第7話 その出張、嘘でした

 今回の不機嫌はどのくらい継続するのか不安だったが、二日後にはどうにか通常運転に戻っていた。


 謝罪があるわけではなく、突然いつもどおりのテンションに戻るのだ。一人で気を揉んでいる自分がときどき馬鹿みたいに思えてくる。

 それでも、思ったより早く機嫌が直ってよかった。心の底から安堵した七瀬だ。


「今週の金曜から部長と九州出張だから。土曜に帰る予定だったけど、せっかくだからそのまま延泊して日曜日の夜に帰るよ。週末、一人にさせて悪いけど」

「出張なんだ、大変だね。がんばって」


 普通なら、どこへ行くのか等の会話が続くだろうが、なるべく地雷に触りたくないので、余計な質問はしないと決めた。

 口は災いの元という言葉が身に染みる。


 どうしてここまで気遣いをしながら一緒に暮らしているのだろうと、ときどき疑問に思うことがある。でも、二年以上一緒に暮らしている人と、すぱっと関係を切るのは難しいし、愛情だってもちろんある。

 でも、その愛情は永遠不変のものではなくて――。


 金曜日、スーツケースを持って出かける宗吾を見送り、久々に気負いのない週末を過ごしている。

 付き合い始めた頃は、とにかく一緒にいることが楽しくて、ひと時も離れたくないくらい好きだったのに、今は一人で行動するのが気楽でどうしようもない。

 まだ結婚もしていないのに、すでに倦怠期の夫婦みたいだ。


 結婚話が本格的になってきたら、一度ちゃんと話し合おうと思っている。仕事のことも、すぐ物に当たり怒鳴り散らす悪癖を直してほしいことも。

 今のままでは、結婚なんてできない――。

 でも、それを彼に直接言ったら、ものすごく詰められそうな気がしている。揉めずに話し合うにはどうしたらいいのだろう……。


 土曜日の夕方、表参道にあるスタジオ本部に顔を出し、来週の土曜に開催される名古屋スタジオのワークショップの件でミーティングをした。

 名古屋スタジオに赴き、七瀬が講師として開催するのだ。これは三ヶ月前から決まっていたことなので、宗吾ももちろん知っている。忘れてはいるだろうけど。

 ただ、ここ最近のギスギスした空気で、なんとなく口に出せずにいる。


(金曜前乗りで、日曜まで泊まりで行くって言ったら機嫌が悪くなるかな……)


 ワークショップは土曜の昼間だけだが、日曜日はプライベートで名古屋スタジオ講師のクラスを受講する予定なのだ。

 宗吾の反応を心配したが、彼だって出張先で延泊して羽を伸ばしてくるのだし。


 ヨガ講師として、他の講師のクラスを受講するのは大事なことだ。名古屋スタジオにも憧れのベテラン講師がいるので、是が非でも受けたい。その経験は自分の糧にもなるから。


 ――いちいち、自分の行動に対して、彼への言い訳を考えなければいけないことに、ふと疑問を抱いたときのことだった。


「やだ、宗吾さんってば!」


 七瀬の前方から、そんな女性の声が聞こえてきた。

 土曜日の表参道はとても賑わっていて、友人同士やカップルが大勢歩いている。七瀬の前にも仲睦まじそうなカップルが歩いているのだが、その後ろ姿は紛れもなく。


(宗吾さん……!?)

 前を行く二人は七瀬と同じ方向に歩いているので、こちらからは背中しか見えないが、恋人の後姿くらいはすぐにわかる。

 昨日、スーツで出かけた宗吾だが、今日はおしゃれなブラックのチェスターコートに白のスリムパンツを合わせたカジュアルな服装だ。去年のクリスマスに、七瀬がプレゼントしたコート。


 隣を歩くのはたぶん、先日新宿駅で見かけた栗毛の女性。

 今日は先日よりも念入りに巻き髪を作り、白いベレー帽に白黒のチェック柄コクーンコート、白いロングスカートで、誰がどう見てもデート中の美男美女カップルそのものだ。


 思わず足を止めそうになったが、後ろから歩いてくる人が大勢いる。立ち止まることはできずに、二人の後姿を見ながら、七瀬もそれについて行かなくてはならなかった。


(出張、嘘だったんだ……)


 前を行く二人の後ろをとぼとぼと歩きながら、下向きになる。

 では、昨晩はどこに泊まったのだろう。今夜はどこに泊まるのだろう。

 二人が笑い合い、彼女の方を向いた宗吾の横顔が見えた。

 いつもかけている眼鏡はなく、七瀬に向けることのないやさしい笑顔を、彼女には向けている。


 二人は表参道の交差点を曲がって原宿方面に向かったので、七瀬はうつむき加減に直進し、何も考えずに足が向くまま、逃げるように表参道から立ち去った。

 今のワンシーンを、どう捉えればいいのだろう……。

 頭の中が空っぽになってしまって、何も考えられない。これが浮気じゃなければ、何を浮気と言うのだろうか。誤解? 何をどう曲解したら誤解という結論になるのか。


 新宿駅で見かけたことを話したら、異常に怒っていた。あれは、宗吾自身の後ろめたさの表れだったのかもしれない。

 二人の後をつけようなんて微塵も思わなかった。彼らの姿は見たくないし、どこへ行くのかも知りたくない。


「…………」


 ふと気づけば、南青山スタジオの近くにいた。無意識に、よく知っている場所まで来てしまったようだ。


 十二月に入って急に冬が訪れ、今日は天気はいいものの気温は低いし、夕方になって風も冷たくなった。

 辺りが暗くなり始めた頃、北風が吹きつけてきたので、マフラーを引き上げて耳まで埋もれたときだった。


「七瀬センセー?」


 背後から、最近よく聞くようになった男性の声が聞こえてきてドキッとした。

 驚いて振り返ると、スーツにロングコートというお馴染みの通勤スタイルをした陣がいる。


「陣さん! 今日はお仕事なんですか? 土曜日なのに」

「ええ。急ぎの仕事があったから、昼からちょっとだけ働いてきました。センセーは……これからレッスン?」

「あ、いえ……今日はもう帰るところです。本部が表参道にあるので、寄ってきました」


 表参道から南青山は徒歩圏内とはいえ、だいぶ遠くまで歩いてしまった。

 本当は原宿から山手線に乗って帰るつもりだったのに、これでは真逆だ。宗吾たちが原宿方面に向かったので、無心に別の道を行った結果である。

 よく考えれば、他のルートで原宿駅へ向かえばよかったのだが、同じ方向に足を向けるのが怖かったのかもしれない。


 無理やり笑顔を作って、なんとなく陣と並んで歩き出したが、人と話すことで、刺々しくささくれ立った気持ちが少しずつ落ち着きを取り戻していくのを感じていた。

 このまま一人で帰宅したら、きっとあの光景がずっと瞼の裏にチラついて、いくら瞑想をしようとアーサナに集中しようと、平静を保つことはできなかったかもしれない。


 だからだろうか。ポロっとそんな言葉が口をついて出てきてしまったのは。


「……陣さん、お時間ありますか? よかったら先日のお礼に、ごちそうさせてください」


 言った直後に、迷惑だったかもしれないと後悔したが、陣は迷うそぶりも見せずに笑顔で快諾してくれた。


「いいですね、ちょうど先日の店で夕飯にしようと思ってたところです。同じ店でいいですか?」

「もちろん。あのお店、とってもおいしかったですし。もっといろんな物を食べてみたいです」


 そう言ってからちょっと口を噤み、陣を見上げた。


「――でも、私と食事なんかして、ご迷惑ではないですか?」


 もし陣に恋人や奥さんがいたら、きっとその人たちにとって七瀬は不快な存在だろう。

 彼氏に浮気されているかもしれないのに、自分が陣のパートナーから誤解を受けるような立場になってしまうわけにはいかない。


「いえ、ちっとも。僕は休日出勤の社畜で、一緒に食事をする相手もいない淋しい男なんです」


 どこまで真に受けていいのか不明だが、淋しいという言葉とは無縁に見える。でも、人は見かけによらないとも言うし……。


 いや、でも早朝ヨガクラスで顔なじみの生徒さんたちと、和気あいあいと会話をしている姿もよく見るし……。

 でも、七瀬が真剣に悩む顔をしたせいか、彼は笑って言い直した。


「七瀬センセーが食事に付き合ってくれるなら、休日出勤した甲斐があったというものです」


 そう言って陣は右手を胸に当て、軽くお辞儀をする。


「陣さん、王子様みたい」

「こちらこそ、姫君にお供できて光栄です」


 軽口に笑っているうちに、さっきまで沈んでいた気分が浮揚してくるから、我ながら単純なものだ。

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