第五章 速秋津日子神と速秋津比売神

 待ちに待った休日が訪れ、瑠央の心は踊っていた。まさに気分は祭りの囃子のごとし。


 当然であった。愛する妹とのデートなのだ。しかも、今日は神社巡りという珍しい形でのデートである。新鮮な気持ちも相まって、気持ちの昂ぶりはいつもよりも大きかった。


 瑠央は朝早くから家を出た。我が家にハウスキーパーとして兼子がきていたが、彼女には、新宿に用事があるとだけ伝え、外出してきた。下手に友人たちの名前は使わなかった。後々、ボロが出る恐れがあるためだ。


 父は休日にも関らず、病院に用事があるのか、すでに姿は見えなかった。だが、その点に関しては、むしろ、瑠央にとって好都合だった。偽計を働く対象が減るということは、露呈のリスクも同時に減るということだからだ。


 家を出たあと、最寄り駅の麹町駅へ行き、そこで列車に乗る。それからJRを乗り継ぎ、墨田区を目指した。


 デートの舞台である墨田区は、瑠央と姫奈がよく逢引する足立区とも近く、自然に二人が住む場所の中間地点として機能していた。そのため、これも都合が良かった。


 家を出て一時間足らずで、瑠央は待ち合わせ場所に指定してある鐘ケ淵駅へ到着した。


 列車を降り、ホームを歩いて改札から外へ出る。休日のため、人の往来もそこそこあり、歩くのに苦労した。


 瑠央はこじんまりとした駅舎の前で、姫奈を探す。駅前が待ち合わせの場所であった。


 すぐに愛する人はみつかった。駅舎前の広場にある花壇の前で、一本の百合の花のように佇んでいる姫奈の姿が目に映る。まるでそこだけが、スポットライトを当てたように輝いて見えた。


 瑠央は姫奈の元へ寄っていった。こちらに気がついた姫奈は、顔を上げた。そして、ぱっと花が咲いたように表情が明るくなる。


 「お兄ちゃん!」


 姫奈は瑠央を認めるなり、抱きついてくる。瑠央は周りを気にしながらも、姫奈の華奢な肩を抱き返した。


 「待った?」


 瑠央は姫奈に尋ねる。姫奈はこちらを見上げ、首を振った。


 「ううん。待ってないよ」


 姫奈は微笑む。薄い唇の隙間から、真珠のような白い歯がのぞく。


 「問題なく家出れた?」


 「うん。おじいちゃんとおばあちゃんには友達と渋谷に行くって言って出てきたよ」


 瑠央が兼子に伝えた内容と大差がないようだが、友達と一緒という部分が違っていた。瑠央が懸念したように、実在の人間を虚偽の報告に織り交ぜたら、のちのち厄介なことになりそうで心配だった。


 とはいえ、さすがにそこまで細かく推理するような祖父母ではないはずだ。エルキュールポアロではあるまいし、些細な疑問点から事実を見つけ出すなんて真似はしないだろう。


 「どうしたの? お兄ちゃん?」


 姫奈は不思議そうな顔で、じっと見つめてくる。瑠央は笑顔を作り、姫奈の頭を撫でた。


 「なんでもないよ。行こうか」


 瑠央は姫奈の手を握り、歩き出した。



 今日のデートの目的である隅田川神社は、鐘ケ淵駅から歩いて十分ほどのところに建てられていた。名前のとおり、隅田川のそばにある神社だ。


 瑠央は姫奈と手を繋ぎ、神社を目指す。首都高が前方にあり、その下の位置する所に、隅田川神社があった。由緒正しい神社のようだが、首都高のせいで厳かな雰囲気が損なわれている気がした。


 隅田川神社について事前に調べた知識を、歩きながら姫奈に披露する。


 建立時期は不明で、隅田川の鎮守としての役割があるらしい。水上安全の守護神として尊敬されているという。


 基本、水上神が祭られている神社は、川や湖の近くに建てられており、治水の目的があるらしかった。そういった神社は水神宮と呼ばれている。


 隅田川神社には、速秋津日子神ハヤアキツヒコ速秋津比売神ハヤアキツヒメが祭られていた。その二人は、イザナミとイザナギを親とする男女の神であり、速秋津日子神が兄で、速秋津比売神が妹となる。


 水戸神とも呼ばれ、河や海を守る役割を持つ。日本神話に登場し、仲の良い兄妹であると同時に、兄妹で結婚し子供を授かっている。実にその数八人(八柱ともいうらしい)。


 「兄妹で愛し合って子供を生んだんだ。しかも沢山。素敵」


 姫奈はうっとりとした声で言う。恋愛ドラマの話をしているかのような風情であった。


 「そうだよ。二人は夫婦になったんだ」


 「まるでゲブ神とヌト神みたい」


 瑠央は思い出す。以前、姫奈が教えてくれたエジプト神話に登場する二人の神の名前だ。その二人も兄妹で愛し合い、結婚し、子供をつくっている。


 「うん。そうだな」


 瑠央は苦笑する。


 友人の時沢から隅田川神社の話を聞き、速秋津日子神と速秋津比売神を調べる過程でわかったことだが、古今東西、様々な神話において、兄妹愛、すなわち近親相姦は至極当然の行いであるというものだ。


 姫奈が言及したゲブ神やヌト神然り。オシリス神にイシス神、ローマ神話のカウノスとビュブリス。枚挙に暇がないくらいに。


 神々がその調子なら、人間の自分たちも兄妹で愛し合うことは何ら問題ないはずだ。兄と妹で結婚し、子をなすことすらも。


 少なくとも、それらの原典ないしは、創作された背景となった古の人々の間では、近親相姦はごく身近なものであったのだろう。


 しかし、現代では違う。父や祖父母のように、兄と妹が肌を重ねている行為を知った場合、一様に嫌悪の意思を示すのが常だ。世間的にも禁忌扱いで、家族間の性交は否定される。


 おかしいと思う。一番身近で、年の近い男女が惹かれ合うのは当たり前の話だし、最も多く長い時間を共に過ごしている以上、愛が芽生えるのは当然ではないか。


 瑠央は、姫奈にそのように主張をすると、姫奈も強く同意を示した。


 「私もそう思う。兄妹で結婚できないって変だよ」


 姫奈は頬を膨らませる。二人の仲が発覚したあの日の晩、姫奈も父に対して同じようなことを主張していた。やはり愛し合う者同士、思う部分は一緒だ。


 「正確には婚姻届とかの公式な許可は無理なだけで、結婚式自体は挙げられるだろうけどね」


 日本において、兄妹間の婚姻は法律で認められていない。だからといって、結婚式そのものが禁止されているわけではないのだ。同性愛と同じで、民間の結婚式場が許可を出せば、当たり前だが、式自体は挙げることが可能だ。


 「うん。そうだね」


 姫奈は微笑んで首肯する。その姿が、白いベールを纏った姫奈の花嫁姿と重なった。いつか訪れるかもしれない二人の晴れ舞台。禁断の仲である兄妹は、神父の前で永遠の誓いを立てるのだ。


 とはいえ、参加者は限りなく少ないだろう。兄妹の近親婚を祝福してくれる者など、世間にどれくらいいるのか。


 白い花嫁姿の姫奈は蜃気楼のように歪み、遠い未来の夢物語は、幻想となって霧散する。許されざる二人の男女の愛の行く末は、仇花のごとく散る定めなのかもしれない。


 やがて二人は、隅田川神社へとたどり着いた。



 鳥居をくぐって右手にある本殿で、二人はお参りを済ませた。本殿の柱には水龍をあしらった装飾が施されており、ここが水神を祀った神社であることをうかがえさせた。


 他の参拝客はまばらで、境内は空いている。そのおかげで、ここまでスムーズに事を進めることができていた。


 お参りをしたあと、二人は社務所でおみくじを買う。中身を見てみると、瑠央は末吉だった。姫奈のほうは吉である。


 「うーん、いまいち」


 姫奈は不満そうだった。瑠央に比べれば、充分良い結果だと思うが、大吉じゃないと認めないとも言いたげだった。


 「俺なんて、末吉だぞ。吉の中じゃあ、一番下だ」


 瑠央は、おみくじをひらひらさせながら言う。


 「だって、必死にお願い事をしたのに、大吉じゃないと叶えられなさそうだもん」


 姫奈は唇を尖らせた。


 「何をお願いしたんだ?」


 「二人で早く幸せな結婚式を挙げられますようにって」


 ここにくるまでの間、二人で交わした会話の内容が頭に残っていたのだろう。しかし、その結婚式は、誰も祝福してくれない寂しい結婚式になるはずだ。


 瑠央がそのことを伝えると、姫奈はあっけあらかんとした顔で応じた。


 「そんなの関係ないよ。だって、大切なのは私たちの気持ちじゃない。他に誰も参加者がいなくても、お兄ちゃんと結婚式を挙げられるだけで幸せだよ」


 「……そうだな」


 確かに、姫奈の言うとおりである。参加者がたとえ一人もいなくても、姫奈と瑠央さえいれば、それは祝福に値する行為なのだ。


 「お兄ちゃんは何をお願いしたの?」


 「二人でこうして会っている事実がばれませんようにって」


 「じゃあ、もしもばれちゃったら、速秋津日子神と速秋津比売神だっけ? 二人の神様の責任だね」


 「そうだな。その時は、その二人にクレーム付けなきゃな」


 「無理矢理にでも私たちの仲が復活するよう協力して貰おうね」


 二人は揃って、笑い声を上げた。


 それから瑠央と姫奈は、買ったおみくじを本殿の脇にあるおみくじかけに結んだ。


 作りかけの看板のような木の枠に、ワイヤーが何本も通されており、そこにおみくじを結ぶ形となっている。瑠央と姫奈の前に訪れた参拝客たちのものだろう、すでにいくつものおみくじが結ばれていた。


 中には結構色褪せているのも確認できるため、おみくじの回収や廃棄の頻度が低い様がうかがい知れた。一度結んだら、しばらくは飾られたままなのかもしれない。


 二人が結んだのは、空いている隅のほうだ。


 「これでオッケー」


 二人は満足気に微笑み合う。そして、境内を散策することにした。手を繋ぎ、まばらにいる他の参拝客に加わる形で、案内板を元に見て回る。


 境内には、他にも石亀や、船の碇を象った石像などが祀られていた。やはり水神社なだけあって、水に関するオブジェクトが多く散見された。記念碑も複数建てられており、ここが古くからある由緒正しい神社であることが証明されていた。


 一通り見て回ると、二人は隅田川神社を後にする。そして、墨田区にある他の神社もいくつか訪れた。予定どおりの『神社巡り』のデートである。


 やがて、昼になり、二人は近傍にあるスカイツリーに向かった。そこでランチを済ませ、そのままの足で、内部にある水族館でデートを行った。


 ペンギンやオットセイの可愛らしい姿を見物し、チンアナゴとクラゲの生態に詳しくなったところで、水族館の見学を終える。


 あとは、近場を観光だ。浅草や、周辺の神社を訪れることにした。


 ある程度デートを終えると、二人はラブホテルに入った。お互い、言葉を発することなく、自然に体が向かっていた。


 熱情が昂ぶっていた瑠央と姫奈は、貪るようにセックスをした。姫奈の体を突きながら、瑠央の脳裏に、速秋津日子神と速秋津比売神の姿がよぎる。彼らも兄妹で情痴の限りを尽くしたに違いない。兄は妹の、妹は兄の体を存分に堪能したのだ。


 ラブホテルを出た時には、すでに日は傾いていた。二人とも監視されている身分であるため、迂闊にいつまでも一緒にいるわけにはいかない。名残惜しいが、二人は別れることにした。


 姫奈と別れ、JRを使って、朝と逆走する形で千代田区を目指す。


 瑠央が自宅近辺に着いた時には、日が沈み、夕闇に覆われ始めていた。昼は晴れ渡っていたはずの空が、今は雲が広がっている。どこか、不気味な雰囲気が漂っていた。


 家へとたどり着き、ガレージを確認する。すでに父の車が止まっており、父が帰宅済みであることを示していた。どこに行っていたか知らないが、父は今、家にいるらしい。姫奈と早めに別れたのは、正解だったようだ。


 玄関を開け、家の中に入る。直後、瑠央は眉をひそめた。


 家の中が妙に静かなのである。テレビの音も聞こえて来ず、生活音もなかった。ホラー映画の世界に紛れ込んだような、不穏な空気を肌がとらえていた。


 明かりは点いているので、父は不在ではなさそうだ。しかも、土間にある靴を確認してみると、兼子もまだ家にいると思われた。


 訝しがりながらも、瑠央は廊下に上がった。それから何となく、忍ぶようにして廊下を歩く。


 居間の扉からは、光が漏れており、人の気配もあるので、やはり父がいることは確かのようだ。何をしているのだろう。嫌な予感がした。


 「ただいま」


 一応、声をかけながら、瑠央は居間の扉を開いた。その途端、はっとする。父の宗弘が、兼子を家来のようにそばに控えたまま、居間の椅子に座り、腕を組んでこちらを見つめている姿が目に飛び込んできたのだ。


 つまり、父は瑠央を待ち構えていたのだ。まるで尋問をする刑事のような様相で。


 氷のような冷たい感覚が、背中を撫でる。この感覚には覚えがあった。二年前のあの時。瑠央と姫奈の中が引き裂かれる契機となった出来事。その光景が、走馬灯のように目の前に展開された。


 破滅を告げる鐘の音が、脳内に響き渡っている気がした。


 父は、こちらを凝視したまま、口を開く。


 「瑠央、今までどこで何をやっていた?」


 問い詰めるような父の質問に、瑠央は唾を飲み込んで答えた。


 「家を出る前に兼子さんに伝えたけど、新宿に行ってたよ」


 「一人でか?」


 「う、うん。そうだよ」


 一拍間を置くと、父はテーブルの上に肘を突いた。そして、こちらを睨み付ける。刺すような強い眼差しだ。疑惑ではなく、確信が瞳の奥にあった。


 父は言い放つ。


 「お前、姫奈と会っていただろ」


 瑠央は一瞬、めまいに襲われる。眼前が、真っ暗に染まり、脈拍が上がった。


 ここで下手な反応をみせたら、一巻の終わりだ。慎重に対処しなければ。

 瑠央はできる限り、平静を装って答える。


 「会ってないよ。会えるわけないじゃん。連絡も付かないし」


 宗弘の眉がピクリと上がる。


 「そうか? だったらスマートフォンを見せてみろ」


 「……うん。いいよ」


 瑠央は素直に応じる。暗号化メッセンジャーアプリは、しっかりと機能しているはずだ。姫奈との連絡のやり取りの痕跡や、アカウント情報なども、一切合切、消え去っているに違いない。


 だから、ここで宗弘に見せても大丈夫。


 瑠央は、自分にそう言い聞かせながら、父にスマートフォンを渡した。


 父はしばらく、瑠央のスマートフォンを弄る。自分のプライバシーの塊である端末を探られるのは、やはり何度経験しても慣れない。


 やがて父は、隣に控えていた兼子にスマートフォンの画面を見せた。


 「このアプリか?」


 「ええ。お伝えしたように、メッセージを暗号化させる機能があるアプリです」


 兼子がさらりと衝撃的なことを口にする。


 瑠央は愕然とした。一体なぜ、兼子がそんな重要なことを知っているのだろう。いや、今はそれよりも、自分と姫奈のウィークポイントがすでに発見されている点に着目するべきだ。なんてことだろう。発覚してしまっていた。監視を看過する二人の秘密が。


 父はぎょろりとこちらに顔を向けた。表情は、学校に呼び出しを受けた保護者のように固い。


 「瑠央、お前このアプリを使って姫奈と連絡のやり取りをして、時々会っていたんだな」


 宗弘は、得心がいったという顔で聞いてくる。心のどこかで、ちょっとした疑惑を抱えていたのだろう。


 さあ、正念場だ。瑠央は覚悟を決める。ここで上手く取り繕わないと、姫奈との仲が今度こそ引き裂かれてしまうに違いない。


 瑠央は発言を試みる。


 「父さん、それは誤解だよ。そのアプリは元々インストールされていたものなんだ。だから、一度も使ってないんだ。それに、あの時を境に、俺は一度も姫奈と会ってないよ。証拠だってないでしょ」


 混乱する頭を振り絞り、出した言い訳だったが、どうだろうか。父と兼子の主張は、全て憶測である。証拠がないのは確かであった。


 瑠央の論駁を聞き、父は大きくため息をついた。心底呆れた様子だ。


 「将来、病院を継ぐであろう男が、そんな幼稚な答弁を。情けない」


 「どうして? だって、姫奈と会ってるという証拠、全くないよね?」


 瑠央が突っ込んで聞くと、父は一度天を仰いだのち、兼子へ向かって顎をしゃくった。


 「おい」


 兼子は頷くと、懐から何かを取り出した。なんだろう。瑠央は不安に襲われる。


 「こちらです」


 兼子はそれを父に手渡した。封筒のようだ受け取った父は、封を開け、中身を取り出す。


 「証拠がないと言ったな。これを見てみろ」


 父は中身をテーブルの上に放り投げた。手の平サイズの紙の束のようだ。


 瑠央は散らばった紙の束を手に取り、確認する。そして、それが『何なのか』を知り、衝撃を受けた。


 父がテーブルに放擲したのは、写真だった。現像されたL判サイズの写真。被写体は紛れもなく、瑠央と姫奈だった。


 仲良く手を繋いで路上を歩く二人の姿や、ラブホテルから出てくる二人の姿を捉えたものなど、まるで不倫の証拠のように写真に写っていた。その全てが、今日の『デート』の風景であった。


 「これは……」


 言い逃れできない証拠に、瑠央は脳天を殴られたような衝撃を受ける。どうしてこんなものが存在しているのだろうか。写真を撮られているなんて、一切気が付かなかった。だが、一体誰が実行したのだろう。


 瑠央の表情を読んだらしく、宗弘は説明を行った。


 「お前の行動が前から怪しいという兼子の報告があって、色々調査したんだよ。その結果、暗号化メッセンジャーアプリの存在を知り、疑惑が生まれたんだ。そして、俺は探偵を雇った。その探偵の手によって今日、証拠を揃えてもらったんだ。今の技術なら、現像なんてプリンターですぐ可能だからな」


 父は話を継いで言う。


 「さいたま市のほうにも連絡を入れているよ。姫奈も今頃は問い詰められているはずだ」


 瑠央は目を瞑りたくなった。万事休すだ。


 「私が甘かった。これから先は、もっと厳重に監視を行う。どれだけじゃない。法的措置も検討に入れる」


 これでは、姫奈との仲が終わりを迎えてしまうだろう。愛する妹と二度と会うことができなくなってしまう。


 父は、止めを刺すように言った。


 「今度こそ、徹底的にお前ら二人を会わせない。狂った愛の物語はこれで終わりだ」


 父は、瑠央のスマートフォンをテーブルの上に放り投げた。画面には、看過された暗号化メッセンジャーアプリが表示されている。


 見る限り、アプリの機能は不足なく動いているようだ。だが、、発覚に至ったのには、父が証言したように、兼子のちょっとした疑惑から、父に相談がいったためだろう。


 父の依頼を受け、兼子は暗号化メッセンジャーアプリの存在を調べ上げた。そして、そこから芋づる式に瑠央と姫奈の不審な行動がピックアップされていき、やがて疑惑は確信へと変わり、探偵を雇う流れになったのだ。


 なんてことだと、瑠央が歯噛みする。父だけではなく、兼子にも重々用心しておくべきだったのだ。


 瑠央は手を伸ばし、自身のスマートフォンを手に取った。その時だ。はっとする。脳裏にある考えが浮かぶ。


 状況を打開させる奇策。姫奈と再び会える強行手段。これしかもう方法はない。このままでは、永久に姫奈の笑顔を見ることが叶わなくなるのだから。


 だが、引き換えに色々なものを失う恐れがあった。高校生活や友人たち、医者になる将来、陸上部最後の大会など、砂のように崩れ去っていくだろう。だけど、それでも構わない。愛する妹と二度と会えなくなるくらいなら。


 瑠央はスマートフォンを手に持ったまま、二人に背を向けた。それから、その場を離れようとする。


 背後から父の怒声が飛んだ。


 「瑠央! まだ話は終わってないぞ!」


 だが、瑠央は父の言葉を無視して、居間を出た。そのまま玄関へ向かう。


 大きな足音が背後から迫ってくる。二つあり、父と兼子が瑠央を追ってきているのだとわかった。


 「待ちなさい!」


 父の静止を促す声が、後頭部に突き刺さる。だが、足を止めなかった。靴を履き、玄関から外へと出る。


 夜の空気が瑠央を包んだ。とうに日は沈んでおり、半目となった綺麗な月が、瑠央を静かに見下ろしていた。


 終電にはまだ充分時間がある。今からでも間に合うはずだ。


 瑠央はスマートフォンを耳に当てた。

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