植田競馬のトミーとマツ【平成転生~馬事累々/津々~補遺短編】

友野 ハチ

植田競馬のトミーとマツ【平成転生~馬事累々/津々~補遺短編】

「よう、お嬢ちゃん。いい腰してるじゃないか」


 伸ばされた手が、ジーンズ地のホットパンツに覆われた尻に届く前に、風切り音が二人の間に響いた。


 にやけた若者の鼻から、たらりと血が流れ出す。だが、痛みがなかったことで、口許に運ばれた手が紅く染まっても、張りついた笑みは更新されなかった。


 鼻への打撃と、ベルトをナイフで絶ち切ったことのどちらが先か、知覚できたものは周囲にはいなかった。いや、順序だけでなく、攻撃が行われたことすら、誰にも把握されていない。


 たらたらと流れる血が、ずり落ちたズボンを染めていく。


「なんじゃ、こりゃあぁ」


 そのセリフが、弱々しい調子で吐き出された。男が座り込む所作に、腰に右手を置いたその娘、富掛如月は一瞥すら送らなかった。


 長野の植田市にある地方競馬の植田競馬場には、秋のこの時期にはいつも以上に穏やかな……、人によっては澱んだとも捉えられそうな空気が漂っていた。


 彼女は相棒的な存在である、松近徹を探していた。平成七年の秋、携帯電話はぼちぼちと普及しつつあるが、彼女は所持していない。


 祝日の地方競馬場には、穏やかな空気が流れている。熱く勝負をする向きはあまり見受けられず、開催日にはルーチンとしてやってくる固定客がメインとなっている。彼女や、声をかけてきたにやけ男のような若者は、明らかな少数派だった。


 ともあれ、すぐに見つける必要もない。口笛を吹きながら、彼女は足をパドックの方へと向けた。スタンドの辺りを横切ると、キレのあるだしの香りが漂ってきていた。




 遠くから、馬券の発売締切を告げるチャイムが聞こえてきた。そうなれば、パドックと呼ばれる馬の下見所には、次のレースの出走馬が呼び込まれる流れとなる。


 小学五年生となった時雨里智樹は、秋の休日を場末の地方競馬場で過ごしていた。前世の記憶を持つこの少年は、今回の人生で中央競馬の施設を訪れたことはまだない。この夏には、グリーンチャンネルをじっくりと見ていたものの。


「やっぱり、テレビで見た中央競馬とはだいぶ雰囲気が違うね」


 そう言って伸びをした少女は、智樹が小学五年生の身空で夏休みに競馬専門チャンネルを凝視する原因となった人物である。


「紹介していたのは新スタンドが中心だったから、ってのもあるかな。古いとこはわりとボロいはず」


「でも、植田競馬では、建物の建て替えよりもコース拡充ってこと?」


「本来はそうなんだけど、この段階では集客が見込めないと未来がないと思われちゃいそうなんだよなあ」


 植田市役所に勤めていた父親が、この植田競馬の管理組合に出向になったことから、智樹はひなびた競馬場へのテコ入れ策を考えるようになっていた。


 長野県で唯一の地方競馬場である植田競馬場は、智樹が前世で体験した未来では、北関東三場の廃止とほぼ同時期に、ひっそりと退場していくはずだった。だが、そうなれば、おそらく実務能力は高そうな彼の今生での父親が、後始末を押し付けられて責任を問われるという嫌な予想図が浮かんでしまう。


 既に、現状で実現可能なこととして、ほぼ1600mと1700mに固定されていたレース条件に幅を持たせ、若駒対象の独自の牡牝三冠を整備し、また、短距離と長めの路線での重賞も整備するべきとのアドバイスは、智樹の父親が実行に移そうと努めていた。さすがに、ナイター設備の導入や、競馬新聞を取り込もうとの施策は、論外扱いとされているが。


「それにしても、美冬に製図の才能があって助かったよ。俺がやると、なぜかどう描いてもいたずら描きになっちゃうからなあ」 


「才能ってわけじゃ。そっちが、定規を使わないからってだけじゃないの?」


「曲線も描いてくれてたじゃないか」


 少年の言葉に、美冬と呼ばれた少女がやや厭わしげにそっぽを向く。ただ、表情にはそこまでの拒否の色合いは見られなかった。


 智樹が夏休みの間、入り浸っていた隣家の少女に頼んだのは、植田競馬場のコース図への拡充案の描き足しだった。いや、依頼をしたわけではなく、程度の低い絵図になっていたのを見兼ねてペンを奪い取った、というのが真相だった。


 全長1400mのコースで設定できる距離は幾つもあるが、短距離となると千メートルならそのうちのかなりの部分がコーナーとなり、いかにも忙しない展開となる。


 そのため、ホームストレートと呼ばれる最後の直線に連結する追加の直線を新設し、直線千メートルレースを実現しようというのが智樹の計画だった。同時に、その追加直線にスタート地点を置くことで、現状では難しい二千メートル戦も設定できるようにしようとしている。


 近代競馬発祥の地であるヨーロッパでは、直線で行われるレースはわりとあるのだが、日本ではこの時点にはまだ存在していない。後に、新潟競馬場に設定されるのは芝コースで、少年の脳裏にあるのはもちろんダートコースだった。いや、芝でもいいのだけれど、維持費の面でそれこそ夢物語となるだろう。


 そんなやり取りの間に、厩務員に牽かれた二番ゼッケンの馬が下見所に顔を出した。一番の馬は、移動を嫌がって最後尾に回っている。遠くからは、切れぎれで物哀しい調子となっているファンファーレが聞こえてきた。


 まだ午前中で、同級生二人連れも到着してからさほど時間は経っていない。始まろうとしているレースの馬については目にしておらず、次のレースが最初となる。


 体育の日……、この時点ではまだ10月10日に固定された休日には、小中学校で運動会が開かれることも多いが、彼らの通う小学校では、春のうちに軽めに実施されるのが通例となる。


 二人が陣取っているのは、パドックの少し高くなっているところで、屋根が設置されていて多くの季節で過ごしやすい。もっとも、この日は穏やかな陽気となっている。


 全頭が揃ったところで、美冬が無造作に馬を指し示した。


「あれと……、あとはあの馬ね」


 集中するでもないその言葉に、智樹がほうっと驚きの声を漏らした。


「6番はともかく、3番は不人気だなあ」


 手元の二色刷りの競馬新聞「いろは馬」でも6番にはそこそこ印が集まっているが、3番は皆無となっている。


 彼女が言及しているのは、自身にだけ見える競走馬が纏う光の有無についてである。その光が、馬の能力を示すものであることは検証済みである。その検証のために、二人は夏の間グリーンチャンネルを凝視していたのだった。


「で、光の優劣はどうだい」


「んーっ。どっちかな……」


 見比べるために首を左右に振っていた少女が、やがて首の後ろを揉み始めた。


「首が痛くなりそう。ねえ、これって必要なのかな。だって、光が強い馬が勝つとは限らないわけだし」


「それはそうなんだけどさ」


 美冬の言うように、彼女が見る光はそれぞれの馬の絶対能力を表すものとなり、そのレースで勝つ馬が光るわけではない。そして、競馬で勝利するには、単純な馬の能力比較以外にもさまざまな要素が絡んでくる。


 能力面で言えば、距離適性と馬場適性は大きく影響する。長距離馬は短距離では実力を発揮できないし、芝に特化した走法の馬はダートでの好走は難しい。どちらも、逆もまた然りである。


 さらに体調に加えて、体重に現れる身体の絞れ具合なども光には影響していない。骨折直後で、とてもレースには出られない状態の馬にも光が見えることも確認済みだった。


 そう考えれば、光はその時点で発揮できる能力の優劣ではなく、素質、あるいは絶対能力を示すものだと考えるべきと、智樹は結論づけていた。


 そして、競馬に出てきていても、体調がよくない場合や、故障寸前の場合もある。


「精度を高められるとしたら、高めておいて悪いことはないとおもうけどな」


「でも、馬券で食べていくっていうのも……」


「いや、馬券師よりはむしろ、競りや生産の局面で有用な能力だよ。ピンと来ないのは無理もないけど」


「ふーん……。まあ、でも、馬を見てる分には楽しいからいいんだけど」


 ややつっけんどんな物言いだが、だいぶリラックスした状態であるのが、智樹にはわかるようになってきていた。


 今回の植田競馬場訪問は、画面越しでない実物での見え方の確認を深めようというのが大きい。そのため、特に縛りは存在しないのだった。


 こうして二人連れで出掛けるケースは、回数的にはそう多くはない。植田競馬訪問は、父娘トラブル的な展開となった冬の日を除くと二回目となる。それぞれの両親が忙しく、自由に振る舞えるのは確かだった。


 同級生が三人しかいない状態では、どうしても人間関係の広がりが限定される。もう一人のクラスメートは、少し離れた場所にある公民館の書庫に入り浸って、好みの分野の資料漁りに邁進しているらしい。それでも誘えば来たかもしれないが、邪魔はしないでおこうと智樹は考えたのだった。


「あの二頭なら、どちらの方がより強い光かな?」


「うーん……。6番かなあ。3番とも、ほとんど差はないと思うけど」


 そのタイミングで、少し距離を置いていた中年の男性が離れていった。




 向かったやや古びた正面スタンドで、のんびりとレース観戦モードに入る。来場者は常連が中心で、席が埋まることは少ない。


 子連れもほぼいないため、小学五年生の二人が飛び抜けて若く、二十歳やそこらの若者たちも、年代別では最年少組として扱われよう。


 やがて響いたファンファーレは、スタンドで聞いてもあまり音質はよろしくない。アナウンスには聞き苦しさはないので、音源の劣化だろうとあたりをつけた智樹は、父親への改善要望リストに心の中で項目を追加したのだった。


 レースが始まると、それでもそこそこに歓声が上がった。野次もちらほら聞こえるが、さほど聞き苦しいものではない。長野はほぼ公営ギャンブル空白地で、碓氷峠を隔てた北関東のような競馬、競輪、競艇、オートレースでのファンの棲み分けは存在しないが、擾乱が多発するわけでもなかった。


 やがて始まったレースは、6番と3番で決まった。美冬が指名した通りの結果となったわけだが、二人に興奮はなかった。小学生に馬券が買えるはずもなかったし、その2頭の連勝式は最終的には一番人気に推されていた。




 再びパドックに向かう途中で、美冬が早くも指で2頭の馬を指し示す。


「あれと、あの馬かなあ」


「2番と……、8番か。光はどちらが強い?」


「うーん、8番の方かな」


 二人の周囲に人が増えてきている。明白に聞き耳を立てているわけではないにしても、何人かの意識が自分達の方に向いているのを智樹は知覚していた。馬番に言及されたタイミングで離れていったのは、先ほどとは別の人物だった。


 その行方を確認した智樹が、電光掲示板のオッズに視線を送った。手元の競馬新聞に印がある通り、今回の両馬はどちらもそこそこな人気を集めている。また、一レースごとに動く金額の小さな地方競馬では、オッズの動きは激しいものとなりがちで、なにかを読み取るのはむずかしかった。




 そのレースでは、8番が盛大に出遅れをやらかしたことでやる気を失い、回ってきただけとなった。騎手も、その状態で過度に負担を強いる必要性を感じず、多少追う程度に留めていたようだ。


 勝利したのは2番だったが、突っ込んできて連に絡んだ馬が最低人気だったために、そこそこの荒れ方となった。


 レースを見届けた後には、実地での少女の見え方であれば、がっつりとパドックで凝視する必要もないとの判断から、昼になる前に食事にしておこうかと、おでん屋へ向かった。美冬がお手洗いに向かったために、智樹が二人分を購入することになった。


「おや、お若いお客様だね。父親に無理やり連れてこられたってくちかい?」


「いや、友達と来てるんだ。注文いい?」


「もちろんさ」


「じゃあ、コンブとつみれと……」


「結構、食べるねえ。まあ、男の子二人なら無理もないか」


「連れは女の子なんだけど」


「ほほう……、それにしても、大根や卵といった、定番を外しているのには理由があるのかい?」


「メインどころは、こないだ来たときに食べたから。せっかくだから、全種類制覇しようかと思ってね」


「そういうことかい」


 納得顔で、二つの皿に山盛りのおでんが用意された。お盆を借りて持っていこうとしたところで、きりっとした容姿のおでん屋の若い女将が声をかけた。


「なんか、騒がしい連中がいるみたいだ。女の子連れなら、念のため気をつけな」


「ありがとう」


 笑みを残して去る少年に手を振って、女将は次なる客の注文を捌きながら、昼食需要向けの仕込みを再開した。かつおだしの香りが緩やかな風に乗って、スタンド方向へと流れていた。




 ベンチで深皿を間にして座りながら、小学五年の同級生二人がおでんをつついていると、やってきたのは若い男性の五人組だった。


「こいつか?」


 そう口にした若者の不躾な視線は美冬に向けられている。ちくわぶを咀嚼しながら、少女は冷ややかな視線を返した。


「いや、二十歳くらいって言ってた。さすがにこのガキを二十歳には見間違えないだろう」


「失礼ね……」


 連れの少女の反応が低声だったことに、智樹が少し安堵した表情を浮かべる。


 微妙な空気が流れながらも、警戒していることを示さない方がよいと考えた頭脳は大人な少年は、穏やかそうな表情を保つように努めながら、おでんを食べ進める。対して、美冬は不機嫌な目線を隠そうとはしていなかった。


 とはいえ、彼らも小学生に因縁をつけようとしているわけではない。周囲を見回していたでっぷりとした人物が、あれじゃないかと指し示した先の、旧館の廊下にいたのは美しい脚部を披露している若い女性だった。


 わらわらと駆けていく連れに遅れる形で、一人の若者が二人の前に立った。少し茶目っ気のありそうな表情で、おでんを見つめる。


「それにしても、おいしそうなおでんだね。……若い予想屋さんがいると噂になってるから、気を付けたほうがいいかも」


 智樹が差し出したこんにゃく串を笑顔で受け取ると、その人物は四人の後を追っていった。


「なんなのかしら」


「さあなあ。ナンパ云々にしては、険悪な感じだったけど」


 そう応じながら、若者の一人が残した警告を、少年はおでんのコンブと一緒に咀嚼していた。




 地に倒れている五人に見向きもせず、ジーンズ地のホットパンツに手を置いた富掛如月は空を見上げていた。午後になって少し風が出てきたことから、雲の流れが速くなっている。


 若者達がダウンしている原因となった彼女ではあるが、息が乱れる様子もない。


 近づいた撫で付け髪の人物が、眼鏡を指で押し上げながら声をかけた。やや不機嫌さのこもる声音で。


「トミー、なにを遊んでいる。目当ての居場所はわかったのか?」


「ごろつきを片付けつつ、聞き込みをしてたの。一石二鳥でしょ? 有力な証言は得られなかったんだけど」


「まあ、騒ぐ連中にはお引き取りいただいた方がいいだろうな。予想師とやらの居場所に当たりはつけた。どうも、パドックの奥にいるらしい。行くぞ」


「待ってよ、マツ」


 細身の相棒を追いかけると、数歩の距離でついていく。二人の距離感は、概ねそのくらいとなっていた。




「いい風ね……」


 秋の穏やかな日和の中で、やや強めの南風が吹き始めていた。


 新館と旧館を結ぶ渡り廊下状の二階部分に、小学生の二人組は立っている。そこは、おでん屋の女将から落ち着けそうなところとして紹介された、人の流れから外れていながらパドックもコース側も見られる穴場的なスポットだった。


 遠方から見たときの光を見てみようかとの名目でやってきていたが、実際は休憩に近い状態となる。


 パドック方向を凝視していた美冬が、ゆっくりと口を開いた。


「ねえ、父親との仲って、どんな感じ?」


「父さんとの? そうだなあ、悪くはないと思うけど。うちにグリーンチャンネル見に来ているとき、絡んでなかったっけ」


 夏休みに少女が隣家で過ごした際には、時雨里家の家長との間で多少の交流が持たれていた。


「あれは、よそゆきの姿だったんじゃないかと思って」


「ああ、その面は否めないな」


「そうなの?」


「下手な冗談を言うのを控えていたと思う。やっぱり、よその子の前では、いい顔をしたいんじゃないのかな」


「ああ、そういう感じか。……じゃあ、お母さんとは?」


「まあ、普通かなあ。弟の子育ての同志みたいなところはあるし」


「ふーん。……姉さんも、あたしが赤ん坊の頃に、母さんと協力したのかな」


「それはあるかもな」


 小さく吐息が漏れたのは、心情の現れだろうか。彼女の姉である遥歌は、父母との関係性を良好な状態に保っている。対して……。


 そこで、メガネを指で押し上げながら男性が近づいてきた。


「やあ、君らが噂の二人組かな?」


「なんの噂だろう。おでん種コンプリートの話かな」


 少し前に出て応じた智樹に対して、メガネの人物の背後にいた女性が前に出る。ただ、交渉役は男性が継続していた。


「韜晦なのかい? 予想をズバズバ的中させていると聞いたが」


 その件だと予想していた智樹は、話を逸らして状況を窺う時間を稼ごうとしたのだが、美冬は正面から応じた。


「今日の中でも、外れたレースもあったはずだけど」


「ほとんどは当てたって認識はあるみたいだね」


 そう返されて、彼女は口を閉ざした。この件を不用意に広めるのがまずいのは、さすがに自覚している。


「マツ、話を進めた方がいいんじゃない?」


「だな。……どうだい、競馬新聞のコラムの書き手にならないかい」


 眼鏡の男の視線は、二人に交互に向けられている。どちらが予想をしているかの確証はないようだと判断した智樹の脳裏を、打算が駆け巡った。


 原稿料なら、未成年が受け取っても問題が生じにくそうだ。この先にどんな展開が待っているとしても、手元に資金があれば自由度が増す。


「でも、事前には……」


 連れの少女の呟きに、智樹ははっと我に返った。


 美冬を巻き込むわけにはいかない。それに、全部の馬を把握しないと、予想はできない。待てよ、コラムなら注目レースだけでいいのか。いや、そうだとしても。


 転生した少年が思考を巡らせていると、眼鏡の奥の目を細めた人物がニヤリと笑った。


「予想師は、そっちの女の子の方なのかな。となれば、少女馬券師として話題を呼べるかも。事務所で話を聞かせてもらおう」


 その言葉に、美冬が後ずさりをして、隣家の少年が両者の間に入り込むように動く。一方で、退路はトミーと呼ばれた女性に塞がれる形になった。


「取って喰いやしないさ。さ、行くぞ」


 声音に凄みが含まれたことで。智樹の袖が掴まれた。


 と、そこで現れたのは、先程美冬らがおでんを食べている際に接触した五人の若者のうちの一人、こんにゃく串を振る舞った人物だった。


「子どもに手を出すなら、捨て置けないな」


 その頬にある痣は、探していた女性の拳でつけられたものだった。


「あんたかい。……何かしらの格闘技をやるんだろう? さっきは、使わなかったね」


「ああ。男女間の諍いでの、素人さん相手にはとてもね。でも、子供を拐おうとなれば、話は別だ」


 優男風の男性が取った構えに、ホットパンツに手を置いたままのトミー嬢が油断のない視線を送る。


 謎の展開に小学生二人が呆気にとられていると、携帯電話の単調な着信音がその場に響いた。


 1995年のこの時点で、首都圏でもなければ携帯電話の普及率はごく低い。全員が注目する中、眼鏡の人物が棒状の電話機の液晶画面を確認すると、粗いドット文字で「ヤスさん」との表示があった。


「マツです。……はい、小学生らしき娘の予想師がいまして。……はい。……いや、カシラ、しかし……。はい。……わかりました」


 電話を持ったままの総髪の人物が周囲を見回して口を開いた。


「あー、今回の件は沙汰止みとなった」


 口を尖らせたのは、応戦の構えを解除したトミーこと富掛如月だった。相棒の手から電話を奪い取り、憤然と抗議を始める。


「上同士で方針が分かれるのは勘弁してくれませんかね」


 電話の相手であるヤスこと高寺泰明は、創始会の事務所にいた。この日は植田競馬の今開催の最終日であり、翌日の新聞発行がないためもある。


「すまん。そっちの動きを把握してなくてな。こちらはこちらで、書き手の確保を図っていたんだ」


「小学生予想師は、インパクトあると思うんですけどねえ」


「応募してきたなら別だが、どうせ威圧したんだろ? どうであれ、子供が安全に過ごせないような競馬場にするつもりはない」


「別に、この競馬場がシマってわけじゃないでしょうに」


「大事な仕事場だ。少なくともおやっさんと俺はそう思っている」


 息を吐き出したトミーは、携帯電話の停止ボタンを押下した。声を発したのは、様子を窺っていた智樹だった。


「これで決着ってことでいいのかな?」


「ああ、競馬新聞の予想家へのスカウト話は無しだ。そうなれば、もう用はない」


 マツこと松近徹は、踵を返して背中越しにひらひらと手を振った。創始会武闘派の有力人物であるこの人物は、必ずしも子供を虐げる趣味の持ち主ではない。


 一方のトミー嬢は、話の展開についていけずにいた拳闘術使いに声をかけた。


「どうだい、せっかくだからうちの道場で一勝負」


「いいね」


 なにやら交流が発生したところで、創始会武闘派のエースである富掛如月はふと気づいたように小学生二人組に声をかけた。


「あんたら、最終レースまで残るのかい? 上がるなら送っていくよ」


「いえ、遠慮します」


 智樹の言葉に、特に執着なく手を振って、トミーと新たな連れは階段へ向かって歩きだした。


 そのタイミングで、智樹の父親が慌てたように走り寄ってきていた。


 顔を見合わせた同級生の二人は、小さな笑みを交わして、親しみのある大人の方へと足を踏み出した。




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植田競馬のトミーとマツ【平成転生~馬事累々/津々~補遺短編】 友野 ハチ @hachi_tomono

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