凍えるような、私のつま先

品画十帆

第1話

 〈末端冷え性まったんひえしょう〉って、聞いたことがありますか。


 私はそうです、お医者さんに行っててもらいましたが、病気じゃ無いと言われました。


 筋肉の量が少ない事や、柔軟性が悪いのが、原因だそうです。

 そうかな、と思いますが、そうだな、とも思います。


 ちょっとだけですが体操をしたり、お風呂に入る時には、冷え性対策用の入浴剤を使うようになりました。


 だけど、一番効果があるのは、〈夫〉がしてくれるマッサージです。

 お風呂上りに、圧倒的に私をいやしてくれます。

 〈夫〉の優しさを、怖いくらいに感じる時間でもあるのです。


 私のために、わざわざ買って来てくれた、ハーブが香るオイルをって。

 爪の生え際はえぎわあたりを、はさむようにんでくれるのが、はぁ、とても気持ちが良い。


 足指の付け根つけねを、グルンと回してほぐしてくれるのが、ふぅ、すごく良い感じです。


 最後は足首をグルグルして、えっ、もう終わりなの、もっとして欲しいな。


 片足ずつ三十分以上マッサージをしてくれたので、私のつま先は、もう冷たくはありません。

 体もポカポカとして、満ち足りた気持ちになってしまうのです。

 幸せな気持のまま、私は眠りにつく事が可能になります。


 〈夫〉のマッサージが無いと、つま先が冷たくしびれて眠れない、私の体はそうなっている。

 〈夫〉は私に無くてはならない存在で、一番大切な人なんだ、この人と結婚出来て本当に良かった、と感謝してもしきれません。



 そんな幸せを、私は自分でこわしてしまった、もう、つま先が暖かくなる日はこない。


 臨時で採用された、アルバイトの大学生と、不倫をしてしまったのです。


 若い男の子に、「綺麗だ」「独身にしか見えない」「愛しています」「結婚してほしい」と、何度も何回も言われて、つい気持ちがかたむいてしまいました。


 魔が差した、出来心、寂しかった、とは言えません。

 だって〈夫〉は、毎日、つま先をマッサージしてくれていました。


 私の心は、それで満ち足りていたのですが、私の体の性欲が、満たされていなかったのかも知れません。

 男に抱かれたいと、私はそう思っていなかったのですが、事実抱かれてしまいました。


 刺激がほしかった、め言葉が心地良かった、女としてあつかってほしかった。

 どれも全くの嘘ではありませんが、決して本当でもありません、私はマッサージの後に必ず眠ってしまったからです。


 〈夫〉が私に愛をささやく時間も、私を抱く時間も、私は何も与えませんでした。

 〈夫〉が話かけようとしても、私はすでに目を閉じる寸前です、マッサージがそれほど心地良かったから。


 私は〈夫〉へ、安らぎも信頼も愛も、何も与えてなかったのでしょう、マッサージの感謝すらしていなかった事になります。


 優しさに付け込み一方的に搾取さくしゅしていた、傲慢ごうまんで許されない生き物。



 勤め先の忘年会の後、私と大学生の彼は、皆からわざとはぐれて、二人切りでバーに行きました。


 遅くまで飲んだため、私のつま先は、とても冷たくなっています。

 こおるようにつらくなってきたので、私は〈夫〉がしてくれるマッサージを無性むしょうに欲しくなったのです。


 強引にバーを出たのですが、大学生の彼がホテルへ行こうと、五月蠅うるさく言います。

 少しでも早く家に帰りたかった私は、「今日はキスだけ許してよ」と言いながら、彼に抱きついて情熱的なキスをしてあげました。



 それを〈夫〉に見られてしまったのです。



 遅くなったのを心配して、〈夫〉はむかえに来てくれたんだと思います。

 少し私の行動を、うたがっていたのかも知れません


 路地ろじの先に立っていた〈夫〉の顔を、私は一生忘れないでしょう。

 とても悲しい顔をしていました、頭からどうしても離れてくれないのです


 私はその場でくずれ落ちて、世界が終わったように感じ、幸せが逃げて行くのが見えました。

 つま先どころか、全身が冷たくなり、生きている気もしません。


 大学生の彼は、走って逃げて行ったらしいですが、そんな事を覚えているはずがないです。


 〈夫〉に問い詰といつめられて、私は全てを白状はくじょうしました、数回彼に抱かれた事をです、キスは何十回もしています。


 〈夫〉をとても傷つけましたから、もうこれ以上〈夫〉の感情を荒立あらだてないように、私は正直に話すしかありません。


 足首より下は絶対にさわらせていないと、付け加つけくわえましたが、私以外の人は足首より上の方が大切みたいです。

 〈夫〉に、「わざわざ、つま先を触ろうとする男はいないよ」と、ポツリとつぶやかれました。


 〈夫〉は「僕達は別れよう」、そう言ったと思います、とても静かな声でした。

 疲れている感じが、すごく心配になる声。


 私は、「はい。すみません」としか言えなかったです。

 〈夫〉が私を許さないのは分かっていました、〈夫〉の目を見れば分かります。


 「君を信頼していたんだけどな。 少しも気づかなかったよ。 僕の観察眼はまるでダメだな」


 〈夫〉が気づくはずはありません、不倫している最中も、私は〈夫〉を愛していたのですから。

 大学生の彼との関係は、肉体だけの事で、心は〈夫〉にありました。


 彼も私の体を抱きたいだけで、甘い言葉をささやいていたのです、私もそれは分かっています。

 それほどの、うぬぼれやでは無いのですよ。


 私はせめて〈夫〉の気持ちを優先したいと、直ぐ離婚届けにサインをしました。

 私が悪いのですから、せめてもの贖罪しょくざいです。


 慰謝料は必要ないと、〈夫〉は言うのですが、マンションを移る費用は負担したいと、申し入れました。

 〈夫〉が私と暮らした、この部屋を出て行く事は確実だからです。


 私は最後にもう一度、つま先をマッサージして欲しいとお願いしました。

 だけど当然ですが、〈夫〉は首を横に振ります、私はその時初めて泣いたのです。


 声を出して、オンオンと泣き続けたと思います。

 止めようとしても、止まりません、〈夫〉に申し訳なくて止まりません。


 後悔が止まらないよ。


 外でキスするなんて、私はバカだ。

 一回だけで止めようと思っていたのに。

 つま先は満ち足りていたけど、他はそうじゃ無かったのかな。

 お返しの意味で、〈夫〉の体をマッサージすれば良かった。

 いつ一緒にお風呂へ入るのを止めたんだろう。

 どうして私は寝ちゃったんだ。


 〈夫〉をこんなに傷つけて、何が愛しているだ、よく言えるな。



 アパートの部屋でポツンと一人でいる私は、つま先が冷たくて、仕方がありません。


 もうマッサージをしてくれる人は、いないのです、暖かい家庭を自分で壊しました。


 一人暮らしでは話す相手がいないため、どうしょうもない事ばかりを、考えてしまいます。



 〈夫〉が私以外の女に、マッサージしている想像をして、泣き叫んだ事もあります。


 マッサージの後で眠っている私に、キスさえしてくれれば、私は白雪姫かシンデレラになってあげたのに、なぜ何もしなかったの。

 私に優しすぎた〈夫〉を、うらむ気持ちにもなりました。

 

 王子様にするみたいに、永遠の愛を〈夫〉へささやいて、つま先と一緒にポカポカになった体を、喜んで自由にさせたでしょう。

 次の日も、つま先にマッサージをしてもらわないと、私は困ってしまうもの。


 私はどうして浮気をしたんだろう。


 〈夫〉に不満があった訳じゃない、それどころか、つま先へのマッサージだけで充分以上満足していた。

 それ以外のことに、気を取られて欲しくなかった、それが、いけなかったんだ。


 〈夫〉は私にとって、すでに完璧だったから、他には何もして欲しくなったのかな。


 それは、言い訳いいわけね。


 つま先のマッサージ以外のことを、して欲しくなかったんだ、と思う。

 つま先のマッサージだけに、集中して欲しかったんだ。


 それほど私は、〈夫〉がしてくれる、つま先へのマッサージを愛していたんだ。

 〈夫〉も愛していたと信じている、マッサージと〈夫〉は切り離せるものじゃないから。


 だったら、どうして私は浮気なんかをしたんだろう、今になっても、自分でもよく分からない。


 見つかるはずが無いと、思い込んでいたんだろうな。

 これで最後といつも思っていたし、アルバイト期間は、もう一月も無かったはずだ。


 でももう遅い。


 あれほど優しく丁寧ていねいに、つま先にマッサージをしてくれる人はいないよ、あんなに私を愛してくれる人がいるはずが無い。



 自分でさすっているつま先へ、涙が落ちてこおるようだ、だけどその涙が凍ったものは、透明じゃないと思う。


 〈夫〉も愛していた、だと、お前は、ただマッサージが恋しいだけじゃない、一生凍こごえて生きなさいよ。


 それが私に相応ふさわしいと思います。

 明日のお昼休みに、靴下にはるるタイプのカイロを、買おうとも思います。



    ― 完 ―

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

凍えるような、私のつま先 品画十帆 @6347

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画