第六章 逃避行

 さいたま市の大宮区にある祖父母の自宅にて、姫奈は祖父母から問い詰められていた。


 兄と別れ、家に着き、居間に入るなり祖父から椅子に座るよう促された。戸惑いながらも、素直に応じると、そこから取り調べ同然の尋問が始まった。祖父が犯罪者を前にした刑事に見えた。


 祖母も同様、万引きを犯した娘を叱るような表情であった。二人の様子を見た姫奈は、これから自分の身に降りかかる受難を即座に察知した。


 案の定、祖父母は姫奈が瑠央と逢瀬を行っていた事実を知っていた。朝、家を出る時についた友達と遊びに行くという嘘も見破られており、下手な虚言が墓穴を掘るのだと認識させられた。


 事もあろうに、証拠となる写真まで用意されてあった。しかも今日、兄と行った『デート』の風景が撮られていたのだ。大して時間が経っていないのに、どうやって印刷したのだろう。


 祖父母の尋問が続き、やがてそれが叱責に変わる。孫娘から裏切られたという思いがあるのか、非難は苛烈だった。いくら姫奈が弁明しても無駄であった。やはり祖父母は、孫と孫娘が恋愛関係にある事実など、決して受け入れ難いのだろう。


 とうとう姫奈は泣き出してしまった。孤立無援の状態。どうすればいいのお兄ちゃん。


 そして行われる断罪。祖父母は宣言する。もう二度と姫奈を信じず、徹底管理の名の下、自由を奪うという過酷な決断を下した。外出する際も、必ず監視を付けると決められた。


 今度こそ、姫奈と瑠央の仲が引き裂かれようとしているのだ。大地神ゲブと女神ヌトのように、あるいは織姫と彦星のように。


 それだけではない。姫奈は自由すら奪われようとしていた。捕らわれの姫のように、束縛と監視の日々が訪れるのだ。


 絶望的な感情が、胸に押し寄せる。どうしよう。私の人生が終わってしまうかもしれない。助けて。お兄ちゃん。


 その時だった。ポケットの中に入れてあったスマートフォンが、鳴動した。姫奈ははっと気づく。なぜだがわからない。だが、発信の相手が兄であることが直感でわかった。愛し合う兄妹だからこそ、察知できる第六感なのかもしれなかった。


 姫奈は祖父母の非難が続く中、とっさに着信に応じた。聞こえてくる、心の底から待ち望んだ人の声。


 『姫奈。そっちの事情はわかっている。今から二人で逃げよう!』


 兄は素晴らしい提案を行った。そうだ。もう兄と会えず、自由がなくなるなら、逃げればいいんだ。二人で。


 「うん!」


 通話に応じた姫奈を責め立てる二人を尻目に、姫奈は涙ぐみながら答えた。そして二人に背を向け、居間の扉に向かった。


 「どこに行く? 待ちなさい!」


 祖父の怒号が聞こえるが、無視をした。居間を出て、玄関を目指す。


 背後から追ってくる足音が聞こえてくる。しかし、関係ない。このまま逃げ切ってやる。


 姫奈は駆け出した。さっき帰宅した時と逆走する形で、土間に下り、靴を履く。それから家の外に飛び出した。


 祖父母の制止する声を背中で聞きながら、姫奈は夜の住宅街へと羽ばたいた。

 兄に会うために。愛する者と、遠くに逃げるために。



 時間帯的には、まだJRは充分運行しており、移動に支障はなかった。姫奈は最寄り駅から列車に乗って、待ち合わせ場所に向かう。


 兄が指定した待ち合わせ場所は、昼にデートした時と同じく、鐘ケ淵駅だった。


 道中、スマートフォンに祖父母からの着信が何度もあったが、全て拒否をした。この際、無理矢理入れられている監視アプリも削除する。どうせもう祖父母とは二度と会わないのだ。文句を言われる機会も存在しないだろう。


 やがて鐘ケ淵駅へと到着し、列車を降りた。このルートは、今日の朝、兄とのデートに赴く時に通ったルートと同一のものだった。このような形で再び辿るとは思ってもいなかった。


 駅を出ると、すぐに兄は見つかった。昼に姫奈がいた花壇のそばで、こちらを待っている。


 「お兄ちゃん!」


 姫奈は全力で瑠央の元へ駆け寄り、抱き付いた。周囲の人間が何事かと視線を向けてくるが、気にしない。もう会えないかと思った愛する人とこうして再会できたのだ。他人なんてどうでもよかった。


 そう。私はこれから、兄と共に生きるのだ。兄妹の枠を超えて、夫婦として。


 「大変な目にあったな」


 瑠央はこちらの頭を撫でてくる。じんわりと心の底から喜びが溢れてきた。


 「うん」


 姫奈は兄の胸に顔をうずめて泣き出した。何度も抱かれた兄の胸の中。もう二度と触れ合えないのかと絶望していた。


 「追っ手がくるかもしれない。とりあえず移動しよう」


 兄は姫奈の肩を叩くと、そう言った。


 「これからどうするの?」


 涙を拭いながら、姫奈は訊く。兄と一緒なら地獄にでも行けるが、プランは必要だった。指針がなければ、航海は頓挫し、転覆するだろう。すなわち、すぐにでも父や祖父母に捕まるということだ。それは地獄に落ちるりもおそろしかった。


 「俺に考えがある。だけど、その前に貯金を下ろせるだけ下ろそう」


 兄の提案に、姫奈は首肯した。


 そのあと、二人は駅前のコンビニ内にあるATMで、貯金を全額引き出した。後手に回ると、預金口座を凍結させられる恐れがあり、身動きすらできなくなる可能性があったためだ。


 二人合わせての逃走資金は、結構な額に及んだ。谷花家は裕福な家庭に類するため、与えられる金銭はそれなりに多く、皮肉にも、手塩にかけた息子たちの逃走に一役買う結果となっていた。


 貯金を下ろしたあと、二人は列車に乗り、渋谷を目指した。現在、夜であるため、大きく動くには朝を待つ必要があった。渋谷を選んだのは、単純に、若者が遅くまで出歩いていても不審がられるリスクが低い場所だと判断したためだ。


 姫奈は兄と手を繋ぎ、シートに座って列車に揺られる。頭は兄の肩に預けていた。伝わってくる兄の体温。姫奈の脳裏に浮かぶのは、新天地で過ごす二人の夫婦だった。


 水神である速秋津日子神と速秋津比売神として、手を繋ぎ、崖の上から海を見下ろしている。背後には、綺麗な白い家。


 庭から、子供たちの遊ぶ声が聞こえてくる。その子供たちは、兄妹二人の子供だ。水神の家族として、海辺の家で幸せに暮らしているのである。


 いつか訪れる、幸福の日々。姫奈はその時がやってくるのを心から待ち望んでいた。



 体を揺さぶられ、姫奈ははっと目を覚ます。同時に、渋谷駅に到着したことを告げるアナウンスが耳に届き、列車が停車する振動が伝わってくる。


 姫奈は目をこすりながら、顔を上げた。隣に兄がいることを確認し、安堵する。


 どうやら眠っていたらしい。突如訪れた危機的状況により、精神が疲弊していたせいなのかもしれない。兄の肩にもたれたまま、寝入ってしまったのだ。兄はその間、じっと妹の体を支えていたことになる。


 「降りよう」


瑠央は、こちらの手を引き、立たせる。姫奈は瑠央と手を繋いで、扉から外に出た。


 時刻は十時近くなのだが、休日なだけあって、他の利用客は多い。しかし、今はこの人の多さがかえって好都合だった。追っ手がかかっても、カモフラージュにはなるだろう。


 人混みに紛れるようにして、二人は渋谷駅の東口から路上に出る。そしてそのまま、首都高の下を通って、南側に位置する代官山方面へ向かうことにした。反対方向であるタワーレコード周辺に行ってしまうと、追っ手に見つかる危険性があった。それに、知り合いと遭遇する可能性も否定できない。


 ランドマーク近辺は、何かと『良くない者』とのエンカウントのリスク高いため、避けたほうが無難だろう。


 姫奈と瑠央は腕を絡めて、夜の渋谷を歩く。若者が多く見られ、また特にカップルが目立つので、自分たちも特には際立つ存在には映っていないはずだ。


 しばらく南下し、やがて鶯谷町付近に差し掛かる。この辺りまでくれば、渋谷駅周辺ほどの賑わいはなくなる。落ち着いた夜の街並みが二人を包んでいた。


 「この辺りでいいかな」


 瑠央は、周りの建物を見回しながら言う。


 「何を探しているの?」


 姫奈が訊くと、瑠央は肩をすくめて答えた。


 「今夜泊まる場所さ。姫奈もへとへとだろ」


 「でもどこに?」


 瑠央は街角の一つを指差した。


 「姫奈もよく知ってる建物だよ」


 兄が指差したのは、ラブホテルだった。


 「ラブホテルに?」


 姫奈は意外の念に打たれる。ネカフェだとか、もっと潜める場所を選んだほうが良さそうだが……。


 姫奈がそう伝えると、兄は小さく笑った。今の状況でも、俳優のようにクールで格好良いと思える容貌だった。


 「ラブホテルも充分、潜伏するのに適してるさ。だって、店員にも他の客にも構造的に会わないようになってるだろ?」


 これまで幾度となく兄と入ったラブホテルだが、そのいずれも人と出くわした記憶がなかった。確かに兄の言うとおり、人の目から逃れるには、ラブホテルは打ってつけの宿泊場所なのかもしれない。


 「さあ、中に入ろう。こんな路上でもたもたしていたら、発見されるリスクがある。下手をすると、父たちは警察に知らせてる可能性もあるからな」


 姫奈ははっとした。失念していたが、兄が言及したように、敵は父や祖父母、その関係者だけではなく、警察も対象に入れなければならないのだ。なんといっても、自分たちはまだ未成年なのだから。


 姫奈は兄の腕にしがみ付くようにして、身を寄せた。このまま無事、二人っきりで暮らせるようになるまで、逃げおおせるのか。不安がミミズのように足元から這い上がってくる。


 妹の不安をテレパシーのように受け取った兄は、優しくこちらの頬を撫でてくれた。


 「大丈夫だよ。きっと俺たちは逃げきることができる」


 瑠央は、頼もしく胸を叩いて言った。


 「……うん」


 兄も、現在の状況下、少なからず不安に包まれているはず。なのに、妹の身を案じて気丈に振舞っているのだ。


 私だけ、弱音をみせるわけにはいかない。姫奈は己を叱咤激励する。これから二人で夫婦として添い遂げるのだ。兄に甘えてばかりではいけない。


 「お兄ちゃん、早く行こう。明日は早く起きなきゃ」


 姫奈は兄の手を引いて、ラブホテルの入り口に向かった。兄は少しだけ呆気に取られた様子をみせたが、すぐに妹の気持ちを察したのか、微笑んでついてくる。


 明日からが、本格的に忙しくなるだろう。



 一夜明け、目が覚めた瑠央は、ベッドの上で体を起こし、猫を踏んだ時のような声と共に、大きく伸びをした。


 カーテンの隙間からは、朝日が漏れ出している。すでに日は昇っているようだ。

 隣を見ると、裸の姫奈が寝息を立てていた。昨夜、遅くまで『作戦会議』をしてから、そのあと、いつもどおりのセックスを行った。非常事態を迎えての逃走劇の後であったため、セックスが終わったあとは、二人とも力尽きたように眠りについた。


 スマートフォンで時刻を確認する。七時過ぎ。とうに始発は動いている時間帯である。このままいても、ホテルの料金が加算されるだけだし、早めに行動したほうが懸命だった。


 瑠央は姫奈を起こす。姫奈はゆっくりと目を開けた。瑠央はその姫奈にキスをする。


 「おはよう。そろそろ時間だよ」


 姫奈は小動物のように小さく伸びをしながら、体を起こした。


 「すぐにあの場所に向かうの?」


 姫奈は、目的地について言及する。昨夜、遅くまで話し合って決めた、目指すべき新天地のことだ。


 「列車はもう動いてるし、東京に近い場所だと父さんたちに見つかる危険性がある。早いうちに離れたほうがいい」


 瑠央の説明に納得したのか、姫奈はソファの上に置いてあった服を着始める。自分も同じだが、昨日からずっと着用しているものだ。衣服もどこかで購入したほうがいいだろう。


 二人は服を着たあと、部屋を後にする。料金はすでに払っているため、そのまま外へ出た。


 明るい朝日が二人を包み、瑠央は思わず、目を瞑った。


 外の世界はすでに動き出していた。スーツ姿の男女や、制服を着た学生の姿がせわしなく歩いている。


 今日が、平日なのだと認識させられた。


 「大丈夫だろうけど、職質には気をつけていこう」


 平日に私服を着た高校生が公共の場にいた場合、警察官からの職質の対象となり得る。


 もっとも、その根拠は警察官の主観によるものなので、大人びて見える二人なら、大学生か、成人済みの若いカップルとして映り、スルーされる可能性のほうが高かった。


 しかし、油断は禁物である。昨夜、姫奈に言及したように、父たちの手によって、二人の情報が警察に渡っている恐れがあった。家出少年や、家出少女として伝わっているか、あるいは捜索願いまで出されているかもしれない。いずれにしても『補導対象』なのは確実なのだ。


 「行こう」


 瑠央は姫奈の手を引き、昨夜通ってきた道を逆走する形で、渋谷駅を目指して足を踏み出した。


 渋谷駅の近づくにつれ、瑠央は自身の懸念が杞憂であったことを悟り始めていた。平日の渋谷は人の往来が極めて多く、瑠央と姫奈は容易に溶け込んでいた。いくら二人の容姿が他者よりも優れていようと、朝の殺気立った喧騒の前では無力化されるのだ。


 この環境ならば、警察による職質の心配は必要ないだろう。父や祖父母の追っ手も、猟犬ではないのだから、人混みの中から見つけ出す芸当など不可能に違いない。


 つまり我々は、安心して『目的地』へたどり着くことができるのだ。


 瑠央は安堵の念を抱えながら、姫奈と共に、渋谷駅から列車に乗った。


 目指すは『北』である。

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罪が二人を別つまで~兄妹の禁じられた関係・瑠央と姫奈は如何にして父親殺害を企んだのか~ 佐久間 譲司 @sakumajyoji

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