第四章 約束
昨日、足立区での姫奈とのデートを楽しんだ瑠央は、晴れやかな気分で朝を迎えた。
スマートフォンのアラームとほぼ同時に起床し、一階へと降りていく。
リビングでは、朝食が用意されていた。味噌汁やご飯が、テーブルの上で湯気を立てて瑠央を待っていた。
「おはようございます」
瑠央は、毎朝やっているように、キッチンにいる人物に挨拶を行う。その人物が、朝食を作ってくれた本人だ。
すぐにキッチンから返事があった。
「おはよう。もうご飯できてますよ」
やや低めの女性の声が耳に届く。相手は
父と二人暮らしになってから、家事に支障が出始めた。父は仕事で忙しく、家事など持っての他であり、瑠央は瑠央で、一人馬力になったため、学業との両立が困難となった。
そのため、父は家政婦を雇うことにした。上瀬兼子には、平日の朝と夕方にハウスキーパーとして従事してもらっていた。
もしも、母が生きていたら、ちょうど今の兼子ほどの年齢だろうと思わせる女性である。
しかし、兼子は悪い人間ではないものの、母親代わりには到底感じられない相手なのは確かだ。母との容姿が似ても似つかない点もそれに拍車をかけている。母は穏やかな美人だが、兼子はやや目つきがきつく、教育ママ的な容貌なのだ。
「いつもありがとうございます」
瑠央は感謝の意を述べたのち、食卓に着く。対面には空になった食器が置かれてあった。父はすでに朝食を済ませ、仕事に出かけたことがうかがい知れた。
テレビで朝のニュース番組を観ながら、朝食を食べる。ニュース番組では、『闇バイト』の事件が報道されていた。
最近流行りなのか、多発しているらしく、瑠央と変わらないくらいの年齢の男が、闇バイトを介して得た依頼を受け、殺人事件と強盗事件を起こしたという。
ネットでの依頼を受け、犯人は家屋に侵入。対象を殺害し、金を奪って逃走した。当然、すぐに逮捕され、事件が明るみに晒される結果となる。
犯人は、わずか数十万の金と引き換えに、殺害を引き受けたようだ。依頼主については、現在捜索中とのこと。
ニュースを観て、瑠央は正直、馬鹿だと心の中で鼻白んだ。おそらく、このニュースを観た大勢の人間が共通して持ちうる感想だろう。はした金で凶悪な犯罪を犯す。このような真似を平気で行う者が、この社会に大勢いるのだ。
やがて瑠央は、一人での朝食を終えると、歯を磨き、母の仏壇に線香をあげた。それから兼子に声をかけ、家を出た。
瑠央が、青海高等学校の校門を通ったところで、スマートフォンに通知が届いた。
確かめてみると、姫奈からのメッセージだった。すぐさま、花が咲いたように、瑠央の心に炎が宿る。それは、愛の灯火が煌々と輝く、温かい魂。
瑠央はメッセージを読む。内容は他愛のないものだったが、瑠央にとっては神の啓示よりも崇高で、喜ばしいものであった。
瑠央は返信をし、スマートフォンをポケットに収めた。同時に、頭の中で、過去の光景が走馬灯のように蘇った。
あの時の――父に二人の関係が発覚された時の――辛くて苦しい過去の光景。
あの直後、二人の仲は引き裂かれた。姫奈は埼玉県にある祖父母の実家に引き取られ、会うことを厳禁された。
スマートフォンなどの通信機器も統制が入った。監視用アプリを無理矢理インストールさせられ、通話記録やメールを含めたメッセージの内容が全て、父のスマートフォンに表示されるようになった。
そのせいで、姫奈との連絡が一切取れなくなった。時折、父による抜き打ちのスマートフォンチェックも行われ、細工をしようものなら、即座に是正措置が取られた。
結果、姫奈との交流が一切不可能になったのだ。
姫奈と会えない日々は地獄そのものだった。生きていても仕方がないのでは、と思うほどに。
しかし、ある時、チャンスが訪れる。今にして思えば、運命とも言うべき僥倖であった。
日課の勉強を終え、自室でネットサーフィンを行っていた時のこと。とあるサイトにて、メッセンジャーアプリについて話題が上がっているのを発見した。
そのメッセンジャーアプリは、犯罪者組織や『闇バイト』において、実行グループたちが連絡を取るために利用されることが多いアプリケーションのことだった。暗号化メッセンジャーアプリといい、機密性が強い点が特徴である。
言うなれば、第三者にチェックされても問題がなく、偽装が容易いもので、秘匿したい相手との連絡に打って付けのシロモノだった。
監視用のアプリすら誤魔化せるらしく、原理の詳細は不明なものの、暗号化されることにより、システム的にメッセージとして扱われないので、監視アプリのチェックを看過可能であるということだった。
通話こそは誤魔化せないようだが、姫奈とのメールやメッセージでのやり取りが復活する可能性が示されていた。まさに、今の瑠央と姫奈のため、天が用意したかのようなアプリだった。
瑠央はさっそく、そのアプリをインストールしてみた。黄色と黒を基調としたアプリケーションデザインである。使い勝手は、一般的なメッセンジャーアプリと違いがなさそうだ。
しばらくの間、弄ってみる。それでわかったのが、このアプリは、メッセージそのものが、一定時間で全消去されるというものだ。おまけに、相手のアドレスや登録されたIPもクリアされる。
つまり、アプリの中身が短時間置きに一切合財、空になるのだ。その上、メモリからも完全消去されるらしく、解析されても復元できない仕様のようだった。
そして、黄色と黒を基調にしたデザインも、一見するとメッセンジャーアプリだとはわからない。ゲームのように見えた。
瑠央は、なるほどと思う。こういった機能を有しているのならば、確かに犯罪に使われるのも頷ける。連絡のやり取りも露呈しないし、相手の情報も消える。偽装も容易い。
アプリケーションには、メール機能も付いていた。瑠央はそのメール機能を使い、姫奈がメインで使っているメールクライアントのアドレスを入力した。そして、暗号化メッセンジャーアプリを添付し、本文に説明といくつかの指示を書き込んだあと、祈るような気持ちで送信した。
このアプリの機能が本当なら、父に悟られずに、妹の下へメールが届くはずだ。無事届けば、妹はアプリをインストールできる。そうなれば、監視用アプリをかいくぐって、二人での連絡のやり取りが可能となる。
『逢瀬』の予定を二人で組み立てることすらできるのだ。
少し待つと、姫奈から返信があった。メールではなく、アプリ内のメッセージとして通知がきた。
姫奈はちゃんと指示を守って、直接アプリにメッセージを打ち込んだようだ。これで父からの指摘がなければ、このアプリは有効であることが証明されるだろう。すなわち、本日をもって、二人のコンタクトが復活せしめるのだ。
瑠央は笑みを浮かべた。おそらく、目論見は上手く行くだろう。その確信があった。
再び、姫奈と『繋がる』時が、眼前まで訪れた瞬間だった。
「どうした瑠央。今日は何だか機嫌が良さそうだな」
休み時間、友人の時沢栄太から、そう質問を受けた。瑠央は少しだけドキリとする。
「え? そんなことないと思うけど」
瑠央が否定すると、永塚一誠も会話に加わった。
「俺にもそう見えるよ。良いことでもあったみたいに」
友人二人の発言を聞き、瑠央は腕を組んでしばし思案する。
実際、二人が言うように、気分はすこぶる良い。もちろん理由は、昨日姫奈とデートし、そのあと久しぶりにセックスをしたためだ。
しかし、その気分が外部に容易く漏れており、他者に悟られているとなると、由々しき事態なのかもしれない。最大の敵は、身近で同居している人間なのだ。下手をすると、瑠央の軽挙により、姫奈との『繋がり』が発覚する恐れがあった。
妹との逢瀬に成功し、浮かれてしまっているが、あまり良くない傾向だ。もっと気をつけるべきだろう。
「気のせいだよ。変わらないって」
瑠央はため息をついて言う。
「そうか? なんか楽しそうだったぞ。彼女でもできて、デートしたみたいに」
永塚が笑いながら言った。こいつ自身、適当な妄言を吐いたつもりなのだろうが、偶然にも的中した内容だったので、瑠央は困惑してしまう。
表情に出ていたのか、時沢が目を丸くした。
「どうした。まさかマジだったのか?」
瑠央は首を振る。
「だから、違うって、それより、お前の彼女の話をしろよ」
瑠央は、時沢のほうを顎でしゃくりながら言った。時沢は面長の顔だが、容貌は整っており、長身であることも相まって、それなりに女関係は派手な奴だった。
今も一つ下の女子と交際しているらしい。
「昨日デートしたんだって?」
話を変えたくて、瑠央は訊く。一つ前の休み時間、確かそのような話をしていた気がする。
時沢は質問を聞いた途端、目を輝かせながら首肯した。どうやら、自身ののろけ話を語りたくて堪らなかったようだ。
「そうそう。俺、昨日彼女と神社デートしてさ」
「神社デート?」
永塚が首を捻りながら聞き返す。
「ああ。東京近郊だけど、意外に色々な神社があってさ。楽しめたよ。大国主っていう偉い奴が祭られている縁結び神社や、兄妹なのに愛し合った水の神様みたいなのがいる神社なんかも回ったぜ」
時沢が自慢げに語る言葉の一文に、瑠央の心が反応した。
「兄妹で愛し合った? それってどんな神社だ?」
瑠央が興味を示したことに、気分を良くしたのか、時沢は胸を張るようにして答える。
「墨田区にある神社だよ」
時沢は具体的な場所を教えてくれる。瑠央は、メモこそ取らなかったものの、記憶の中に強く刻みつけた。
そして休み時間が終わる頃、瑠央は姫奈に暗号化メッセンジャーアプリを使って、メッセージを送った。
内容はもちろん、今度のデートについてだ。場所が決まり、姫奈に伝えたのである。
瑠央の脳裏には、荘厳な社を背景に、手を繋いで歩く二人の兄妹の姿が映っていた。
兄からメッセージがきて、姫奈は目を通す。
内容は、今度のデートの行き先についてだ。墨田にある神社が目当てらしい。
姫奈は了解の意を示した返信を行い、スマートフォンを制服のポケットに戻した。兄とのデートが確約され、誕生日を前にした時のように、心が躍っている。神社巡りだと言っていたけど、一体、どんな神社だろう。楽しみだな。
姫奈は鼻歌でも歌いたくなるくらいの良い気分で、廊下を歩く。
現在、姫奈が通う高校は、休み時間に突入していた。トイレを利用した直後、瑠央からメッセージが届いたのだ。
教室に戻る最中、姫奈は瑠央との情報のやり取りが復活した際の出来事を思い出していた。
父や祖父母の手によって、瑠央との『繋がり』が絶たれたあと、失意に暮れる姫奈の元に、はじめて瑠央からメッセージが届いたのだ。
姫奈はそのメールを受け取った当初、大きな危惧を覚えた。二人のスマートフォンは、父と祖父母の手によって監視されている。このメールの内容も、父たちに筒抜けではないのか。
姫奈は心配しながらも、メールを開き、目を通した。そこに書かれてあったのは、姫奈の予想を凌駕する驚くべき内容だった。
それは、監視している父と祖父母の目を欺く方法であった。添付されているアプリケーションをインストールし、そのアプリケーションを介してのメッセージのやり取りならば、第三者に把握される恐れがないとのことだ。
姫奈は当初、半信半疑だったが、心から信頼する兄からの情報なのだ。すぐに疑いの気持ちは晴れた。姫奈はメールの文面に記されていた兄の『指示』に従い、実行する。
アプリケーション内部のメッセージ機能を使い、兄へ文章を送信した。すぐに既読の表示がなされ、兄からの返信があった。このあたりの使い勝手は、他のメッセージアプリと違いはなかった。
兄からの返信を受け取った姫奈は、大きな喜びを感じた。久しぶりに取れた兄とのコミュニケーションである。泣きたくなるほどの感動があった。
兄が提供してくれたアプリケーションの実力は本物らしく、兄との連絡が復活しても、父や祖父母からのアクションは一切なかった。つまり、暗号化メッセンジャーアプリは、厄介者だった監視アプリの脅威を無効化してくれたのだ。
再び兄と『繋がる』ことができたため、姫奈に春が訪れた。乾いた大地に新緑の草花が生え、明るい世界が蘇った。
この調子なら、兄との『逢瀬』の計画すら立てることが可能だろう。
姫奈の人生に、再度幸せの日々が訪れた瞬間だった。
高校で所属している演劇部の活動が終わり、姫奈は友人たちと一緒に学校を出た。
夕日に包まれる中、姫奈たちは雑談をしながら、通学路を並んで歩く。話題は恋愛についてだ。
「姫奈ちゃん、何だか今日機嫌がいいね」
演劇部所属で、衣装係の
「え? そうかな」
姫奈は少しドキリとする。今日の休み時間、兄とのデートの約束が取り付けられたため、内心、とてもハッピーだった。しかし、その気分がだだ漏れだとすると、少し警戒心が不足しているのかもしれない。
なにせ、姫奈と瑠央の接触を禁止にしている祖父母と同居しているのだ。浅慮な態度は慎むべきだろう。
「うん。私も思った。姫奈、嬉しそうだもん。彼氏とデートの約束をしたみたいに」
そう発言したのは、やはり演劇部で姫奈と同様、役者をやっている
「彼氏なんていないし、デートの予定もないよ」
姫奈は笑いながら否定する。まさか兄との仲を告げるわけにも行かず、嘘を言うしかなかった。本音は、兄と兄妹の枠を超えた親密な関係を、街宣車のように大勢の人間へ吹聴したいのだが。だって、あんな素敵な人から愛され、そして愛しているのだから。
「もったいないよ。姫奈ちゃん。学校一のアイドルじゃん。彼氏がいないほうが不思議だよ」
中学校と同様、姫奈が通う百合山高等学校でも、姫奈はアイドル的存在だった。入学から間もないのだが、すぐに姫奈には男子からの人気が集中した。現時点で、すでに相当数の男子生徒から告白を受けている。
もちろん、その全てを断っているが。
「だって、興味ないもん」
以前にもどこかで交わしたような会話だと思いつつ、姫奈は留美の垂れ気味の目を見つめながら無難に答える。あまり恋愛話は長引かせたくなかった。どんなところから、兄との仲が露呈するかわからないためだ。
「どんな人がタイプなの?」
姫奈の意思に反して、恋愛話は続く。それも、テンプレートのような流れだ。
姫奈はため息をつきそうになるのを堪え、いつか行った会話と同じく、当たり障りない言葉で返した。
姫奈が友人たちと別れたのは、大宮区の高鼻町に入ってからだった。さいたま市の祖父母の実家に引き取られ、徒歩圏内の高校に入学してからは、いつも通っているルートであった。
高鼻町の住宅街を一人で歩く。夜の帳が降り始め、周囲の空気が静謐な冷たさに覆われ始めていた。六月初旬といえど、夜になると結構肌寒い。
だが、姫奈の心は、正反対に、春の木漏れ日のように明るく輝いている。
今度の休日に控えてある兄との『デート』が、楽しみでならなかった。兄の屈託のない笑顔を見るのが、今からでも待ち遠しかった。早く休みの日にならないかな。
兄との『デート』の期待や、将来二人で暮らす『白い家』の妄想をしながら、姫奈は祖父母の家へと到着した。
姫奈は、家を見上げる。祖父母の家は、二階建ての日本家屋だった。周囲の家よりも一回り大きく、庭も広い。傍目から見ても、裕福な家庭であることが一目瞭然であった。
その理由の一つに、祖父の職業が挙げられる。今は定年退職しているが、祖父は医者であった。現在は父が経営している谷花病院の元経営者であり、父が医者になったのも祖父の影響が大きかった。
祖父は引退後、埼玉県に引っ越しし、現在のこの場所に居を構えて生活している。
姫奈は明かりが漏れる玄関の前に立ち、引き戸を開けて中に入った。すぐに、夕飯の香りが鼻腔をつく。
姫奈はローファーを脱ぎ、家に上がった。
「ただいま」
姫奈が廊下に足を踏み入れると同時に、奥にある居間の扉が開いた。
「おかえり」
祖父の
「姫奈、スマートフォンを見せなさい」
祖父は、こちらに近づくなり、大きな手を差し出してくる。
姫奈は一瞬、兄との約束がばれたのかと怯んだが、祖父の様子を見る限り、違うのだとわかった。たまにある『抜き打ちチェック』のようで、祖父は姫奈の隙を突こうと待ち構えていたらしい。ようするにいつものことなのだ。
「う、うん」
姫奈はブレザーのポケットからスマートフォンを取り出すと、ロックを解除して、祖父へ渡した。下手に突っぱねても無駄だとわかっているので、ここは素直に従う他ない。
しばらくの間、修二郎は、姫奈のスマートフォンを弄る。孫のスマートフォンを祖父がチェックするという異常な状況にも加え、プライバシーの塊であるスマートフォンを他者に調べられるのは、裸に剥かれるような不快感と苦痛があった。だが。大元の原因は、兄と自分の情事なのだ。受け入れざるを得なかった。
監視アプリが姫奈のスマートフォンにインストールされている以上、友人を含め、連絡のやり取り全てが祖父母のスマートフォンに表示される。そのため、チェックは必要ないかのように感じるが、念には念を入れているのだろう。それだけ兄との接触を警戒しているのだ。
チェックが始まって二分ほどが経ち、祖父は納得したのか、スマートフォンを返してくる。
どうやら、怪しい部分は発見できなかったようだ。監視アプリを通じて、自身のスマートフォンに届いた姫奈のメッセージ類との記憶も一致したらしく、祖父は孫娘が清廉潔白である事実を認めたのだ。
つまり、これまで同様、暗号化アプリは祖父の目を看過せしめたのである。
「ご飯できてるからな」
満足気な表情の祖父は、そう言うと、居間へと引っ込んだ。姫奈は、ほっと息を吐き、そのまま階段を使い、上階へ上がった。
二階にはいくつか部屋が並んでおり、姫奈の部屋は二階の一番奥の部屋だ。一つ手前の部屋は、祖父母の寝室である。
姫奈は自分の部屋に入り、部屋着に着替えた。そして、自身のスマートフォンを手に取り、先ほど祖父がやっていたように、中をチェックする。
確認した限りでは、メールアプリやSNSなどのメッセージアプリのほとんどが開かれており、祖父が厳重な監視を続ける腹積もりである様が手垢のように残っていた。
そして、肝心の暗号化メッセンジャーアプリだが、開かれた形跡はあるものの、実際、祖父から何の指摘もなかった以上、彼は一切、二人の姦計を看過できなかったことを証明していた。
それもそのはず。兄とやり取りをしたメッセージの類は、初期化されたように消滅しているのだから。あて先のリストも今は空である。これでは、アプリ内部を見ても、ただのよくわからない未使用のメモ帳か何かのように映るだろう。
やはり暗号化メッセンジャーアプリは、有効に機能しているのだ。
それに、あて先が消えるからといって、不便はない。他のメッセンジャーアプリと連動しているため、すぐに送りたい相手のアドレスを呼び出すことが可能で、連絡に支障はなかった。
ただ、兄と交わしたメッセージが消えるのは少々寂しいが……。しかし、背に腹は代えられない。何よりも兄との関係が復活していることを悟られないようにしなければ。
姫奈はスマートフォンをポケットに入れると、夕飯の香りで充満している階下へと下りていった。
「そうか姫奈は、今度の劇で大きな役を貰ったんだな」
祖父の修二郎が、感心したように頷く。
現在、姫奈は祖父母と一緒に食卓を囲んでいた。今日の夕飯は揚げ物料理である。付け合わせで、サラダも用意してあった。
「うん。オフィーリアっていって、シェークスピアの登場人物だよ」
姫奈が説明すると、二人はさらに感心したように首肯した。二人がシェークスピアを知っているかどうかは不明であるものの、孫である姫奈が、一年生でありながら大きな役を勝ち取れた点については、本気で賞賛の念を抱いているのは感じ取れた。
「やっぱり姫ちゃんはすごいねー。自慢の孫だよ」
祖母の
祖父母とも同じ年で、今年ちょうど七十を迎える年齢だ。とはいえ、生活面や健康面では、まだまだ元気な二人である。
「亡くなった由美も天国で喜んでいるだろうな」
祖父が、味噌汁を啜りつつ、母について言及した。母が亡くなってすでに六年。例の件以降、一度も実家に戻っていないので、母の仏壇には線香をあげられていなかった。
「うん。お母さんに報告したいな」
試しに、千代田区の家に帰りたい気持ちを示唆してみる。二人はどんな反応をするのだろうか。
すると、修二郎は目を吊り上げた。
「向こうの家には瑠央がいるだろう。絶対に行かせないぞ」
父にも受け継がれている厳つい顔を、さらに厳しくさせ、祖父は拒否の念をあらわにした。
晴美もそれに追従する。
「そうですよ。あなたたちは兄妹で異常な行為をしたのよ。会わせるわけにはいかないわ」
晴美は嫌悪感を顔に浮かべた。あの時、父から聞いた内容を思い出しているのだろう。身震いするように、手で自身の腕をさすっている。
案の定、二人の反応は露骨なまでに否定的だった。当然なのかもしれないが、こうまであからさまだと、非常に悲しくなる。私たちはただ愛し合っていただけなのに。それが兄妹というだけで、これほど反応が変わるものなのか。
特に、二人は古風な人間であるため、近親相姦など想像すらできないくらいイレギュラーな行為なのだろう。
「わ、わかってるよ。行かないよ」
姫奈は素直に応じる。だが、祖父母は警告を止めなかった。
「少しでもお前が瑠央と会った形跡が見つかった場合、次こそ重大なペナルティを与える」
祖父は、断罪するようにきっぱりと言い放った。目が本気だ。
「うん。それもわかってる」
姫奈は素直に応じる素振りをみせる。下手な反抗は命取りだと思った。
会話が一段落し、姫奈は黙々と食事を口に運ぶ。そうしながら、心の中で誓う。
これから先も、決して父や祖父母に兄とのコンタクトが復活している事実を知られてはならないと。
知られてしまえば、今度こそ、二人の仲は破滅を迎えるだろう。
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