桜散れども百年目

詩人

Fall in...

「相変わらず古いおはなしを一つ。その昔、船場に次兵衛という商家の堅物番台がおった。次兵衛は今日も店の者に小言を並べている。

『おい定吉』

『へいっ』

『最前、百本の紙縒こよりを縒れと言ったがまたかかるんか?』

『もぉ九十四本でい』

『おぉそうか、ほなら残り六本や』

『あと九十四本で、百本でい』

『……何、そこにあんのは六本だけなんか?』

『そう云うことでんな』──」


 アハハハ、と客が笑う度に床が揺れる。建てつけが悪いもんだから、壁や柱の類いもギシギシと情けない音を立てる。満員の劇場、寄席を見に来た客は全員が笑っている。座って見ている人も、席を確保出来ずに立ち見をしている人も、本当に全員が。高座でやたらと大きな声で噺をしている彼女にみんな惹かれている。いや、に惹かれている。

 私はそれを下座から覗きながら笑っていた。

 今日こそは笑わないんだ、と心に決めていても、噺が始まり、過去にタイムスリップした彼女をこの五感すべてで感じていると、無意識のうちに彼女のペースに誘われるのだ。

 幾つかの記事で「まるで新興宗教の本拠地にいるようだった」と彼女の寄席を表現されてしまうほど、彼女の言葉は魔法のように人々にみ入る。


 大阪の劇場「桜花おうか劇場」は今日も満員だ。それもそのはず、大トリの彼女は大阪だけでなく東京でも名を馳せる名声ある落語家なのだから。今宵の客も、九割方が彼女を見に来たと言っても過言ではない。

 女流の噺家がそもそも珍しいこと、それから彼女の容姿の麗しさから少々のやましい想いで席を買う人も多い。

 そして、それに応えるかのように彼女は魅せる。自分の容姿やおあつらえ向きの態度ではなく、持ち前の天才的な技量で話す噺で。

 見る人は皆、一語目から彼女の世界に引きずり込まれる。流暢な関西弁、ハキハキとし筋の通った麗しい声──。

 今日の演目は「百年目」だった。完璧に話せば一時間近くかかる大作、これが出来れば大名人と認められる。それももう一時間近く過ぎ、間もなくサゲを迎える。


「『しかし昨日は妙な挨拶をしたもんやな、お前さん。「長らくご無沙汰をしていました」などと言っておったが……』

 『い、いぇ。お顔を見た途端に酒の酔いもさぁっと覚めましてね、あの場合あぁ申し上げるしかしょうがなかったんです』

 『何でじゃいな?』

 『えらいとこ見られた、こらもぉ「百年目」やと思いました』」


 集中豪雨のような拍手がこの小さな箱を満たした。その拍手で初めて落語の世界からこちらへ帰って来たという人もいるだろう。彼女はお辞儀をして、私のいる方へ帰って来た。

「よぉ見とったか、天狐てんこ

「はい、師匠。大変勉強になりました」

「そうか、帰って飯にしよ。久々に『百年目』をやったからなぁ。ちと疲れてしもたわ」

 そう言って、彼女──桜庭さくらば火蝶かちょう師匠は舞台を去って行った。

 私は桜庭火蝶に弟子入りをして、今は彼女の前座を務めている。前座名として師匠に与えられた名前は桜庭天狐。「落語家と云う者は天涯孤独であるべきだ」という、師匠のさらに師匠である人の教えと、「お客を騙せるような落語家になれ」という師匠自身の教えを組み合わせてもじられたのが私の名前だ。

 師匠と寝食を共にしている家に帰り、晩ご飯の支度をする。超売れっ子の師匠はお屋敷みたいな家に住んでいるが、住人は私と師匠の二人だけだ。お手伝いは雇わないのかと質問したことがあったが、「そんなもんはお前の仕事やろ」と一蹴されてしまった。

 連日の大盛況ということもあって、お祝いに鍋を作った。実は頼みごとがあって、それを聞き入れてもらおうと少しだけ奮発したのだ。


「──アカン」

「なんでですか!」


 雑炊まで食べたというのに、師匠は私の願いを聞き入れなかった。最後の出汁まで無駄にせんとばかりにズズズと汁を啜る。食べ物に関して人一倍礼儀を重んじる師匠のことは大好きだ。作っている身としては米粒一つ残さず食べてくれることが何よりの幸福なのだから。──しかし今はそういう気持ちになれない。

 前座を務めてから早一年と三ヶ月、別に二枚目に昇進させろと言っているのではない。そろそろ噺の一つや二つ、稽古をつけてくれと言っているだけなのである。私が師匠から譲り受けたのは前座噺の「時そば」と「饅頭こわい」だけだ。初心者っぽくて好きになれない。


「ほんなら何を欲しい言うんや」

「『百年目』です」

「アホかっ! 最近板についてきたからって調子乗んなよ!」


 物凄い剣幕で、私は思わず体を少しばかり引いてしまった。なぜそんなにも頑なに「百年目」を譲ってくれないのだろうか。一時間の大作で難易度は高いのは分かる。だけど稽古をつけるくらいいいじゃないか。


「なんで、そんなに渡したくないんですか」


 師匠は数秒間、躊躇ためらった。そして不本意ではあるが、と枕に言いたそうな目で睨んで口を開いた。


「『百年目』はうちの師匠、桜庭かすみから譲られた噺や。大切な師匠が、『この噺だけは命よりも大切に扱え』言うたんや。そうそうお前に譲る気はない。大体、『百年目』の意味も知らんやろ?」

「そんなん私だって知ってます。『こんな貴方との出逢い、百年経っても起きひんやろう』って意味でしょ?」


 師匠は目を大きく見開いて、それから顔を真っ赤にした。


「お、お前それは――」

「で、でも、私は師匠の弟子や。譲られる権利はあるはずや」

「天狐」


 師匠が私の名を呼んだ。怒っているのがすぐに分かる。

 でも私だってムキになっていた。そしてそれを見透かされていたことにさらに腹を立てていた。


「もう師匠なんか知らんっ! 師匠は私のこと、信頼してくれてないんですからっ!!」

「天狐っ!」


 自分で言っていながら、恥ずかしかった。自分の能力の低さを師匠に八つ当たりすることで解消しようとしている。そのことが恥ずかしくてたまらなかった。だから、時間が必要だった。さっきからひっきりなしに携帯が震える。涙が自然と溢れてくる。

 ごめんね、師匠。師匠みたいに凄い弟子じゃなくて。


 夜の大阪は明るい。人間が作った灯りが街を照らす。酒飲みが千鳥足で私の前を過ぎ行く。まだ成人していないし、きっとどこかで補導されてしまうだろう。その時までに、この嫌な自分を殺しておかないと。


「おいッ、そこの嬢ちゃん、どいてくれ!」

「きゃっ!?」


 警察の声が繁華街に轟く。ハッとして見ると、警官の前に一人の黒ずくめの男が突進してくるではないか。

 そして、男の手に持たれたものを見て私は思わず卒倒しそうになった。


「邪魔じゃ、餓鬼こらぁっ!」


 男は、私めがけて、その鋭く、尖った包丁、を────ずぶり。



 ──熱い。炎の近くにいるかのように、熱い。


「おい、お前」


 目が覚めた。反射として辺りを見回すと、すぐ傍に炎が燃えたぎっていた。本物の炎かよっ!


「誰だっ」


 目をかっ開き、その男を睨んだ。割烹着にも似た着物を着ているが、よく見ると美顔だ。


「新入りか、戸惑うのも無理ない。俺はのツクヨだ。お前は?」

「何の案内役? ここはどこ?」

「なんだ、自覚ないのか。ここは地獄だよ」


 は──? ここが地獄?


「お前は死んだのだろう?」

「そんなっ! 私っ、師匠に謝らないと!」

「…………ふぅん。ならば地獄長の閻魔えんま大王の元へ行かねばならんな。まずはお前の名を名乗れ」

「桜庭天狐……じゃなかった。山科やましな和歌葉わかばです」


 すると男──ツクヨは私のことをじっと見て、それから大声で笑い出した。完全に狂っている、狂人のそれである。私は自己防衛のために身を少し引いた。


「手伝ってやるよ、桜庭の若ェの。さあ行くぞ」


 男は煙管(きせる)を吸いながら前を先導していった。芸名ではなく本名を言ったのに、嫌な奴だ。


 周りを見ると、そこは江戸の花街かのように繁盛している。実際に行ったことはないけれど、師匠の落語の中で幾度も旅をしたのだから、だいたいの想像はつく。

 今、師匠は私を探してくれているのかな。それとも私の死体を見て泣いてくれているかな。──それとも、もう怒って縁を切ったのかな。

 ぶんぶんと頭を振る。こんな嫌なことを考えていても仕方ない。生き返ったら、絶対に師匠に謝るんだ。


「おい嬢ちゃん! アンタ新入りかぁい? フグ食べてきなよ、全部食っても死なねぇぜ! もう死んでるからな!」


 一人の男の言葉に周囲にいた人々が下品にゲラゲラ笑った。ツクヨの話によると、彼らはフグの毒に当たって死んだ人たちらしい。こんな地獄でも絡んでくるような輩がいるのは、本当に死んだときに面倒だなと思う。


冥土筋めいどすじはやたら馬鹿が多い。俺は好きだけどな、和気藹々わきあいあいとしてるのは」

「冥土筋?」


 この賑やかな通りのことだろうか。確かそういう通りを目抜き通りと言ったか。


「天狐がどこの出身かは知らんが、まあ御堂筋みどうすじのもじりだろうな。ずっと突き当たりには髙島屋と南海電鉄があるはずだ」


 なるほど、なんとなく分かってきた。


「『地獄八景じごくばっけい亡者戯もうじゃのたわむれ』」

「ご名答。さすがは名門桜庭サンだこと」

「でも確か本編ではフグじゃなくてサバじゃ……?」

「そこは、まあなんだ、大目に見てくれ」

「はぁ……」


 なんだか地獄って思ってたよりも適当だな。


「天狐はもう高座に上がってるのか?」

「まだ、前座です……」

「そうか。しかし勉強熱心だな?」


 ツクヨに褒められて、なぜか嬉しい気持ちになった。決して勉強熱心と云うわけではない。師匠の落語を一番愛していただけだ。師匠の一番のファンは私で、師匠の噺を一番近いところで聞いていたので、自然と覚えてしまった。

 しかし、何回聞いても『百年目』だけは、私が師匠に言ってしまった解釈にしか聞こえないのだ。


「じゃあ寄席でも見に行くか」

「えっ!? 地獄にも寄席があるの!?」

「そりゃあ死人にも娯楽は必要だろうよ」


 地獄、つまり過去の名人の落語を聞けるということか! 閻魔大王の所へは……その後行くとしよう。こんな機会、またとないのだから、盗めるところは今のうちに盗まなきゃ。

 地獄の寄席もやはり大盛況で、私とツクヨは立ち見で見ることになった。番組表を見逃してしまったが、めくりがめくられる度に私は卒倒しそうになったのだった。

 そしていよいよ大トリ、というところでツクヨが離席した。どうやらもよおしたみたいだが、彼は毎日この舞台を見れるのだからいいか。

 めくりが捲られる。


『桜庭 霞』


 え──?

 高座に、ツクヨが登壇する。

 割烹着のような変な衣装ではなく、きちんとした皺のない着物で。

 鳴る三味線、つづみ、笛の音。

 桜庭霞って、まさか。


「さぁ今日は若ェのも来たと云うことで、私の生前の愚痴から聞いてもらいましょうか。私が拠点にしとったのは『桜花劇場』云う割と大きな劇場でございました。これは私の姉弟子・桜庭蘇芳すおうが開いた劇場でして、最初名前を聞いた時分には私らの屋号か思うとった。やけどふと考えてみれば、姐さんの出身が香川や。大阪のくせに桜花劇場だ。『こらぁ讃岐の意地じゃ』としたり顔でしたわ」


 あぁ、確かに、と感心してしまう。

 これまでの名人に負けず劣らず──いいや、これまでのどんな名人よりも遥かに面白い。そして客を惹き込む技が凄い。地獄の寄席が揺れる揺れる。周りの人は皆大笑い。


「さて、今日も相変わらず古い噺を一つ。その昔、船場と云う町に、商家の番台・次兵衛と云う者がおった。次兵衛はまた──」


 あぁ、『百年目』だ。

 抑揚が師匠のそれと同じ。師匠の師匠だから当たり前か。


「えらい桜の見どころでんがな!」


 ツクヨが──いや、大師匠がそう言った時、桜が咲き舞った。

 見紛いではない。寄席に──地獄に桜が咲き舞った。

 大師匠が拍子木で私を差したような気がする。

 その拍子木を、出口へ動かす。

 もう行け、ということなのか。


「こらぁ、ここで逢うたが百年目や、思いましてね」


 やっぱり、火蝶師匠と一緒だ。

 ありがとうございました、霞師匠。


 閻魔大王様の元へは一人で行った。もう行けた。


「山科和歌葉。逃走中の強盗犯に刺される。憐れだが──ここへ来るとは、生き返せ、と?」

「そうです」

「強情だな、娘」

「私はまだ、師匠に教わることが多すぎるんで」

「そうか。落語家だと言ったな、。一つ、噺をしてみろ」

「では、『百年目』と云う話をさせてもらいます。その昔、船場と云う町に──」


「──こらぁ、ここで逢うたが百年目や、思いましてね」


 あり得なかった。

 一時間近くの大作を、私はすらすらとサゲまで話すことができたのだ。それは──まさに霞師匠とのかけがえのない出逢いがもたらした奇跡だ。


「……今回だけだぞ。行け!」

「はい! ありがとうございます!」


 閻魔大王様も、悪い人じゃない。まさかこんな体験をするとは。


「──てんこ!」


 師匠が呼んでいる。声をらしてまで。声が命の仕事だというのに。

 師匠に教えてあげないと。霞師匠、まだまだ現役ですよ、と──



 ──目を覚ます。誰かが死んだのかと思うくらいの泣き顔の師匠がいた。


「このドアホっ!! うちがどんなけ心配した思てるんや!」

「師匠……。火蝶師匠、ごめんなさい」

「……うちもホンマにごめんなぁ。今は天狐が帰ってきてくれただけで、それでええ……」

「そうや師匠。私。霞師匠に逢いました。えらいカッコええ人でしたよ。まだ寄席で人を笑わせてます」

「え? ……あぁ天狐、やっぱまだ治ってないんや……」

 この人、私が妄言を吐いていると思っているな?

 ああ、そんなことより。私は師匠にちゃんと話さなければならないことがある。


「師匠、やっぱり私なりの『百年目』は悪い意味じゃないんです。ここで逢うたが運の尽き、だなんて思いたくない」


 本当の意味は私だって知っていた。伊達に私は師匠の弟子をやっていない。

 でも──。

 霞大師匠の、火蝶師匠の『百年目』を聞いて分かった。


「私、師匠と出逢えて本当に幸せです。こんな出逢い、百年経っても起きません。だから、師匠の傍から離れません」


 すると師匠は、私を泣きながら抱きしめた。柔らかい肌の感触が心地良い。地獄の次は天国行きかよ、と思わず言ってしまいそうだった。

 私は、師匠が泣き止むのを待った。


「師匠、私の『百年目』、見てもらえませんか?」


 師匠は泣きながら頷いた。

 落語家、桜庭火蝶と云う女の麗しさではない。

 一人の女性としての可愛さであった。


 そんなの狡い。狐よりもよっぽどタチが悪いと思う。

 だって、私は師匠のそういうところにオチてしまったんですから。

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桜散れども百年目 詩人 @oro37

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