第8話 病み酒はトラブルの元です
少し足を延ばして青山一丁目までやって来ると、先日の『Vintage Voltage』に陣の先導で入った。
慣れた足取りからすると、きっと陣の行きつけのお店なのだろう。カフェバーが行きつけだなんて、さすが青山男子はおしゃれだ。
「いらっしゃいませ」
出迎えたウェイターに片手を上げると、陣は案内を待たずにまっすぐカウンターの奥へと向かった。
「七瀬センセー、上着掛けるから」
「あっ、すみません」
陣が壁のコートハンガーに七瀬の上着も掛けてくれる。そうしてカウンター席に着くと、メニューを開いて目の前に置いてくれた。
「陣さんは何を飲みます?」
「僕はエールにしようかな」
メニューにはビールだけで九種類もある。
先日は「ビールで」の一言で出てきたが、その場合は最もポピュラーなラガービールが出てくるようだ。
詳しい説明書きもあるので、目移りしながらそれを眺めていたら、バーテンダーがあたたかいおしぼりを出してくれたので、おすすめを聞いてみた。
「女性のお客さまには柑橘系のホワイトエールや、ベリーフレーバーの甘酸っぱいフルーツビールが人気ですよ。でも、僕のお勧めはシナモンメープルエールですね。メープルのほんのりした甘みとシナモンが効いた、うちの冬季限定ビールです」
「冬季限定……じゃあ、それにします」
「かしこまりました」
カウンターに設置されたビールサーバーからバーテンダーがグラスにビールを注ぎ、二人の前に置いてくれたのだが……。
「それで陣、彼氏持ちの女の子をさっそく口説き落とした?」
と、いきなりバーテンダーがにやにやと陣に笑いかけた。
「そんなんじゃないから! 先生に失礼だろ。すみません七瀬センセー、こいつ、僕の兄なんですが、よく客商売が務まるなってくらい、デリカシーのない男で……」
陣が大あわてでフォローを入れたが、驚いたのはバーテンダーの発言ではない。
「――陣さんの、お兄さん!?」
「はい、こんにちは。七瀬センセーですよね。先日もご来店ありがとうございました。僕はこの店の店長で、陣の兄もやってます。
「ええ……」
カウンター越しににこにこしている男性の顔をまじまじと見つめた。
潤は少しだけ長めの後ろ髪を一つ縛りにしてオールバック、いかにも自由業に就いてますという風貌だ。
顔立ちは、言われてみれば似てるような、似ていないような……。
でも高身長で体格がいいところはよく似ていた。
「あ……、先日はお騒がせして申し訳ありませんでした」
宗吾とちょっとした騒動を起こしたとはいえ、一見の客なら店のスタッフもすぐに忘れてくれたかもしれない。
でも、店長の弟が関わった件なら、みんな覚えていることだろう。
「いえいえ、日常茶飯事なので気になさらないでください」
たぶん、フォローしているつもりなのだと思われる。
先日の件にはなるべく触れたくないので、七瀬もそれ以上この話題を引っ張るのはやめ、話題を変えた。
「お兄さんのお店が行きつけなんて、すてきですね」
「タダ飯にありつこうとしてる卑しい根性なんですよ」
「いやいや、ちゃんと支払ってるから。人聞きの悪いことを言わないでくれないかな」
――こうして三門兄弟と話が弾み、勧められるがままたくさんの料理を味わった。
先日は七瀬の話ばかりしてしまったが、今日は陣のことをいろいろ教えてもらった。
三門兄弟は三人いて陣は末っ子、長兄の
話してくれたのは主に潤だったが……。
普段あまり関わりを持たない層の人たちとの話はおもしろくて、ほとんど聞き役に回っていたが、おかげで嫌なことは記憶の隅に追いやることができた。
むしろ、隅に追いやるために必死に飲んでいたというか……。
「七瀬センセー、すこしお酒のペース早くないですか?」
一時間が経過する頃にはすっかりリラックスしていて、口当たりのいいビールやカクテルをどんどんお代わりしていた。
「大丈夫です、私そんなに酔わないので。それに、潤さんのお店のお酒、すごくおいしくて」
「気に入っていただけて光栄です。でも、ちょっとアルコール度数を落としたカクテルにしましょうか」
「大丈夫ですって」
真顔で答えているつもりなのだが、陣がやけに心配そうな顔をしている。
「どう見ても酔ってますよ。一旦お水にしましょうか。兄貴、チェイサー」
水のグラスを差し出されたので大人しく飲んだが、まだカクテルグラスに半分残っていたマルガリータをこくんと飲み干した。
ライムのさわやかさと、グラスの縁についた塩が絶妙だ。
「センセ、一気飲みは……! それアルコール高いやつ! テキーラですよ!?」
「ちょっとだけじゃないですかぁ」
しかし、グラスをとんとテーブルの上に置いたら、急に視界がぐらつき、思わず突っ伏した。
「先生、大丈夫ですか」
「大丈夫です。ちょっとだけ、静かにしてれば落ち着きますから……」
頬が熱くて、ドクンドクンと脈打っているのがわかる。深酒はしたことがなかったが、これが酔っぱらうということなのだと、妙に納得するものがあった。
「――今日は会ったときから、元気なかったですよね。無理に笑ってるみたいでしたし。何かあったんですか? 差し支えなければ」
潤がスタッフに呼ばれて向こうへ行ってしまったからか、陣が低く穏やかな声で尋ねてきた。
相手の属性を考えたら、プライベートの悩みなんて口にするべきではないのだ。でも、酔っていないつもりでも、しっかり酒で舌が軽くなっていた。
「……やなものを見ちゃったんです」
「やなもの?」
「出張に行くって言ってた彼氏が――表参道で、女の人とデートしてました……」
「え――?」
体を起こし、お冷のグラスを頬に当てたら冷たくて気持ちよかった。
「見間違いとかじゃなくて?」
「見間違えないですよ。三年くらい付き合ってる人ですから。それに、私のあげたコートを着てたし……」
せっかく忘れていたのに、やっぱり瞼の裏にあの光景がよみがえってくる。いくら人と話そうと酒に逃避しようと、そうそう衝撃の記憶は消えてなくならない。
「九州に出張って言ってたんです。私は表参道にはめったに行きませんけど、行動範囲の青山が目と鼻の先なのに、嘘までついて近隣でデートするなんて、詰めが甘すぎると思いませんか……」
どうせ嘘をつくなら、徹底的にバレないようにするべきではないだろうか。
「いや、まあそれはそうなんですが、裏切ってることを隠したまま付き合い続けるって、一言で言って最悪じゃないですか。早々に発覚してよかったと思いますけど」
「私、どうすればいいんでしょうね……。明日、彼が帰ってきても、何食わぬ顔で出迎えるべきですか……」
ぼやいたら、陣が固まった気配がした。
「――もしかして、同棲してるんですか?」
「はい。かれこれ、二年半くらい? 出張と嘘ついて女性と表参道を歩いてたのは、浮気と断定してもいいんでしょうか……」
氷が溶け、グラスの底に溜まった水を喉に流し込んでから、七瀬はふたたびカウンターに突っ伏した。
陣が何か答えてくれた気がしたが、その答えを頭が理解する前に意識が遮断された。
心が乱れていると、なぜかお酒の回りも早いようだ。
そのモラハラ彼氏、いらないでしょ? ~君を略奪するって決めたから 朝霧なる @asagirinaru
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