名もなき剣術使いの弟子

和泉茉樹

名もなき剣術使いの弟子

      ◆


 勝てない。

 そう思った。

 しかし勝たなければならない。

 目の前の白刃の、その冴え冴えとした光を見据えながら、何かできないかと知恵を絞る。

 その間、相手がただ待っていてくれるわけもない。

 スルスルっと間合いを詰められ、僕は横へ逃れようとする。するが、読まれていたように間合いがなくなっていく。

 光が爆ぜるように認識される。

 次には刃が僕の首元を掠めている。

 何かが皮膚を引っ張る。

 深手ではない。

 下がるだけだった足がもつれた偶然が僕を救っていた。

 相手の刀が翻る前に、こちらから刀を繰り出し、地面を蹴って無理やりに間合いを取り直す。

 呼吸をおく気になったのだろう、相手は動きを止め、一度、構えを安定させた。

 もし僕に余裕があれば、ここで即座に反転して逆襲に移るのに、今は余裕などない。

 僕も刀を構え直す。

 胸元が濡れていく感覚はあるのに、痛みはない。体の機能にも問題はなさそうだ。

 呼吸を整えながら、柄を握り直し、意識は想像の世界の中に沈んでいく。

 目で見ているものは意識されず。

 しかし決して見ていないのではなく。

 思考だけが現実を離れ、時間を超越し、勝機を感じ取ろうとする。

 ただ刃を交えていれば、こちらが負ける。

 どこかで危険を甘受し。

 命を危険にさらし。

 その上で勝つしかない。

 ゆっくりと相手の刀が動き始め。

 僕はその視線を捉え。

 そこに無を見出す。

 完全なる無。

 まるで夢を見ているような、虚ろな眼差し。

 刀が動き出す。

 残された時間はない。


       ◆


 僕がその依頼を受けたのは、旅の途上で立ち寄った宿場でだった。

「もし、よろしいですか」

 相手は初めて会った相手なのは当然のことで、僕はこの宿場に来たのがそもそも初めてなのだ。知り合いもいない。旅の途中で偶然に立ち寄ったにすぎない。

 声をかけてきたのは男性で、年齢は六十代だろうか、かなり高齢だ。着ている着物は上等なもので、裕福そうだ。

 場所はよくある屋台で、僕は蕎麦をたぐっているところだった。

「何か?」

 男性は僕の横へ来ると、すぐに屋台の主人へ「私にも一杯おくれ」と声をかけてから、こちらに向き直った。

「お侍様に、お頼みしたいことがあるのですが」

「頼み。何故、僕に?」

 どんぶり片手に僕が問い返すのに、老人はニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべている。

「はい。一人、切ってもらいたいものがいるのです」

 ぎょっとしたのはその言葉の内容ではなく、すぐそばに屋台の店主がいるからだ。聞かれたらまずいのではないか。店主の方を伺うと、蕎麦を用意しているところで、こちらを見ていない。聞こえなかったのか。

「すまないが、揉め事に首を突っ込みたくはない」

「報酬はお約束します。一人を切れば、それでもうそれ以上お揉め事などはありません」

「信じるのは難しいな」

「相手は、侍でございます」

 勝手に話を進め始める男にうんざりして、僕はその場を離れるべくどんぶりに残っていた蕎麦を急いで口へ運んだ。

 聞いていないのにも構わず、男が話を続けてしまう。

「すでにその男に五人なりが切られています。かなりの使い手です。その侍を切れば、あなた様にも間違いなく箔がつきます」

 空のどんぶりを店主に返して、僕は横にいる男性を見た。

「箔など、いらん」

 屋台の店主がどんぶりが名乗りもしない男に蕎麦の入ったどんぶりを渡し、僕からのお代を待っている。僕はすぐに銭を渡してその場を離れようとした。

 僕が銭を数えている間に、男性がどんぶりを手にしたまま、低い声で言った。

「なんでも、剣豪と呼ばれたアイリの弟子とか」

 僕は屋台の店主に銭を手渡し。

 その場を離れずに、まだどんぶりの蕎麦に手をつけようとしない男を見た。

「剣豪アイリとは、あの剣豪アイリか?」

 はい、と男は確かに頷いた。

 そうか、と僕は答え、改めて相手を見た。見たところでどんな事情があるかなど量れるわけもないが、何かを見出さなければ、話に乗る決心はつかない。

 男はゆっくりと蕎麦を食べ始める。

 僕はその横顔を見たが、結局、本当のところはわからなかった。


       ◆


 剣豪アイリは二十年前、剣を使う者の間で噂になった剣術使いである。

 どこで生まれたかは誰も知らず、今、どこにいるかも誰も知らない。

 剣豪アイリの存在は、様々な逸話によって成り立ってる。それも各地に残された逸話であり、言ってみれば伝説上の存在に近くなっている。実際に会ったというものはいても、アイリという男についての詳細は誰も知らないので、一部では作り話、架空の存在とも言われる。

 この剣術使いは数年の間に一〇〇人近い人間を切ったと言われ、それも腕に覚えのあるもの、一流の使い手を相手にしても不敗だったとする説が強い。その説の中でも、アイリは傷一つ負わなかったという極端な説を主張するものもいたが、しかし剣術を学ぶものからするとそれはありえないと笑い話にもなっている。手傷を負わずに一〇〇人を切るなど、現実では不可能だと剣術使いは知っている。

 噂はともかく、アイリという剣術使いがいたのは事実らしく、一〇〇人を本当に切ったかはともかく、それなりの数の人間を切り捨てたのは事実のようだ。

 どこからそんな使い手が生まれたのか、どんな稽古を積んだのか、どうして広い地域に足跡を残したのか、ほとんどすべてが闇の中であり、それには弟子の存在も含まれる。

 アイリの弟子を自称する使い手は少なくない。それはまさしく箔のようなもので、実力がまったく足りない使い手が大半を占める。前提としてアイリが極端な使い手と言われているせいで、その弟子を名乗るのはつまりハッタリだ。現実にはそういうハッタリを使うようなものが、アイリの噂に匹敵するような技を使えることなど十中八九、ありえない。アイリの弟子とは、まさに箔、少しのことで剥がれ落ちるような薄っぺらいものに過ぎない。

 ただ、剣術を使うものは、アイリの名前が持つ力を無視できないし、その弟子という触れ込みもまた、ある種の力を持つのだった。

 剣豪アイリの弟子が本当に存在するのか、それとも本当は弟子などいないのか、それもまた判然とはしないのだが。

 剣豪アイリ伝説は、いつの間にか広く流布し、独り歩きを始めているようだった。


      ◆


 名前は?

 僕が蕎麦を食べている男へ確認すると、彼は口の中のものを飲み込んでから、こちらをまっすぐに見た。

「名前を知ったところで、勝てますか?」

 無礼な物言いといえばそうだが、僕は思わず笑っていた。

「確かに。では、その剣術使いの特徴でも教えてもらえるかな」

「これからすぐそこを通りますので、お教えします」

 いきなりの話だったので、さすがに面食らった。

「これからいきなり、切れと?」

「できませんか?」

 僕は思わずは周囲を確認した。

 街道なので人通りは多い。商人もいれば町民もおり、もちろん侍もいる。

 この公衆のど真ん中でいきなり斬り合いになるとは、大騒ぎになるだろう。揉め事にならないわけがない。宿場の役人を全部、抱き込んでいれば別だがそんなわけもないはずだ。

 僕はじっと街道を行く人を見た。そちらを見ながら、言葉は男に向ける。

「本当に相手はアイリの弟子か?」

「そう名乗っています」

「この宿場に滞在しているのか? あなたとの関係は?」

 男は蕎麦をすすり、口を動かしてからもったいつけたように答える。

「私は仕事を引き継いだだけです。相手はフラフラと旅をしています。それこそ剣豪アイリのように」

 引き継いだ。

 男はどうやら、何かしらの組織に属しているらしい。仲間が他に大勢いて、僕に切れという男を追っているのかもしれない。それなら、何人も切っているという話も納得できる。男の仲間か、雇った侍が返り討ちにあっているのだとすれば、筋は通る。

 僕は男をじっと見据えたが、言葉はない。

「報酬は?」

 こちらからそう促すと、今度はすぐに返事があった。

「一〇〇両」

 ふむ、と僕は頷いた。一〇〇両あれば、しばらくは何もせずに旅を続けられる。

 しかし、裏を返せば一〇〇両を手放してでも一人の男を切るとは、尋常ではない。その剣術使いは何をしたのだろうか。

 男が蕎麦を食べ終わり、店主に銭を渡し始める。

 僕はそれを横目に、立っていた。

「引き受けていただけますか?」

 男がすぐ横へ来る。

「よかろう」

 僕がそう答えるのに、男はちょっとだけ笑顔になった。そしてすぐに街道の向こうに視線を向け始めた。

 蕎麦の屋台の店主が嫌そうな顔でこちらを見てくるが、僕も隣の男も動かなかった。

 どれくらいが過ぎたか、ささやく声がすぐ横でした。

「あの男です。黒い袴の、塗り笠をかぶった」

 視線を走らせると、右手から確かにその風体の男が歩いてくる。一人のようだ。腰には刀がある。

 僕は隣に男を見たが、視線を合わせずにそっぽを向いている。

 いきなり刀を抜け、ということか。いきなり襲いかかって切ってしまえと。

 僕は少し、勝手をすることにした。

 歩いてくる男はもうすぐそこだ。

 僕はすっと進み出て、立ち塞がるようにした。

 当然、相手は足を止める。そして塗笠の向こうから、こちらを見た。

 目元は見えない。それでも笠の影から視線をかすかに感じた。

「お訊ねしたい」

 僕の言葉に、しかし相手は答えない。僕は言葉を続けた。

「アイリの弟子というのは、本当か?」

 返事は、すぐにはなかった。

 往来の真ん中で向かい合う二人に何かを感じ、街道を行く人々は胡乱げにこちらを見ながら、距離をとって流れていく。

 僕が答えを待つと、相手はかすかな声で返事をした。

「いかにも」

 僕はそっと右手を刀の柄に置き、左手は鞘に添えられて親指がぐっと鍔を押して鯉口を切る。

 一瞬だった。

 相手の右手が気づいた時には刀の柄を握り、その体はこちらへ突っ込んでくる。

 居合か。

 刀を抜き合わせていく。

 火花が散り、強烈な衝撃に刀をもぎ取られそうになる。

 紛れもない強者だと、僕は確信した。

 二人が一度、間合いを取り、地を蹴って間合いを詰め直す。

 複雑な音が重なり合い、二人が弾かれたように大きく距離をとった。

 男の塗笠の一部が裂けている。

 一方、僕は着物の左脇を切られていた。傷を負ったかもしれないが痛みはない。詳細に確かめている余裕はない。

 相手は一度、刀を下げると塗笠を外して捨てた。

 ここで切りかかることもできたが、僕は足が動かなかった。

 切られる。下手に踏み込めば、こちらが負ける。

 刀を取り直した相手が、すっと間合いを詰める。呼吸を読むこともないので、逆に意表をつかれた。

 一瞬の停滞の後、こちらも踏み込むが、明らかに出遅れている。

 刀が交錯し、僕は無理やりに体を捻って、踏み込みをずらして相手の刃を避けた。

 相手はといえば、僕の刀の筋を完全に読んだのか、わずかの姿勢の変化もなく僕の刀に空を切らせていた。

 パッと僕は下がり、構えを取り直そうとする。

 相手はすぐには攻めを続けない。

 しかし僕には余裕がなく、相手には十分にある。

 勝てない。

 勝てる相手ではない。


       ◆


 僕に剣術を教えた老人は、筋を思い描け、ということをしきりに言った。

 攻めるのも、守るのも、筋を読めれば如何様にもできる、と。

 その老人は稽古の最中の事故で寝たきりになり、あっけなく死んだ。門人はあっという間に離散し、誰も残らなかった。

 僕は旅を始め、どこでも道場へ飛び込み、そこで剣の腕を磨いた。

 人を切ったのは、旅に出て一年目で、相手はやせ細った男だった。

 剣術使いではない。どういう素性か知ってるわけではないが、何日も食うものもなく過ごし、仕方なく通りかかった僕を襲ったのだと想像はついた。

 その男が持っていたのは刀でも短刀でもなく、包丁だった。それもボロボロの包丁だ。

 包丁を突きつけ、銭を置いていけ、と男は言った。

 あるいはそこで僕がいくばくかの銭を渡せば、それで済んだかもしれない。

 僕は、男を説き伏せようとした。

 そして男は、僕が話している途中で、奇声をあげて突っ込んできた。

 とっさに剣を抜き、すれ違いざまに切り捨てていた。

 男は重い音を立てて地面にうつぶせに倒れ、もう動かなかった。

 自分の行為に唖然として、手に残る感触と、刃にこびりついている鈍い深紅で、僕は自分が何をしたか遅れて理解した。

 それから数日は気が塞ぎ、夜になると悪夢を見た。男が飛びかかってくる夢で、ある時には僕は相手をやはり切り、ある時には逆に男の持つ包丁で腹を抉られている。目をさますと体は汗にまみれていて不快だったが、それよりも背筋を走る寒気の方が不快だった。

 旅の途中で、さらに何人かを切ることになったが、そのうちに抵抗はなくなった。

 襲ってくる輩を切り捨てるのはもちろん、悪党を討伐するものに加勢したこともあった。

 人を切ることで、僕は何かを失い、同時に得難いものを得てきた。

 それは、自分が死んではいない、という事実だ。

 倒錯していると自分でも思う。

 他人の死で、相対的に自分の生を確認しているのだ。

 なんて救いのない生き方。

 後に悲劇しか残さない旅路。

 僕は何かから逃げ、何かを求め、ここまで来た。

 しかしそれももう、終わりを迎えるかもしれない。

 敵わない相手を前にして。

 絶体絶命の危機を前にして。

 僕は逃げる必要はなくなり。

 求めるものが目の前に現れ。


      ◆


 意識は深淵のその奥へと沈み込んで行き。

 目の前の男が動き出す。

 刀が緩慢に走り始める。

 ありもしない何秒もかけてわずかに引きつけられ。

 男の足がやはりありもしない何秒もかけて地面を滑るように移動し。

 僕の刀が、それに合わせてゆっくりゆっくりと動く。

 意識はまだ、現実へ復帰していない。

 相手の刀が繰り出されるのをはっきりと視認しながら。

 僕の意識は焦りも恐怖も、わずかも残さず切り捨てて。

 あらかじめ決められた動きを実行させるように体を動かす。

 時間の流れが果てしなく引き伸ばされ。

 それが破綻し、本来の時間を取り戻す。

 刀を刀で受け。

 流し。

 翻し。

 再び時間が遅延を始める。

 思考の速度がどこまでも加速していく。

 まるで無限にどこまでも落ち続けるように、速度を増していく。

 先を読み、思い描き。

 もう一つの世界が生じ。

 それは無限に枝分かれしていく。

 自分が切られる可能性がそこに出現し。

 自分が相手を切る可能性が出現し。

 すべての可能性がそのどちらかの結末へと収束していく。

 刃と刃が再びぶつかり、時間は加減速を繰り返す。

 火花の炸裂さえも始まりから終わりまで見て取れる。

 刀から散る微小な鋼が、尾を引いて明後日の方向へ消えていく。

 三合の後、相手が間合いを取ろうとした。

 僕の何かを嫌がったのだ。

 はるか遠くで、僕の何かが震えた。

 勝てる、という彼方からの囁き。

 足が動く。

 刀が軽くなる錯覚。

 体は実体を失い。

 影となって、相手に肉薄し。

 一切の無駄のない筋で僕の刀の切っ先が光の弧を描き。

 何かが告げる。

 間違っている。

 詐術。

 刹那で僕の体は実体を取り戻し、重さが蘇る。

 刀に空気がまとわりつく。

 踏み込みは、わずかに浅く。

 相手の男の瞳の奥が強く輝く。

 僕の刀が空を切るのが、振り始める最初の動作で確信できる。

 読まれている。

 見抜かれている。

 僕の攻めは、届かない。

 刀の動きはすでに止められない。逸そうにも、限界がある。

 足は強く地面を踏んでいて、次の動きまでにわずかな間を必要とする。

 間合いは相手の間合い。

 相手の刀は、すでに頭上。

 今まさに、僕の頭を断ち割らんと落ちようとしている。

 どんな選択肢があるのか。

 何を選べるのか。

 斬撃を避けることも、受けることもできない。

 この身に刃を受けることは、必定。

 必敗を回避する方法は。

 できることは。

 無理をすること。

 踏み込んでいる足の力を不自然に抜き、足首を強引にひねっていく。

 足も腰も、背中さえも、無理やりに捻る。

 姿勢が極端に崩れるところへ。

 刀が落ちてくる。

 生と死の境界線が。

 今、ここにある。

 僕は横へ跳ねた。

 正確には、斜め下へ。

 まるで崩れるように。

 目の前の男がわずかに目を見張る。

 それを置き去りに。

 僕は刀を不自然に地面に突き出して。

 肩から地面に落ちて、転がり、なんとか立とうとした。

 しかし右足に力がうまく入らない。足首が、膝が、腰が激しく痛む。そして肩に不自然な痛みがあり、うまく上がらない。

 これで終わりか。

 僕は膝をつきたいのをぐっとこらえて、刀を構え直して相手の男を見た。

 男は、表情を変えないままこちらに向き直り、しかし動こうとしない。

 その口が薄く開いた。

「今のは、狙ってのことではあるまい」

 はっきりと聞こえた。

 僕は笑いそうになったが、足の痛みが酷く、喉からは引きつった音が出ただけだった。

 答えろ、と低い声が返答を求めてくる。

 僕は細く息を吐き、別のことを言った。

「刀を引かないか」

 相手は、確かに頷くと、何の躊躇いもなくすっと刀を鞘に戻した。まったく淀みない動きだった。

 僕はそこまで鮮やかには行かず、自由にはいかない片腕に苦労しつつ、それでもみっともなくはない程度に刀を納めた。

「さっきの答えだが」

 僕はまだ極端な緊張と激しい集中の余韻に囚われながら答えた。

「狙っていない。狙ってやれることではない」

 そう答えている途中で、やっと自分たちを大勢の人々が取り囲んで様子を見ているのに気づいた。きっと、刀を抜いた時からいたのだろう。二人ともが刀を納めたからか、離れていくものも大勢見て取れた。

 少しずつ意識が現実に馴染み、体の強張りも抜けていく。逆に痛みは酷くなっていく。

 しかし、死んではいないのだ。よしとしないと。

 僕の返答を聞いた男は、すぐには口を開かなかった。

「苦し紛れで、やったのか」

「そうだ。もう他に、選べる攻めがなかった」

 僕は視線を相手の足元に落とした。

 足袋、そのつま先が、赤く染まり、地面も色が変わっている。

 男の表情は変化しない。

 僕は自分が見たものが意味するところを理解し、こっそりと息を吐いた。

 どうやらこの場での決着はありえない。

 僕はもうまともに動けず。

 男も、足元の怪我で、万全ではない。

 最後の交錯の瞬間、僕は攻めを完全に放棄して逃げを打った。

 男は僕が最後までしぶとく生き残ろうとするのを、想像していなかったかもしれない。

 それはつまり、勝ちを確信したということか。

 それが男の致命的な隙になったか。

 攻めがわずかに鈍ったのが僕を救い、自らの体を壊しながらの回避の最中に、必敗の局面を勝ちでも負けでもない状態にする間隙が生じていた。

 僕の刀は、男の頭でも腕でも体でもなく、予想を無視して、男の足下へ伸びた。

 切っ先が男の足のつま先を抉っていた。それはあるいは、指を切断したかもしれない。

 たったそれだけの攻めの成功が、絶対的な敗北から僕を脱出させた。

 ふっと、目の前の男が息を吐く。

 それでどうやら、ここで無理に僕をどうこうする気は完全にないとわかった。

 僕も姿勢をわずかに整え、足に楽な構えにした。

 まだ、聞くべきことがある。それは確認しなくては。

「あなたは、本当にアイリの弟子か?」


       ◆


 今度は男は、はっきりと息を吐いた。

「違う」

「先ほどはアイリの弟子だと言ったはずだ。あれは嘘か?」

「それでお前が引けば、と思った。失敗だった」

「お前の命を狙っているのは誰だ?」

「お前が知るべきことではない」

 僕はすぐに視線を巡らせたい衝動を抑えて、僕に話を持ちかけてきた男を探した。いない。蕎麦屋の屋台はあるが、その近くにはいない。どこかでこの様子を見ているのか。それともどこかへもう逃げ去ったのか。

 僕は目の前の男に視線を向け直す。

「かなりの使い手、いや、僕など及びもつかない使い手とお見受けするが、アイリとは関係ないと?」

「この様では、とても使い手とは言えない」

 初めて、男が自嘲気味な声を漏らした。途端に男が人間であることが真に迫ってきた。ここまでは何か、刀を振るう装置のように思っていたのだ。

 彼も普通の人間で、今も足の痛みに耐えているに違いない。

 僕が全身の痛みに耐えているように。

「どうして、命を狙われている? 何をしたのだ?」

 僕の問いかけには、小さく首が左右に振られた。

「何もしていないのに、命を狙われることなどあるか?」

 こちらからも問うが、と言葉があった。男が顔を上げ、その視線が僕を見据えた。

「お前は、自分が命を狙われることがないと断言できるか? 何もしていないと?」

 ギクリとして、僕は言葉を口にできなかった。

 僕が今までに切ってきた大勢の縁者は、きっと数え切れないだろう。そんな彼らからすれば僕は仇であり、殺したい相手であってもおかしくない。例えば、一〇〇両を支払ってでも。

「お前も俺と同じ道を辿っているのだよ」

 男の声が、静かに僕に届く。すでに周囲を囲んでいた人々は動きを再開し、その人いきれに男の声はほとんどかき消されるほど小さい。

「アイリの弟子など、いるはずがない。アイリの弟子というものは、野心を持ったものをひきつける蜜のようなもの。お前もそうだろう。違うか? 俺がアイリの弟子と聞いて、切ることができれば、と思っただろう」

 返す言葉がない。

 一〇〇両の報酬よりも。

 アイリの弟子と刃を交えてみたい。

 あわよくば切りたい。

 僕は心のどこかでそう思ったのではないか。

 意識的にしても、あるいは無意識だとしても。

 僕が黙り込んだ前で、男が動き出す。もう刀を抜く様子もなく、ゆっくりとこちらへ歩を進めてくる。僕はかすかな緊張の中でそれを見ていた。

 すぐ横に来た時、いっそう低い声で、しかし確かに男は言った。

「俺はきっと死ぬ。次はお前だ。お前が次の、アイリの弟子だ」

 男を見たが、視線は合わない。

 例の深くどこか虚ろな漆黒の瞳は前だけを見ていた。

 そこに何が映っているのか。

 男が横を抜け、背後へ抜けていく。

 僕はゆっくりと振り返り、その背中を見送った。

 彼が歩いた後には、点々と血の跡が残っている。

 視線を転じると、地面には塗笠が捨てられたままになっている。

 男がいた痕跡は血痕と塗笠、そして僕の体に残った傷だけだった。

 溜息を吐くと、関節や筋が激しく疼き、首元と脇腹の切り傷が痛みを強く主張し始めた。

 正体不明の男の誘いに乗ったばかりに、面倒なことになった。

 僕はぐるりと周囲を見回して今回の件の依頼主を改めて探して、見当たらないのを確認してからその場を離れた。


       ◆


 旅に戻って少しして、ある噂を聞いた。

 アイリの弟子が切られた、というものだ。

 その話は僕がたまたま入った酒場で聞いた。話していたのは侍ではなく、商人のようで、詳細は不明だった。

 さらに先へ進むうちに、別の噂も流れてきた。

 アイリの弟子を名乗っていた剣術使いがいたが、どうやら偽物だった。

 そのアイリの弟子を名乗っていた剣術使いを切ったものは、五〇両を受け取ったらしい。

 しかしその五〇両を受け取った剣士も、すでに何者かに切られたという。

 そして五〇両はどこかへ消えてしまった。

 僕の旅はどこまでも続いたけど、噂というものは様々にある。細部は違ってもおおよそが同じだろうというものもあるし、元は同じでも結論がまったく違ってしまっているようなものもある。

 共通するのは誰に関する噂かというだけで、噂は時間が経ち、距離が出来るうちに激しく変質し、最後にはまるで違う話になってしまうようだ。

 ある時などは、たまたま知り合った剣術使いが僕に向かって「アイリの弟子と会ったことはありますか」と問いかけてきたことがあった。

「それを聞いてどうする?」

 問い返す僕に、彼は微笑みながら言った。

「アイリの剣術というものを知りたいじゃないですか。知りたいというか、見てみたいというか。アイリってもう高齢なんでしょう? もう本人が十全の技を使えないなら、弟子の方が剣の道の先を行っていてもおかしくない。そう思いませんか?」

 僕はどう答えただろう。無視したかもしれないし、適当にその場だけの同意でもして見せたかもしれない。

 アイリの剣術に、僕はもう興味はない。

 他人の剣術は他人の剣術だ。

 いつからか、僕は僕の剣術を探し求めていた。

 旅はまだ続く。

 時間が流れ、僕は大勢の沈黙を後に残して、先へ進む。

 ある時、僕の前に立った男が言う。

 右手を腰の刀の柄に置きながら。

「あなたがアイリの弟子という剣術使いですね」

 僕は目の前にいる男をじっと見る。

 知らない相手だが。

 いつかの僕自身のようにも見えた。

 過去の自分が、今の自分の前に立ち塞がるのか。

 僕は何も言わず、男が刀を抜くのを見ていた。

 僕の体が軽くなり、呼吸は楽になり、何かが解き放たれる。

 右手は自然と刀の柄へ。

 左手が鞘を取り。

 膝が力を溜め。

 腰はわずかに低くなり。

 足は地をするように走り。

 体は羽根が風に舞うが如く。

 間合いを詰め。

 自分が目を見開いているのを間近に見て。

 構わずに僕は刀を抜き打った。

 僕は何かを得て。

 僕は何かを、確かに失った。



(了)

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