On a Moonlit Night

佐倉千波矢

On a Moonlit Night

なにかの気配で相良宗介は目を覚ました。即座に身を起こして足下に散らばっていた衣類を手早く身につけながら、物音を立てることなく窓際に寄り、薄地のカーテンの端から外の様子を窺う。

 原因はどうやら猫のようだ。バルコニーにあるエアコンの室外機の上に、隣家の飼い猫が座り込んでいた。ひとしきり後ろ足で首筋を掻いてから、その白猫はひょいと手すりに飛び乗って伝い歩き、やがて視界から消えた。

 他にはこれといってなにも感じられないが、念のために数分その場で待機した。さらに、室内からでは死角となる場所を目視するために、掃き出し窓をそっと開けてバルコニーに忍び出る。

 長年の習慣が彼の心身を自動的に動かす。

 宗介は、自ら戦場に戻る意志をなくしたが、千鳥かなめを守るという任務を一生自分に課すと決めていた。かなめ専属の「護衛」を勤める限り、習慣を変える必要はない。

 ささやきに関して、当人たちにとってはケリが付いていても、そう考えない者は多いだろう。これまでに囁かれた知識が、そのままウィスパードたちの脳内に残されているのも事実だ。

 現に警察庁と防衛庁がそれぞれでかなめの身辺を探っている節がある。時間が経てば他国──特にアメリカやソ連、ひょっとするとフランスも──が、なにかしら接触を図ろうとしてくるとも考えられる。

 表だった脅威(アマルガム)はなくなっても、その影に隠れていた別種の危険はまだうんざりするほど存在した。

 一通り周囲を伺い問題はないと納得すると、宗介はようやく警戒を解いた。

 そのままバルコニーの隅から夜空を仰ぐ。さほど風情を解さない宗介ですら感心するほどの、見事な満月が望めたからだ。

 常よりもひときわ大きな正円の月は、中天より数時間分だけ西に傾いていたが、ちょうどいい具合に、遮るような建物がない位置にあった。皓々として、眼下の街灯を圧倒するほどの輝きを放つ。寝静まった街に降り注ぐ白い光は、物の影がくっきりと映るほどだ。濃紺の空を背景にし、そのコントラストも美しい。

 かなめを起こして、この月を見せたい。

 宗介は一瞬だけ思った。

 だがすぐにその案は却下する。なにしろ彼女は寝起きが悪い。

 日頃から睡眠時間の短い宗介はすでに十分な睡眠を得ていたが、彼女にはまだとうてい足りてはいないだろう。無理矢理起こしたところで、不機嫌そうに苦情を言い立てられるのが関の山か。

 あるいは、猫の気配にさえ反応して起き出した自分のことで、逆に余計な心配をかけるかもしれない。それはそれで、やはり困る。

 宗介は我知らずに苦笑を浮かべた。

 室内に戻る。後ろ手に窓を閉めながら、ベッドに横たわる眠り姫を見下ろした。

 当のかなめは、なにも気付かずに穏やかな寝息を立てている。カーテン生地は遮光タイプではないが、さすがに室内は暗がりが主導権をもち、夜目の利く宗介でも物の形がぼんやりとわかる程度だ。

 かなめの顔を見たくなって、宗介はカーテンを少し開けると月光を部屋に導き入れた。

 ちょうどこちら側を向いている少女の寝顔が、月明かりに照らされてはっきりとする。

 長いまつげ。すっきりした鼻梁。ふっくらとした唇。形のよい頤。

 ひとつひとつを一年前の記憶の彼女と照らし合わすように見つめる。

 心地よい眠りの中にいるのだろう。かなめは安らかな表情を浮かべている。昼間には一年前より明らかに大人びたと感じたが、今は眠っているせいなのか、どこか幼げだ。

 突然、胸の奥のほうを誰かの手でぎゅっと掴まれたような感覚がした。

 それが愛おしさや切なさといった感情から生まれるのだと今では理解している。力一杯に少女を抱きしめたい衝動に駆られたが、代わりに髪を一房取り上げて口づけ、それだけで我慢した。

 宗介は、かなめの顔を飽きずに眺め続けた。

 一年と少しの期間を離ればなれに過ごし、今日ようやくこの場所に二人して戻れた。陣代高校の校庭で再会して以降は元二年四組のクラスメイトたちに囲まれていたので、実際に二人きりになったのは夕刻の帰宅時だった。

 駅からマンションまでの道のりを、いつかのあのときをやり直すかのように、二人は手を繋いで並んで歩いた。

 宗介には話したいと思っていたことがいくつもあったはずだ。それなのに、いざとなるとなにをどう言えばいいのやら迷うばかりで、口を一文字に結んだまま、なに一つ言葉にできずにいた。

 一方のかなめも、なにか言いたげな様子なのだが、やはり話すまで至らない。時折困ったように笑ってみせるだけだった。

 二人は黙ってゆっくりと帰路を辿った。

 やがて、かなめの住むマンションのエントランスに辿り着いた。期待どおり部屋に寄っていくように誘われて、宗介は当然ながらそれに応じた。少女のはにかんだ笑顔はあの日あの時のものとまったく同じで、時間が戻ったのかという錯覚すら覚えた。

 だが、部屋に入っても邪魔者はいない。久々にかなめの手料理を堪能し、ようやくぽつりぽつりと互いの一年を話し始めた。

 そしてその後は、思いを伝え合い、今に至るわけだ。

 ふいにかなめが身動きをし、なにか呟いた。

 起こしてしまったのだろうかと宗介はハッとしたが、寝返りを打って向こう側に向き直った彼女に、目覚めた様子はない。そのまま寝息がまた安定したのでホッとし、同時に一抹の寂しさを味わった。

 寝返りのはずみでか、彼女の肩が掛け布団からはみ出てしまった。直してやろうとアッパーシーツに手を掛けたところで、宗介は動きを止めた。

 枕元に広がった漆黒の長い髪が流線の模様を描き、彼女の肩口の白さを際立たせている。そのさまに見とれる。

 ふと思いついて、彼女の髪を掻き分けて首筋をさらした。

 宗介は静かにそこに唇を寄せて軽く吸った。

 かなめが起き出す気配はない。彼女の深い眠りを妨げるほどではなかったようだ。

 そこで、同じ場所を今度は強く吸った。

 痛みを感じたのだろうか、かなめが逃れるように身体を少し遠ざけた。とはいえ目を覚ましたわけではなく、寝息にはすぐに規則正しさが戻る。

 アッパーシーツを掛け直す前に、宗介はもう一度少女の髪を寄せて、自分が唇を落とした首筋を確認した。

 冴え冴えとした月光が、かなめの白い肌とそこに刻印された痣を照らす。

 月明かりの中でだけ許されるいたずらだ。

 朝になったら、目覚めた彼女に怒られるかもしれない。それに数日も経てば鬱血は消えてしまうだろう。それでも今この場で目に見える形として、彼のつけた痕はしっかりと彼女に残されている。

 それが自身の独占欲の現れという自覚のないまま、彼はちょっとした満足感を得た。

 宗介はおもむろに窓辺に寄ると、カーテンを静かに引き、しっかりと閉ざした。月の光が遮られて、室内は再び薄暗がりに沈んだ。

 この部屋に新しい朝が訪れるまで、まだ数時間が残されている。


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On a Moonlit Night 佐倉千波矢 @chihaya_sakurai

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