Peter Pan's Flight

佐倉千波矢

Peter Pan's Flight

 ダークブルーを背景に、白い月がくっきりとよく映える。星々は、満月のために少し色あせてはいたが、空を二分して流れる大きくて豊かな河をつくっている。雲はほとんど無く、風も穏やか。絶好のフライト日和だ。


 僕は仰向けになって、風に流されるまま、中空をふわふわと漂っていた。


 いい夜だ。


 音などというものが存在することも信じられないような、安らかな静けさが僕を包んでいる。


 邪魔なものは何一つ無い。そんなものたちは地上に、背中の下数百メートルのところにおいてきた。それにこれだけ距離があると、家の明りも街灯も、車のヘッドライトやネオンすら、地上に降りた星となる。


 夜は余計なものを覆い隠す。だから夜には安らぎがあるんだ。人々がゆっくりと眠りにつけるように……。


 ぼんやりとそんなことを考えながら、どのくらい風に乗っていたろうか。僕を呼ぶ『声』に気付いたときには、既に海岸近くまで流されていた。すぐに位置を固定し、地面が足の下にくるよう、体勢を直した。


『呼んだか?』

『やっと見つけた。そっち行くからサポートしてね』


 返事もしないうちに、いきなり遥が十メートルほど下に現われた。と、同時に落下しかけたのを、僕は受け止めてやり、そばへと降りて行った。


「ありがと。もういい」


 サポートするのを止めた。最近は遥もかなり上手く浮かべるようになった。サポートもテレポートアウトのときだけで済む。


「何か用?」

「こんなにいい夜だもん、わたしだってフライングしたいよ。よーやく期末テスト終わったんだし。まだ帰らないでしょ? つきあってよ」


 遥はまだ、僕か父さんが一緒でなければ、フライトしてはいけないことになっている。


「悪いけど、先約があるんだ」

「先約って、誰と?」

「ウェンディと」

「……ウェンディ?」

「ちょっとね、今、ピーター・パンをやってるんだ」

「ピーター・パン? 何のこと?」

「五日前にさ、小学生の女の子に、飛んでるとこ見られたんだけど」

「えー、だいじょぶだったの?」      

「大丈夫どころか、仲良くなっちゃったよ。もちろん最初はすごく驚いてたけど、その驚きも喜びのほうの感情だったしね。見なかったと信じこませる必要も無かった。夢みたいだって言ってはしゃいじゃって、自分のとこにもピーター・パンが来たって言ってた。その子、僕のことをピーター・パンって呼ぶんだ」

「それでその子のために、ここんとこ毎晩フライトしてたの? ピーター・パンを演じて?」

「そう。それに、今夜は一緒に飛ぶ約束をしてる」

「いいの? お父さんに知れたら、きっと怒られるよ」

「今回は特別」


 僕は黙ってろよという意味を込めて、ちょっとだけ遥を睨んだ。


「内緒にしとくから、わたしも混ぜて。ね!」




 数分後、僕と遥は海辺のマンションの九階のベランダに着地した。


 ウェンディは先刻から待っていたらしくて、僕らが着くと同時に、勢いよく部屋から出てきた。


「ピーター・パン!!」

「しー!」


 僕は慌てて、唇に人差し指を当てた。


「あ、ごめんなさい」


 はにかむように微笑んで、今度は囁き声で言った。


 小学ニ年生としてもかなり小柄で、日本人形のように肩で切りそろえた髪が、少女をなお幼く見せている。


「あたし夕方からずっとずっと、待ってたの」


 しがみついて下から顔を見上げるウェンディに、僕は微笑み返した。


 そこに遥の声が割って入った。


「今晩は、ウェンディ」


 声を掛けられて、ようやく遥がいることに気付き、ウェンディは目を移した。


「だあれ?」

「ああ、妹の──」


 言いかけた僕を肘で押し遣り、遥はウェンディの顔の高さまで身を屈め、にっこりと微笑みかけた。


「ピーター・パンの側にいつもいるのは誰でしょう?」

「え、もしかしてティンカー・ベル? でも、ティンカー・ベルは妖精で、とっても小さいのよ」

「あら、妖精にもいろんな種族がいてね、体の大きさもまちまちなの。各種取り揃えってわけ」


『まぁた適当なこと言って!』

『うるさいなぁ』


 ウェンディーには聞こえない『声』で僕が茶化すと、遥はにっこりと笑顔を少女に向けながら『声』といっしょにしかめっ面のイメージを送ってきた。


「それにね、こうすればどう?」


 言いながらすっと立ち上がった遥は、幻を身に纏った。


 背中に薄いベールのような大きな白い蝶の羽。頭に色彩豊かな花冠。手には蔦の絡んだ細いスティック。そしてトレーナーとジーンズが、若草色の柔らかで薄手のドレスに変わる。


 いつの間にか僕まで鮮やかな緑の服を着ていた。ディズニーのアニメの、あのコスチュームだ。自分のが手が込んでるぶん、他人のは手を抜いてる。


「わぁー」


 ウェンディーは目を真ん丸くした。遥が幻を消すと、ちょっと間瞬きした後、目をこすって、きょとんとした表情になった。


「今のは……。あれ? ねえ、もう一度見せて」

「目をつむってみて」

「え?」

「ほら、早く」


 ウェンディーが目を閉じた。すぐに驚いたような表情になり、目を開き、もう一度閉じる。それから笑顔を浮かべて、ゆっくりと目を開いた。


 少女の見たものが、今の幻だということが、僕にも感じられた。遥は自分の作った幻を、少女の記憶に固定してやったんだ。


「見たいと思えば、目をつむってそう願えばいいの」


 遥の言葉に、ウェンディーは大きく頷いた。


「さて、それでは夜空ツアーに出かけましょうか」


 僕が言うと、二人は笑顔で答えた。


 遥がまずベランダからゆっくりと浮かび上がり、ほんの数メートル上で止まると、

「忘れ物、忘れ物」

 と零しながら、ウェンディーに「妖精の粉」をふりかけた。


 きらきら光る幻の粉が降る中、僕も続いて浮かび、遥の隣まで行くと振り帰ってウェンディーを呼んだ。


「ここまで来てごらん」


 ウェンディーはかなり困惑した表情を浮かべた。


「大丈夫、僕がいるんだから。ちゃんと飛べるよ。飛ぼうって思えば。飛べるんだって思えば。ほら、勇気を出して。君だって飛べるんだ」

「飛べる。飛べる。飛べる」


 ウェンディーが呪文のように呟く。


 そして彼女の心が地を踏み切った瞬間、僕は彼女の身体を持ち上げた。


 延ばし合った手が徐々に近づき、触れ、しっかり繋ぐ。


「凄い、凄い」


 言葉になったはそれだけだった。だが、上気した顔と輝いた目をしたウェンディーの、興奮しきった感情は流れ込むように伝わってきた。


 僕は、始めて父さんに連れられて、飛んだときのことを思い出していた。




 その後の数時間は、ほんとに短く感じられた。


 月と星の世界を飛ぶ、それだけでもウェンディーはとても喜んだ。僕は少女の思うがままに飛ばしてやり、少女は飽きることなく飛び続けた。


 風に乗って休憩するときには、遥がお得意の幻覚で星屑たちを創り出し、その星形をした小さな白い星々を、地上に撒いたり、服を飾ったりして遊んだ。


 僕も遥も、ウェンディーと一緒になってはしゃぎ回り時間なんてすっかり忘れ去ってしまった。


 でもどんなことにも、「もうおしまい」がくる。大人が得意のこのセリフを、ピーター・パンが口にしなくちゃならないなんてね。東の水平線の辺りが、ほんのわずかだけれど白くなり始めたのに気付いてしまった。


 二人も僕の様子から、これで終わりなのだということがわかったらしい。しばらく三人とも、東のほうを見ながら、黙っていた。楽しかったわずかな夢の時間に、思いを馳せて……。別れを告げるために……。


「帰らなくてはね」


 僕はウェンディーの頭に手をおいた。


 こくんとウェンディーが頷いた。


「ね、ちょっと待って」


 遥がそう言って、組んだ手を額に押し当てた。精神集中のときの癖だ。


「何を──」


 言いかけたとき、前方に白くきらめく光の塊がうまれた。それは見る間に大きく広がり、じきに船を形作った。真っ白の帆船だ。


 なだらかで優美な船体。全開して、風を一杯に孕んだ帆。舳先へさきともにはカンテラを提げてあって、中には大きな金平糖みたいな星が一つずつ入っている。


 ウェンディーは瞳を輝かせて、船に見入った。


 遥が振り向いてウィンクし、僕もそれに笑顔を返した。


「さあ、ウェンディー、乗って! この船で、家まで送ろう」


 僕らは甲板に舞い降りた。


 緩やかに、船が動き出す。




 徐々に遠ざかる白い帆船を、ウェンディーがマンションのベランダから見送っている。その姿を、僕たちは少し離れたところから見ていた。やがて船は点になり、見えなくなった。その後も少しの間遠くを見ていた少女が、部屋に入り、眠りに就いたのを確認してから、ようやくその場を離れた。


「またそのうち、こんなふうに三人で飛ぼうね」


 遥が弾んだ声で言う。


「たぶん、これが最初で最後だよ」

「なんで?」


 僕は少し間をおいてから答えた。


「あの子、心臓が悪いらしいんだ。今度手術しにどっかの大学病院に行くらしい」

「そう。だからずーっとオーラで包んでたんだ」

「うん。絶対負担をかけないようにって思ってね。これからしばらくは、体力つけて、体調を整えて、手術に備えるってことだから」

「ふうん。でもさ、だったら手術の後、またフライトできるじゃない。それともその手術、すごく成功率低いとか?」

「大丈夫。手術は成功するよ。そんな気がする。僕が言ってるのはそのことじゃなくて……」

「…………?」


 家の上空にかかり、僕らは止まった。


 遥が顔を覗き込む。僕はわざと顔を背けて、東を眺めた。


「健康になったら、外に出て、同じ年頃の友達をつくって、空想の世界やピーター・パンにはきっとさよならするってこと。今夜のことは全部……そう、幻でしかないんだ。すべて僕が演出したネバーランドなんだ。彼女はこれから、自分自身でネバーランドを創っていくよ」

「うん、だけどきっと、あの子は忘れないと思う。わたしが記憶を固定したからって意味じゃないよ。たぶんあの子も、自分で自分のネバーランドを創るんでしょうね。今夜のことも、じきに記憶が薄れてくわ。でも、時に何かの折に、昔自分の元を訪ねてきた、一緒に空を飛んだ、トレーナーとジーンズのピーター・パンを思い出すわ。優しい記憶として。ひょっといたら、昔見た夢として」


 遥はひどく真面目な顔をしていた。


「…………」


 僕は黙って頷いた。遥が微笑み返す。


 空は、今ではすっかり白くなり、東の山の端に薄紅色の帯が広がっていた。そして、太陽が今日最初に投げる光の中、僕たちは地上へと下りて行った。



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Peter Pan's Flight 佐倉千波矢 @chihaya_sakurai

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