目玉に泳ぐ
鳥辺野九
目玉に泳ぐ
船外活動用宇宙服の機能はここ十数年変わっていない。高性能が極まって今以上に進化する余地がないからだ。それでも、人と違った物を身につけたい、というささやかな欲求が宇宙服を別の角度で発展させた。デザインだ。
特にヘルメット周りは個人を識別するために注目される箇所であり、より鮮烈なカラーリングに、より斬新なデザインに、と奇抜な進化を遂げていた。
宇宙服の修理屋であり、ヘルメット周りの調整を得意とする僕はおかげで食えている。誰もが汚れ切った地球を飛び出す宇宙移民時代に仕事があるのはありがたいことだ。
今日も客が要望するデザインをヘルメットに施す繊細な手仕事が始まる。アートはロボットやAIでも未だ到達できない職人の領域だ。
一般的な宇宙服ヘルメットのシールドは真空二重構造ポリカーボネート製であり、直接塗料を乗せることはできない。外側に塗れば宇宙線に晒されてあっという間に劣化してしまう。内側に塗れば人間の呼気で剥がれやすくなるし、塗料の匂いも気になる。
僕が開発したシールド塗装方法は、二重ポリカーボネートの真空層に塗料を固着させる塗り方だ。
柔軟性のあるナノチューブをシールド縁から真空層へと注射器で挿し入れて、真空状態を維持したまま塗料の表面張力を利用してポリカーボネート面に固定させる。無重力だから液垂れもなく、攪拌した塗料が分離することもない。
厚さ1ミリメートルの真空層へ、シールド視野の邪魔にならない範囲に塗料を一滴ずつ並べるとても緻密な作業になる。それだけ仕上がりは上々だ。評判もいい。
とにかく時間と根気が必要とされる仕事だ。シールドの真空層を維持するために塗り直しも効かない。一発勝負のアート作品には集中力が要求される。だから、作業中に声をかけられると、思わずじろり睨んでしまう。
「その模様って、風をイメージしてる?」
言葉を乗せた風が吹いた。
「緑がかった透明の、でも白さも残るグラデーション。こっちへ進めって色が教えてくれる」
彼女は膝を抱えて浮かんでいた。
いつからそこにいたのか。工房の入り口ドアのこちら側、ひと束に結んだ艶のある黒髪を首に絡めて、身体にぴったりと張り付く黒のカットソーを薄いチュニックにふわりと通す。その黒い袖で、同じく黒いタイツに包まれた細い脚を胸に抱いていた。
「まるで道標みたいに」
甲高いかすれ声で、でも耳に心地よく、ほのかに苦味のある音。さらさらと流れる。
「その透き通った緑、なんて色?」
気圧、温度、湿度まで完璧にコントロールされた宇宙港商業区に風が吹くはずがない。気のせいか。僕は作業の手を休めて彼女の声に聴き入った。
「仕事のお邪魔、だったかな」
彼女は惚けた僕へ斜めに傾きながら言った。かすれた声の風はもう止んだ。
「いや、大丈夫。仕事の依頼?」
「うん。塗ってほしい色がある」
変わった言い方をする女だ。何を塗装するのかではなく、何色に塗装するか。僕は興味を惹かれて、ゴーグル型拡大ルーペをおでこまで引き上げて彼女に向き直った。
彼女は絡まった手脚を解くようにすらりと背筋を伸ばし、無重量室内を僕の作業台まで器用に歩み寄った。
「いつから見ていた?」
「だいぶ前から」
「それは失礼をしたね。気付かなかった。塗装はヘルメット? それともスーツとか」
「ううん、違うもの」
鈍色した大きな目で塗装中のヘルメットシールドに見入る。品定めするように細い首の角度を何度も変えて、うん、と頷く。
「この色は?」
「瑪瑙色だよ」
「瑪瑙色か。これも悪くない色ね」
「何色で何を塗りたいんだ?」
彼女の興味はもっぱら僕が調合した透明な瑪瑙色に捉われているようだ。あまりに無防備に顔を近付けてくる。
僕は間近に迫る彼女の存在感に、どこを見ていいのやら目線をさまよわせた。
ふと、彼女の細い首元に視線が留まった。首に巻かれた黒髪の下、チョーカーかと思ったが、違う。タトゥーだ。鎖をかたどった紫黒色の文字列が首をぐるりひと周り飾っている。
「何色で何を塗りたいって言った?」
彼女は僕へ同じ質問を返してきた。
「どうする?」
「どうしよっか」
くすくすと笑いを堪える子どもみたいに跳ねる声。
「おしゃべりをしたいの」
「あいにくと僕は仕事中で、そこまで暇じゃないんだ」
拡大ルーペを装着し直す。僕に会話を楽しむ余裕はない、という意思表示だ。
それでも彼女は笑い声に含まれる吐息を僕の耳に吹きかけるくらい身体を寄せる。作業台で塗装中のヘルメットと、ルーペで作業中の僕との間に割って入るようにして、透き通った色をじいっと見つめる。
「大事な塗装を頼みたいの。どんな職人さんか、確かめないと」
「手を動かしながらでいいなら、話し相手になってもいいよ」
彼女の繊細な横顔を視界に入れながら、指先の操作桿で注入カテーテルをくねらせる。瑪瑙色の塗料を一粒、二重シールドの真空へ置いた。
塗料は表面張力でシールド内壁にくっつく。そこへさらにカテーテルを挿し込んで透明な白を注入する。草原を吹き抜ける風のように透き通ったひと筋が入った瑪瑙色が固定された。
「風が吹いているみたい」
「そうだよ。この紋様は風をイメージしてる」
彼女はにっこり笑った。
「やっぱり。この風は前から吹いている?」
「前に進んだ時に吹く風だ。宇宙では風が吹かないから、この紋様は人気あるんだ」
ヘルメットをかぶれば視界は制限される。誰だって世界の隅々まで視たいものだ。だから顔を覆うシールドの縁の部分に模様を塗装する。視界のぎりぎり隅っこで何かがぼんやりと見えるように。それだけでヘルメットによる閉塞感が幾分か和らぐものだ。
「他にも植物の蔓みたいな紋様、葉っぱの葉脈模様とか、いろいろデザインできるよ」
「渦巻きは?」
「渦巻き?」
不意に彼女はカットソーの袖を捲り上げた。拡大ルーペから見える彼女のきめの細かい肌には際限のないタトゥーが彫られていた。
「途切れない一本線の」
色素の薄い滑らかな地肌に墨色した液体が細波を起こす。どこか古い文字列でしつらえた紋様は彼女の腕を這い上がり、紫がかった黒色は皮膚の下から透けて緻密に絡み合う。
「ぐるぐる廻る海と雲の」
彼女の腕を縛る文字列の紋様を指でなぞれば、僕の意志なんて無関係にするすると彼女の肌を滑るだろう。
この切れ目のないラインはどこまで続いているのか。
きっと彼女の輪郭を巡り巡って、僕を彼女の奥底まで引き摺り落とすだろう。もはや僕に拒否という選択肢はない。
「渦巻きが生まれる寸前のうねり模様を」
一本の糸をあざなえて紐を編み、その紐をよじらせて文字を組む。文字は彼女の素肌に纏わりつき、そしてようやく意味を成す。僕にはその旧い文字の意味は読み取れない。
「見たことない色をあたしに入れてほしい」
僕の役割は翻訳者だ。色を編んで文字を記す。色素の薄い彼女の肌にあえて色彩を刻み込む。
「僕の本業は宇宙服の修理屋だ。タトゥーを彫りたいんだったら本職の人に頼んでくれ」
「頼んだよ。できないって断られた」
だろうな。僕は拡大ルーペ越しに彼女の素肌に触れてみた。それはしっとりと柔らかく、温かみがあった。
「こんな繊細なタトゥーを彫れる人はこの宇宙港にはいないだろうね」
僕に触れられているのに気付いていないのか、それともわかっていて僕を誘っているのか。彼女はカットソーの裾を捲り上げてへこんだ腹部を晒した。羅針盤を模した形状の文字列が彫られている。
「だからこそあなたに仕事を依頼するの」
「専門外だ」
「関係ない。ヘルメットのシールドに塗料を注入するように、あたしに色を入れてくれればいい」
「僕はタトゥーアーティストではない。たくさんいる宇宙服技師の一人だ」
彼女は僕との問答を楽しんでいた。お互いどこで息継ぎをするかわかっているみたいに歌を継いでいく。
「優秀な技師、でしょ。専用の道具も染料もあたしが用意する。あなたはその優れた腕前を発揮すればいいだけ」
「タトゥーのインクなんて使ったこともない。ヘルメットのシールド塗装とは必要とされるスキルが違う」
「同じよ。あなたなら出来るし、あなたにしか出来ないし」
彼女は宙空に浮かんだまま踊るようにして身を捻り、細い脚を包んでいた薄黒いタイツを捲る。その足首にも幾何学的な蛇のように文字列の紋様が絡み付いていた。
色素の薄い彼女の肌が僕に寄る。ルーペで拡大された紫黒の紋様は、それを表す数式が思い浮かぶほど規則正しい曲線を描いていた。
「それ以上、どこにタトゥーを彫るつもりだ?」
「あたしの目を見て」
彼女の目が僕を覗き込む。ルーペで拡大された目は虹彩模様までくっきりと澄んでいた。
こんな目で見つめられたら、ほら、思った通りだ。僕に拒否という選択肢はすでにない。彼女の全身に彫られたラインを指でなぞって、彼女の奥底に落ちるまでだ。
「目玉」
汚れきった地球のような鈍色の瞳が真っ直ぐに僕を見つめている。
「目玉にタトゥーを入れて」
やってみたい。僕はそう思った。全身にタトゥーを彫った彼女の空白域。誰も足跡を刻んでいない真っ白い雪原に走り出すように、彼女の真っ白い眼球に色を入れたい。
いくら精密作業が得意な塗装職人とは言え、何の情報もなしに目玉にタトゥーを彫るなんて無謀過ぎる。僕は眼球タトゥーについて調べるために四十八時間もらった。
彼女は快く受け入れてくれて、名も告げずに工房から去った。
僕は、目覚めの良い夢でも見ていたんだ。
誰もいなくなった工房で、二重シールドの真空層に塗料を置く作業を再開した。
彼女が指定した場所は宇宙港の居住モジュール最下層だった。
最下層には商業区の華やかな雰囲気とはまた違ったアンダーグラウンドな趣がある。これがまたいい。空気清浄循環機の微振動音が遠くに響き、無重量空間なのに空気が重たく感じられる。
似たような区画がひたすら続く通路にようやく目的の部屋を見つけた。
ネームプレートはかかっていない。空白だ。それでも呼び出しブザーを押す。
ドアの向こうからあの声が聞こえて、すぐに壁材パネルの通路に染みて消えた。もっとかすれ声の余韻を耳に感じていたかったが、僕は声に言われるままドアを開けた。
彼女は最低限の生活雑貨が置かれた無機質な部屋に一人、ぼんやりと光を放つように浮かんでいた。
壁一面のパネルスクリーンには鈍色の地球が回るリアルタイム映像が映されている。部屋の光源はスクリーンだけ。映像の地球が鈍く光っている。その濁った光を全身に浴びる彼女は衣服を身につけていなかった。
「閉めて」
「なんて格好してるんだよ」
慌ててドアを閉め、僕は彼女に背を向けた。
「さすがに扉から丸見えじゃ恥ずかしいよ」
「だったら何か着てくれ。僕の方が気恥ずかしくなる」
「そこはほら、大事な仕事を頼むんだもの。お互いの信頼関係って重要度高いよ」
「そっちが信頼してくれるのはありがたいけど、節度ってものがあると思うぞ」
背中越しに、ちらり、彼女の様子を伺う。彼女もまた僕に背を向けて、直立の姿勢ですらりと宙空に立ち尽くしていた。
幾何学模様のように文字列が柔肌を走り、タトゥーが何か見覚えのある図形を形取っている。思わず、華奢ではあるが滑らかに伸びる背中に見惚れる。コンパスだ。彼女の背中全面はコンパスを象徴している。
「どう? あたしのタトゥー」
彼女はかすれ声をさらに低めて、肩の向こうからこっちを覗いて言った。
「全身繋がったタトゥーなんて見たことがないよ」
「いいでしょ。あたしはね、身体で宇宙を表現してるの」
色素の薄い肌を紫黒色した文字が這う。無重量の部屋で、彼女はゆっくりと上半身を捻り、タトゥーを誇示するように振り向いた。
僕は読めもしない外国語の本を紐解くようにタトゥーの文字列を目で追った。細い足首に絡んだ文字列と宇宙を表す紋様はふくらはぎを駆け上り、太ももにぐるりまとわりつく。へこんだへそ周りも羅針盤を模した図形に読めない文字が配置され、小ぶりな胸をかすめて這い上がり、首を捉えてさらりと絡む。
タトゥーに関して何の知識もない僕でも、肌に刻まれた紋様が彼女の世界観を丁寧に綴っていると理解できた。白い肌に彫られた紋様は古代の文字。彼女は知識そのものだ。
「色味も深くていい。肌の白さが余計に映える」
「ありがと。この色は宇宙色なの。あとは目玉にタトゥーを彫ってくれれば出来上がりよ」
目玉にタトゥーを入れろ。と、古代文字にまみれた裸体は雄弁に語りかけてくる。
「色は? 君が用意しているんだろ?」
「かつての地球色」
かつての地球色。僕の、いや、人類全体の記憶を呼び起こす色。タトゥーに染まった彼女の向こう側、汚れきった地球のリアルタイム映像に目をやる。
環境汚染は雲を重たい暗灰色に染め抜いて、拭い切れない油膜のように空を覆い、宇宙に浮かぶ球体を鈍色に塗りたくった。
もう誰も見たことがない、かつての地球の色。
「あたしの目玉を地球色に染めてくれる?」
「何故、地球の色に?」
地球が浮かぶ海の深淵に艶のある黒色の髪を揺らす女が泳いでいるようで。
「だって、その色って冷たい色なんでしょ」
僕は苦味のある声に絡め取られた。彼女に溺れそうだ。
「あたしにぴったりな色だと思わない?」
鈍色の星を細腕に転がすように彼女はタトゥーの彫られた腕で宙空を掻いた。くるり身をくねらせて、開かれる両腕とうねる両脚と、全身のタトゥーを見せつけながら大きな魚が深みに潜るように僕に泳ぎ寄る。
背景にはスクリーンに映し出された薄汚れた地球。背中に彫られた幾何学模様のコンパスのタトゥーとよく似合う。
宇宙を泳ぐ魚は僕の顎先へつと白い指を当てた。
すでに苦い声に囚われている僕は泳げない。
「かつての地球をあたしに入れて」
タトゥーの女は言った。かすれた声は僕の中へ染み込んですぐに消えた。
動かない僕を横目に、声の余韻も残さずに彼女は壁のベッドにもたれかかる。
「その前に」
「なあに?」
無重量室内では住人の主観で壁が床になり、天井も壁になる。彼女は壁にベッドを設置していた。見れば、眼球タトゥーの専用器具もすでにベッドサイドに準備済みだ。
「何か着てくれ。集中力が目玉以外にも向いてしまう」
「正直者め」
彼女は、あははと笑った。寝入りの猫みたいに目を細めて、タトゥーが這いずる素肌を身体をくの字に曲げて僕の視線から隠した。
僕はベッドにあったバスタオルを彼女に押し付けるように手渡した。
「こっちはルーペグラスを着けてるんだ。拡大レンズでじっくり見てやる」
「それは照れちゃうね」
笑いながら、ひらりバスタオルを器用にはためかせて身体に巻き付ける。笑ったまま、彼女はようやくベッドに収まってくれた。
「始めようか」
「うん。始めよう」
眼球タトゥーの専用道具を手に取って確かめる。
瞬きしないよう瞼を固定する器具、のようなもの。本来は眼科医が使うものだろう、ソフトなゴーグルのような眼帯だ。瞼の上下にリングシェルをはめる。シェルは柔らかいシリコンでカバーされてるので瞼を押し開いてもさほど圧迫感は感じないはずだ。
次は頭が動かないようベッドのヘッドレストに固定する面ファスナーバンド。頭が少しでも揺れれば眼球に深刻なダメージを与えかねない。少々タイトに絞めておく。
「きつい?」
「思ってたより平気。何時間でもいける」
緊張なんて感じられない笑顔な彼女の目の前で、点眼麻酔薬を空間に数滴垂らす。無重量室内では薬液は球体となりふわり浮かぶ。
「まず麻酔だ」
「どこを見ればいい?」
瞼が開いて固定されたせいでやたら大きく見える目玉がキョロキョロと転がる。
「好きなとこ見てていいよ」
「じゃあ、ここ」
ぴたり、視線が僕の目玉を射抜く。
超至近距離で真っ直ぐ見据えられて、妙な居心地の悪さを食らわされた。思わず身体を反らす。
彼女の熱視線を躱して空間を漂わせていた液球をピンセットで掴む。表面張力で薬液はピンセットの先に絡まった。
彼女はまだ僕を睨むように見ていた。そんな真っ直ぐな目玉に薬液をぺたっとくっつけてやる。目薬はすぐに眼球全体に染み渡った。
「冷たっ」
でも反射的に目を閉じることすらできない。瞼は器具で固定されている。
「そういえば聞いていなかったけど」
ルーペグラスを装着して、彼女に向き直る。目玉はまだ僕を睨んだままだ。
「デザインは僕に任せてくれるんだよな」
「うん。そのタトゥーインクを使って、地球みたいな渦巻きの紋様をお願いしたい」
「地球みたいに、だな」
植物成分由来のインクを生理食塩水で緩める。硬いインク液が少し柔らかく伸びて、生理食塩水のおかげで透明感が出る。かすかに透き通ったインクをカテーテルへ注入。極細カテーテルの先端からインクが滲むの確認する。これからこのカテーテルを眼球に挿入するのだ。しっかり空気を抜いておかなければ。
「目玉はまだ冷たい?」
「もう気にならない」
麻酔が効いてるようだ。とろんと薬液に潤んだ目玉で僕を見つめる彼女は、宙を漂わせていた両腕を僕の肩と腰に纏わり付かせた。
「あたしに固定してあげる」
「ああ。僕を動かすなよ」
もう一滴、宙に浮いた麻酔目薬の薬液をピンセットで摘んだ。ルーペで拡大された彼女の左目玉へ液球を乗せるように染み渡らせる。
「いくぞ」
「いつでも」
左腕をおでこの上、彼女の熱を計るようにそっと置く。長い髪の毛がさわさわと心地いい。利き腕の肘はちょうど彼女の胸の上、バスタオルに押し付けるように乗せる。僕の右腕は小ぶりな二つの膨らみのわずかな谷間にぴったり収まった。
「触り心地はいかがかしら?」
軽い言葉とは裏腹に、彼女は僕を抱き寄せるようにタトゥーだらけの両腕に力を込めた。これから目玉に針を刺されるんだ。しかも瞼はこじ開けられ、超至近距離で針を見つめながら。緊張するなという方に無理がある。
「サスペンション効果は薄いかな」
「でしょうね」
僕もできる限り軽妙な言葉を選んでみた。彼女はやはり、あははと笑った。
眼球は強膜という乳白色の外殻に覆われている。いわゆる白目の部位だ。意外と固い膜のおかげで眼球は球体を保っていられる。
強膜は角膜と違って眼球内部に不必要な光を通さないよう保護膜の役割も担っている。その厚さは約1ミリメートル。1ミリメートルの膜に注射針を挿し入れて、注入カテーテルを通し、膜内にインクを置いて乳白色に透ける模様を描く。
針の角度が浅ければ強膜が破けてインクが外に漏れ出す。逆に進入角が深ければ強膜を網膜ごと貫通して硝子体にインクを置いてしまう。角膜と水晶体を通過した光がインクに乱反射してしまい、彼女の視界は色彩を失うだろう。
冷静に考えてみれば、目玉にタトゥーを彫るなんてそこらのタトゥーアーティストには不可能な精密作業だ。
じゃあ僕が適任か? そう問われれば素直に首を縦には振れない。僕はアーティストではない。職人だ。宇宙服ヘルメット周りの修理屋で食っている。シールド塗装は趣味と実益を兼ねたお仕事に過ぎない。
だがしかし、その二重真空シールドの真空層の厚みは1ミリメートルだ。なんだ。まさに適職じゃないか。
髪をかすかに揺らす程度に頷いて見せる。彼女は笑顔で応えてくれた。彼女の目玉は相変わらず僕を真っ直ぐ貫いている。
カテーテル注射器を眼球に近付ける。一瞬だけ目玉が揺れる。注射針を見て、また僕を見据える。
彼女の瞳孔を拡大して見ると、確かにそれが目玉の穴だとよくわかる。瞳の孔は真っ暗で、その暗闇の奥底に何者かが潜んでいるようで、深さが怖い。
ともすれば息をするのも忘れるくらいに目玉は深い。波に飲まれるとか、底に手が届くとか、海のようだと表現するのもはばかられる。目玉に溺れそうだ。
でも、その孔に飛び込んでみたいという欲望も湧いてくる。目玉の深い闇は僕を受け入れてくれるだろうか。タトゥーが刻まれた腕が虹彩を掴んで、その闇から彼女が顔を覗かせて僕を拒むか。いや、宇宙を泳ぐ魚のような彼女なら、タトゥーの鱗をきらめかせて、僕を丸ごと目玉に飲み込んでくれるだろう。
瞳孔の深さに彼女の裸体に刻まれたタトゥーを思い描きながら、僕は眼球に注射針を触れさせた。眼球の球面に対して相当浅い角度で針を球体表層に馴染ませる。
目玉は思っていたよりも弾力があり、すんなりと針を受け入れてはくれなかった。針が目玉の表面を滑るように弾かれ、入っていかない。厚さ1ミリメートルの強膜はなかなか手強い。固い膜に細過ぎる針が通らず、柔らかくへこんでゆるりと針をいなす。
「じらさないで」
「喋らない。目玉が振動する」
ようやく外径0.4ミリメートルの注射針が強膜に取っ掛かりを掴んだ。わずかな抵抗を感じさせて、ぷつり、針先が目玉の表面にかすかに沈む。乳白色の組織に注射針の先端が透けて見えた。指だけでなく腕全体を押し込み、注射針は僕の身体の一部と化して彼女の目玉に入っていった。
「痛む?」
「何か、感じる」
「そうか。ここからが本番だ」
注射器にインク注入カテーテルを通す。極小患部へ薬剤を直接注入するための髪の毛よりも細い医療用チューブだ。ナノマシン化されていて、手元のコントローラで先端の注入口を上下左右に操れる。
注射針からするするとさらに細い線が伸び、僕の指加減一つで白目の中を線虫のように這いずり回る。右へ首を振り、音もなく前へ進み、身をよじって左へ転進し、厚さ1ミリメートルの海を泳ぐ。そのまま眼窩に収まった眼球の縁までカテーテルを漂わせて、まずはインクの粒子一つ、そっと解き放つ。
彼女の目玉の海にぽつんと島が生まれた。生理食塩水で薄めたインクは無重量空間では彼女自身の体液と攪拌されない。やがて浸透圧の作用で生理食塩水は体内へ吸収され、インクだけが強膜内に留まる。重力の影響を受けずに彼女の白目を彩り続けるだろう。
眼球タトゥーの第一滴目を投じるのは、彼女という月面に初めて足跡を残した宇宙飛行士になった気分だ。
「目玉を押された感じがした」
「インクを一滴置いた。インクの厚みの分だけわずかに圧があるだろうな」
「変な感じ」
「まだ続くよ」
「目玉も感じるのね」
拡大ルーペの視野いっぱいに彼女の目玉がある。その一角、広大な白目の原野にぽつり植え付けられたタトゥーインク。そのインク一粒に対して目玉はあまりに広かった。果てしない作業になりそうだ。
注射器を目玉に挿したままカテーテルを操作して注入口を横にずらし、また一粒だけインクの粒子を並べる。ムラにならないよう、ダマにならないよう、息を止めて、カテーテルから微量のインクを指加減に意識を集中して押し出す。
ひと呼吸入れるため、顔を上げて部屋のスクリーンを見上げる。そこには鈍色に渦巻く地球が映し出されていた。相変わらず燻んだ色してる。
彼女の目玉に彫る紋様のモデルは地球だ。インクの粒子、一粒一粒を丁寧に並べて彼女の小さな目玉に大きな地球を描く。
彼女の全身に彫られたタトゥーは宇宙を現している。そして左の目玉は宇宙に浮かぶたった一つの地球。僕はかつての色で地球を再現する。この眼球タトゥーを彫り終われば、彼女は宇宙そのものになる。
かつての地球はとても澄んだ色を纏っていた。それは宇宙で唯一の色だった。
でも、人類はその星を汚してしまった。
宇宙からその色は消えた。
宇宙で暮らす人類は汚れた地球を見るたびに罪悪感を覚えてしまい、その色を使うのをやめた。
宇宙にその色は、もうない。
角膜を残して白目部分に地球色で紋様を彫る。白目の一部をそのまま活かして雲が渦を巻く様子を描く。彼女の目玉は白い雲と海が溢れそうな地球となった。
「鏡を見る?」
瞼固定ゴーグルを外す。ずっと瞼を固定していたせいで皺が寄って左目だけ大きく見える。その大きな左目に、彼女の地球が浮かんでいる。
僕は地球に真っ直ぐ見据えられた。
「見えてるよ」
「見えてる?」
「ルーペに映ってる」
彼女の両腕が僕の頭を絡めとる。おでこがくっつくほど抱き締められ、彼女の目玉の地球が極大まで迫ってくる。
「いい色」
「うん。いい色だ」
「あたしの言った通りでしょ」
透き通った地球の目玉を持った彼女は、やっぱり笑っていた。
ふと気付く。部屋が明るい。さっきまでの鈍色の地球の光とは違う。パネルスクリーンを見上げれば、地球はかつての色を取り戻していた。宇宙でたった一つの色でぽつんと浮かび、彼女の目玉と同じく澄んだ光で輝いていた。
僕と彼女の宇宙が完成した。
宇宙に再び青が色づいた。
目玉に泳ぐ 鳥辺野九 @toribeno9
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