第6話 地雷には細心の注意を
カフェバーでの一件があって一週間、七瀬はとにかく宗吾の機嫌を損ねないよう、気をつけて暮らした。
宗吾の機嫌がいいときは、本当に仲良く過ごしているのに、数ヶ月に一度のペースで彼が不機嫌になることがあるのだ。
七瀬も自分の悪いところを改めようと努力はしているのだが、長く一緒に暮らしているうちに、その頻度は確実に増えていった。
そんな内心の悩みを抱えつつも、レッスンで瞑想をし、アーサナに没頭すると心身ともに引き締まっていく。
「七瀬センセー、すごくすっきりした顔してますね。彼と仲直りできました?」
早朝クラスの終わりに帰っていく生徒さんたちを見送っていたら、最後に更衣室から出てきた陣にそう言われて苦笑した。
「はい、おかげさまで」
彼は学生時代に陸上部でマラソンをしていたとかで、レッスン中のヨガウェア姿を見ると、細身のわりに筋肉質だ。
でも、こうしてブラックのシングルブレストコートを着ると、とてもスタイリッシュなビジネスマンに早変わりする。
身長もすらりと高く、おそらく百八十センチはゆうに超えているだろう。
「それはよかった。まあでも、朝からこんなに気分よくレッスンして、気持ちがふさぐはずもないですよね。センセーのおかげで、僕も日々すっきり過ごせてます」
「それは私のおかげではなく、陣さんが自分のために作った大事な時間を、有意義に使っているからですよ」
陣はとてもいい笑顔を作ると、丁寧に頭を下げた。
「七瀬センセーと話してると、いやでも自己肯定感が上がりますね。朝にうってつけだと思います。では、また来週」
「お待ちしてますね。行ってらっしゃい!」
朝にうってつけなのは、間違いなく陣のほうだ。寒い朝だが、彼のさわやかな笑顔を見ると心がほくほくしてくる。
宗吾との慎重を期する関係と比べるつもりはないが、陣に太い幹のような安心感があるのは、彼自身の土台がとても安定しているからだろう。
こんなことを思ってはいけないのだろうが、先日みっともない場面を目撃された挙句、ちょっとした悩み話を聞いてもらったからか、七瀬にとって陣は癒しのような存在に思えてきたところだ。
生徒さんに心配をされてしまうなんて、まだまだ未熟と恥じ入るばかりだが。
その後、新宿スタジオに移動して二つレッスンをこなし、オンライン配信用の動画を撮影し終えたとき、本部から七瀬に電話があった。
来月開催の企業ワークショップの依頼だった。
出向先は、青山にある世界的大企業、
福利厚生の一環で、水曜日の終業後にチェアヨガという、椅子に座ってできるヨガクラスを開催することになったのだそうだ。
「大丈夫です、引き受けます!」
水曜はレッスンをオフにしているが、チャンスはどんどん活用したい。
宗吾の反応は気になるが、企業に勤める人の声を聞くことができれば、もうちょっと宗吾に寄り添うことができるようになるかもしれないし。
宗吾は、家ではあまり仕事の話はしてくれないから……。
十七時過ぎには新宿スタジオを出て、山手線に乗って自宅へ戻ることにしたのだが、隣の路線に停まっていた中央線が発車した後、ホームに宗吾の姿をみつけた。
客先に外出でもしていたのだろう。ビジネス鞄を持ち、眼鏡をかけたスーツ姿の宗吾は、清潔感あふれ、とても好感の持てるインテリビジネスマンだ。
だが、彼の横に見知らぬ女性が並んで歩いている姿が見えた。
毛先を巻いた栗色のロングヘアはフェミニンなのに、颯爽としたパンツスーツで、すらりとしたスタイルのいい女性だ。
彼女が手前にいて、向こうにいる宗吾の方を向いているから顔ははっきり見えないが、きっと美人なのだろう。
彼女に向ける宗吾の表情は、七瀬と対峙するときの呆れたような、説教じみた顔とは全然違い、とてもやわらかくはにかんでいた。
宗吾は会社勤めだし、社内には女性社員だって大勢いるだろう。外回りに同行することもあるだろう。
でも、並んで歩く二人の距離が、必要以上に近く見えるのは七瀬の考えすぎだろうか。
彼らから視線を外しかけた瞬間、階段を上がろうとした女性が躓き、宗吾が咄嗟に彼女の腕をつかんで支えてやるという場面まで、おまけのように見せられてしまった。
咄嗟に、彼女がだいぶわざとらしく宗吾の胸に縋っているところまで。
「…………」
そのとき、ちょうど山手線が入って来たので、七瀬は逃げるように電車に乗り込んだのだが、そんなささいな一幕にもやもやしてしまった。
(考えすぎだって)
仕事で同行していた人と談笑するのは当たり前だ。七瀬だって、生徒さんと世間話をして笑い合うくらいのことはする。先週は生徒さんと一緒にお酒まで飲んでしまったし。
同行者が転びそうになったら、咄嗟に手を伸ばして支えるくらいのことは普通にするだろう。
果たして、隣にいるのが七瀬でも、転びそうになったら宗吾は支えてくれるだろうか。
(最近、宗吾さんと並んで外を歩いたのって、いつだっけ)
確かに生活の時間帯はズレているが、日曜日は休みを合わせるためにレッスンを入れていない。早めに予定さえ組んでおけば、土曜日もスケジュールを空けることは難しくない。
デートだってなんだってできるし、一緒に買い物だって行ける。
ところが予定のない日曜日も、宗吾は「疲れてるから」と寝て過ごすだけだし、日用品の買い出しも、同棲を始めた頃はいつも一緒に行っていたのに、ここ最近はめっきりなくなった。
かといって、彼を置いて外出すると不機嫌になるから、家の中でオンラインクラスを受講するくらいしかできずに不毛な休日を過ごしている。
七瀬は好きなことに時間をめいっぱい消費したいタイプなので、することもなく家に籠っているのが苦手なのだ。
宗吾はフレックスタイムのおかげで平日朝の忙しなさとは無縁だが、そうなると当然、宵っ張りで朝は遅い。
これが週末ともなると、昼まで寝ていることなどザラなので、七瀬の午前中はほぼ家事で終わってしまう。
かといって、起きたら何するでもなくスマホをいじっているだけだ。買い物やデートに誘ってみるのだが、「疲れてるから、家でのんびりしたい」と断られる。
仕方なしに「レッスン行ってもいい?」と切り出してみたこともあるが、そうするとやはり不機嫌になった。
なので、日曜日が週で一番嫌いだ。
考え出すとこれはもう「性格の不一致では?」と思ってしまうのだが、やっぱりヨガにばかり傾倒している自分が悪いのかもしれない。
電車の扉にもたれて、暗くなりつつある空を眺めながら、今日はちょっとだけ手の込んだ料理をしようと、献立を考え始めた。
帰宅し、夕飯の支度をして待っていたのだが、宗吾は二十三時になっても帰ってこない。SNSにメッセージを入れてみても既読はつかない。
のんびり出勤の宗吾だが、普段は遅くても二十一時前には帰っているのに。
今朝、四時起きだった七瀬は、そろそろ眠気で限界だ。シャワーだけ浴びて、睡魔と闘いながら宗吾を待っていたら、二十三時半頃にようやく帰って来た。
「お帰りなさい! 遅かったね」
「なんだ、七瀬。まだ起きてたんだ。いつもさっさと寝てるから、もうとっくに寝てるのかと」
「たまには一緒にご飯食べようかと思って、メッセージ入れたんだけど、見てなかった?」
「あー……。仕事が忙しくて、スマホなんか見てる暇もなかったよ。飯、食ってきちゃった」
普段は何の用事もなくてもスマホとにらめっこしているのに、そんな長時間、見もしなかったなんて――。
そう口から出そうになったが、ぐっと呑み込む。
「あ、そうだったんだ」
宗吾が脱いだコートを受け取って玄関のハンガーに掛けてから、リビングのテーブルについた彼の前に缶ビールを置いた。
「そういえば今日、宗吾さんを新宿駅で見かけたよ! 珍しいね、外出だったんだ?」
空気がガラリと変わったのは、その瞬間だった。
「は!? 何でそんなこと気にするんだよ。仕事で一緒にいただけだろ! おまえ、いつもそんな風に疑ってばかりで疲れるんだよ!」
「疑うって……? 宗吾さんを見かけたって言っただけ……」
「そうやってネチネチと嫌みを言ってくるから仕事に集中できないんだよ! 自分は好き勝手してるくせに。少しは俺の立場を考えろよ!」
「…………」
なにが地雷だったのだろう。突然の宗吾の剣幕に圧倒されてしまい、言い訳も弁解もする余地がなかった。
そもそも、七瀬が言い訳するような話でもない。
だが、ひどく怒った宗吾は缶ビールを手にすると、それを思いっきり壁に向かって投げつけた。
まだ蓋は開いていなかったが、壁に叩きつけられた衝撃で飲み口が開いてしまい、壁や床にビールがぶちまけられてしまう。
「宗吾さん! こういう事はしないでって……」
床に落ちた缶を拾い上げ、タオルで濡れた床や壁を拭きながら宗吾を振り返る。でも、彼は無視して洗面所に行くと、大きな音を立てて扉を閉めた。
「あぁ……」
こうなると後の始末が大変になる。ビールではなく、宗吾のご機嫌が直るまで。
彼の言い方からすると、女性と一緒にいたことを七瀬が
近頃は、どこに地雷が埋まっているかわからず、迂闊にものを言えない空気になってきた。
一気に気分が沈んだが、いくら七瀬が謝ろうが何をしようが、彼の気が済むまで事態の打開はできない。
やりきれない思いで後片付けをした七瀬は、そのまま寝室に入ってヨガマットを敷き、
心が乱れたときは、何はともあれ深呼吸。激しく波打つ気持ちを治めるように深く呼吸し、瞑想をする。
過去や未来に囚われず、今この瞬間の呼吸に意識を集中するのだ。
こうやって心の均衡を保つことで、自分が傷つくのを最小限に留める。でも、いくら瞑想して心に平安をもたらしても、一番近くにいる人がその平安を脅かしてくる。
(私の内省だけでどうにかなることじゃないけど……)
ため息をつきかけて、まったく意識が集中できていないことに気づき、さらに深く息を吸い込んだ。
その夜、宗吾は寝室には入って来ず、リビングのソファで一夜を明かしたようだった。
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