもモモがいるような気がして辺りに視線を彷徨わせる。胸にぽっかりと空いた穴からモモを探す。この部屋にモモがいるなんてそんなことあるはずないと頭でちゃんと分かってはいるけれど、今でも気が付けばすぐそこにモモがいるような気がして、時々こんな風に探してしまう。ちょっと寄り道するような気軽さで、私の寂しい気持ちに呼応するように、ふらっとすぐそこにモモが現れてくれるような気がして。

流れるラジオをBGMに、どこにも探し物が見つからない視線を、どこでもないどこかにふわふわ逃がして漂わせながら、その行き場のない心もとない感じをやっぱり自分の体の中から上手く逃がすことが出来なくて、やや途方に暮れながらどうしようもなくて机に向かう。窓の外から一際大きな、どこか近くの町工場から発せられる金属と金属のぶつかり合う大きな音が響いてくる。机の引き出しを開けて便箋を取り出す。ペンを握り込む。自分の中から溢れる心に潰れそうになりながら、重みから逃れるようにペンを動かす。


親愛なるモモ、元気にしていますか?こちらは今日は雨です。激しく降っているわけではないけれど、まだ薄暗い早朝から途切れることなくとめどなく降っています。ジメジメとした梅雨の雨です。モモがこの部屋から消えてしまった日も、雨が降っていましたね。雨の日は憂鬱です。鼓膜の中に雨音が侵入して、内側からぐるっと私を囲い込んで、私をすっかり雨音の中に閉じ込めます。だから雨の日は自分がどこにいるのか少し分からなくなってしまいます。迷子になった気持ちで窓の向こうの雨降りの景色を見つめていると、きっとこれと言って明確な理由はないのだけれど、何だか途方に暮れてしまいます。忘れたくない大事なことや、これまでに既に失われてしまったものが本当にどこかに消えてしまって、もうどれだけ一生懸命に探しても探してもどこにも一生見つからず、それがどんなに大事だったかさえも忘れて、全てが永遠に戻ってはこない様な気になります。こんな時は気を付けないといけませんね。気持ちが弱くなると、ついうっかり良くないものに付け込まれてしまう気がします。悲しみはいつも息をひそめて、ひょんな所に落とし穴を作って、私がその穴に引っかかるのをいつでもじっと息を詰めて待っています。

近頃私がよく思い出すのは、モモの眠っている顔ばかりです。モモの寝顔はいつでもとても安らかで、私はモモの眠っている顔を思い出すだけで、漠然と不安だったこの胸の内がすっかり温かく満たされて、何が大丈夫なのかはわかりませんが、とにかく全てが大丈夫なように思えてきます。これからもずっとずっと、モモがモモのまま、毎晩安心して眠れますように。今はそれだけを、私は願っています。


 ペンを離して立ち上がり、そっと部屋の窓を開ける。半分ほど開けた窓の向こう、雨の線を掻き分けた向かいのベランダに、ミドリ君の姿を見つける。寝起きなのか髪が鳥の巣みたいにもじゃもじゃだ。ミドリ君はラフな格好で、のっぽな体を小さく折り曲げてちょこちょこと手を動かし、狭いベランダいっぱいに広がる植物たちのお世話をしていた。

 夏の羽虫が夜の外灯の白い明りに吸い寄せられるように、私の視線はミドリ君のベランダに、その中心にいるミドリ君に吸い寄せられていく。そのことを自覚すると、お腹の底が冷たくなる。自分がひどく重い罪を犯しているような後ろめたく恐ろしい気持ちに襲われる。窓の向こうのミドリ君を見つめることが、寒い朝に温かいスープを飲もうとするような、そんな生理反応に近い反射であっても、私はそれを自分に許せない。

「モモ」

温かい香りのするミドリ君を見つめながら、私は呟くように愛しい人の名前を呼んで、そっと窓を閉めた。

時計を見るといつの間にか出かける時刻が迫っていた。吊り下げておいたワンピースを手に取る。足首の辺りまで丈のある、紺色の落ち着いた色合いの物で、スカート部分のプリーツが気に入っている。それはいつかのクリスマスに、モモが私にプレゼントしてくれた洋服で、日曜は決まってこのワンピースを着る。着替えを済ませると、髪を丁寧に梳かして、薄くお化粧もした。いくら表面を飾ってもそれほど意味を持たないことを私は知っている。だから支度にはそんなに時間をかけない。モモはいつでもちっとも自分を飾らなかった。けれどもモモは、その瞳も、声も、全て、誰よりもこの世の何よりも綺麗だった。

 支度が整うと最後に布製の肩掛け鞄を掴んだ。長く使っているこの鞄は、いつも入れている中身が重いため、四角だった形がすっかり変形してしまっている。私が何をそんなに重い物を入れているのかと言えば、それは聖書だ。もし柔らかければ良い枕にでもなりそうな程分厚い聖書。私が初めて聖書を目にしたのは今よりずっと小さな頃だ。物心もつかないくらい小さな頃のこと。幼い私は何をそんなに沢山書かなくてはならないことがあるのかと、初めて目にする聖書を前に、到底信じられない気持ちになったのを今でも覚えている。

「行ってきます」

玄関で靴を履き、手に傘を持って、玄関脇の棚に守り神のように大事に置いている、掌にちょこんと載るくらいの大きさの、背中から羽の生えた小さなウサギの彫刻に最後にそう声をかけて外に出る。


 雨の中バスに乗って、街の外れにあるこの辺りで唯一の教会へ向かう。私がこうして毎週日曜に教会に通うのは、神への信仰心からではなく、どちらかと言うと教会という場所にある思い出をなぞる為と言った方が近い。教会には私の大事な人の面影があちこちに残っている。大事な人というのは勿論一人はモモで、そしてもう一人は私のお婆ちゃんだ。

 幼い頃から私はお婆ちゃんに育てられた。だから私の両親はお婆ちゃんただ一人だけ。お婆ちゃんは熱心なクリスチャンで、だから生まれた時から私の傍には神様や教会や聖書や信仰があった。私にとって教会は学校や習い事に行くのと同じ、当たり前に生活の一部にある場所で、けれども小学校に上がってクラスメイトの中に毎週末日曜礼拝に教会へ通っている子が誰もいない事実を知り、私は少なからずショックを受けた。けれども私は教会に通う事も、神様に祈ることも止めなかった。偶然その時自分が所属する集団の中で自分がいかにマイノリティであっても、それは限定されたその集団の中でのことであって、私を決める基準はいつでも私の中にあるはずだったから。だから私は私の信仰を封じる必要も、恥じる必要も、恐れる必要もなかった。と御託を並べてみても、幼い頃の私が教会へ祈りに行っていた本当の本質はもっと単純で、私はただお婆ちゃんと共に行く教会が好きだったのだ。大人になった今でも、教会に行けばお婆ちゃんが待っていてくれるような気がするのは、多分、そういうことだったからなのだろうと思う。

 街外れにある教会は古く、とんがり屋根の高い所に掲げられている鐘は、とうの昔に錆びて鳴らなくなり、外壁も剥げて色が落ちてしまっている。あちこち屋根も傷んでいるので、雨が降っている今日なんかは雨漏りまでする始末だ。少し強く風でも吹けば、そのまま崩壊しそうな古びた教会だけれど、日曜の朝にはいつも決まって参列者が列を作っている。お昼前のこの時間に、バスに揺られてわざわざ街外れのこの辺まで来る人は大抵教会にやって来る人たちなので、教会に着く前から既にバスの中ではなんとなく共通の仲間意識のような空気感が出来上がっている。私の信仰は学校ではマイノリティだったけれど、今このバスの中ではマジョリティで、だからと言って特に何もないけれど、ただ言葉などなくても黙ってお互いを認め合っているような、そんな緩やかな空気はささやかに心強く、尊い気がする。

 教会へ向かうバスは時折激しくガタガタ揺れながら道を進む。空いている席がなくて立っている時、危うくこけそうになる私をモモが支えてくれたりして、二人で顔を見合わせて小さく笑い合ったことをふと思い出す。道幅が狭く、十分には舗装されていないガタガタ道をバスは進む。バスの走る進行方向に向かって首を伸ばすと、丁度前方に、教会の古ぼけた三角屋根が見え始めていた。尖った屋根の先には十字架が高く空に向かって掲げられていて、その下に錆びて鳴らなくなった大きな鐘が、傾いたまま飾りのように付いているのが見える。この辺りに教会以上に背の高い建物は無い。教会にしてはこじんまりとしているけれど、その二等辺三角形のとんがり屋根は、周囲の建物からは少しばかり特異な雰囲気を纏いながら天高く聳えている。子羊たちが迷わないように、遠くからでも目印としてどこからでも見えるように、太陽の眩しい日差しに向かって、私たちの頭上に高く十字架は聳えている。バスは揺れながら教会のとんがり屋根を目指してガタガタ進む。

 目的の停留所にバスが着くと、お年寄りを先に降ろしてから、運転手さんに小さく頭を下げて私もバスを降りた。雨はいつの間にかやんでいた。既に列を作っている参列者たちの最後尾に並んでゆっくりと歩みを進めながら、古くかび臭い礼拝堂の中に入っていく。教会はボロボロだけれど、一歩中に足を踏み入れれば、そこはやはり神聖さの宿る空間で、心がしんと静寂を取り戻すのが分かった。この背筋の伸びるような静かな感じを、私は嫌いではない。礼拝堂の長椅子にそっと腰かけるとギシっと軋んだ音が響いた。

 肩から下げたすっかりくたびれた鞄から分厚い聖書を取り出し、ページをめくる。心の中で書かれた文字を追っていると、ふと耳元でモモの声が聞こえたような気がして思わずそっと隣を見た。けれども当たり前に隣には見知らぬ青年が座っていて、私は黙って再びそっと視線を聖書に戻す。何度もなぞってきた聖書に書かれた文字たち。英語と一緒で、分かりにくい部分はモモがいつでも私に説明をしてくれた。この世の大事な秘密をこっそり教えてくれるような、モモの密やかで優しい声を思い出す。聖書に書かれた文字を指でなぞりながら読み上げるモモの声を聴きながら、途中で私が書かれた言葉の意味を質問をしたりすると、モモはいつも丁寧に教えてくれた。モモの優しい声をもっと聞いていたくて、時々、私はわざと分からないふりをしてモモに質問をしたりした。

 モモはくまなく聖書を読み込んでいた。ただ文字を追うだけでなく、書いてある事の意味を自分の中で咀嚼し、その知識は時に神父様よりも深いものに思われた。けれどもそんなに熱心に聖書を勉強しているのに、モモは神様なんて少しも信じていなかった。モモはただ聖書に書かれている文字の美しさを愛し、祈るという行為の神聖さを強く信じ、愛していた。そういうモモが、私はとても好きだった。

「こんにちは、みなさん」

神父様が祭壇の前に静かに現れて、穏やかな口調でそっと語り始めた。神父様を見つめながら、私はその先にモモを見つめる。神父様の声に混ざって、時折モモの声が聞こえてくるような気がしてしまう。神父様のお話が理解出来ないで遅れ気味な幼い私の聖書を、代わりにお婆ちゃんが隣でそっと捲ってくれるような気がしてしまう。シワシワの手。ぴったりと身を寄せ合った皮膚から伝わってきた体温。お婆ちゃんの柔らかい耳たぶを触るのが私は好きだった。

 神父様のお話が終わる。聖書から顔を上げると、ふと、かび臭い教会の片隅にモモが座っているような気がした。どこにも姿なんか見えるはずはないのに。そっと瞼を閉じて遠い記憶に想いを馳せる。オルガンの演奏が始まる。皆、次々に席を立つ。私も瞼を開いてその場に立ち上がり、オルガンの伴奏に合わせて讃美歌を歌った。歌が終わり、最後にも一度十字架に向かって両手を組んで祈りを捧げながら、けれども私が本当に見つめているのはやっぱり遠い記憶の中。

お婆ちゃん、そちらは悲しいことはないですか?

モモ、今日も元気でいますか?

 礼拝が終わると、来た時と同様に皆ぞろぞろと列をなして静かに帰っていく。帰り際に一人一枚ずつ、シスターたちが手作りしたビスケットをもらう。形はいびつで見た目には悪いけれど、私はこのビスケットが好き。皆、口々にありがとうと言って、一枚もらっては一人、また一人と教会を出て行く。


 日曜礼拝の後、教会のすぐ近くにあるノースというパン屋さんで、サンドイッチを一つ買うのが私の帰りのいつもの事。そこは夫婦で営む小さなパン屋さんで、行けば毎回とても親切にしてくれる。同じ夫婦経営でも、私の働くミカサミートとはまるで違う。家族に接するかのような親しみのこもった笑顔で、ノースのご夫婦はいつも私を、いや、全てのお客さんを迎え入れてくれる。

「パンの耳があるけれど、持っていく?」

私のいつものミックス野菜サンドをお会計してくれながら、奥さんが私に問うた。私がコクンと頷くと、笑顔でちょっと待っててね、と言ってレジの後ろの厨房の奥へと消えて行く。

「……」

イースト菌の香りだろう。少しすっぱいような店内の香りに鼻をクンクンさせながら、奥さんが戻って来るのを待つ。いつもどこか殺伐として薄汚いこの街に、どうしてこんなに穏やかな人たちが生まれたのかと不思議に思ってしまうくらい、この小さなパン屋さんを満たす空気は優しい。そしてそういう優しさは、いつも壊れそうな悲しみをぴったりと背後に隠している。

ノースのご夫婦とは、私は何度か教会で会った事がある。あれはいつだっただろう、弱い雨のしつこくシトシト降っていた日の事だった。礼拝を終え、いつもの様に帰りの列に並んでいると、たまたま私の前に並んでいたノースのご夫婦に神父様が声をかけた。最初はご夫婦と神父様は和やかに話していたのだけれど、途中から急にダムが決壊するように、わっと唐突に奥さんが泣き出した。今の穏やかな彼女からは想像もつかないくらいの、獣の咆哮の様な声で。奥さんの崩れ落ちる背中を、旦那さんが寄り添って支えていたのをよく覚えている。外はシトシトと生臭い雨がしつこく、囁き笑うように降り続いていた。お店でいつもニコニコと接客をする奥さんのその笑顔を見る度に、私はあの日の彼女の獣の咆哮のような泣き声を思い出す。この世に不幸を背負わない人なんかいない。不幸の数だけ祈りがあって、祈りの数だけ願いがある。願いは希望で、つまり、希望の数だけ不幸がある。裏は表で、表は裏で、だから優しい人は、本当はいつもとても悲しい。

「毎週欠かさず礼拝に来て偉いわね」

奥さんが戻って来て私に言った。

「前を向いて生きないとね」

奥さんはまるで自分に言い聞かせるように私に言って、それからパンの耳の沢山入った紙袋を手渡してくれた。

「ありがとう」

そう言って受け取ると、奥さんは目じりに皺を寄せ、こちらこそいつもありがとうと言った。週に一度、サンドイッチを一つしか買わない私を、奥さんは私がお店を出る最後まで笑顔で見送ってくれた。

流産だったそうだ。こんなに優しくて誠実で清潔な夫婦の間に生まれた小さな命は、永遠に失われてしまったのだと知った時、私はほんの少しだけ、けれども紛れもなく確かに神様を恨んだ。どんなに嘘なく生きたとしても、誰にもどうしようもなく抱えきれない悲しみが、この世には確かに存在することが心底憎かった。


親愛なるモモ、そちらは寂しいことはないですか?悲しいこともないですか?ご飯はちゃんと食べられていますか?モモはよく私にごはんを作ってくれましたね。まだ暗い早朝に、モモが手早く作ってくれた即席面の、濃くてくっきりとした味をとてもよく覚えています。時々ふわふわにした黄色いタマゴも落としてくれたりして。どうしてなのか、人に作って貰ったごはんほど美味しいものはないように私は思います。モモの作ってくれるごはんには、私がどんなに修行を積んだとしてもきっと敵うことはないでしょう。わざわざお皿になんか移さないで、使い込んで焦げの取れなくなった銀色のお鍋のまま食べた、あの柔らかくてウネウネした麺がとってもとっても好きでした。料理の得意ではないそんな私が今、モモのごはんの心配をしています。余計なお世話とモモは笑うでしょうか。モモの笑顔を想像したら嬉しくて、私は誰もいない部屋で今一人、声もなく笑っています。

モモ、モモに会いたい。もう一度、私はモモに会いたいです。モモ、今どこにいますか?どうして帰って来てくれないのですか?もう私のことなど忘れてしまったのですか?私は決してモモを忘れません。ずっとここで、モモと共に過ごしたこの部屋で、私はモモの帰りを待っています。どれだけ時間が経ってしまっても、私は変らずいつでもここで、モモを想っています。


 「白身魚フライ弁当を一つ下さい」

お昼のピークを少し過ぎた頃、珍しい注文が入った。お弁当屋さんの前身が精肉店だったミカサミートの売りはお肉類だから、お魚のオーダーは滅多にないのだ。レシートの交換作業をしていた手を止めて、私は珍しい注文をするお客さんの顔をふと見つめた。思わず見つめてしまったのは、注文内容もさることながら、決して嫌な意味ではなく、その声も珍しく不思議とやけに耳に残る声だったから。

「あ、」

顔を上げて、私は思わす小さく声を漏らした。不思議な声の主はミドリ君だった。

「白身魚フライ弁当を一つ下さい」

ぼんやりしている私に、ミドリ君がもう一度言った。木漏れ日の射す静かな森の様な声だった。温かなものが、ふっと胸の中に落ちて全身にゆっくり広がって行くような心地がした。ミドリ君の声は、私の鼓膜にとても心地よく響いた。

「お魚ですか?」

ぼんやりしながら数秒の間を置いてから、私はそうミドリ君に聞き返した。

「はい、お魚です」

ミドリ君は頷きながら私に言った。ミドリ君の薄いフレームのメガネの奥の瞳は穏やかで、その温かな静けさにまた少しの間、私はぼんやりとミドリ君の瞳を見つめてしまった。

「あ、少々お待ちください。お代は五百円になります」

そう言って私は一日に十個ほどしか作られないお魚フライのお弁当を、陳列ワゴンの中に探した。そして少しでもなるべく綺麗に入っているお弁当を選んでビニール袋に詰めた。ミドリ君の全身から滲み出る、何だか心の清潔な感じが、自然と私にそうさせた。

「ちょうど、お預かりします」

ミドリ君の出した百円玉五枚を数えてレジを打つ。レシートと共にお弁当の入った袋を渡す。

「あの、」

袋を渡し終えて背中を向けて去って行こうとするミドリ君の背中を、私は呼び止めた。

「はい」

ミドリ君は足を止め、不思議そうな顔で私を振り返った。

「あ、あの、ありがとうございました」

そう言って私はミドリ君に頭を下げた。

「え、えっと、わざわざどうも」

ミドリ君は少し混乱した様子でそう言って、それから私に軽く頭を下げると今度こそ私に背を向けて去って行った。


 夜。ミカサミートから自転車を漕いで家まで辿り着き、疲れ切った体で床の上に座り込む。自分の体力に対して少し働き過ぎなことは何となく分かっている。けれども今はそれで良いと思っている。人が働く意味は、自ら己を生かす為なのだと思う。それは生活するお金の為という事だけではなくて、明日を恐れる自分を生かすという意味で。

私のお婆ちゃんが死んだのは、私が高校を卒業する卒業式の数日前のことだった。お婆ちゃんが死んだ日、外は雨が降っていた。大きな雨粒の激しく降っていた日だった。私は雨が嫌い。雨なんか大嫌いだ。

私のお婆ちゃん。世界で一人しかいない私のお婆ちゃん。いつでも私の手を繋いで、いつでも私の隣を一緒に歩いてくれた。お婆ちゃんは私が生まれた時からずっと一緒だった。いつでも私を守ってくれていた。歳老いた細く曲がった体で、けれどもいつも私の一番近くに、傍に寄り添ってくれていた。

お婆ちゃんは紅茶が好きだった。だから家にはいつでも沢山の種類の茶葉があった。お婆ちゃんはその中から数種類の茶葉をブレンドして、いつもその時々の塩梅で出来上がる、一期一会のまたとない紅茶をよく淹れてくれた。香り高い茶葉の香りに包まれながら、どうしてお婆ちゃんはこんなにも私のその時々の心にぴったりな味の紅茶を淹れる事ができるのか、いつもとても不思議だった。紅茶を飲みながら、私とお婆ちゃんはいつもビスケットやチョコレートなどのお菓子も一緒に食べた。時々ケーキやシュークリームなんかの当たりが出て来る日もあって、それは当時お婆ちゃんと一緒に住んでいた狭い家の近所にあった、賞味期限の迫ったお菓子を安く売ってくれるお菓子屋さんで、お婆ちゃんが買って来てくれる物だった。買ってきたお菓子を丁寧にお皿に出して、そうやってほっとする紅茶と一緒に食べれば、それらはいつでもとても特別な味がした。これが本当の高級という事なのだと、私はその時に知ったように思う。嫌いだった学校から急いで家に帰って、お婆ちゃんと一緒に過ごす、決して飾らないそのぽっくりとしたお茶会が私はとても好きだった。美味しいお菓子と紅茶が飲める事は勿論、けれどもそれ以上に、私は自分の舌の好みがお婆ちゃんと似ている事が嬉しかった。目に見えないけれど、確かな血の繋がりを確かめられる気がして。

 私は昔から口下手であまり話さない子供だった。学校の先生はそんな私にいつも、もっと積極的に発言しましょうと言った。話せないのは悪い事で、正すべき間違っている事なのだと、私を見下ろす先生の目は言っていた。お婆ちゃんは私に、決して無理に話させようとすることはなかった。甘いお菓子を食べながら、温かい紅茶を飲んで、その美味しさに二人で目を合わせて笑い合うだけで、言葉を超えて、私はお婆ちゃんとちゃんと繋がっている事を感じた。お婆ちゃんの笑顔が、私は何よりも大好きだった。

 お婆ちゃんが私を怒った事は一度もない。ある日の給食の時間、私は嫌いな物を全部残したら先生に怒られてしまって、心底驚いた。お婆ちゃんは嫌いな物は食べなくて良いと私に言った。折角の楽しい食事なのに、嫌いな物で台無しにするのはもったいないでしょうと言ってお婆ちゃんは笑った。いつも黒いスカートをはいて、魔女みたいな恰好で、魔女みたいにちょっとしわがれた、でもよく響く大きな声でヒャヒャヒャと笑った。お婆ちゃんは本当に魔女だった。魔女の証である立派な鉤鼻を持っていて、家にあった小さな戸棚には、繊細な細工の施されたガラスで出来た妖精の置物や、カラスの剥製、キツネの尻尾のマフラー、様々な形の香水のビンや、夜中に動き出しそうな少し怖い感じのするフランス人形なんかまで飾られていた。学校の図書室で読んだ本に書かれていたのと同じ、家の戸棚に収納されていたお婆ちゃんの持ち物であったそれらは全部、本当に魔女の持ち物と同じで、私はお婆ちゃんの戸棚を眺めるのが好きだった。時々、お婆ちゃんは戸棚を開けて、私に綺麗なガラスの瓶に入った香水を付けてくれた。学校でいじめられた時や、テストの点数が悪かった時、訳もなく寂しい気持ちになった時や、運動会が嫌でお腹が痛くなった時なんかに。香水はすごく優しい香りで、それはお婆ちゃんの匂いでもあった。香水を付けていると、例え遠く離れていても何だかお婆ちゃんにそっと抱きしめられているような気になって、目の前の困難も乗り越えられるような、いつでも安心した強い気持ちになった。お婆ちゃんは下手なお医者さんよりよっぽど効果的に、そんな風にいつも私の具合の悪いところを魔法みたいに治してくれた。いつだったか、お婆ちゃんて本当に魔女みたいだねと私が言うと、お婆ちゃんは、そしたらあなたは魔女見習いねと言った。私たちが魔女であることは私とお婆ちゃんだけの秘密だった。お婆ちゃんは私に、私たちは人間に内緒でこっそり魔女として生きているのよと、けれども魔女はいつでも誰にでも誠実に生きなければ魔力は途端に失われてしまうのだから気を付けなくてはならないのよと、私をぎゅっとしながら教えてくれた。お婆ちゃんの匂いに包まれながら、私はその時、自分が確かに特別な魔法で守られているのを感じた。だから私のお婆ちゃんは本当に魔女だった。目には見えないけれど、足が悪くて、腰も弱くて、枝みたいに細くてシワシワな手のお婆ちゃんが私の傍に居る限り、どんなに明日が不安に思われたって、私は強くて大きな魔法でいつでもしっかりと守られていた。

そんな偉大な魔女である私のお婆ちゃんのベッドの脇には、いつも十字架とマリア様の小さな白い像、それから聖書が置かれていた。夜、ふと目を覚ました時に暗闇の中で小さな明かりを灯して熱心に聖書を読んでいたお婆ちゃんの真剣な横顔は、目を閉じれば今でも鮮明に私の瞼の裏に蘇る。 

 お婆ちゃんは私が生まれた時から既にお婆ちゃんで、それでも私が小さな頃は、私より背も高くて、行きたい所へはどこへでも歩いて私を連れて行ってくれた。私の誕生日には駅前のデパートへ一緒にプレゼントを買いに行ったし、クリスマスには清潔な新しい洋服を着て教会へお祈りに行き、大みそかには必ずテレビをつけて一緒にウィーンフィルのニューイヤーコンサートを聴いた。

 けれども時間の経過と共にその当たり前がぽろぽろ崩れ始めた。時間は止まらない。どんなに願っても決して止まってはくれない。お婆ちゃんは私が高校三年生の時に死んでしまった。卒業式まであと数日と迫っていた、寒い寒い冬から暖かい春へと移りゆく、ちょうど季節の変わり目の頃だった。お婆ちゃんが死んでしまった日、外は雨が降っていた。灰色の空が頭上を覆い、ポツポツと空から絶え間なく、冷たく尖った大粒の雨が降り続いていた。薄暗くて寂しい、肌寒い日の事だった。

迎えた高校の卒業式の日、当然の事ながら私の卒業式にお婆ちゃんの姿は無かった。神父様は私に、お婆ちゃんは見えない所からきっと私の姿を見守っていると言ったけれど、そんな訳ないと思考できるくらい、私の気持ちは不思議と冷静だった。

卒業式の日、担任の先生は最後のホームルームだと言って泣いた。先生の涙につられて、何人かのクラスメイトも泣いていた。中には高校を卒業と同時に遠くの街に引っ越して行く子もいて、その子の仲良しの子も泣いていた。式には沢山のクラスメイトの親や兄弟、血縁の誰かが大勢来ていて、その中の幾人かはやはり熱くなった目頭を押さえていた。いつもの体育館が紅白の垂れ幕で飾られて、おめでたい雰囲気を演出していた。粛々ととり行われた式では、怖い事で有名だった副担任の先生が、どこにそんなに卒業生たちに思い入れがあったのか、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。自発的な涙やつられ涙で、ここそこから鼻水を啜る音が聞こえる中、荘厳な雰囲気で卒業式は進んでいった。式の後には、赤い目でにっこり笑って先輩と写真を撮る在校生や、恋人同士と思われる男女が教室の隅で向かい合って、やっぱり赤い目で、けれども何だか甘い特別な雰囲気を発していたりした。そんな中、私はどうしても一粒の涙も流す事が出来なかった。私はずっと、泣きもせず笑いもせず、ただ無表情にそこに立っていた。泣いたり笑ったりしているみんな、みんなが、私にはひどく的外れで平和ボケした生き物に見えた。私は心底みんなが羨ましかった。私だって卒業式で泣いたり笑ったりしたかった。けれども私は一体どこに向かって泣けばいいのか、どこに向かって笑えば良いのか分からなかった。どこにも、私の涙も笑顔も受け止めてくれる先はなかった。みんなの事が心の底から恨めしかった。友達や親や兄弟や、当たり前のように涙を受け止め、笑顔を受け止めてもらえる先があるから、明日から一人で生きていかなければならない切迫感に悩まされないから、そんな風に呑気に大袈裟に泣いたり笑ったりできるのだと思った。心の内でそう思ってから、そう思う自分がとても貧しい人間に思われて、益々どうしようもなく惨めな気持ちになった。私だって、卒業式で泣いたり笑ったりする、呑気で平和で可愛い、砂糖菓子みたいに甘い甘い女の子でいたかった。

 卒業式が終わって家に帰って、教室で一人一箱ずつ貰った紅白まんじゅうをテーブルの上に置いたら、何だかそれがお供え物みたいに見えて、おめでたいはずのおまんじゅうがとても寂しい物に見えた。中学校の卒業式の日に貰った紅白まんじゅうは、お婆ちゃんと一個ずつ分け合って食べた。私は紅茶とおまんじゅうなんて合わないよと言ったけれど、お婆ちゃんはやってみないと分からないでしょうと言って、何やら自信に溢れた笑みを浮かべて得意の紅茶を淹れてくれた。あんこの入った薄桃色のおまんじゅうは、驚いた事にお婆ちゃんの淹れてくれた温かい紅茶とよく合った。白い方のおまんじゅうを食べながら、お婆ちゃんは得意げに私に微笑んで見せた。その時のお婆ちゃんの顔が何だか可愛くて、私は口いっぱいにおまんじゅうを頬張りながら笑った。お婆ちゃんは私の頭を優しく撫でてくれながら、卒業おめでとう、よく頑張りましたと、勉強も運動も集団行動も及第点だった私を褒めてくれた。次に高校を卒業したら、またお婆ちゃんと一緒に紅白まんじゅうを、お婆ちゃん特製の紅茶と一緒に食べられる、その時の私は何の疑いもなくそう思っていた。次は私が白で、お婆ちゃんに赤い方をあげようと決めていた。高校生活の三年間、待ちに待った紅白まんじゅうをせっかく貰って帰って来たのに、テーブルの上にぽつんと置かれたそれを、私はどうしても一人では食べる事が出来なかった。

お婆ちゃん、私ひとりぼっちになっちゃったよ。

心の中で小さく呟いたら胸の奥がぎゅっと狭く硬くなった。唇を真横に引き結んで、私はテーブルの上の紅白まんじゅうをただ見つめていた。ポツポツと、窓の外で降り続ける雨の音が聞こえていた。そんな事はないと分かっていたけれど、お婆ちゃんが死んだ日に降っていた、多分、これは同じ雨だろうなと思った。結局、その紅白まんじゅうは食べる事が出来ないまま、すっかり賞味期限が過ぎ、カビが生えたので仕方なく捨ててしまった。赤も白も、両方すっかり綺麗に揃ったまま。

お婆ちゃんが死んでしまって、私は高校を卒業し、ミカサミートで働かせてもらうことが決まり、お婆ちゃんと住んでいた家を出てミカサミートの近くに引っ越した。そんな風に慌ただしい日々を過ごすうち、お婆ちゃんの死は私の中で少しずつ過去の出来事になっていった。

 お婆ちゃんが死んでしまって、けれども私は教会に通い続けた。毎週日曜の朝にお婆ちゃんと一緒に行っていた日曜礼拝に、私は一人で通った。でもそれは信仰心からではなくて、ただほんの少しだけでも良いから、ただ心のよりどころが欲しくて、ただほんの少しでも楽になりたかったからだ。

教会に行って一心に祈る事で、私は自分の心の中が空っぽになるのを感じた。心が空っぽになると、気持ちが少しだけ楽になった。心の中に何も無いというのは決して悲しいことではなくて、とても美しい事なのではないかと思った。祈りは、私の悲しみも、苦しみも、不安も、全部溶かしてくれた。純粋にただ神様に祈ると言う事は、無と言う事に限りなく近い状態に昇華することのような気がした。

けれども時々、祈ることさえとても辛くなったりもした。祈りは明日への希望であり、けれども希望はいつも私の中で儚く、叶う事のない夢だったから。無理だと分かってはいるのに、私は時々どうしてもお婆ちゃんに会いたくて仕方なくなった。ぎゅっと抱きしめてくれるだけでいいから、どうしてもお婆ちゃんに会いたくて、けれども祈った所でお婆ちゃんは蘇ったりしない。だから祈る事は時々とても悲しかった。行場の無い祈り。けれどもそれでも私は祈り続けた。お婆ちゃんに会えなくても、明日に向かって清潔に息をする為に祈る事は、きっと無駄ではないと、そんな風に思ったから。そうやって終わりのない毎日を繰り返していた頃、私はモモに出会った。くるくる巻き毛の女の子。教会の隅で、叶わない願いを一人祈っていた私の元に、神様みたいにそっと舞い降りてきた。モモ、私の大事な、大好きなモモ。


親愛なるモモ。初めて私たちが出会った時の事を覚えていますか?私はよくよく覚えています。教会で一人、眠れない夜に祈っていたら、いつの間にか隣にモモがいました。モモの着ている服は泥だらけで、顔も泥で汚れていたけれど、瞳がすごく綺麗で、だから私はモモを本当に神様なのだと思いました。今思えば、あの時のモモは旅から帰って来たばかりで、あのパンパンに詰まっていたリュックには、モモがあんなに泥だらけになってまで必死で手に入れた大事な品が沢山入っていたのでしょうね。私が足元に置いていたロウソクの灯りがモモを照らして、モモの瞳にはユラユラと柔らかい橙色の光が映っていました。私がそれに見とれていると、何か食べる物を持っていませんか?とモモは私に訊ねましたね。神様が話したと、私はすっかり驚いてしまって言葉に詰まっていました。モモは心配そうな顔で私の顔を覗き込み、それからそっと私の頬に触れました。どうしてそんなに悲しそうなの?とモモはあの時私に問いましたね。私は自分がそんなに悲しい顔をしているとは思ってもいなかったので、また驚いて言葉に詰まってしまいました。俯いた私を、モモはそっと抱きしめてくれました。モモの体はすごく泥だらけだったけれど、モモのあの抱擁はとても清らかでした。きっと後にも先にも、あの時のモモの抱擁ほど無垢なものを、私は知ることはないでしょう。モモに抱きしめられたまま、私は不意に両目から涙が溢れてしまって、お婆ちゃんが死んでしまった時だって私は泣いたりしなかったのに、どうしても涙が溢れて止まりませんでした。ねぇモモ、あの時私の両目から涙が溢れたのは、決して悲しかったからではありません。

私が声もなくつらつらと涙を流していると、不意にモモのお腹の虫の鳴く音が聞こえて、私たちは思わず顔を見合わせて、それから小さくプッと吹き出すように同時に笑い合いましたね。モモは笑いながら、私の頬に流れた涙をそっと拭ってくれました。モモの指先に、瞳に、笑った声に、私はあの時本当に本当に救われました。どんなにありがとうと言っても足りないくらい、私はモモに感謝しています。

モモ、そちらは悲しい事はないですか?さみしい事もないですか?この前は手紙で会いたいなんて、帰って来てなんて勝手な我儘を言ってしまってごめんなさい。モモの笑顔がずっと守られている事を、私は心から祈っています。


 ふぅと息を吐いて、窓の外を見る。いつの間にかすっかり日が暮れている。少しだけ開けていた窓の隙間からゆるく夜風が入ってくる。書き終えた手紙をそっと、既にもう一杯になっている机の引き出しに仕舞うと、私は窓辺に寄った。書き終えた手紙はどこにも出す宛てはない。どこにも届かない手紙がただ溜まっていく。大きく窓を開けて顔を上げ、夜空の様子を伺うと、モクモクと雲の流れが早かった。

「……」

ミドリ君のベランダを見た。夜の闇の中でも、ミドリ君のベランダだけ、薄ぼんやり発光しているように見えるのは、私の目の錯覚だろうか。それは電気や宝石なんかの煌びやかで強い光ではなくて、もっと別の、例えば澄んだ森の奥でぼんやり光る苔のような、自然で仄かな種類の光に思われた。目を凝らすと、いつもミドリ君が使っているショッキングピンクのゾウ形をしたジョウロが、ベランダに出しっぱなしになっているのが見えた。今日もまた、ミドリ君はのっぽな体を小さく丸めて、きっと事細かに植物たちのお世話をしていたのだろう。闇夜の中をブォンとバイクが走り去る音が大きく響く。

窓を閉め、食欲は無かったけれど何とか軽く夕飯を済ませた。一人で食べるごはんは好きじゃない。部屋の明かりを消す。部屋の隅にあるクローゼットの扉を開ける。すぅと息を吸い込む。クローゼットの中には、今も沢山の服がぶら下がっている。クローゼットの中に入ると私はそっと扉を閉めた。床に敷き詰めたのは布団代わりの洋服たち。洋服たちに埋もれるようにして、私は体を縮めて横たえる。クローゼットの中にあるのは、どの服も私の服ではない。

「おやすみ、モモ」

モモの洋服たちに囲まれながら、小さく呟いて瞼を閉じる。閉ざされた狭いクローゼットの中で息を吸うと、モモの匂いがまだ残っているような気がして安心した。モモがいなくなってから毎日、私はこうしてモモのクローゼットの中で眠っている。まるでモモの中で眠っているような、そんな錯覚に囚われながら、私は今日も一人静かに眠りにつく。


 モモの仕事は世界各国の珍しい品物を買い付けて来るバイヤーというものだった。モモのコネクションは世界中に広がっていた。教会と家とミカサミートが世界の全てである私とは比べ物にならないくらい、モモの世界は広かった。珍しい物があると、モモはそれがどこにあっても、どんな手段を使っても必ず手に入れた。モモと一緒に暮らし始めても、だからモモは家に居ない事も多くて、けれども私はモモとの暮らしにとても満足していた。

モモの生命力は柔軟で、どんな良くない類の事が起きても、そのどれもを困難や不幸にしてしまわないような、そんな明るく凛とした力強さがあった。ふらりと出て行っては、ふらりと帰って来て、自由に気ままに、けれどもどんなに遠くに行っても、モモは必ず私たちの家に帰って来た。屈託のない笑顔でただいまと言って、その度に私をぎゅっと抱きしめた。モモにお帰りと言える事が、私は何よりも大切だった。

 モモも私と同じくクリスチャンだった。お婆ちゃんが死んでしまってから暫く一人で通っていた日曜礼拝に、私は今度はモモと二人で通うようになっていた。一人で行く教会より、二人で行く教会の方がずっと良かった。神父様は私たちが揃って一緒に礼拝に来ると、黙って微笑んで迎え入れてくれた。

教会という場所は、来る人の心をそのまま鏡の様に反映する場所だと思う。お婆ちゃんと来た教会は、まだ小さかった私には正確には意味の分からない場所で、だからいつも別世界に迷い込んだような心地で、いつも本当は少し怖かった。だから私は絶対にお婆ちゃんとはぐれてしまわないように、教会ではいつでもぴったりとお婆ちゃんの隣にくっついていた。私があまりに怯えるようにくっ付いていたからか、お婆ちゃんは時々私の肩をぎゅっと抱いて、神父様の朗読と共に小さく声に出して私に聞かせるように聖書を読んでくれた。私はお婆ちゃんがそうやって読み聞かせてくれた、呪文のような聖書の言葉より、くっついた肌と肌の温もりにただ安心して、お婆ちゃんに抱きしめられながらいつも大人しくしていた。一人で来た教会はいつも静かで、神聖さがより研ぎ澄まされていたように思う。遥か彼方の空の向こうを見つめるような心地で、私は神父様の言葉を聞き、讃美歌を歌った。モモと来た教会はいつもでも温かく、光に満ちていた。全てが優しく聞こえたし、透明な祈りは迷子にならずにちゃんと神様の元まで天高く昇っていくような、本当にそんな心地がした。

理不尽でどうしようもない悲しみを乗り越えなければならない時、神様が多くの人の心の支えであるのなら、私の神様はモモだった。モモが微笑めば私の世界は光に満ちた。私はモモを愛していた。モモの心も、瞳も、声も、何もかも全部。お婆ちゃんは私に温もりを、モモは私に光をくれた。ふと時々思う。私は二人に、目に見えない確かな何かをちゃんとあげられていただろうかと。


親愛なるモモ。また手紙を書きます。昨日、久しぶりにアップルパイが食べたくなって、思い切って一人で焼いてみました。皮を剝いたリンゴを、バターにシナモン、お砂糖でキャラメル色になるまで丁寧に炒めて、それをパイ生地に包んでオーブンで焼きました。温かい紅茶も用意して一緒に食べました。モモのお皿にアップルパイを置いて食べました。モモのお気に入りの、あの深い飴色の艶やかなお皿です。覚えていますか?私はモモの作ってくれるアップルパイが大好きでした。隣で味見の邪魔ばかりしてごめんなさい。でもおかげでモモのレシピを覚えていました。うろ覚えな部分もあったけれど、モモの味に近いものが出来たと思います。モモは笑うかもしれないけれど、私は未だにモモの食器も、お洋服も、何もかもを、どうすることも出来ずにいます。昨日はとても迷った末にモモのお皿を使ってみたのだけれど、やっぱり私には早かったみたいです。合っているようで何かが違うのです。モモのお皿で食べているのに、それはやっぱりモモのお皿でしかない。冷徹なまでにお皿でしかないのです。それが私にはたまらないのです。お皿は私に、僕の持ち主は君じゃないと言いました。私は変な事を言っていますか?それなのに、お皿はやっぱりあまりにもモモのお皿なので、私はたまらなくモモに会いたくなりました。思い出はお皿に宿っているのに、お皿はお皿でしかなく、そうやって全部を分かっていながら、私はやっぱりモモの存在をただのお皿の中に探して、記憶の中に迷い込んでしまうのです。モモの体温だけがここにはありません。お皿だけでもうこんなにいっぱい、いっぱいになってしまって、今の私はそんな感じです。


 雨の中、お店の前にパトカーがやって来たのは、その日の丁度お昼のピークの頃だった。パトカーから降りて来た警察官が、近くの集合団地に住む一人のお婆ちゃんが亡くなったことを女将さんに話すのを私は聞いた。亡くなったのは、いつも決まってミカサミートの豆腐ハンバーグを注文するお婆ちゃんだった。そのお婆ちゃんは足が悪くて、目も悪くて、でも一番悪いのは口だった。配達に来た私に、いつもお弁当が不味いとか、ご飯が硬いとか文句を言い、時々入っている内容量が少なかったとか何とかクレームを付けてお代を払わなかったりもした。私はそのお婆ちゃんが苦手だったけれど、そのお婆ちゃんにいくらミカサミートの悪口をあちこちで吹聴されても、お代が未払いでも、そのお婆ちゃんから注文が入れば、女将さんは必ず私に配達に行かせた。

 女将さんは警察から聞かされたお婆ちゃんの死の知らせに、少しも動揺しなかった。お婆ちゃんについて二、三個ほど簡単な質問をする警察官の問いに、いつも通りの様子で無愛想に答え、それから暫く警察の人といつも通りの不機嫌な口調で何やら話していた。お店の前にパトカーが止まっていたので、通りかかった人々が何事かと女将さんに質問をすると、女将さんは今日のおすすめメニューを答えるのと同じいつもの口調で、そのお婆ちゃんの死を通行人に教えていた。警察官は程なくすると、パトカーと共に去って行った。

老人の孤独死というのはこの街では決して珍しいことではなかった。お婆ちゃんが亡くなっていたのは、例の身よりのない高齢者が多く住む集合住宅にある六畳一間の小さな一室で、死後一ヶ月以上が経過していたそうだ。青いビニールシートの張られたその部屋からは、死後放置されて、腐って溶けかかった遺体が運び出され、今も腐臭が漏れ出して敵わないと、近くの部屋に住んでいるらしいお客さんが女将さんに愚痴をこぼしているのを、手垢の付いたレジスターを見つめながら私はぼんやり聞いていた。

「白身魚フライ弁当一つ」

ぼんやりレジを見つめていた私の耳に、不意に声が聞こえた。わざわざ目で確かめなくても、私はその声が誰だか分かった。

「はい、」

一秒と半分、中途半端な間を置いて私は顔を上げた。メガネの奥の穏やかな瞳。予想通り、声の主はやっぱりミドリ君だった。

「こんにちは」

思ったより小さな声しか出なかったけれど、私はミドリ君に挨拶をした。いらっしゃいませではなく、こんにちはと。

「こんにちは」

ミドリ君から返事が返ってきた。温かな声だった。生きている人の声だった。久しぶりに人の死を身近に感じたせいだろうか、ミドリ君の声を聞いて、私はなぜだかひどく安心した。注文を受けた白身魚フライのお弁当の用意に取りかかる。

「どうしたってお腹は減るものですね」

不意にミドリ君が言った。私はお弁当を用意していた手を止めてミドリ君を見た。

「近くで誰が死んでも、自分がどんなに不幸な目にあっても、お腹は減ります」

そう言ってミドリ君は私をじっと見た。きっとミドリ君も、さっきの女将さんとお客さんの会話を聞いていたのだろう。

「どんなに悲しい時でもお腹は減ります。そんな時、人間も所詮は動物であると、僕は思います」

ミドリ君はまっすぐに私を見て言葉を発した。

「僕は植物に生まれたかった」

途切れた言葉をもう一度繋げるようにそう言って、ミドリ君は口を閉ざした。メガネの奥の瞳は至って穏やかで、ミドリ君が少しもふざけて言っていない事が伝わって来た。

「五百円です」

返す適切な言葉が見つからず、私はそう言ってお弁当の入った袋をミドリ君に差し出した。ミドリ君はいつも通り、お釣りなく代金を支払い、小さく会釈をしながら私から袋を受け取ると、背中を向けて去って行った。

「何ボサッとしてんのさ」

ミドリ君の背中をぼんやり見送っていると、体を横に揺らしながら女将さんがこちらにやって来て私に注意した。

「すみません」

はっとして小さな声で謝って、私はそそくさと仕事に戻った。


 「ただいま」

日付が変わった頃、ミカサミートから家に帰ると、玄関に大事に置いている小さなウサギの彫刻にそっと声をかける。背中から二本の羽が生えている手作りの小さなウサギの彫刻。それは、教会で行われたイースターのお祭りの行われた日の夜に、モモが私にくれたイースターバニーの彫刻だった。それは同時に、モモがこの部屋を出て行った前日の夜の事でもあって、モモは、モモの作ったこのイースターバニーと入れ替わるようにして、私の前から消えた。

その日、すっかり古くなった教会も、イースターのお祭りのその日ばかりは綺麗に着飾っていた。私はモモと、いつもより賑やかな教会の中を一緒に歩き、ミサに参加し、キリストの復活を共に祝った。各々ペイントをしたエッグを、教会の隅の壁に並べて飾った。飾ったエッグを、何をするでもなく二人して眺めていると、丁度礼拝堂の窓から太陽の光がさし込んで、私たちのエッグをその光の中に包み込んだ。綺麗だねとモモは静かに言って、私の手をそっと握った。隣同士並べて飾ったエッグと同じように、手を繋いで肩を寄せ合った私たちに、太陽の温かな光が降り注いでいた。あの時、温かな気配に包まれながらそっと、目を細めて柔らかく微笑んでいた幸せそうなモモの瞳を、私は今もよく覚えている。

行かなきゃならない。

イースターのお祭りから家に帰ったその日の夜、私が一人静かにソファに座って、ほんの少しのお酒を垂らした紅茶をゆっくりと飲んでいると、音もなくモモが私の傍にやって来て静かな口調でそう言った。私はモモが、またいつもの仕事のための旅に出るのだと思ったから、分かったと言うように、ただ黙って微笑み返した。

今度は長い旅になるかもしれない。

私の隣にそっと腰をおろしたままモモは言った。モモのいつもと異なる様子に気が付いて、私は手に持っていたグラスをそっとテーブルに置いた。

どこか遠い国に行くの?

私が問うとモモは静かに頷いた。

遠い、遠いところに行く。

モモはそう言ったなりすっかり黙り込んでしまった。

何かあった?

私は優しくモモに問うた。旅に出る前はいつも嬉々として準備に余念のないモモが、その時は何かに耐えるように暗い目をしていた。

戻らないかもしれない。

モモは短く答えた。私は咄嗟にモモの言った言葉の意味を理解できなかった。

大事な人が助けを待ってる。放っておけない。

そう言葉を続けて、モモは私の目を見た。

許してくれる?

モモの問いに私は答える事が出来なかった。

大事な人って?

私はモモに問い返した。平静を保ったまま問い返したはずの私の声は、情けなく震えていた。

かつて、世界で一番愛していた人だよ。

モモは私の目を見つめながら、ゆっくりと言った。そう言った時のモモの瞳の中の、溶けそうなくらい優しい光りは、私を深く傷付けた。あの時、私は小さく、けれどもはっきりと、初めてモモを憎んだ。

たった一つの愛だった人だよ。

モモは私の目を見つめたままそう言葉を続けた。モモからモモの過去の恋人の話を聞いたのは、この時が初めてだった。モモに私以外の大事な誰かがいた事を、私はその時まで微塵も考えたことも、想像した事さえなかった。

病気だって知らせが来たんだ。今も一人で死の恐怖と戦ってる。だから、行かなきゃ。

そう言ってモモは瞼を伏せた。モモの長い睫がモモの目元に影を作り、モモの優しくて綺麗な瞳を隠した。私は何も言えなかった。だって、私こそ、モモのこの世で唯一、たった一人の愛する人であるはずだと疑いたくなかったから。

でも、モモ、モモは必ずここに帰って来るでしょう?

そう言葉にしてモモに問うた瞬間、私はたった今自分の言った言葉の全てを後悔した。私は自分で言葉にした問いのその答えを知りたくなかった。知ってはいけない。だってどうしたって私はモモを失いたくないのだから。モモがここに帰って来ない未来なんて認めることはできないのだから。伏せた視線を少しでも上げれば、モモの瞳の中に答えがあるのが分かっていて、だから私は怖くて決して視線を上げることが出来なかった。私は逃げた。モモも私も、お互いに俯いたまま、沈黙の時間だけが過ぎた。

これをあげる。

答えの無い沈黙を破るようにそう言って、その時モモが私にくれたのが、背中から羽の生えた小さなイースターバニーの彫刻だった。

幸運を運ぶイースターバニーだよ。きっと君を守ってくれる。

そうして翌朝、モモは本当にいなくなってしまった。羽の生えたイースターバニーを自分の身代わりにするみたいに私に残して。モモが居なくなってしまったその日の朝は、昨日まで気持ちの良い初夏だったのが嘘みたいに、空はどんよりと曇り、シトシト柔らかい、霧のような雨が降っていた。さよならも告げず、私が目覚めた時には既にモモは私の前から消えてしまっていた。優しいモモが、最後の別れを私に告げなかったのは、何かが終わってしまう事を、私が他の何よりも恐れている事をモモが知っていたからかもしれない。けれども形式的であれ、明確な終りがないと言う事もまた、終わる事と同じくらい恐ろしい事なのだと、モモがいなくなってしまってから私は思い知った。モモはほとんど全ての自分の荷物を置いて、その身一つだけで消えてしまった。モモと共に消えていたのは、パスポート一冊と、モモが旅に出る時に必ず持って行ったリュックサック一つだけだった。まるで、いつもの仕事の旅に出るのと同じ様に、何もかもをこの部屋に置いたまま、モモは一人、長く遠い旅へ、私をこの部屋に置き去りにして、かつて世界で一番に愛していた人の元へ旅立ってしまった。

モモはいつでも一番大事な物を迷わず選ぶ。それがどんなに辛い道でも、どんなに困難な道でも、決めた事は曲げない。それがモモ。そして私は、そんな風に強くしなやかに生きるモモを愛している。だから、ただそれだけの事。モモは自由だ。そんなモモを私は愛している。だからこれはきっと悲しい事じゃない。モモが選んだ道を、私は決して否定しない。モモは選んだ。きっと、多分、それだけの事。愛を量る事など、神様にだって出来はしない。

さよならはいつでも唐突で、一瞬で私から全てを奪う。いくら丁寧に、時間と呼吸と心を重ねて積み上げても、終わりはいつでも一瞬だ。お婆ちゃんが居なくなってしまった時とはまた違う質感で、私はモモの消えてしまった穴を今も抱えて生きている。私はモモが私にくれたこのイースターバニーがいつか、モモをもう一度私の元に連れて来てくれるような気がしている。モモのかつての恋人はきっと元気になって、モモも元気で、きっと全てが良くなって、キリストが復活したように、私の神様モモが、いつか私の元にもう一度戻って来てくれるような、そんな気がしている。私の祈りは届くだろうか。


 クタクタになった体を引きずるようにしてミカサミートから帰宅する。電気も付けずに部屋に入るなり、すぅっと深呼吸をした。鼻から吸った息をはぁと口から吐き出し、丁度窓の外が見える椅子に、暗い部屋の闇に溶け込むように音もなくそっと腰かける。カーテンの開けっ放しになっている窓から真っ暗な空を眺める。

 毎日クタクタになるまで働くのは、なるべく休みなく働くのは、瞼を閉じたらすぐに眠れるようにする為。少しでも考える隙間が出来てしまったら、少しでも瞼を閉じたまま考えだしてしまったら、私はきっと立ち止まってしまうだろう。一度でも立ち止まってしまっては、きっとそれ以上は一歩だって動けなくなる。もうすっかり疲れ切って、今すぐにでも休んでしまいたいのに、立ち止まるのが怖い。走って走って走って、どこまでも走って走り続けなければ生きていけない。

 座り込んだ椅子から重い腰を上げて立ち上がると窓を開けた。ミドリ君のベランダは、今日も青々と植物たちの瑞々しさで溢れている。ミドリ君のベランダに宿る不思議な生命力が、ぼんやり夜闇に浮かび上がって見える。

「不思議な人」

ミドリ君を思い出して、私は小さく呟いた。植物に生まれたかったと言ったミドリ君の言葉が、妙にくっきりと頭の中に残っている。正確には、そう言った時のミドリ君の瞳が。ミドリ君はあの時、確かに私の目を見て言ったけれど、本当のミドリ君の瞳は、多分もっと奥の方に隠されたミドリ君自身の胸の中の、とても硬い部分を見ていたように思う。

 ミドリ君のベランダの緑のカーテンにへちまの花が一つ咲いているのを見つける。黄色い可憐なお花が一つ。ミドリ君に似て可愛らしいお花だ。


親愛なるモモ。このところよく雨が降ります。雨は私に重い記憶を思い起こさせます。だからでしょうか、私は雨の日が憂鬱です。

あのシトシト雨の降る朝、モモがいなくなってしまって、私はとても困惑しました。だって部屋の中にはあまりにも多くの、モモの痕跡が残ったままでしたから。私には全ての事が嘘のように感じられました。モモが居なくなったなんて嘘。モモが私を捨てたなんて嘘。きっとモモはそのうち、必ず帰って来る。いつものようにひょっこりと、玄関の戸を開けて、ただいまと言って私を抱きしめてくれると。けれどもモモは本当にいなくなってしまったのですね。あの時はモモの決めた道を正面から受け止める事が怖くて、つい先延ばしにして逃げてしまったけれど、今ではその事が、すっかりはっきりと分かってしまっています。部屋の中からぽっかりと、モモだけが抜け落ちています。夜になると、その事が妙にザラザラと際立って肌に感じられるので、私は夜が嫌いです。特に雨の降る夜が。お婆ちゃんが死んでしまった時も、モモが居なくなってしまった時も、外は冷たい雨が降っていました。悲しい時、いつも外は雨です。モモもお婆ちゃんも、嘘みたいに体だけぽっかりと突然に私の前から消えてしまいました。私が今でもモモの残して行った物の全てをそのまま残しているのは、明日、モモがひょっこり戻って来ても、きっとすぐに二人で暮らしていた頃の生活が出来るようにです。

私は時々、モモを頼りにし過ぎていたように思います。だって、モモは私の神様だったから。けれどもモモはそれを窮屈に感じていたかもしれません。ごめんなさい。モモは私の事をとてもよく分かってくれていました。私はそれに甘えてしまって、今はその事を反省しています。でもさよならも言わずに、あまりにも唐突にいなくなってしまうなんて、モモはずるい人です。私は臆病で怖がりだけれど、モモに傷つけられるなら、多分全然平気でした。私は何も恐れずに、ちゃんとモモとさよならをして、ちゃんとモモに傷付くべきでした。そして私と同じだけ、モモにも傷ついて欲しかったと思います。でも、今私がそう思うのは、私がちゃんとモモとお別れをしなかったからです。私は自分がモモとさよならなんて出来ない事を分かっています。さよならなんてする気が少しだってないのに、モモとさよならをすべきだったなんて言う私は、矛盾していてずるい人間です。わがままを言って、私はモモを困らせたかっただけかもしれません。でも、駄々でも我儘でも何でもこねて、無様でも何でも、本当はやっぱり、私はモモに、私を選んで欲しかった。でもこれだって、モモが私を選ばなかったから思う事なのかもしれません。ぐるぐると答えなどない輪の中で沢山考えて、そして結局最後に残るのはいつでも一つだけです。今でも私はモモを愛しています。たとえ目の前にいなくても、体温に触れられなくても、きっとずっと、これからも。


 今日も空から雨が降っている。いつものお弁当の配達からの帰り道。空から急に、ザっと夕立の様な強い雨が降り出した。念の為にと持ってきた傘をさして、地面に当たって跳ね返る雨水に、足元をすっかり濡らしながら帰りの道をトボトボ歩いていると、前方に見覚えのあるシルエットを見つけた。

「……」

私は思わずその場に足を止め、近くの電柱に隠れるようにして前方に目を凝らした。強い雨の中、傘もささず、ひょろりとした体をされるがまま、雨に打たせている一人の男の人。手には何も持っておらず、その身一つだけで、何をする訳でもなく、ただ突っ立って降りしきる雨に濡れている。それは間違いなくミドリ君だった。ピクリとも動かず立っているその姿は少し不気味で、声をかける事もできず、私は近くにあった電柱の影に入り、そこからそっとミドリ君の姿を見つめた。ザァザァと雨はシャワーのように容赦なく降っている。激しい雨は街のドブ臭さと混ざり合って、濁った沼を底から混ぜ返すように、町の空気全部を生臭く混ぜかえす。

僕は植物に生まれたかった。

まるで植物にでもなったかのように動かないミドリ君を見ていたら、ふとこの前そう言っていたミドリ君の言葉を思い出した。雨に打たれながら片時も動かないミドリ君から決して目を離さず、私はひたすらに電柱の影からその姿を見つめた。

 結局ミドリ君は裕に十分以上はそうやって道の上でじっとしていて、私はやっぱりその間中、ずっと電柱の影からミドリ君を見つめ続けていた。何がゴールだったのか分からないけれど、何かに満足したらしいミドリ君が、それまで本当に少しも動かなかったのに急に動き出し、電柱の影で私は人知れずビクッと肩を震わせた。すっかり濡れそぼったミドリ君は、少しも慌てた様子もなく、そのままどこかに向かってふらりと歩き出した。遠ざかっていくミドリ君の後姿を追うように、私はぱっと電柱の影から飛び出して、ミドリ君の歩き出した方に慌てて目を凝らした。けれども激しく降り続ける雨の線が視界を悪くするばかりで、ミドリ君の姿はあっという間に雨の向こうにすっかり掻き消えてしまった。


 きっと雨降りのせいだろう。仕事を終えて家に帰ったら、訳もなくたまらない気持ちになった。こんな時、私にはそっと開ける小さな箱がある。それは部屋の戸棚の、一番下の隅に隠すようにして大事に仕舞ってある。たまらなくなる時は、どんなに用心していても、気まぐれに訪れる。それは雨降りの日だけではなくて、綺麗な月の浮かぶ夜だったり、ついうっかりうたた寝をしてしまって目を覚ました夕暮れだったりする。ふと気が抜ける瞬間、ふと気持ちの弱くなる瞬間、たまらなくなると、私はいつもそろそろと自分の身をできるだけ小さくして戸棚の前まで行き、一番下の隅からその箱を取り出す。

「……」

まるで悪いことでもするみたいにこっそりと、誰にも見られない様に、私は秘密の大事な小さな箱を開ける。箱の中に入っているのは、白い小さなマリア様の像と十字架と、それから香水。この世に残ったお婆ちゃんの全部。香水のビンの蓋を開けて、そっと香りを嗅ぐ。お婆ちゃんの匂い。懐かしい匂い。例えば、モモとお婆ちゃんを選べと言われても、そんな事私には出来ない。同じだけ大事なものが目の前にあって、そのうち片方の命が失われようとしている時、私はどちらを選べるだろうか。優しいモモの事だから、きっとすごく悩んだだろうという事くらい分かっている。片方を選ぶ事が出来たのはモモの強さだ。そんなモモの強さを、私はまた愛している。自分が選ばれなかった方であっても、私のモモへの愛は変らない。

このところ、夜が長い気がして何だか嫌だ。きっと、当たり前みたいな顔をして連日降りしきる雨のせいだ。雨が降ると空がどんより曇るから、昼間でも夜にいるような気分になる。鬱々とする。夜が長くなるのは嫌だ。暗闇に引きずりこまれてしまいそう。私が小さい頃、お婆ちゃんが真夜中に一人そっと明かりを付けて聖書を読んでいた時の気持ちが、小さな頃は分からなかったその気持ちが、今は分かるような気がする。心が折れそうな程寂しい時、一人で乗り越えるには夜は少し長すぎる。

「……」

箱から取り出した大事なマリア様の像と十字架を前にして、私はそっと胸の前で両手を組んで瞼を閉じる。そうして一人静かに、神様に向かって胸の中で透明な祈りを捧げる。


 ミドリ君がこのところお弁当を買いに来ない。お弁当の陳列棚の大半をお肉が占める中、一列だけ用意した白身魚のフライ弁当を並べる手をふと止めて私は思った。ミドリ君の緑のベランダは変らず青々と毎日繁っているけれど、ベランダに出て来る姿も、最近は見ていない事に気が付く。どこかへ旅行にでも出かけているのだろうか。ミドリ君の大事なベランダに、黄色くて可愛いへちまの花が咲いた事を、ミドリ君はちゃんと知っているだろうか。

 お昼、ミカサミートの隅で白身魚のフライ弁当をお箸でつついていたら、どうしてもいてもたってもいられなくなった。あんなに大事に育てている植物たちを放り出して、ミドリ君が何日も家を空けて旅行に行くとは思えなかった。

「少し外に出て来てもいいですか?」

まかないとしてのお弁当を三分の一程食べた所で静かにお箸を置き、すくっと立ち上がって私は女将さんに尋ねた。女将さんはジロリと私を見て、それから無言で、行きなとでも言うように、顎でクイッとだけやって私に外出を許してくれた。私は女将さんに一つ頭を下げるとぱっと外に向かって駆け出した。

全速力で走るのなんて随分と久しぶりの事だった。走り出すと余計に気持ちがはやった。一秒でも早くたどり着きたくて、気持ちのまま私は駆けた。

 階段を二段飛ばしで駆けあがる。ミドリ君の住むアパートの、所々ひび割れたコンクリートの階段を一気に。私の住むアパートの真向かいだからと、頭の中で地図を描きながらミドリ君の部屋を探す。けれどもわざわざ頭の中で地図を思い描かなくても、ミドリ君の部屋はすぐに分かった。灰色のコンクリート打ちっぱなしの薄暗い廊下に、ぱっと目を惹く瑞々しい緑の茂っている戸口が一つだけあったから。それは絶対にミドリ君の部屋の戸口である以外にはあり得なかった。戸口の前に慎ましく並んだ植物たちの、生き生きとした鮮やかな緑色が、その事を私に教えていた。私の背丈ほどもあるバナナの葉に似た大きな葉を付けた木は凛として、細かい葉を沢山付けてふわふわ繁っている植物は今にも軽やかに歌い出しそうな雰囲気で、幹が二股に分かれているユニークな形の植物は、まるで今にも植わっている鉢の中から抜け出して、そのままケラケラ笑いながら二本の足で駆けて行ってしまいそうだった。一見種類もバラバラな植物たちは、けれどもみんな仲良くミドリ君の戸口の前に連なって、その姿はまるでミドリ君の部屋を守る精霊のようで、とても清い感じがあり、いずれもお行儀よく、そして楽しそうに並んでいた。肩で息をしながら、私は思わずミドリ君によく似た植物たちをじっと見つめてしまった。それからここへ必死に駆けて来た目的をはっと思い出して、呼吸を整えつつ、私はミドリ君の部屋の戸口に改めて向き直った。

「……」

呼び鈴が無かったので、部屋の戸を直接ノックした。手が震えて上手くできずに、やけにひ弱で緩慢なノックになってしまった。

「……」

心臓がバクバクしていた。多分、必死で駆けてここまで来たから、まだ心臓が収まっていないせいだ。そう自分に思い込ませながら、じっとりとした数秒が流れるのを待った。

「はい、」

少しの間の後、戸のすぐ向こうから声がしたかと思うと、中からミドリ君が出て来た。メガネの奥にいつもの穏やかな瞳があった。寝ていたのか、髪がボサボサで、いつもより声が掠れているようにも聞こえた。私は黙ってミドリ君を見つめた。全速力で必死で走ってやっとここまでやって来たというのに、いざミドリ君を目の前にすると、自分が何の為にここまで来たのか分からなくなった。ミドリ君も私を見たまま、多分とても驚きながらその場に固まっていた。

「あの、」

何か言わないといけないと思ってそう口を開いたけれど、何を言うべきか、頭の中が真っ白で何も思いつかなかった。急に訪ねて来たりして、驚いているのはミドリ君の方のはずなのに、私の方がずっとずっと混乱している自信があった。

「死んだかと思って、」

自分の口をついてきた言葉に自分で驚く。言葉の選択を間違っている。

「最近見かけなくなったから、死んだのかと思って、」

慌ててそう言い直したけれど、より間違った方向へ深くなってしまった気がした。うまく言葉が出て来ず、少し俯いて下唇を噛み、それからまた息を吸って言葉の続きを吐いた。

「生きてて、良かった」

そう言って、私は静かに口を噤んだ。お婆ちゃんもモモも、居なくなるのは一瞬だった。一人の人間が消えてしまうのはあっという間の出来事で、現実に気持ちが追い付いて、ようやく本当に居なくなってしまったのだなときちんと受け入れた時には、もう随分と長い時間が経ってしまっている。一人だけ時間に取り残されたような気持ちで途方に暮れて、それでもやってくる明日に追われる毎日。私の心臓だけが未来に向かって鼓動を刻み、私の心は過去に向かって時を遡って進んで行く。優しい思い出が私を過去に縛る。時間がごちゃまぜになって、忘れたくない記憶だけを何度もなぞって、過ぎた思い出の中で私は一人呼吸をする。脳みその中の思い出を美しく加工して、次第に本当にあった事も曖昧になっていって、それでも今、目の前に見えないその人を思う寂しいような、幸福であるような、絡まった強い気持ちは消えない。こんな風に誰かを深く愛する事は間違った事だろうか。苦しくて心地よくて、愛は麻薬のように私を翻弄する。きっと愛は宝石のようにキラキラと美しくなんてない。愛は麻薬。出来るだけ見えないところまで遠くに遠ざけたくて、でもどうしても求めてしまう。

「えっと、」

ミドリ君の口ごもる声が聞こえて、私はハっと息を吸い込んだ。突然やって来て意味の分からない事を口走って、当然、ミドリ君は何の事だかさっぱりだろう。無我夢中だった気持ちが落ち着いて来ると、今度は急に恥ずかしくなってきてしまって、私は俯いたままくるりと体を半回転させ、ミドリ君に背を向けた。

「今夜、」

そのまま走り去ろうとした私の背中を、ミドリ君の声が呼び止めた。

「今夜、窓辺で」

ミドリ君に背中を向けて立ち止まったままの私に、ミドリ君が言った。ミドリ君の発した言葉を一度胸の中でそっくりそのまま復唱した。

コンヤ

マドベデ

私の部屋から見える景色はミドリ君のベランダだけれど、ミドリ君から見える景色は、きっと私の部屋の窓だ。ミドリ君は気付いていたのだ、私がいつも部屋の窓からミドリ君のベランダを見つめていたことを。

コンヤ、マドベデ。マドベで。窓辺デ。窓辺で。

心の中で何度も復唱し、変換しながら無言の時間を通過して、それから私は後ろを振り返ることなく、ミドリ君の前からぱっと駆け出した。来た時よりいっそう滅茶苦茶に足を動かして、ミカサミートに向かって駆けた。訳の分からない何かが溢れそうな胸の内を抱えて駆けながら、けれども、ミドリ君が生きていて良かったと思った。それは、本当に、そう思った。


 いつもの様に今日の日付が変わる頃、私はミカサミートから家に帰った。

「ただいま」

誰も居ない部屋の玄関で、モモのイースターバニーに小さく告げる。疲れきった体を引きずるようにして部屋に入る。

「……」

昼間のミドリ君の言葉を思い出す。約束した今夜から日付をまたいでしまっているけれど、約束はまだ有効だろうか。何かを恐れるように、心の隅で何となく約束が無効になってしまっていて欲しいような気がしている。

「……」

一人で住むには少し広い、モモと共に暮らした部屋。モモ。胸の中で小さく名前を呼ぶけれど、私の声に応える声はない。私はモモ忘れたくない。手放したくない。私の大事なモモ。そっと部屋の窓を開ける。

「……」

窓の向こう、向かいのアパートのベランダにはミドリ君の姿があった。ミドリ君はのっぽな体を小さく折り曲げて、いつもと同じように植物たちのお世話をしていた。お風呂にでも入ったのか、髪が濡れてぺちゃんこになっていた。

「……」

窓辺に顔を出した私にミドリ君が気が付いて、こちらを見た。目が合った。ミドリ君はベランダに立ち上がって、礼儀正しく私に一つ頭を下げた。こんばんはとでも言うように。私もミドリ君にこんばんはと、丁寧に頭を下げた。顔を上げると、ミドリ君は何やら手に長い棒を持っていて、その棒をこちらに向かって伸ばしてきた。何事かと少し驚いたけれど、こちらに向かって伸びて来るその棒に向かっておっかなびっくり、私も両手を伸ばした。徐々に近づいて来る棒に精一杯両手を伸ばしながら、ミドリ君がベランダからあまりに身を乗り出して私に棒を差し向けているので、そのまま下に落ちやしないかとヒヤヒヤした。ミドリ君の伸ばした棒の先端には白い紙コップが付いていた。私は棒の先からその紙コップを取った。

「……」

しばし、私は白いコップと見つめ合った。ミドリ君は伸ばしていた棒を自分の元へ引き戻している。私が掴んだ紙コップのお尻からは、白い細い糸が伸びていた。

「……」

ミドリ君を見ると、ミドリ君も私と同じように白い紙コップを手に持っていた。そしてミドリ君は自分の手に持っていた紙コップをそっと自分の耳にあてた。

「もしもし、」

ミドリ君が紙コップに耳を当てているので、私は自分の持っている紙コップに向かって口を開いた。話してから、口にあてていた紙コップを、今度は自分の耳にそっと当ててみる。

「もしもし、聞こえますか?」

少しして、細い糸を伝って、紙コップからミドリ君の声が聞こえて来た。静かな森の、木漏れ日のような柔らかい声が。

「聞こえます」

再び私がそう言葉を返すと、紙コップを耳にあてたミドリ君が、向かいのベランダで微笑んだような気がした。

「糸電話、知ってますか?」

「はい、小さい頃に、やりました」

「僕もです」

耳にあてた紙コップから聞こえて来るミドリ君の声が、何だか鼓膜にくすぐったかった。

「懐かしい、ですね」

私は言った。

「そうですね」

ミドリ君から返事が返って来る。面と向かって話すより、糸電話の方が幾分緊張せずに話せるような気がした。もしかしたらミドリ君もそんな風に考えて、わざわざ糸電話を作ってくれたのかもしれない。

「昼間は急に、すみません、でした」

おずおずと糸電話に向かって私は言った。

「いえ、」

ミドリ君が言った。

「実は少し、風邪を引いていました」

糸電話から聞こえて来るミドリ君の声は穏やかで、私の耳もだんだん慣れてきたのだろう、もうくすぐったくはなくて、心地よさだけが残っていた。ミドリ君を深く知っている訳でもないのに、その感覚はとても不思議なものだった。

「雨の中、立っていたから、ですか?」

言っても平気な事なのか、ミドリ君を傷つけてしまわないかと迷ったけれど、私は問うた。ミドリ君を知りたかった。

「この前、雨の中で立っているあなたを、見ました」

続けて私が言うとミドリ君は向こう側のベランダで頭を掻いた。

「それは、変な所を見られてしまいました」

少し決まりが悪そうなミドリ君の返事が返って来る。

「何を、していたんですか?」

更に私はミドリ君に問うた。

「植物の気持ちになってみたくて」

ミドリ君は言った。

「雨に打たれている時の感覚を、知りたくて」

補足するように、紙コップからミドリ君の声が続けて聞こえてくる。

「へちまの花が、咲いています」

紙コップに向かって、私はそっとミドリ君に言った。

「はい、咲きました」

ミドリ君の声が返ってきた。気のせいかもしれないけれど、そう言ったミドリ君の声は少し嬉しそうだった。

「植物が、好きなんですね」

「はい、好きです」

「どんな、ところが?」

「美しいところです」

たどたどしい私の質問に、ミドリ君は迷いなくすっと次々答える。自分の愛しているものを、ただ当たり前に愛していると、その声は言っていた。ミドリ君の植物への愛には、恐れも不安もない。そのことに、私は勝手に救われるような気持ちになった。心がふと軽くなるような。

「悲しい気持ちの時、私は窓を開けて、あなたの育てている植物たちを、眺めます」

向かいのアパートのベランダに、わさわさと柔らかく茂る植物たちの中心に立つミドリ君を見つめながら、私は紙コップに向かって言った。

「あなたは今、悲しいのですか?」

返ってきたミドリ君の質問に、私はすぐに返事をすることが出来なかった。

「分かりません」

少しして、私は言葉を返した。お婆ちゃんとモモが私の胸に空けた穴がずっとずっと寒々としている。一生埋まることの無い穴だ。悲しいのか、苦しいのか、辛いのか、逃げたいのか、ただ私は二人を忘れたくなくて、ずっと愛していたくて、どうにもならないという事だけが分かっている。少し話し疲れた。

「また糸電話、してくれますか?」

私は問うた。視線を下げて俯きながら返事を待つ。

「はい、」

ミドリ君から二つ返事が返って来た。たった二文字のミドリ君の言葉だったけれど、私は静かに嬉しかった。少しだけ、明日が来ても良いような気がした。

「ありがとう」

私がそう言うとミドリ君は、向かいのベランダから黙って首を横に振って見せた。

「おやすみなさい」

最後にそう言って私は糸電話を窓辺に置いた。糸電話を置いて部屋の中へ、疲れた体を引きずって歩く。そのままいつもの様にモモのクローゼットを開けて、その中で眠ろうとして、ふと長らく使われていないベッドを見つめた。クローゼットの扉にかけた手を放して、私は恐る恐る、まるで氷の張った冷たい湖の中に入るような心地で、ベッドに体を横たえた。

「……」

久しぶりのベッドは広くて、クローゼットよりずっと寝心地が良いはずなのに、私が眠るには広すぎて、ひどく場違いな場所であるように感じられた。それでも私は横になったまま無理やり瞼を閉じた。けれどもしばらくして結局耐え切れずにクローゼットの中に戻ると、いつものように小さく丸くなった。狭いクローゼットの中で静かに呼吸をすると、記憶の中にあるモモの匂いがふわりと香って安心した。

「おやすみ、モモ」

小さく呟いて瞼を閉じる。涙がつぅと流れ落ちた。次に瞼を開いたら、当たり前みたいな顔をして、また明日がやって来るだろう。意識を手放す少し前、真っ暗な瞼の裏に黄色いへちまの花を思い描いた。ほんのつかの間、へちまの花を思う私の心が、白く細い糸を伝って伝って天に向かって高く昇って消えていく幻覚が、ほんの少しだけ見えた気がした。

 その日の夜、私は夢を見た。妙に生々しい夢だった。夢というより、古い記憶の中を追体験しているような、そんな現実の質感を伴った夢だった。夢の中で私はモモに会った。それは、私が必死に遠ざけていたお婆ちゃんの死を、モモが私の胸の中に取り返してくれた日のことだった。

ずっとずっと悲しかったね。

何回目かのお婆ちゃんの命日の日、教会の中で、十字架の前で、モモはそう言って私を優しく抱きしめてくれた。モモに抱きしめられて、私は自分がずっとただ悲しかった事に気が付いた。お婆ちゃんが死んでしまって、私は本当はただ悲しかったんだ。その当時、私は特にわんわん泣いたりしなかったけれど、泣けなかっただけで、あの時私はやっぱりちゃんと悲しかった。一人ぼっちになってしまった恐怖よりも、これから先の生活の不安よりも、やっぱり私は一番に、単純に、お婆ちゃんの死が耐えきれないくらいに悲しかったのだ。モモに抱きしめられて、私はちゃんとそうだったと、随分遅れて理解した。モモはモモのたった一つの心でもって、私に私の気持ちを取り戻させてくれた。モモはいつでも正面から私に向き合ってくれた。嘘じゃなく、本当の心で。だから私も、モモにはいつも正直だった。頑張って誠実でいようとするのではなくて、ただ自然と正直でいられた。モモもお婆ちゃんと同じ魔女だった。そんなモモも、今は私の傍にいない。二人の魔女は私に、世界で一番尊い魔法をかけて消えてしまった。

愛を失う事が怖くて、でも愛を手に入れたくて、温かいそれに向かって手を伸ばさずにはいられなくて、一生懸命手を伸ばして、そうして指先で少し触れた瞬間には、既にそれを失い始めている。生まれた瞬間から死んでいくのと同じこと。どんなに必死で明るい方へ手を伸ばして、光を掴もうと生きたとしても、最後には一人小さな部屋の中で、そっと孤独の中に溶けて死んでいくのなら、それならなぜ、それでもなぜ、私は誰かに愛されたくて、誰かを愛したいと願うのだろう。


親愛なるモモ。今日はモモに、一つお知らせがあります。今から少し前、向かいのアパートに少し不思議な人が越して来ました。ずっと黙っていてごめんなさい。内緒にしていたつもりではないのだけれど、モモにミドリ君をどう書けば伝わるのか、言葉が見つからなくて今まで黙っていました。でも今日は彼について少し言葉にできそうなので、書いてみようと思います。

彼の名前はミドリ君と言います。これは私が彼に勝手に付けた名前で、ミドリ君はその名の通り、緑を、植物をとても愛しています。ミドリ君が植物を本当に愛している事は、ミドリ君を見れば誰でもすぐに分かる事でしょう。モモが世界中の珍しい品の数々に心を躍らせる事を止められないように、ミドリ君は植物を愛さずにはいられない人です。ミドリ君の植物への愛情はまっすぐで、怖れを知りません。そんな風にまっすぐに真摯に植物を愛せるミドリ君を、私はとても美しく思います。ミドリ君の育てる植物たちは、だからとても美しく、可憐で清潔です。私は今まで可愛い物があまり好きではありませんでした。だって可愛い物は弱いから。可愛さと言うものは、誰かの庇護欲を満たす為に存在している物のような気がして、強者によって成り立つ可愛さを、私は今まで悲しいと思ってきました。けれども正しい可愛さは清潔なのだと、私はミドリ君に教えられました。私がモモにミドリ君の育てる植物たちを見て欲しいと言ったら、モモはどうするでしょうか。私はモモに困ってほしいような、笑って欲しいような、何だかよく分からない気持ちです。モモがいないとやっぱり、私は自分の気持ちがよく分かりません。今はっきりと分かる事は、ミドリ君の育てている植物たちを、モモが絶対に気に入るだろうという事です。ミドリ君はそんな風な人です。

ねぇモモ、命が生まれて死んでいくように、何事にも終わりがあるのなら、私の抱えているこの絡まった気持ちにも、いつか終りが来るのでしょうか。もし終わりがあるとするならば、その終りというのは私がモモを忘れると言う事でしょうか。モモ、私はモモを忘れたくありません。どうして人は忘れていくのでしょう。私の抱える本当の問題は、私が終わりたくないと思っているという事のような気がしています。モモが居なくなってしまった今も、こうしてみっともなくモモにしがみついている私は、私の嫌いな、きっと弱い生き物なのでしょう。けれども、どんなに情けなくても、恰好悪くても、気持ちが悪くても、モモを忘れるくらいなら、私はそれで良いのです。

ミドリ君の育てる植物たちの優しい香りが、風にのって、きっとモモの元まで届きますように。


 「もしもし、」

糸電話に向かって話す。

「もしもし」

糸を伝って声が返ってくる。

「もうご飯は食べましたか?」

「はい、さっき食べました」

「何を食べましたか?」

「魚を焼いて食べました」

「やっぱりお魚が好きなんですね」

「やっぱり?」

「いつも魚フライのお弁当を買って行かれるので」

「それは、確かにそうですね」

「お店の自慢はお肉なんです」

「そうなんですか」

「はい」

「それじゃ、今度はお肉にしてみます」

「是非」

「月が綺麗ですね」

「綺麗ですね」

「夜ですね」

「夜ですね」

ミドリ君との糸電話はとりとめもない。ただミドリ君の声を聞いているだけのような、そんな夜の糸電話が、けれどもポツポツと続いている。

「あなたに聞いてみたかった事があります」

ふと、私はミドリ君に切り出した。

「何ですか?」

ミドリ君は穏やかな口調で私に問い返す。ミドリ君は優しい。いつも他人と上手く話せない私だけれど、ミドリ君とは緊張しないで話すことが出来る。

「ミドリ君は以前、植物に生まれたかったと言っていましたよね。それは、どうしてですか?」

私は問うた。

「質問に答える前に、その、ミドリ君というのは、僕の事ですか?」

ミドリ君が遠慮がちに私に問うた。

「えっと、そうです」

「そうですか、なるほど」

勝手にミドリ君をミドリ君と呼んでいた事がバレた事に気が付いて、すっかり恥ずかしくなってしまった私は少し黙った。

「今から少し歩きませんか?」

数秒の沈黙の後、ミドリ君が言った。糸電話からではなく、向かいのベランダから直接私に向かって、夜だったけれど少し大きな声で、ミドリ君は言った。私はミドリ君から一度視線を逸らして少し迷ってから、そっと頷き返した。


 玄関で靴を履く。そのまま外に出ようとしてふと足を止めた。背中から羽の生えたモモのイースターバニーをじっと見つめる。小さな彫刻はいつもと変わらず微笑みながら私を見つめ返している。しばらくイースターバニーと見つめ合っていると、ふと今まで忘れていた記憶が脳裏に蘇ってきた。

目の前にいない人の事を、そんなに深く考え続けてはいけないよ。

いつだったか、夜に眠れずにいる私に、モモはそう言って柔らかく私を包み込むように微笑んだ。モモの瞳を見ると時々、私は無性に泣きたい気持ちに襲われた。モモの瞳が優しすぎて。私が泣くと、モモは理由なんか一切聞かないで、いつでもただ私の頬を伝う涙を優しく拭ってくれた。今まですっかり忘れていたけれど、あの時目の前に居ない人の事を考えるなとモモが私に言ったのは、決して私のお婆ちゃんへの気持ちに対しての事だけを言ったのではないのかもしれない。もしかするとモモはもう全ての事を見通していて、すっかり分かって決めてしまっていて、だから私にそう言ったのではないだろうか。

「モモは、私にモモを忘れて欲しいの?」

微笑み続けるイースターバニーに問うても返事はない。一人そっとぎゅっと痛いくらいに下唇を噛む。

「行ってきます」

不意に蘇ってきた思い出と感情を一旦そっと胸の中に仕舞い込んで、いつも通り、モモのイースターバニーにそう告げ、私は玄関を出た。


 外に出ると、先に下に着いていたミドリ君が私を待っていた。

「見せたい物があります」

私が到着するやいなやそう言って、ミドリ君は先を歩き出した。つられるように、私はミドリ君の背中を追った。ミドリ君の一歩は大きくて、ついて行くのが少し大変だった。二つの足音が夜の中に響く音に耳を澄ましながら、遅れないように足早に歩く。誰かとこんな風に夜の道を歩くのは初めてだった。お婆ちゃんとはいつでも手を繋いで歩いた。私が歩く道はお婆ちゃんがちゃんと知っていたから、私は道に迷うことはなくて、いつでも安心だった。モモと歩く道はいつでも明るかった。モモと一緒なら、どこへでも、どこまでも、例えそれが知らない道であっても、怖れることなくずっとずっと歩いて行けた。ミドリ君と歩く道は静かだった。先が見えなくて、ただ夜の闇が辺りを埋めていた。不意にポツリと、空から雨粒が頬に落ちて来た。

「雨だ」

呟くように小さな声で私は言った。

「そうですね」

私の独り言のような小さな声は、前を歩くミドリ君にちゃんと聞こえたらしく、ミドリ君の広い背中から返事が返って来た。ミドリ君は雨など特に気にした様子もなく、私の斜め少し前を変わらない歩調で進んで行く。

「雨は好きですか?」

ポツリ、ポツリと降り出した弱い雨に打たれながら、私はミドリ君に問うた。

「はい、好きです」

私の嫌いな雨を、ミドリ君は迷うことなく好きだと答えた。ノースの奥さんが教会で獣のようにむせび泣いた日も、ミカサミートの常連だったお婆ちゃんが孤独死した日も、私のお婆ちゃんが死んだ日も、モモがいなくなった日も、悲しい時はいつでも外は雨が降っていた。みんな雨の向こうに消えていく。だから私は雨が嫌い。雨なんか大嫌いだ。

「雨は植物が生きるのに必要不可欠です。けれども必要不可欠でありながら、雨は必ずしも良い事ばかりではありません。雨が降り過ぎて土の中に水分が多くなりすぎると、植物たちは栄養過多になり、酸素不足を起こして、せっかく根に蓄えた養分を大量消費してしまいます。それに雨には沢山の細菌が含まれているので、雨が降ると葉の表面に附着するウイルスの数が急増します。これは植物たちにとって、病原菌が拡散される可能の上昇を意味し、生存の可能性を低下させることに繋がります。だから植物たちは免疫遺伝子を発達させました。雨が降ると、植物たちは葉っぱから葉っぱへ危険信号を出して自衛体勢に入るんです。それから、空気を渡って周囲の植物にも雨が降ったぞ、自衛体勢に入れと危険を伝達します。黙っているように見えて、実際植物たちは実におしゃべりです。雨が降るから植物たちは生きる事ができ、そしてそれに伴うリスクが、植物たち自らを発達させました」

ミドリ君は淀みなくスラスラと、多分今までで一番長く話した。そしてふと口を閉ざし私の目を見て、

「すみません、つい話し過ぎました。いつも植物の事を考えているので、話し出すと止まらないんです。何でも植物の話に繋げてしまうのが僕の悪い癖で、すみません」

と眉尻を下げながら私に謝った。

「いえ、その方が良いです。その方がずっと」

確かに急なマシンガントークに少々面食らったけれど、私はミドリ君にそう言葉を返し、それから小さく笑った。俯き加減に小さく微笑みながら、全てが植物に繋がっているミドリ君の世界を、私はとても羨ましく思った。そういう風に全てが植物に向かって繋がってできているミドリ君の世界は、きっと迷いなくまっすぐで、とても美しいだろうと思ったから。ミドリ君がいつも清潔で、私をどこかほっとさせる理由が、ほんの少しだけ分かった気がした。

「雨、寒くないですか?」

ミドリ君が私に問うた。

「大丈夫です」

さっきよりも心なしか強まって来ている気のする雨だったけれど、私はそう答えた。雨を気にするよりも、ミドリ君が私に今から見せてくれようとしている世界を見てみたかった。

「あと少しです」

ミドリ君は一つ私に頷いて見せてからそう言って、再び真っ直ぐ前を見て歩きだした。雨音と足音の重なる音を聞きながら、私たちは黙々と静かに歩いた。

「もうこの先です」

程なくして、前を歩いていたミドリ君が足を止めて私に言った。辺りはうんと緑が濃くなっていて、年中ドブ臭いこの街にこんなに人間の手つかずの場所があったなんて少し驚きだった。周囲に茂る植物たちは、月明かりに照らされながら緑の濃淡を、夜の中でも鮮やかに浮かび上がらせていた。一枚一枚の瑞々しい葉に刻まれた葉脈の、細い線の一本一本までを空気に、雨に晒して、明日になって太陽が昇る頃、うんと光合成が出来るよう、空に向かって力強く首をもたげていた。空から降ってきた雨粒が、繁る植物たちの葉に当たり、ポツポツ音をたてながら叩く音がこだまして聞こえている。空から降り続く雨粒は、葉脈を辿って、茎から枝や幹を伝い、地面の土と混ざり合っていく。昼間の太陽に乾いた土は、そうやって植物たちを伝って流れ落ちてくる雨をぐんぐん吸い込み、湿り、地中に水を貯え、土が蓄えた水分をまた植物たちが吸い上げ、空に向かって伸びて行く。植物たちだけでなく、土の下にはミミズやアリやダンゴムシ、はたまた今はまだ幼虫の姿でいる虫たちの、沢山の小さな命がきっと眠っているだろう。雨が命を潤していく。季節が巡って、やがて羽を持って地中から出てきた幼虫は、花の花粉を体に付けて、どこかまた別の場所に、きっと新しい命を芽吹かせることだろう。辺りを埋め尽くすように立ち込める、この雨と土と緑の混ざりあった香りは、だから命そのものの香りなのかもしれない。いつでも鼻につきまとう、街のドブのような匂いを搔き消して、今ここに、命の香りが辺りに濃く濃く香っていた。

「こんな場所があったなんて、知りませんでした」

私が言うと、ミドリ君は顎を引いて頷いた。

「僕も、僕以外の人間がここにいるところを見たのは、今日が初めてです」

真面目な口調でミドリ君は言った。私たちは、静かに緑の更に濃く茂る先へ、目の前を掻き分けながら歩みを進めた。

「私たち、何だか冒険家みたいですね」

思わず私が言うと、ミドリ君はこちらを振り返って小さく笑った。私はミドリ君の笑顔を、初めてはっきりと見た事に気が付いた。飾らない、優しい笑顔だった。

「僕の夢は、新種の植物を見つける事です」

私に道を作ってくれるように、緑の繁る道なき道を先に行きながらミドリ君が言った。

「そこ、棘があるので気を付けて」

ミドリ君が指差すので見ると、棘の生えた蔓がこちらに向かって伸びていた。雨は止むことなく細かく降り続いている。葉に雨粒の当たる音が、辺りにくぐもりながら、絶えずこだまして聞こえる。まるで、植物たちがぺちゃくちゃとおしゃべりをしているかのように。その音はまるでミドリ君に向かって、植物たちが口々に話しかけているように聞こえた。

「新種発見だなんて途方もない夢ですが」

話しを戻すようにミドリ君は言葉を続けた。

「夢、ですか」

まるで初めて見た知らない物の名前を口にするみたいにぎこちなく、私はミドリ君に言葉を返した。体を濡らす雨粒が、顎を伝って顎から滴り落ちる。

「あなたの夢は何ですか?」

ミドリ君が私に問うた。私は小さく笑ってみせただけで何も答えなかった。だって、私の夢は叶わない。みんな、降りしきる雨の向こうに消えてしまったから。

「新種の植物、見つけたらきっと教えて下さい」

沈んだ気持ちを切り替えるように私が言うと、ミドリ君は小さく、けれども嬉しそうに笑顔を見せた。

「もうすぐです」

心なしか、さっきまでよりゆっくりとした歩調で歩きながら、ミドリ君が言った。錯覚だろうか、辺りに茂る緑が深くなるにつれ、前を歩くミドリ君の背中が、私にはどんどん広くなっていっている様に見えた。植物たちのエネルギーを吸収して、のびのびとだんだん広くなっていっているような。その様子は、まるでミドリ君が周囲の植物たちに、どんどん同化していくような感じさえして、竹から生まれたかぐや姫のように、本当にミドリ君は植物から生まれたのではないかという気さえしてくる程、とても自然に周囲の植物たちの中に溶け込んで見えた。

「着きました」

そう言ってミドリ君がふと足を止めた。ミドリ君と共に、私も足を止めた。立ち止まったまま、ミドリ君は私を振り返って、それから私の正面からさっと脇に避けた。途端に目の前がぱっと開けて、今まで見えていたミドリ君の広い背中の代わりに、私の視界いっぱいに、沢山の白い花の姿が飛び込んできた。

「すごい、きれい、」

思わず息を飲んで私は言った。雨の雫に打たれながら、夜に浮かぶ白い花たち。まるで発光しているかのように、白い花たちは黒い闇の中に浮かんでいた。

「この花たちはヨルガオと言います。ここに群生しているんです。僕も偶然見つけた時は、その美しさに息を飲みました」

ミドリ君が言った。隣に立つミドリ君を見ると、穏やかな瞳を眩しそうに細めて、私と同じようにヨルガオの美しく咲く姿を見つめていた。

「近くに行って匂いを嗅いでみて下さい。とてもいい香りがします」

ミドリ君に言われてすぅと鼻で辺りの空気を吸い込んだ。近づかなくても十分に甘い香りがふわっと鼻孔に香った。

「ほんと、いい香りですね」

思わず小さく微笑んで、私はミドリ君に言った。

「ヨルガオは夜にしか咲きません。植物たちは体内時計をしっかり持っていて、それは気温や光の強さによってきちんと認識されます。ヨルガオが夜にしか咲かないのは、この甘い香りで夜に活動する昆虫を引き寄せて、花粉を遠くに運んでもらうためです。これはヨルガオの子孫を残す為の立派な生存戦略です。喋りもしないし、大きく動くこともないけれど、植物たちは確かに呼吸をして、様々に今を感じて、考え、環境に適応し、そうやって生きて、そして死んでいきます。植物たちはみな潔く賢く、神秘的な生命力に溢れている。だから僕はどんな植物たちも、とても美しいと思います」

ミドリ君はここで少し言葉を切った。

「僕が植物に生まれたかったのは、どんな植物もこの世で一番美しいと思うからです」

柔らかく微笑みながらミドリ君は言った。私はミドリ君を見ていた。ミドリ君も私を見ていた。

「僕は、醜い」

柔らかい表情のまま、ミドリ君はポツリと、空から降る雨粒のように、闇夜の中へ短く冷たい言葉を落とした。

「鋭い目と大きな口、顎は前に大きくつき出てしまっているし、そのくせ鼻は団子みたいにぺちゃんこだ。極めつけはこの高すぎる身長。僕の姿はまるで化け物です。この見た目のせいで、多感だった思春期に良い思い出はないし、今でも通りすがりの見ず知らずの人が僕を振り返って目を見張ります。まるで見てはいけないものを見てしまった様な目で。僕はあなたに謝らないといけません。あなたも僕を初めて見た時、きっととても怖かったでしょう?」

ミドリ君の問いに、私は答える事が出来なかった。今すぐミドリ君の言葉を否定することは簡単だった。実際、私はミドリ君を怖いとは思わなかったから。だって私は、丁寧に大事に植物を見つめるミドリ君の瞳を、微かに発光してさえ見えた清潔な輪郭を、小さな窓から祈るような思いで見つめてきたから。そうだ、私は私の愛しい人たちが重くて、苦しくて、悲しくて、寂しくて、息が出来なくて、助けを求めるようにミドリ君のベランダを見つめていた。生命力に溢れるそのベランダを。その中心にいるミドリ君を。あぁ、私はずっと苦しかったんだ。愛しい人たちの愛に、私は押し潰されようとしていた。それで良かったのに、それを望んでいたはずなのに。

そうだと頭で分かっていて、けれども私はミドリ君に何も言う事が出来なかった。それは、ミドリ君が今まで十分傷ついてきて、今も傷ついていて、そしてこれからも自分の見た目が、他人と己を隔て続けるのだという事の、苦痛や悲しみをただ静かに受け入れている事の覚悟が、終始穏やかに話すその瞳から伝わって来たからだった。そしてそこまで自身が傷ついておきながら、ミドリ君は私に最後に問うたように、自分ではなく他人の心を思いやっている。そんな風なミドリ君の清潔な強さを目の前に、私が何を言ったって、私の発する言葉なんかのどこにも、少しの真実も含まれていないように思われた。

「この醜い見た目のお陰で、不自由な事も多いけれど、けれども、それでも、いつでも、僕の傍には植物たちがいます」

決して強くない、いっそ優しい口調でミドリ君はそう言葉を続けて、そしてそっと口を噤んだ。モモが初めて私をそっと抱きしめてくれた時、私は不意に両目から涙が溢れた。モモの温もりに私の心はすっかり溶けて、硬く凍って固まっていた感情がほどけたから。あの時、お婆ちゃんが死んでしまって、寂しいやら、悲しいやら、それでも進んでいかなくてはならない現実の厳しさやら、時の流れに流れるまま進んで行くしかない事への困惑やら何やら、とにかく自分の中で硬く凍らせていた感情の全てが溶けて、そうやって溢れた私の全部を、モモの温もりが優しく包み込んでくれていた気がした。その時のモモと多分同じ手触りで、私はミドリ君の心の硬い部分に今、手を伸ばそうとしていた。私は今すぐミドリ君を抱きしめたかった。いつもベランダで、のっぽな体を小さく折り曲げて植物たちのお世話をするミドリ君を、自分を醜いと言ったミドリ君を、穏やかな瞳の奥の裸のミドリ君を出来る限り優しく抱きしめたかった。でも出来なかった。抱きしめたら、失ってしまう気がした。大事に思ってしまったら失ってしまう。私はもうこれ以上何も失いたくない。美しいミドリ君を前に、私はどうしようもなく、醜く、ちっぽけで、弱く、卑怯だった。

「僕は時々人間でいる事を辞めたくなります。植物たちのように、ただ潔く、美しく生きていられたら良いのにと思います。そんなどうしようもない事を考えている時、急におなかが減ると、僕はとても安心するんです。僕の中にどんな黒い感情があっても、誰かの中にどんな黒い感情があっても、おなかが減る時、人間だって植物を同じ様に、みんな平等にただ生きているだけであるように思えるからです。そう思えることは、僕にとって少しの救いです。自分が植物に近い存在であると思える気がします。そうしてお腹の減った僕は、家の外に出てお弁当を買いに行きます。あなたはいつも手際よく、僕にお弁当を包んでくれます」

ミドリ君はそう言って静かに口を閉ざした。小さな沈黙が、ミドリ君と私の間に流れた。

「醜いのは私です」

視線を俯けながら、私はそっとミドリ君に言葉を返した。糸電話の細く白い糸を伝って言葉を届けるように。

「だから私は、あなたのベランダに、そこで育てる美しい植物たちに、とても惹きつけられたのだと思います」

私を置いて行ってしまった私の愛する人たちを、いつまでも愛したままでいられるように、けれどもただ一方的に愛する空虚に自ら耐えられなくなって息が出来なくて、苦しくて、そうやって次第に孤独に支配されて愛を忘れてしまわないように、自分が消えてしまいそうになる度に、弱く醜い私はミドリ君のベランダを、美しいミドリ君のベランダを、多分、祈るような気持ちで必死に見つめていた。私が教会で祈り続けるように、ミドリ君は植物を育てる。私にとっての神様は、ミドリ君にとっては、きっと、まだ見ぬ新種の植物なんだろう。そうやってミドリ君の世界は絶えずくるくる回って、これからもきっとずっと美しく回り続ける。

「ミドリ君は綺麗です」

私は言った。なんて薄っぺらな言葉だろう。けれども言葉を、私は唇に託した。

「ミドリ君は美しいです」

言い切るようにもう一度言うと、ミドリ君は微かに微笑んだ。今にも泣き出しそうな情けない、けれどもとてもとても優しい笑顔だった。

 私たちは連れだって来た道を歩いて帰った。行きよりも、私は夜の闇に降る雨を、少しだけ好きになれるような気がした。シトシトと雨と闇が私とミドリ君をそっと密やかに包み込んでいた。

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

最後にお互いにそう言い合って、私たちは別れた。


 「ただいま」

部屋に戻って、玄関にいるイースターバニーに声をかける。すっかり濡れそぼった靴を脱ごうとして、ふと視界の端で違和感を捉える。いつも玄関に大事に置いているモモのイースターバニーをもう一度よく見た。

「……」

小さなウサギの彫刻は、その背中から生えた美しい二枚の羽を折って失っていた。

「モモ、」

短く、けれども鋭く私は愛しい人の名前を呼んだ。モモが私に作ってくれた小さな彫刻のウサギ。イエスキリストの復活に、その殻の中に生命力を秘めた復活の象徴であるイースターエッグを運んで来る幸運のウサギ。きっと私を守ってくれるからと、モモが身代わりのようにして置いていった小さなウサギ。そのイースターバニーは今、まるで役目を終えたかのように背中から生えていた二枚の羽をぽっきりと折り、静かに微笑んだままそこ佇んでいた。

「モモ、」

もう一度、引き止める様に私はモモの名前を呼んだ。見えない何かが急速に失われていっている気がした。ボロボロと鼓膜の向こうで見えない大事な存在が壊れていく音が聞こええた。

「モモ、行かないで」

息を詰まらせながらそう言って、いくら必死で小さな彫刻を見つめても、羽の折れたイースターバニーは優しい目で私を見つめ返すだけだった。終わりたくない。まだ終わりたくない。ずっとずっと忘れたくない。私はずっとモモを愛したままでいたい。私が思い出の詰まったこの部屋に住み続けるのは、モモの何もかもをそのままにしてここに住み続ける本当の理由は、少しでも記憶が薄れて行く事に抗う為だ。モモを愛したまま死んでしまいたいから。胸が痛くて、怖くて、悲しくて、寂しくて、たまらなかった。私はそっと、震える指先でイースターバニーを、両手で包み込むようにして胸の中に抱きしめ、その場にうずくまった。雨に濡れた体が冷たくて重かった。私の体など、このまま重力に潰れてしまえばいい。

「モモ、」

詰まって苦しい呼吸の合間に、震える声で名前を呼ぶけれど、誰も何も応えない。外では雨が降っている。シトシト静かに降り続いている。


 静かな教会。雨漏りがとぽん、とぽん、と誰もいない礼拝堂に雫の音を響かせている。耳を澄ませるとポツポツと、教会の古くなった屋根を叩く雨粒の音が聞こえてくる。雨がやまない。雨の音に耳を塞ぎ、私は一人祈った。胸に羽の折れたイースターバニーを抱きながら。

神様、どうか、私からモモを奪わないで下さい。

十字架に向かって何度も祈る。けれどもどれだけ必死で祈っても、十字架はただ十字架で、聖母マリア様の像は、黙って優しい眼差しで私に微笑み返すだけだった。

こっちだよ。

不意に耳元で懐かしい声が聞こえたような気がして、私は礼拝堂の後方を振り返った。

「モモ?」

声のした方へ問いかけるけれど、返ってくるのは雨の音だけ。とぽん、とぽん、ぽつぽつ、ぽつぽつ。どこに向かって何を問いかけても、雨が私をからかうように楽しそうに、ぽつぽつ、くすくす笑いながら、悪戯に鼓膜を揺らすだけ。

みんな雨の向こうに消えていく。

そっと瞼を閉じる。

もう私から何も奪わないで。


 誰かが部屋の戸を激しく叩いている。モモのクローゼットの中で、私は玄関の戸を叩く音に耳を塞いでいた。出る気はなかった。

「居るんだろ、さっさと開けな」

しつこくドアを叩く音と共に聞こえて来くるのはミカサミートの女将さんの声だった。

「こっちは忙しい合間を縫って来てやってるんだよ、ぐずぐずしてないでさっさと開けな」

女将さんは少しも近所迷惑なんか顧みずに、大きな声でそう言いながら、私の部屋の戸を乱暴に叩き続ける。あれから私はずっと、モモのクローゼットの中で過ごしている。何をする訳でもなく、ただクローゼットの中でぼんやりと、記憶の中で生きている。ミカサミートにも、もう何日も行っていない。

「……」

女将さんがうるさく戸を叩き続けている。少しも諦める気配を見せない。それどころか戸を叩く音は勢いを増してきてさえいる。ついに根負けして、私はクローゼットの戸を開けて外に出た。カーテンの閉め忘れた部屋の中は明るく、その眩しさに私は思わず目を細めた。よろよろとふらつきながら窓のカーテンを閉めて、目を射すような光を弱めた。薄暗くなった部屋の中をふらふら歩き、ガンガンうるさく叩かれ続ける玄関の戸を、私はゆっくりと押し開けた。開けた戸の向こうを女将さんの巨体が、仁王立ちで塞いでいた。

「なんだい、死んだと思って来てやったのに、しぶとい子だね」

開けろ開けろと散々喚いていた割に、いざ戸を開けると実に残念そうにそうな声で言って、女将さんはフンと鼻を鳴らした。

「食べな」

続けて短く不機嫌そうにそう言って、女将さんはつっけんどんに私にビニールの袋を一つ押し付けた。ほんのり温かいそれは、ミカサミートの出来立てのお弁当だった。

「……」

私は黙って女将さんを見た。女将さんはいつものように、ジロリと睨むような怖い目で私を見下ろしていた。

「残すんじゃないよ」

そう言い残し、女将さんは大きな体を左右に揺らしながら足音を響かせ、寂れたアパートの廊下を歩いて帰って行った。

「……」

部屋の中に戻り、袋から出したそれを薄暗い床の上に置いて、私はしばしお弁当と見つめ合った。お弁当のおかずは白身魚のフライで、付け合せはケチャップベースのスパゲッティサラダだった。どうやら今日は女将さんの機嫌の良い日らしく、黄色く人工的に鮮やかに着色されたお漬物も添えられていた。

「……」

お弁当のプラスチック容器に手を添えて、指先に温もりを感じる。私はそっとお弁当の透明な容器の蓋を取った。ご主人が腕を振るう、夏は暑くて冬は寒い狭い厨房の油の香りが、ミカサミートの匂いがふわりと部屋の中に香った。私はそっと、指の先で白身魚のフライを摘まんで小さく一口齧った。

「……」

もぐもぐとゆっくり咀嚼してごくんと飲み込んだ。久しぶりの食事に、脳が追い付いて来ない感じがする。もう一口、今度はスパゲッティサラダを指先で一本摘まんで口に運んだ。ミカサミートの強力な火力の出る、あの厨房のコンロで炒められたケチャップの甘みと酸味が脳を刺激する。

どうしたってお腹は減るものですね。

いつだったかそう言ったミドリ君の言葉が脳裏をかすめた。それから自らを醜いと言った穏やかで強い彼の瞳を、泣きそうに笑ったミドリ君の優しい笑顔を、私はそっと思い出した。

「……」

袋から割りばしを取り出して、今度は白米を口に運ぶ。あまりに大きな一口だったので、危うく窒息しそうになる。久しぶりに顎を動かしながら、私はまだ温かい白米を咀嚼した。大きな大きな炊飯器で、毎日何度も焚かれる真っ白なお米。巨大な炊飯器からもわもわと吹き出る湯気に、以前一度火傷しそうになった事があった。噛めば噛む程に増していくお米の甘みが体に染み込んで行く。やっぱり一度に沢山頬張り過ぎたせいだろう。息が出来なくなって胸が苦しくて涙が溢れた。胸がいっぱいで、咀嚼する顎を止めてしまいそうになって、けれども私は無理矢理に顎を動かし続けた。お米の甘みに涙の塩気が混ざる。割り箸を持つ手が細かく震えている。嗚咽を噛み殺すと、舌の付け根の辺りがツンと痛くなった。女将さんの言いつけ通り、私は白身魚のフライ弁当を、泣きながら、残さず全てきれいに平らげた。


 「いらっしゃいませ」

そう言って私はレジの横で微笑んだ。メガネの奥の静かな瞳。ミドリ君はやって来るなり真顔で私をじっと見つめた。

「死んでしまったかと、」

微笑む私に、ミドリ君は少しも笑わず、大真面目な顔で言った。

「白身魚のフライ弁当を一つで良いですか?」

私が問うと、ミドリ君は続けようとした言葉を飲み込むように、黙って頷いた。

「いい、天気ですね」

私が手際よくお弁当を包んでいると、少し硬い口調でミドリ君が言った。

「そうですね」

私は言った。今日の空は快晴。ミカサミートの破けた庇の向こうを見上げると、もくもくと白くて大きな入道雲と、眩しい夏の青空が頭上に広がっているのが見えた。いつの間にかジメジメと雨の降り続いた梅雨の季節は終わりを告げていた。

「五百円です」

私が言うと、今日もミドリ君はお釣りは無しで、きっちり百円玉を五枚出した。

「いつもちょうど、ありがとうございます」

そう言って私はミドリ君にお弁当の入った袋を差し出した。ミドリ君は小さく頭を下げながら私から袋を受け取った。

「新種の植物を発見した場合、その植物の名前は発見者が自由に付けて良い事になっているんです」

お弁当を受け取って、ミドリ君は言った。

「僕はきっと新種の植物を発見します。その時僕は、その植物にあなたの名前を付けます」

ミドリ君は真正面から私を見つめながら、頭上の良く晴れた青い空に宣言するように言った。

「だから僕は、あなたの名前を聞いておかないといけません」

真剣な瞳でミドリ君はそう言って口を閉ざした。私は小さく笑った。だって、ミドリ君の真剣な瞳がとても可愛らしかったから。ミドリ君を見つめたまま、私はそっと息を吸い込んだ。

「私の名前は、」

吸い込んだ息を吐き出して、私は少し大きな声で自分の名前をミドリ君に告げた。私のまっすぐ見つめる先で、よく晴れた空から太陽の日差しが、眩しくミドリ君を照らしていた。

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雨、時々、ミドリ君 いちご @ichigoligoli

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