第三章 過去・発覚

 麹町駅から、東京メトロ有楽町線の列車に乗り、護国駅を目指す。


 瑠央は窓際に立ったまま、列車に揺られつつ、姫奈とスマートフォンでメッセージのやり取りをした。別れたばかりなのだが、一時でも長く姫奈を感じていたかった。


 しばらくすると、列車は高校最寄の駅である護国駅に到着した。瑠央はそこで降りる。


 この辺りまでくると、瑠央と同じ制服を着た生徒たちの姿も散見された。


 駅を出た瑠央は、線路に沿うようにして南下する。瑠央の通う青海高等学校は、駅から近い場所にあるため、十分も歩けばたどり着くのだ。


 程なくして瑠央は、学校へと到着した。玄関から校内に入り、靴を履き替えるため下駄箱を開けた時だった。内部に上履き以外のものが入っていることに気がつく。


 手紙である。ピンク色を基調にした可愛らしい便箋。


 瑠央は周囲の視線を確かめたあと、手紙を開いて目を通す。案の定、ラブレターだった。


 内容は、瑠央に一目惚れをし、好きになってしまったこと、瑠央が青海高校内でも抜きん出てモテるアイドル的な存在で、高嶺の花であることへの賞賛、それでも、瑠央の彼女になりたいことなどが記されていた。変わりばえのない、よくあるラブレターである。


 瑠央は通学鞄にラブレターを入れると、自分のクラスへと向かった。


 廊下を歩いている最中も、他の女子生徒たちの視線を何度か感じた。中には声をかけてくる女子もおり、瑠央は笑顔で応じる。


 自分のクラスへ到着し、引き戸を開けて中へ入った。結構早い時間帯なので、人はまばらだ。


 窓際近くにある自分の席に鞄を掛けた時、誰かがそばにやってきた。


 「おはよう。今日も恋文貰ったんだって?」


 クラスメイトで友人の時沢栄太ときさわ えいただ。長身の体を揺らしながら、尋ねてくる。なぜかこいつは、瑠央がラブレターを貰ったことを知っているのか。ついさっきの出来事なのに。しかも妙に古風な言い回しが結構むかついた。


 瑠央は仏頂面で訊く。


 「何で知ってんだよ」


 「見てたからな。こっそりとね」


 周りを警戒していたつもりだったが、どうやら下駄箱で出歯亀をされていたようだ。見知った奴の存在に全く気が付かないのは、不覚といえる。ラブレターを貰うことなど日常茶飯事であるため、油断をしていたことが要因と思われた。


 人間とはいくら警戒しているつもりでも、慣れた行為ならば、どこかしら綻びが生じるものであることをこの時瑠央は実感した。


 「お前の趣味が、のぞきだったとは知らなかったよ」


 「悪いって。もうやらないよ。それで、返事はどうすんの?」


 時沢は、好奇心をあらわにした表情で訊いてくる。


 「もちろん、断るさ」


 「なんでだよ。お前、この前も下級生からの告白を断ってたじゃん。彼女いないくせに、真面目君かよ」


 まだ無人である隣の席に、勝手に腰掛けながら、時沢は心底呆れたように言った。


 「余計なお世話だ」


 瑠央は本心を伝える。そう。妹以外との交際など考えたくもなかった。俺には心に誓った愛する相手がいるのだから。


 すると、時沢は意味深な様子で、こちらの顔をのぞき込んできた。


 「なんだよ」


 「……今更だけど、お前、こっちの趣味はないよな?」


 時沢は、右の手の甲を自らの頬に当て、オカマの意味を示す仕草をする。


 瑠央はため息をついた。


 「そんなわけないだろ」


 瑠央がそう言った時、今度は永塚一誠ながつか いっせいが登校してきた。


 「おはよ。どうしたの?」


 今日もまた高校生活の一日が始まった。


 「ごめんなさい。気持ちは嬉しいけど、彼女にはなれません」


 昼休みの最中、谷花姫奈は体育館裏に呼び出されていた。相手は同学年の男子生徒だ。


 相手の男子生徒は、こちらが気の毒になるくらい、意気消沈としていた。理由は、姫奈が愛の告白を断ったためだ。


 受験の際、志望校に落ちたらこんな感じになるかもしれない、と思わせるような反応である。


 「そ、そう、ざ、残念だよ」


 男子生徒は泣き出さんばかりの表情で、声を振り絞るようにして言った。


 そして、居心地が悪くなったのか、こちらに背中を向け、ふらふらとゾンビのように歩き出す。


 相手は女子からモテていると評判の男子生徒なので、まさか自身が断られるとは思っていない様子だった。プライドと自信の高さは、失意の底の深さに比例するものなのだ。


 玉手箱を開けたかのように、一気に老け込んだ男子生徒の背中を見送っていると、心が痛んでくる。だが、こればかりは仕方がなかった。


 私には将来を誓った相手がいるのだから。その相手を心から愛し、やがて家庭を築いて、子供を作る。素敵な家で――。


 テンプレートな家庭像だが、とても理想的だった。


 前に劇でやったローマ神話の女神ユノのことを思い出す。結婚や出産の象徴である家庭の守護神だ。その女神ユノに祝福されているかのような、魅力溢れる愛の世界を兄と築きたかった。


 告白イベントは終わりを迎え、教室に戻る。教室に入ると同時に、自分の席の近くに二人の女子生徒が座っている姿が目に映った。


 見知っている、友人の二人だ。


 「姫奈ちゃん、今日もモテモテだね」


 岸本花梨きしもと かりんが、くりくりした目をこちらに向けて言う。セミロングの髪が教室の蛍光灯の光を受けて、漆器のように輝いていた。


 「なんで知ってるの?」


 花梨はなぜか、姫奈が告白を受けたことを把握していた。


 「噂になってるもん。『またあの学校のアイドルの姫奈』が、男子から告白を受けるらしいって」


 花梨の代わりに答えたのが、登川瑞希のぼりかわ みずきだ。小柄でやんちゃそうな見た目である。


 「もう。皆のゴシップ好きは嫌になっちゃう」


 姫奈がため息をついた時、瑞希が興味深そうにこちらの顔をのぞき込んでくる。


 「それで、オッケーしたの?」


 「してないよ」


 姫奈は即答した。


 「なんで? 相手は河原君でしょ? めっちゃモテてる人じゃん。お似合いだと思うけどなー」


 「興味ないもん」


 そう。興味ないのだ。兄以外の男なんて。ましてや、付き合うことなど、考えたことない。いや、想像だってしたくなかった。


 「姫奈ちゃん、この前も男子からの告白を断ってたよね。もしかして男の子には興味ないタイプ?」


 花梨がなぜか目を輝かせるようにして、質問してくる。


 「そんなわけないでしょ」


 姫奈は首を振りながら、自分の席に座った。なおも二人の友人の質問は続く。


 「姫奈って、どんな人がタイプなの?」


 瑞希の質問を受けた途端、兄の姿が脳裏に蘇った。映画俳優にでもなれそうなほど整った容姿の人。彼こそが、姫奈の好み全てに合致している人物なのだ。


 「うーん」


 だからといって、ありのまま伝えるわけにもいかず、姫奈は悩む。こうなったら、適当な理想像をでっち上げて伝えようかな。


 「優しい人、とか? 悪そうな男の人はあまり好きじゃないかな」


 「それだけ? もっと他にあるでしょ」


 「そんなもんだよ」


 「嘘でしょ。正直に言いなさい」


 花梨がこちらの脇腹をくすぐってくる。姫奈は思わず笑い声を上げた。


 「もうやめてよ」


 姫奈は、花梨に笑ったまま訴えた。花梨のリスのような目が、遊んでいる最中の子供のごとく、細くなる。


 「顔は可愛いし、スタイルも抜群。男子からもモテモテなのに、好みが少ないとはなんだ! しかもこの大きな胸」


 花梨は、胸を触ってくる。花梨は、時折、過度なスキンシップをしてくるのだ。


 姫奈は花梨の腕をやんわりと撫でた。


 「だから、いい加減にしてってば」


 ふと周りを見ると、近くにいた男子たちがじゃれ合う二人を、じっと見つめてきていた。それらの瞳には、好奇と性欲が入り混じっている様が感じ取れた。


 兄以外の男から、性欲を向けられるなんて、とても耐え難い。身震いしたくなるほどの嫌悪感が、ミミズのように足元から這い上がってくる。


 花梨も周りの視線に気がついたのか、慌てて手を離し、詫びのつもりなのか、こちらの制服の乱れた部分を整えてくれた。


 同時に、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。



 「じゃあ、次はペース走いってみようか」


 須藤英博すどう ひでひろコーチの指導が飛ぶ。瑠央は軽いジョグを終わらせたあと、インターバルを取っている最中だった。


 現在、放課後であり、瑠央は部活働に参加していた。陸上部で、長距離走のチームに所属している。


 コーチの指示を皮切りに、瑠央と他の長距離走のメンバーは、再びトラックへと足を運ぶ。


 先ほどコーチが言及したペース走は、予め決めていたペースで走る練習法だ。瑠央の場合、およそ八キロから十キロが目安となる。


 ちなみにペース走と比較される練習法として、ビルドアップというものがあるが、こちらはペースを徐々に上げていく練習法である。


 上半身をストレッチしながら、瑠央はトラックに立つ。周りの長距離走の走者も、皆がレーンにスタンバイしている。このメンバーのほとんどが、今度の区大会に出場する予定だが、一体何人が本戦へと勝ち上がれるのか。


 「谷花! 準備はいいか?」


 スタートラインそばにいる須藤コーチが、大きな声で訊いてくる。声質が低い須藤コーチが、声を張り上げると、ヤクザのような厳つい容貌と相まって、ひどく恐ろしげに感じてしまう。


 「はい! 大丈夫です!」


 瑠央は慌てて大声で返す。


 「お前には期待しているからな。しっかりやるんだぞ」


 須藤コーチの励ましが、耳を貫く。


 「はい!」


 青海高校に入学し、一年足らずで頭角を現した瑠央に、コーチは大きく目をかけていた。二十年に一人の逸材とのこと。


 やがて、コーチのホイッスルが鳴り、ペース走が開始された。瑠央は、他のメンバーと共に、走り出す。同時に、スタートライン近くにあるタイム計測器がカウントを始めた。


 瑠央はペースを保ちつつ、走者の群れの中腹ほどを維持した。頭から足先まで一直線になるよう意識しながら走る。腕のストロークは小さめにし、肩の力をできるだけ抜いた。


 長距離走の基本走法である。


 走っているうちに、やがてランナーズハイが起こってくる。テンションが上がり、酒に酔ったような高揚感が押し寄せてきた。


 脳裏に、姫奈の姿が浮かび上がる。生まれたままの姫奈の姿だ。普段から知っている、宝石にも似た美しい肉体。


 今日も父の帰宅は遅いだろうから、たっぷりと二人は愛し合えるはずだ。

 瑠央は、大いに期待を寄せた。



 演劇部の練習を終え、姫奈は帰路に着いていた。演劇部の友達と共に、通学路をお喋りしながら歩く。


 六番街近くまでやってきたところで、姫奈は友達と別れた。今度は一人で、家を目指して家路を急ぐ。


 姫奈の心は躍っていた。そう時間が経たないうちに、兄と会えるのだ。デート直前の時のような、わくわくとした高揚感が全身を包んでいた。


 六番街にある自身の家へとたどり着き、姫奈は門を開けた。


 すでに日は傾いており、薄闇が空を覆っている。家は光が灯っておらず、無人である様を示していた。


 兄と父はまだ帰宅していないらしい。兄は陸上部の部活と、家との距離のせいで、姫奈よりも遅くなることが多く、父は言わずもがな、仕事で帰りは深夜近くになるだろう。


 普段通りの『日常』だった。念のため、電動シャッター付きの車庫を確かめてみても、父のシボレーは停まっていなかった。やはり、父は不在なのだ。

 瑠央はもうすぐ帰ってくるだろう。つまり、これから二人っきりの時間が訪れるのだ。


 姫奈は鼻歌交じりに玄関の鍵を開け、家の中へと入った。



 シャワーを浴び、夕食の準備を行っている時に、瑠央が帰ってきた。瑠央の顔も明るいことから、二人の時間を非常に楽しみにしていることがうかがい知れた。


 「おかえり。もうすぐご飯できるから、シャワーを浴びてきなよ」


 瑠央は陸上部の練習で疲れているだろうから、せめてもの労いの気持ちがあった。


 「ありがとう。そうするよ」


 瑠央はお風呂場へと向かった。


 会話を交わしながら、なんだが新婚夫婦みたいだな、と思う。瑠央は高校生、自分はまだ中学生なので、家を出るには早過ぎるが、あと五年もすれば、二人での暮らしも夢ではなくなるだろう。


 脳裏には、新居で生活する若い夫婦の姿がくっきりと浮かび上がっていた。木漏れ日のような愛に満ち溢れた世界である。


 妄想に酔いしれながら、姫奈はコンロに火を点けた。鍋の中には肉じゃがの材料が入っている。あとは温めれば完成だ。


 肉じゃがの他は焼き魚に、サラダの盛り合わせが用意してある。ごく標準的なメニューであり、学校生活と両立させるのなら、これくらいの料理が一番作りやすいのだ。


 やがて瑠央がシャワーから戻ってきた。瑠央は、キッチンに入り込むと、背後から姫奈を抱き締めてくる。我慢できないといった様子だ。


 「あともう少しで終わるからね。ちょっとだけ待ってて」


 首筋にキスを行う瑠央に、姫奈はやんわりと伝える。


 「待てないよ」


 瑠央は、キスを続けた。


 逸る瑠央を宥めながら、姫奈は何とか料理を終えた。コンロの火を消し、エプロンを外す。


 「お待たせ。行こう」


 姫奈は振り向くと、瑠央の首に手を回し、キスをする。それから、二人で手を繋いで、リビングを出た。


 そのまま瑠央の部屋へ直行する。気分はまさに、新婚夫婦そのものだった。燃え上がるような熱情は、すでに姫奈の胸を焦がし始めていた。


 父のシボレーの音は、聞こえてきていない。車庫にも車がなかったし、帰宅を報告する連絡もまだだ。それらの材料は、父の帰宅が遅いことを意味していた。


 安心し兄と肌を重ねられるということである。


 瑠央の部屋に入るなり、瑠央は姫奈の部屋着を脱がし始めた。姫奈は兄に身を委ねる。


 全裸になると、瑠央は優しくベッドまでエスコートしてくれた。そして、姫奈をベッドへ横たわらせる。同時に、瑠央も服を脱ぎ、裸になった。


 瑠央の引き締まった肉体が、姫奈の眼前に露出された。サラブレッドのように美しく、均衡の取れた肉付きだ。今までもそうだったように、つい見惚れてしまう。やっぱりお兄ちゃんの体は、ミケランジェロの彫刻のように素敵だ。


 股間にある性器も、逞しく起立している。自分の体を見て興奮していることを思うと、とても嬉しくなった。


 兄が、こちらに覆い被さってくる。姫奈は手を広げて、兄を受け入れた。


 兄は、胸元に顔を近づけ、舌で愛撫を始めた。兄の舌が、艶かしく肌の上を這い、姫奈は小さく声を上げた。始まったばかりだというのに、体はすでに火照り、股間が濡れていることを自覚する。


 少しの間、兄の愛撫が続く。姫奈の情欲が、さらに高ぶっていき、全身が敏感に研ぎ澄まされていった。


 「お兄ちゃん、早くきて」


 気がつくと、姫奈は哀願していた。どうしようもなく、兄を欲していた。愛する兄とすぐにでも一体になりたかった。


 兄は頷くと、こちらの膝を掴み、ゆっくりと両足を広げてくる。秘部があらわになり、兄の目に晒される喜びが、全身を包んだ。今、お兄ちゃんの目には、愛液に濡れた大事な部分がはっきりと見えてるんだ。


 やがて兄は、こちらに乗ってくる。コンドームを着けたペニスが、挿入されようとしているのだ。姫奈は、兄が自分の中に入ってくるのを心待ちにした。


 その時だった。信じられない現象が起こった。突然、部屋の扉が勢いよく開かれたのだ。


 姫奈と瑠央は同時に、部屋の入り口に顔を向けた。姫奈ははっと目を見開く。


 そこに立っていたのは、父の宗弘だった。鬼のような憤怒の形相で、ベッドの上にいる兄妹を睨みつけている。肩が怒りで震えている様が見て取れた。


 姫奈は混乱を来たす。どうして父がここにいるのだろう? 車のエンジン音は聞こえなかった。いや、それどころか、玄関を開ける音だとか、帰宅の際の音も一切なかった。まるで、最初から待ち伏せしていたような……。


 裸で抱き合ったまま硬直している二人に、父が罵声を浴びせてくる。


 「お前ら、兄妹で何をやっている! 怪しいと思ったら……」


 父は意味深なことを叫びながら、こちらに向かって駆け寄ってきた。


 「さっさと離れるんだ! 汚らわしい!」


 父は二人の間に分け入って、引き剥がす。姫奈は慌てて立ち上がり、ベッドの隅にあったタオルケットで、体を隠した。


 「瑠央立つんだ!」


 父は、兄の腕を掴み、ベッドから引きずり下ろすようにして立ち上がらせた。父のほうが体格は良いので、兄は成す統べなしだった。


 「お前、自分が何をやっているかわかってるのか!?」


 立ち上がらせるなり、父は兄の右頬を殴りつけた。無防備だった兄は、床へと倒れ込む。


 兄は反撃も何もせず、殴られた右頬を押さえ、じっと俯いていた。


 一体、どうすればいいのだろう。姫奈はこの危機的状況に、恐慌寸前だった。今すぐにでも、兄と一緒に部屋を飛び出したい。そんな願望が、脳裏をよぎる。しかし、足がすくんでそれもできなかった。


 父は、床に倒れている兄に対し、罵声を浴びせた。


 「兄と妹で性交するなんて、お前ら異常だぞ! 一体、何のつもりだ!」


 父は唾を飛ばしながら、怒鳴る。そして、無抵抗の兄を再び殴りつけた。


 しかも一度や二度ではない。倒れている兄へ、拳を打ち下ろすようにして、何発も殴打を繰り返した。


 「やめて!」


 瑠央が殺されちゃう。姫奈は父の腕へ裸のまま縋り付いて止めようとした。しかし、父に物凄い力で振り解かれて、姫奈はそのまま床へ倒れてしまう。


 父の怒りの矛先は、姫奈にも向けられた。


 「お前もだ。姫奈。実の兄とそんな関係を続けていて、恥ずかしいと思わないのか!」


 姫奈は唇を噛んで、父を見上げた。仁王のように、顔面が歪んでいる。今にも火が吹きそうなほど、怒りに満ち満ちている様子が伝わってきた。


 やがて、父は呼吸を整えると、自身のシャツの胸元を緩めた。自ら冷静になろうという行動なのだろう。


 ふと父の姿が普段着であることに今更気が付く。やはり、父は仕事から帰ってきたわけではないのだ。つまり、車はどこか別の場所にあり、父は家に潜伏していたことになる。それを意味するところは一つだ。


 幾分か落ち着きを取り戻した父は、息を吐くと口を開いた。


 「前々からお前たちの行動に疑問を持ってたんだ。だから、今日、仕事を休んで、家で待ち構えていたんだよ。気づかれないように、車は別のところに預けてな。そうしたら、案の定……」


 父は二人を交互に見比べた。瞳の奥底に、決意が漲っていることが見て取れた。


 父ははっきりと宣言する。二人にとって、絶望を告げる内容を。


 「お前たちは今後、別の家で過ごしてもらう。金輪際、二人を会わせない」


 死刑執行を言い渡された時のようなショックが、姫奈を襲った。


 二人を会わせない? 何を言っているのだろう父は。兄と今生、別れて暮らすなんて、そんなことになったら私は生きる希望がなくなってしまう。


 「そんなの嫌!」


 姫奈は悲痛に叫んだ。どうしてそこまで父は厳粛なのか。兄妹で愛し合っていただけなのに。


 「私たち、悪いことなんてやってないじゃない!」


 姫奈の声が部屋に響く。父は火が点いたように、かっと目を見開いた。


 「何を言ってるんだ! 自分たちのやったたことを自覚しているのか。兄妹でセックスなんて、悪いに決まっているだろ」


 「どうして? 愛し合う二人が体を重ねるなんて当たり前じゃない。兄妹だとか関係ないわ」


 姫奈は必死に主張を行う。


 父は心底、軽蔑した眼差しをこちらに向けた。父のこんな顔、初めて見る。そんなに変なことを言っているのだろうか。私は。


 父はため息をついた。


 「姫奈、お前は異常だよ。おかしな行為に慣れすぎて、正常な思考ができなくなっているんだ」


 父は床で倒れたままの兄を見下ろした。


 「お前もだ。瑠央。将来、私の病院を継ぐはずの者が、こんな真似をしているなんて恥を知りなさい」


 父は、冷酷な口調でそう言い放つ。


 兄は医者を目指しており、父の病院を継ぐ予定である。当然、大学に進学する場合、医学部が前提だ。


 兄がこれまで一切反論をしていないことを考えると、その辺りの事情が含まれている可能性が高かった。兄の進退の権利は父の宗弘が握っているも同然だからだ。


 兄に反抗の意思が存在しないのであれば、もう二人の仲は引き裂かれるがままである。万事休すかと思われた。


 しかし、違った。兄は姫奈との決別を決して認めるつもりはなかったのだ。

 兄は顔を上げた。決意が表情に溢れている。兄は口を開いた。


 「俺は姫奈をこの世界の誰よりも愛している。とても大事な存在だし、離れて暮らすなんて考えられないんだ。父さん、姫奈との仲を引き裂くのなら、俺は父さんの病院を継がないし、医者にもならないよ」


 兄は振り絞るようにして、そう言い切る。


 黙って聞いていた父の顔が、たちまち紅潮していく様を姫奈は目の当たりにした。青白い幽鬼の顔に怒りの血潮が満ち満ちていき、赤鬼に変わった瞬間だった。


 「いい加減にしろ! この馬鹿者!」



 父は怒鳴ると、兄の顔を殴りつけた。そして息を整えたのち、二人に言う。

 「私の気持ちは変わらない。私の両親にも事情を話して、協力してもらう。お前たちはこの先、ずっと会うことはさせない」


 父はそういい残し、部屋を出て行った。


 残された二人は、愕然としたまま、身動き一つできなかった。


 瑠央と姫奈。ヴィーナスの楽園のように、愛に満たされた二人の美しい世界が、崩壊を迎えた瞬間だった。



 そのあと、父の宣言のどおり、二人の仲は引き裂かれた。


 姫奈は、埼玉県にある祖父母の家に預けられることになった。そのため、学校も転校を余儀なくされ、友人たちとも決別をしなければならなかった。


 瑠央のほうは、これまでどおり、千代田区の家で父との暮らしが継続された。やはり病院の跡継ぎの件もあり、父は兄を手元に置いておきたいのだろう。


 兄との仲を父から知らされた祖父母は、ひどく憤慨し、軽蔑の目を向けてきた。『更生』との言葉が出てきて、祖父母による監視が始まった。


 情報も制限された。スマートフォンに監視用アプリをインストールさせられ、姫奈と瑠央の連絡のやり取りは、全て祖父母に筒抜けとなった。正確には、通話記録及び、メッセージやメールなど、全ての連絡の内容が、祖父母のスマートフォンの監視用アプリに表示されるようになったのだ。


 兄のほうも同じらしく、一切連絡がこなくなっていた。つまり、兄との『繋がり』が完全に消失してしまったのだ。


 インストールされた監視用アプリを消去する方法も考えたが、無駄だった。頻繁に走父母によるスマートフォンのチェックが入り、誤魔化す余地すらなさそうだった。


 かといって、別のスマートフォンを用意するにしても、結局は祖父母の監視があり、意味を成さないのだ。


 もはや八方塞がりである。


 姫奈は、兄がいない生活を送った。それは信じられないほどの灰色の世界だった。空虚で無機質な人生。草木が一切生えていない乾いた大地を延々と歩くがのごとく、茫漠とした毎日を送らざるを得なかった。


 このまま生きていても仕方がないのではないか。


 姫奈がそう思いはじめた時だった。


 兄から連絡がきたのだ。メールが一通だけ。何かが添付されており、文面には『指示』が書かれてあった。

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