すずどり

夢魘-すずどり


 

 ふと気が付くと、砂利の上に立っていた。

 脛を撫でる生ぬるい風から、季節が夏であることと、自分は丈の短いズボンを履いていることがわかる。

 遠くで木がざわざわと鳴っていた。蝉の音は聞こえない。


 ここはどこだろう。


 どうにも思い出せない。視線を下げると、自分がいつも履いている黒いスニーカーが目に入る。


 そのとき、視界の外から、ざっざっ、と砂利を踏む音がした。

 じりり、と砂と小石が軋みを上げる。その方へ、自然と顔が向いた。


 二人の警官が、こちらに歩いてくる。紺の布地に「POLICE」と白で大きく書かれた厚手のベストは、見ているだけで暑苦しい。


 彼らは、何かを抱えては混んでいるようだった。差し押さえ、という単語が頭の中に浮かぶ。

 ぼうっとそれを見ていると、不意に片方の警官と目が合った。

 初めてこちらの存在に気づいたように、その男は大きく目を見開いた。数秒、足を止めてこちらを見ていた彼は、やがて狼狽えるように視線を泳がせて口を開く。


「あのさぁー、これ、そこの蔵からさぁー」


 警官が指さした方へ目線を向けると、確かに蔵がある。白い漆喰の壁は、ところどころ剥げていた。


「そこの、そこの蔵からぁ、出てきたもんなんだけどぉ、君、そんなじろじろ見ているのならさぁ、持って行ってくれないかなぁ」


 ところどころ上ずりながら、男が言う。

 間延びした口調は、不良というよりも、その言葉遣いを無理してまねているような印象だった。

 

 持って行って、という言葉で初めて、彼らが抱えている物を見る。

 それは、段ボールの箱に入れられた、古びた書類の束だった。


 乱雑に突っ込まれているそれの端が、段ボールから突き出ている。

 その紙はしわくちゃで、ずっとずっと昔の太陽の光を持ってきたような、渋い黄色をしていた。


「もっとさぁ、よく見てよ、ほら」


 そう言って、男がかがむ。

 ずい、とそれを近づけられる。

 箱の中を覗き込むと、書類だけだと思っていたその箱の中、それの一番上に、絵本があるのが分かった。

 例に漏れず、しなびた日光のようなくすんだ黄色をしている。絵本の表紙には、やけに大きな真っ黒の瞳をした日本人形が、どアップで映っていた。

 言葉を発そうとして、自分は声が出ないことを思い出した。

 仕方がないので、両手を伸ばして受け取る。ずっしりとしているが、持てないほどではない。

 

 前を見ると、警官たちは見ていない物を見たような顔をして、ピタリと動きを止めていた。

 

「…………ぅぁんめぇ、すぅぉり」

 

 くぐもった声で、何かを呟いている。謝罪されたような気がして、手で顔を仰ぐように、手を振った。

 すると、警官たちは安堵したように笑って、石を齧りながらどこかへ行った。


 一仕事終えたような気がして、目線を下げる。

 

 あれ、と思った。表紙に映っている日本人形の口角が微妙に上がっている。

 薄く紅の塗られた口元を暫く見つめる。しかし、当たり前のことのように、絵に描かれたそれは一ミリたりとも動かない。


 見間違いだろうかと思って、前に視線を向ける。

 蔵とは少し離れたところに、屋敷があった。その縁側は、無防備に開け放たれている。


 あそこで荷物の整理をしようと思い、その荷物である段ボールの箱と、その中身に視線を移す。


 そこで、息を吞んだ。


 日本人形が、大口を開けて笑っていた。

 真っ黒な口腔の中に映る瞳と、目が合った。


 部屋の中は和室だった。

 艶のある畳の上には、安っぽい木目模様の着いた折り畳みテーブルが置かれている。


 まるでこのために置かれたかのようなそのテーブルに、段ボールを下ろす。部屋の雰囲気に負けて正座の形に足を正した、その瞬間だった。


 バン、という音と共に、部屋の奥にあった襖が開き、男が入ってきた。白いTシャツとジーパンを着た、小太りの落ち武者のような風体の男だった。

 男は足音を響かせながら、力任せに襖を閉める。そうして、段ボールが置かれているテーブルに、人3人分くらいの距離をとって座った。

 

 彼はこちらを気味悪そうに睥睨すると、『早くやれ』とでも言うように顎をしゃくった。


 小さく会釈をして、机に向かう。


 先ほどまで真っ黒な口腔を見せて笑っていた表紙の人形は、能面のような無表情に戻っていた。


 腹をかき回されているかのような不快感に顔を歪めながら、段ボールの中に手を突っ込んだ。

 日に焼け、黄土色に変色した紙を、まとめて段ボールの箱からテーブルの上へ移してゆく。


 段ボールの中から際限なく出てくる紙の中には、いくつか本があった。「めにがう」「がきらで」、日本語で書かれているなら可愛い方で、時折読めない字で書かれたものもあった。

 そしてそのいずれにも、大きく口を開けた少年の絵や、おかっぱ頭の女の子の絵が描かれている。


 視線を横に向ける。


 隣では、男が横目でこちらをじろじろ見ていた。彼はこの家の主人なのだろうか。挨拶もなく、しきりにこちらを睥睨する姿は、主人よりも監視役のように感じられる。



 そう思った瞬間、一冊の本が段ボールの中から出てきた。


 立派な装丁の本だった。

 絨毯を思わせる深い赤色の中に、金色の印字で『すずどり』と書かれている。


 表紙には何の絵も無い。日本人形も、大きく口を開けている少年もいない。


 ただ「すずどり」という文字と僅かな装飾の金色だけが、真っ赤な表紙の中でこちらを見ていた。


 他のほんとは明らかに違う見た目に、中身に興味がわいてくる。


 表紙に手をかけたその瞬間、くちゃ、と体のどこかが握りつぶされたかのような不快感が全身を襲った。

 道を歩いていたら突然横から車が飛び出てきたか、あの感覚に近しい感覚に、思わず手を離す。


「それ……」


 声が響く方を見ると、先ほどまで何も言わなかった男が、大きく目を剥いてこちらを見ている。

 汗ばんだ手は、机の上に置かれた『すずどり』という本を指さしていた。


「これですか?」とでも言うように、 『すずどり』の表紙を持って男に見せる。そうすると、男は捨てられた犬のような目で本を凝視したまま、何度も何度も頷いた。


 少し迷って、『すずどり』を差し出した瞬間、男はひったくるようにそれを奪った。

 少しむっとして、男の後ろから『すずどり』を覗き込もうと立膝になる。


 その瞬間、どん、と体が押され、畳の上に倒れこんだ。

 男に突き飛ばされたのだ、と気づくまでしばらくかかった。

 ひどいじゃないですか、と言おうとして、また気付く。自分は声が出ないのだ。

 

 ならば、仕方ない。

 空になった段ボールと、本のまざった紙束の前に腰を下ろした。


 ぺらぺらとページをめくる音が隣から聞こえる。

 その間自分はやることも無く、机の上に置かれた紙束を見つめていた。

 体が夏の暑さを思い出したかのように、じっと全身から汗が噴き出る。紙束の中から目が覗いて、慌てて顔を逸らした。

 テーブルの上にある木目に視線を向ける。ふとした瞬間にそれが顔に見えないよう、必死に濃い色の線を追いかけていた。


「ずずっ」


 熱心にページを捲っていた隣の男が、不意に鼻をすすり上げた。

 細い目からぼろぼろと涙が溢れる。腋汗の滲んだ白Tシャツに涙が落ち、灰色の染みがいくつも作られていった。


「あぁ……かわいそうになぁ……」


 『すずどり』を見つめたまま男が零す。


「おまえもそうおもうだろ?」


 突然、男がこちらを見た。

 涙をボロボロとこぼし、鼻水を垂らした無表情の顔で、こちらと目を合わせる。

 何秒かそうしていると、突然、この世の全ての悲しみを煮詰めたような顔になって顔を引っ込めた。


「あ゛ぁあああ゛ーーー!あああ゛ーー!あぁ゛ーーーー!!!」


 両手で顔を覆って男が泣き始める。


 耳を塞ぐこともできず、またテーブルに描かれた木目を目で追い始めた。

 隣では、壊れたサイレンのようになった男を無視して、 『すずどり』のページを捲る音が響いていた。


 もう助からないと思った。


 そうして自分はようやく腰を上げた。

 男と『すずどり』から目一杯顔を背けて襖を開けた。


 襖を開けた瞬間、自分は声が出せるのだと思い出した。


 「失礼します」と言った。


 男からの返事は無かった。


 かわいそうに、もう助かるまい。

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