提示-すずどり

 

 目が覚めた。

 

 ひんやりとした部屋の空気が鼻を抜ける。布団に入っている肩のあたりが冷たい。

 あおむけの状態から起き上がり、自分の体を確認する。

 

 名前は大宮おおみやアキ。中肉中背で、髪質はそんなに良くない。今は寝起きということもあってボサボサだ。

 夢の中で見たような子供じゃない。僕は20歳の大人で、もうとっくに大学生になっている。


 そして、今の季節は冬だ。小学生でもないのだから、短パンなぞ履いていられない。

 

 部屋には、絵本など一冊も無い。大学の授業を受けるにあたって、教科書として買わされたいくつかの書籍と、なんとなくで買った小説はあるが、それまでだ。


「……これ以外は」


 小さく呟いて、目の前に視線を移す。

 絨毯のような赤色の本が、丁寧に膝の上に乗せられていた。

 その表紙には、ミミズののたくったような字が書かれている。あるフォントなのは理解できたが、何語なのかも分からないそれは、どうしてか目に入った瞬間に、『すずどり』と読むことができた。

 

 何故読めるのかは、さしたる問題ではない。

 問題は、こんなものを寝る前に膝の上に置いた記憶はないということと、そもそもこんな『すずどり』というタイトルの本を家に置いたことがない、ということの二つだった。


「──はぁ……」


 ため息を吐いて、ベッドから降りる。

 今日は1限から授業があるのだから、どうあれさっさと準備しなければならない。

 『すずどり』をベッドの上に置いたまま、適当に朝ご飯をすまし、部屋着としてきている高校時代のジャージからスーツに着替え、歯を磨いて家を出た。




薬師くすし先生、また怪異が夢に出てきました」


 そう言って、僕は研究室のドアを開ける。

 研究室といっても、白く塗られた天井と床に囲まれた、せいぜい6畳くらいの部屋だ。壁一面を覆う本棚の中には、『古事記』やら『日本書紀』やら、辞典ほどの厚みをもった書籍が窮屈そうに押し込められている。


 その最奥に鎮座しているデスクから、パソコン越しに教授がこちらを見た。


「こんにちは大宮おおみやくん。まずは座ってくれたまえ」


 促されるまま、部屋の中心にある簡素な椅子に腰かける。薬師教授は、デスクから適当な菓子をつまみあげ、僕の目の前にあるテーブルの上にばらばらと置いた。


「大宮くん、お菓子でもどうだ?あぁ、お昼は食べたかね?死にそうな顔だが」

「2限の授業が中止になったんで、そのときに食べました。けど貰っておきます。死にそうなので」


 ひょいひょいと、個包装されたチョコレートを3つほどポケットに入れる。それを見て薬師教授は満足そうに眼を細めると、僕の対面に腰を下ろした。


 薬師教授。専攻は日本史学。

 2メートル近い身長と、濃い茶色の長髪を後ろですべてまとめたオールバック。一瞬睨まれたのかと錯覚するほどの目つきの悪さに、右目に着いた爪痕のような古傷は、教授どころかかたぎの人間とは思えない。

 しかしながら、僕の体質を知っている数少ない人間の一人であった。

 そんな彼は、今も羽虫程度なら見るだけで殺せそうな視線で僕の方を見ていた。


「それで、また夢か?」

「また、夢です。今回は物が出てきたので、実害がありそうです」

「そうか……夢の中では、どうだったんだ?」

「はい、えっと……あ、」


 そこで初めて、しまった、と思った。

 証拠品である『すずどり』という本。朝起きたら突如として現れたそれを、僕は今朝ベッドの上に置き去りにしていた。


「あの、実物は無いのですが、ある本が夢の中に出てきまして。あの、本棚の本を一冊お借りしてもよろしいでしょうか」

「何冊でも構わんよ」


 薬師教授に小さくお礼を返し、僕は周囲を見渡した。

 背中側と前側には向かい合う形で所狭しと本が並べられている。

 これこれこういう本が夢に出てきました、と説明するために、何か似ている本は無いだろうか。

 と、その中に1冊、明らかに目を引くものがあった。


「……あ」


 小さく声を漏らして、本棚の中からそれを抜き出す。ぎっちりと詰まっていたはずのそれは、油でも塗られているかのようにするりと抜け出た。

 それは赤いハードカバーの本だった。

 みみずののたくったような意味不明な、文字とすらいえないような何かの羅列は、不思議と読むことができる。


「あの、薬師先生、『すずどり』って知ってます?」

「鳥の名前としてなら。中々マイナーなところをつくな、大宮くん」


 薬師教授が答える。

 手の中の本が、ずっしりと重くなったように感じた。

 それは、紛れもなく今朝僕の膝の上にあった、『すずどり』の本そのものだった。

 だが、ほんの一か所だけ違いがある。真っ赤な絨毯を思わせる色の上に、題名と僅かな装飾しかなかったその表紙、その隅に、見切れたように人の両目が映っていた。

 充血した瞳がふたつ、縦並びに並んでこちらを見つめている。


 気味の悪さを振り切るように、僕は薬師教授への質問を続けた。


「では、そういう本があって、読んだり、集めていたりはしますか?」

「いいや、聞いたことも無い」


 今朝と同じように、首筋から肩にかけて汗の揮発する嫌な冷たさを感じていた。

 僕は。両掌を合わせたより少し大きいサイズの絵本を両手で持ち、教授の方へ差し出す。


「あの、これ、見えますか?」

「……?わからない。何かあるのか?」


 薬師教授は首を傾げ、僕の両手の間、『すずどり』があるところをじっと見つめる。

 訝しげに僕を見つめていた薬師教授は、やがて合点がいったように、あぁ、と小さく声を上げた。


「なるほど、そういうものか……」


 何がなるほどなのか。

 そう思って薬師教授を見ると、彼はとんとん、とテーブルを指で叩いた。ここへそれを置け、ということらしい。


 僕は言われた通りに席に着くと、テーブルの上に『すずどり』を置いた。

 コトリと硬質な音がする。薬師教授の方を何気なく見たが、無表情な顔は変わっていなかった。音も、僕にしか聞こえていないらしい。


 いったい何をするのか。

 僕は両手を膝の上に置き、薬師教授を見つめた。すると、彼は白衣ごと服の袖を腕まで捲り上げると、右手を大きく開いて、


「ここか?」


 バン、と『すずどり』のある所に叩きつけた。

 

「っ……え」


 突然響いた激しい音に、一瞬全身が固まる。


「おぉ」


 教授は、猛禽類のようにすっと細められていた眼を大きく開き、叩きつけた右手の下を凝視した。

 感触があったのか、と聞こうと口を開いた、その瞬間。


「あのぉー、乱暴にされるとぉー、すいませんん、困るんですよねぇーー」


 テーブルの真横、ちょうど僕と教授の向かい合っている真ん中から、声が聞こえた。

 僕たちの真横には、この部屋の入り口であるドアがある。そのドアが開いたのかと思ったが、ガチャン、というドアを開けた時特有の金属質な音は聞こえていなかった。

 声は室内、それもすぐ横から聞こえている。まずい、と思うよりもはやく、言葉が続けられた。


「それぇー、うちのじゃないですかぁー」


 ダン、と音がして、僕の真横に何かが落下した。『古事記』と書かれた、辞典のように厚い本だった。

 研究室の壁に備え付けられてる本棚、その一番上にあったはずのそれが、僕の横に乱雑にころがっている。 

 その上に、足跡が4つつけられていた。

 『古事記』がみしみしと軋んでいる。この足跡は誰のものだろう。

 

 いや、その前に、この声は聴いたことがある。


「それに、かわいそうじゃないですかぁ」


 夢で出てきた警官の声だった。

 間延びした、不良の真似をして無理にすごんでいるような口調が、頭の中に鮮明に思い浮かぶ。

 じっとりとした夏の湿気のような視線を感じる。あの時の暑さまで思い出したかのように、額に脂汗が浮かんだ。

 僕はうつむいたまま、隣にいる何かに目を向けられないまま、ただ視界の隅にある足跡を横目で見る。


「あぁ、これは申し訳ない」


 薬師教授が軽く会釈をして、『すずどり』から手をどけて言った。


 その瞬間、隣にあった存在感と視線が、嘘のように消えた。

 肩を上下させながら、僕は横に視線を向ける。


 そこには何の変哲もない研究室のドアがあるだけで、警官なんてどこにもいなかった。

 幻聴だったのかと思い、床を見る。

 そこには『古事記』が、プレス機にかけられたかのように歪んでいた。



 夢とは、眠るかぎり誰しも平等に見るものであるらしい。仮に夢を見ないと思っていても、実際は忘れているだけで、脳の機能的には必ず見ているのだという。

 よく『夢日記をつけると気が狂う』と言われるが、それは本来忘れるはずの夢を覚えようとすることで起きる弊害とされている。


 僕が忘れない夢には、ある一定の法則がある。

 悪夢であること、不可解であること。


 そして最後に、その夢に沿った怪奇現象が起こること。

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