いま、打ち上がれ天使
環月紅人
本文
俺の人生は灰色の日々だった。
そんな日々を変えることができたのは、ひとえに天使のおかげでしかない。
夢も希望もへったくれもなくて、絶望のなかにある俺の人生を、勇気付けてくれた、期待させてくれた、彼女の背をいま見送りながら思う。
「――っ、綺麗なホームランだ」
【 いま、打ち上がれ天使 】
当時、一年生にして弱小高校の野球部のエースだった俺は、その過度な期待に応えようと必死になるあまり二年目の大切な試合を迎える前に肩を故障させる顛末を辿った。
その事実は絶望でしかなかった。
二度とまともなボールを投げられなくなった俺に顧問はマネージャーへの転身を告げ、選択肢などなかった俺は淡々とそれに応じた。が、大切な試合を無碍にした俺の頑張りは他部員によく思われていなかったみたいで、影口や後ろ指を差されるようになり。
野球本来に感じていた純粋な楽しさすら、徐々に見失うことになった。
「テツ、買い出しを頼めるか。ほら、見ているだけというのも退屈だろうし、あいつらにとっても、な?」
元々のマネージャーが一人いて、居場所のなかった俺のために顧問が用意したサブマネージャーという役割も、実のところほとんど仕事がなくて。誰でもできるような練習後のグラウンドの均しと玉拾いを一応仕事にしてもらっている。それまではずっとベンチで観戦、観戦。俺は顧問のお気に入りだったが、顧問も俺と他部員の仲が悪くなっているのは承知しているみたいで。顧問にしても、現役の部員の調子が一番大切だろうから、度々このような理由を付けて俺という存在を遠ざける節があった。
「買い出しですね。分かりました」
もちろん、断れるはずもなくて、メモの切れ端を受け取りながら足りなくなった備品の補充に向かう。
こうして、未だ野球部員でありながら、俺は野球というものが自分という存在から遠ざかっていくのをひしひしと感じていた。
夢も希望もへったくれもない。
灰色の日々だった。
「……なんだ、あれ」
天使を見たのはその帰りだ。
向こうのお山の影に、ふわっと浮かんでは力の抜けたように落下する大きな何かを発見したとき、思わず足を止めた。
「鳥や凧にしてはでかいし……でも、羽ばたいていたよな?」
遠目にしても、大きなその飛翔物。野球部のもとに戻ったとしてもどうせ気まずくなるだけなのを知っていた俺は、その飛翔物が現在地からそれほど離れていないことを目測すると、好奇心に誘われるまま、その場所を目指してみることにした。
田舎町のどこにでもあるような低山の、内側にある空き地のような丘。『彼女』はそこで羽ばたこうと練習しているみたいだった。
「えっ」
またも、それは落下する瞬間にあった。
「だっ、大丈夫ですか!」
俺がここに向かってくる間にも何度か飛翔を試みていたのだろう、見るからに体力を消耗させている人影が受け身すら取らずに転がる姿を案じ、駆け寄る。
頭ではその相手が、普通の存在ではないことを分かっていた。到底信じられないような光景。あり得ざる存在を目の前にしながらも、その大部分が人の形を成しているから同情を誘われる。
とても、大きな羽根を持つ人間だった。身長の倍はある両翼に、地に引きずるほどの長い金髪を持つ少女。その姿はあまりに泥だらけで、傷だらけで、妙に痛々しい。
……普通の人間でないことは、見て明らかだ。
まるで、天使のようだと思う。ここで初めて、俺の第一印象が彼女を定義付ける。
恐る恐る手を差し伸べると、彼女は驚いたような顔で振り向き、怯えた顔をした。
「な……。大丈夫だ。何もしない。怖がらないで」
咄嗟に手を引き、無害であることを主張する。
吸い込まれそうなほど魅力的な青い瞳が、俺のことをただじっと観察する。それはさながら、死にゆく獣の目のように、何かを訴えているような気がした。
その感情の色を読み取ろうと、真摯に見つめ返す。
最初のリアクションは、一目散に逃げ出していてもおかしくない反応だった。いま現在、彼女の観察に徹する態度には歩み寄りを試みる俺にとって安堵するものがある。実際は、逃げ出す体力がなく、それこそ死の刻を待つ獣のように死神を見つめているだけなのかもしれないが……。
彼女の瞳から視線を外し、状況の確認を行なった。
膝や手には多くの擦り傷があり、翼には枝や葉、泥がまとわりついている。こめかみの上からは流血しているようで、美しいはずの横髪がべったりと張り付いている。
「よければ、手当てする」
驚かさないように買い物袋から包帯と消毒液を取り出して、俺は治療を提案した。
不思議そうな顔をした天使は、いまいち言葉が通じているのか通じていないのか。よく分からないが、ただ俺の顔を一点に見つめ、こちらの出方を伺っているようだった。
悩んだが、このままでいるのは居心地が悪いし、彼女の開いた傷口をそのままにするのは偲びないので、再度声を掛けながら、慎重に傷口に手を伸ばす。
……暴れ出さなくてほっとする。天使は手当てを受け入れたみたいだった。
消毒液を染み込ませたガーゼを当てがう。備品を買いに行った帰りでよかった。部費で購入したものを勝手に使うのは悪いが、怪我人を放っておくほうが俺には難しいことだ。
使ったものは自費で補填することにし、いまは目の前の天使が警戒を解いてくれることを望む。
「よし、これでバッチリだ」
出血を抑えるため傷口を覆うように巻かれた包帯。それを物珍しそうに触れて確かめる天使。どこか間抜けた表情でこちらを見た彼女に、俺は微笑みを返してやる。
ふっ、と視線を外した天使は、緩慢な動作で立ち上がると、やや不安になってしまうような足取りで俺から離れていく。
……別に感謝を求めていたわけではないが……。
ここまで素通りだと、やるせないものだ。自分のなかで一つ折り合いをつけて立ち上がるが、しかし去りがたい気持ちで天使のことを見る。気になることは多いし、信じられない存在なのだが、こうも相手にされていないと詮索や騒ぎ立てることすら無粋なことのように感じて、恥じた。
だからこそ、俺はそっと腰を下ろす。
彼女に質問はしないし、彼女のことは知りたがらない。草野球を観戦するどこかのオヤジのように、俺は開き直って居座ることを選んだ。
天使は飛翔を試みている。
空き地の中央についた彼女が、おもむろに走り出す。大きく羽根を広げ、羽ばたかせ、重力を感じさせない跳躍を見せる。二メートルばかしふわりと浮かんでは、高度を維持できず、まともな受け身も取れないまま崩れ込み、怪我の数を増やす。
彼女はそんなことを繰り返している。
「………」
この空き地の古い名残りのようなベンチに腰を掛けていた俺は、自覚なく拳を握り込んでいた。
ただひたすらに、闇雲に空を目指す天使。
その姿が妙に心の中に残った。
それから、しばらくが経ち。
「……やべ、そろそろ時間だ」
夏の日暮れは遅い。気付くのが遅れてしまったが、そろそろ戻らないと心配をされる時間になっていた。
天使はというと、相も変わらず、まるで馬鹿の一つ覚えみたいに同じやり方で跳躍を繰り返しており、例え日付が変わっても諦める気がないように思えた。
さすがに付き合い切れず、「ちゃんと休めよー」と届いていたかは分からない言葉を掛けて俺はその場を立ち去る。
帰り際も、俺の耳には天使の羽ばたく羽根の音が聞こえていた。
……――なぜ、俺はこうも苛立ちを感じているのだろうか?
その日の終わりに思い耽る。自分のなかで沸々と湧き上がる、その感情の正体が気になった。
答えは簡単だ。それはきっと、彼女の努力する姿がいつかの自分に重なるからだ。
無我夢中で、視野が狭くなっていて、馬鹿の一つ覚えみたいに同じことをただ繰り返すことが、成功への最大の近道だと思い込んでいる。あほらしい。
成功への道は蟻の戸渡りで、無我夢中の不器用な努力はヤセ尾根を駆け抜けようとするくらい無謀な挑戦だということに、あの天使はまだ気付いていない。それが、無性に腹が立つのかもしれない。
その先にある絶望を、知らず、ただ愚直に前を向く姿が、俺を腹立たせてしまって仕方ない。
天使は、必死だった。
空へ羽ばたくことに全力だった。
どうして彼女が空を目指すのかは知らない。
どうして彼女があそこにいたのかさえ分からない。
何が彼女をそこまで突き動かすのか、全くの他人である俺には何一つ分からないが――それでも、彼女の一生懸命なその姿は。
危うげで、いつかどこかの愚か者みたいだった。
……あの綺麗な羽根が曲がってしまわぬよう。
……あの綺麗な瞳から光が失われてしまわぬよう。
彼女にはかつての俺が必要とした、何が何でもその努力を辞めさせられる、その愚直なやり方を注意できる、良き理解者が必要だと思った。
これは勝手な俺のエゴだ。
翌日。午後の授業をサボって、少し早めに空き地へと足を運んだ。
彼女は昨日と変わらず、そこにいた。
「よっ」
声を掛けると、天使が俺の存在に気付く。俺は昨日と同じベンチに腰を落ち着ける。
俺のことを遠巻きに見つめていた天使は、一度だけ目を逸らすと、再びその視線をこちらへと向け、不思議なことに接近してきた。訝しんでいると、目の前にやって来た天使は新たな腕の傷を俺に見せつける。
「……なに? 治してほしいの?」
天使は頷くわけでも、首を振るわけでもなかった。
つくづく不思議なやつだ。
きっと俺のことを、包帯を巻いてくれる通りすがりの人、みたいに漠然と認識しているに違いない。
ポケットから消毒液と包帯を取り出す。
「いいよ、もう少し近付いて」
どうせ言葉は通じない気がしたから、天使の手を引いてこちらへ近寄せながら、俺は新しい傷口の手当てを施してやった。
その後は昨日と同じだった。
……きっと、いまの俺の顔を鏡で見たら、相当つまらないものを見る顔をしているんだろうな、と自覚するほどに、淡々と彼女の努力の様子を眺めていた。
何も面白くはない。それどころか苛立ちを覚えているはずなのに、不思議と彼女からは目が離せないでいる。何かが俺をここに縛り付けている。
ため息が出た。
「なーにやってんだろ……」
本当に、呆れる。自分が分からない。
昨晩は注意してやらなきゃと思ったのに、俺はいったい何をしに今日もここへ来たんだ?
彼女が成功するところを見たいのか、はたまた失敗するところを見たいかのさえ分からない。
俺はいま何に期待して、この時間を過ごしている?
その自覚は、突如として芽生えることになった。
「!」
助走し、たんっ――と踏み込んだ天使が、ふわりと浮かび上がって高く羽ばたく。一度、二度、と回数を重ねその高度を上昇させると、長かった金髪が風に揺れ、五月のこいのぼりの旗のように、美しくなびいているのが印象的だった。
思わず立ち上がる。
(頼む! 墜ちっ―――――)
……そして、絶句した。ここで初めて俺は、自分の本心を知った。浅ましくも醜い欲望に、自分という存在がどれほど落ちぶれていたのかを思い知った。俺は俺自身のことを、恥ずかしい人間だ、と思う。
視界がブレる。わなわなと震える口を手で覆い隠す。その手さえ震えている。
『墜ちないでくれ』と願ったなんて、俺は自分の本性を偽れない。あの瞬間、確かに『墜ちてくれ』と願いそうになった、天に縋り付きそうになった自分を、その自分の愚かさを、醜さを、クズさを、ただ受け止めきれずに愕然とする。
俺は……、最低だ。
「っ?」
天使の様子が何やら変だ。
遠目に見える彼女の羽根の運動が、ぎこちない。
天使の飛翔は、鳥のようにものすごい速度で羽ばたいて浮力を発生させる形ではなく、例えるならボートを漕ぐオールのようなイメージで一度の羽ばたきが大きな推進力になり、奇妙な浮遊感を生み出している。
その次の羽ばたきが、一向に起こらない。
「――まずい」
墜ちる、と直感的に悟った。
浮かぶ力を維持できなくなり、気の抜けたペットボトルロケットのような挙動で落下の一途を辿る彼女を見て、慌てて俺は走り出していた。
待ってくれ、頼む、やめろ、それだけは。肩を負傷させたあの日がフラッシュバックする。
俺の悪意が、現実になっていいはずがなかった。
……幸いにも。
というべきかは分からないが……。
彼女の体は、森のなかの幾重にも重なる枝葉が衝突を緩和するクッションの役割を果たしたようで、なんとか取り返しの付かない怪我を負うことは避けられているみたいだった。
「天使っ! 天使!」
駆け寄った俺は、罪悪感から懸命に介抱する。
彼女はくるぶしを捻ってしまっていた。
ベンチに座らせ、テーピングを行う。さすがの天使も、その表情は苦悶に歪んでおり、羽ばたくことの難しさを痛感しているようだった。
羽根にからまった枝葉を払う。皮膚を切ってしまっているみたいで、患部へ触れるのを拒むように彼女は羽根を動かした。まだ痛みが強いのだろう。
無言の時が流れる。
「なあ、なんでお前は空を目指すんだ?」
とは、聞いてみたものの。
無口な天使が、答えてくれるはずもなかった。
返答を期待するのを諦め、休符のような嘆息を一つ、いままでの付き合いからして完全に言葉を理解していないわけではないのだろうと判断した俺は、ぽつぽつと身の上話を語ることにした。
一つは、反面教師にしてもらうため。
一つは、こうして話すことで、いまの落ちぶれた俺とは異なるあの頃の純朴な少年を、この場に降ろしたかったのかもしれない。
「俺も、すげー野球選手になりたかったんだ」
天使は俺のことを見上げた。
「でも馬鹿だから、トレーニングメニューが組めなくてさ。うちの高校は弱小野球部だったから、使えるノウハウもなくて。あるのは根性論と、文字通り馬鹿みたいなやる気だけで……」
頑張れば頑張った分だけ帰ってくると。そう信じていた。皆もそう思っていた。だから、やりすぎと思われなかったし、思わなかった。
この世界はやればやるだけ偉い。
精が出るなと褒め続けられ、次第に休みたくなる自分を、休息を求める自分を、認められなくなった。俺は自分を追い込むことでしか、自分というものが表現できなくなっていた。
無我夢中であること。それこそが善であり、それが夢を目指すということであり、『努力』であると。
そうやって自らを責め立て、追い詰めていった。
「馬鹿なんだよな本当に。おかげで、俺はもうボールを投げることができない」
肩を壊した。肉体を酷使し過ぎた。成長痛だと思い込んでいたせいで、発覚が遅れた。靭帯が切れたとのことで、もう力を込めて腕を振ることができない。フォークで傷口をえぐるような、ズキリとした痛みが、俺を俺でいさせてくれない。
努力に裏切られたわけじゃない。努力を過信した俺が馬鹿だった。
そんなこともあって。
「無理は、良くないぞ」
俺は天使と目を合わせる。
目の前の彼女に、過去の自分を重ねた。
「お前がどうして空を飛びたいのか知らないけど、」
「かえる」
続けようとした言葉を阻まれ、可憐な少女の声に、俺は驚きも隠さずにただ見つめた。
隣に座る天使は、空を見上げながら口にする。
「かえらないと。じかんが、ないから」
「な……お、おい。待てっ」
ベンチから立ち上がり、前へと歩み出した彼女が転びそうになるので咄嗟に手を差し伸べる。
お前、その足で走れるはずもないのに、どうやって助走を付けて空を目指す気なんだ。
「じかんがないの」
手を離さない俺を睨み据え、彼女は声を張る。これ以上は言っても聞かないことを悟った俺は、息を呑み、反射的に口走る。
「っ、勝手にしろ……!」
――人の気も知らないで。
勝手なことを続けようとする天使に、やはり落ちぶれた俺は苛立ちの感情のほうが強いみたいで。
それでもと、彼女の身の安全を優先してあげることができなかった。
俺の支えを失った天使が、その端正な面持ちを歪めて踏み込む。しかし、ほどなくして地面に崩れ込み、歩くことは叶わないと悟った天使が、今度は羽根を大きく広げて一度、羽ばたく。
俺の近くで強風が巻き起こり、彼女の体はふわりと浮かび上がるが、助走も付けていなければ一度の羽ばたきに安定感が保てるわけもなく、天使はすぐにバランスを崩して落下を始める。
いまの彼女に受け身が取れるわけがない。
俺は咄嗟に走り出した。
滑り込むように、彼女の体を抱き止める。
「――できないのにやるのも、いい加減にしろよ!」
それは、俺の魂の叫び。
「本当に苛つく、お前はっ……! 馬鹿みたいだ、つくづく! 本当に! そんなやり方じゃ飛べるわけがねえ、これ以上怪我を重ねたって、どうしようもねえのに……!」
むしゃくしゃする、どうしようもなく。
これが八つ当たりなのも分かっている。
だけど、もう止められなくて。
「一度、休め! 残り時間はどれくらいだ!? ラストの一回に全力を込めろ!」
肩を鷲掴んで強く訴えかける。俺に体を揺さぶられる天使は――やはり不思議な存在であるからか、信じられないくらいに軽くて、俺があと少しでも力を込めて触れたらいとも簡単に折れてしまいそうだった。
「自分は疲れているんだって自覚しろよ! たった一度でもいいっ、お前は、休むべきだ!」
落ちぶれた俺から、あの頃の俺へ。
馬鹿してんじゃねぇぞって叱ってやるつもりで、俺は天使に自己投影をする。
天使はその青い瞳に俺を映す。反射する俺の顔は、情けないくらい必死で、慟哭のようだった。
「………」
沈黙が二人の間に横たわる。
彼女は、
「わかった」
と、短く返答した。
――やるからには、方法を変える必要があった。
いまの彼女に走ることはできない。
今日中に飛ぶ必要があることを伝えられた俺は、まず真っ先に彼女に「何もするな」と言いつけ、必要なものを買い揃えるために一度山を降りた。
天使に必要なのかは分からないが、食事と水分補給になるもの。それから夜間でも安全なようにライト。傷を癒す薬品、体を冷やさないためのブランケット。ヘアゴムやヘアピンなどをかき集める。
その道中で、校外をランニング中の野球部員と俺はすれ違った。
「チッ。珍しくサボったかと思ったら買い食いかよ。監督に夢見せるだけ見せて一線退いて、面倒な練習やら何やらだけを残していったやつは気楽でいいね」
いつもの嫌味だった。
俺は、それを相手にしないことにしている。
「お前がいなけりゃうちの野球部なんて形だけで良いもんだったのによ」
………。
「なんか、言えよ。クソが。ほら行くぞ」
……………。
野球は、そういうんじゃない。
お前らみたいなやつが、俺と同じ野球部員だなんて反吐が出る。自分の努力不足と怠惰な精神、その甘えを人のせいにするな。必死に努力をした結果、監督に夢を見せたことの何が悪い。それを冷笑するお前らに、どんな価値と重みがある。
やる気がないのなら、お前がいなくなればいい。
「……チッ」
でも、やつらの言う通り。
一線を退いた俺が、そう言葉にするにはあまりに無責任すぎる文句だった。
「天使。ハンバーガー、食えるか?」
「?」
空き地に戻った。尋ねると不思議そうな表情を浮かべる天使に俺は買ってきた飯を押し付ける。その間に、俺は彼女の長い髪をまとめることにする。
彼女の身長よりも長い髪。まさか切るわけにはいかないが、まとめれば少しは飛び立ちやすくもなるはずだ。
糖分、塩分をしっかり摂らせ、筋肉が固まらないようにブランケットで体を温めてもらう。
昨日の傷口の処置も新しいものに替え、ただ彼女を休ませることに注力した。
「やり方を考えたんだ」
振り返ると意外にもわんぱくな食べっぷりを披露する天使がいて、思わずはにかみながら。
走ることのできない天使のために、どうやって助走をつけるか考えた。と言っても単純なものだ。
「俺を踏み台にしていい」
天使は軽い。具体的に言うと、二十キロくらい。
なかなか考えられない体重だが、ふわりと空を浮かび上がる天使ならそういうものかとも思う。
であれば、彼女を担ぎながら俺が走って、勢い付いたところで飛んでもらうのが一番いいんじゃないか、と俺はない知恵を絞り出して立案した。
荒っぽいが、いますぐにできるのはこのやり方だ。
「わかった」
彼女は了承した。
そして。
「いける」
「じゃあ、やろう」
夕焼けに染まる空。木々の狭間から差し込む木漏れ日。落ち込んでいく夜の帷に対して、滑り込むようにあの天空を目指す。
定位置に着いた俺の背中に天使がまたがる。彼女が落ちないように手を繋ぐ。肩を上げたから、腕の痛みはある。
「これだけ言っておきたい。俺はお前が空を飛ぶところを、見たい」
そして、イメージトレーニングに励む。
いまから走り抜ける道を、さながら滑走路のように見立てながら、彼女が離陸してどこまでも羽ばたいていく姿を空想する。
そのイメージに、今度こそマイナスを挟まないように、俺は言う。
「だから、お前の努力が実を結ぶところ……。俺に、夢を、見せてくれ」
「うん」
頼もしい返事だった。これなら期待できる。いまなら行ける気がする。
「行くぞ!」
ぎゅ、と天使の手に力が籠もった。それを合図に、俺は駆け出す。まっすぐ走り抜ける。いくら軽いとは言っても、二十キロの重みを担ぎながら全力疾走することはまあない。転ばないように、減速しないように、もはやいまの俺はどうなってしまってもいいから――天使が、飛翔を成功させますように。
俺は走る。
「―――いっ――」
目印として設置した、地面に突き立てた懐中電灯が離陸ポイント。足がもつれ、前へ倒れ込みそうになるが、失敗は許されない。背の彼女へ意識を集中する。
小さな足裏が俺の背に立つ。羽根が広がる。風が巻き起こる。俺の踏み台にする彼女が、バランスを崩してしまわないように、最後まで腕を伸ばして支えた。
「―――――っけぇ!」
彼女が踏み込む。飛び立つ。繋ぐ手を押し出してやる。肩の痛みなんざ知るか。彼女を起点にした風の渦が俺を襲う。煽られそうになる。彼女の体がふわりと浮かぶ。羽ばたきは、一度、二度、三度と重なる。
彼女を送り出した俺はそのままうつ伏せに倒れた。だけど彼女の勇姿を見届けるため、上を振り向く。その姿を捉える。
羽ばたきの音が、絶えず続いている。
――彼女の飛翔は安定している!
遠ざかっていく、こちらを振り返らず。
俺がまとめた下手くそな髪が、風に煽られてほどけてなびく。沈みかける夕陽のまばゆさを一身に浴びて、黄金色の龍が空の果てを目指す。
「――っ、綺麗なホームランだ」
それは、泣きたくなるくらい。
あの頃の夢を思い出してしまうくらい。
彼女は空へ消えてゆく。名残惜しさなんて、一ミリもない。
ただただ嬉しくて、ただただ悔しくて、ただただ羨んでしまうような、その後ろ姿。
「………俺も報われるかなあ……!」
嗚呼。大の字になって泣いた。もう一度チャンスがあったら、俺だって。
考えればキリがない。だけど考えずにはいられない。あの時の悔しさが、悲しさが、絶望が、無力感が。昨日のことのようにぶり返す。
やり場のない怒りが俺の心をいっぱいに満たして、涙という形で溢れ出した。
俺は、天使に、夢を見た。
「今まで、お世話になりました」
翌日。俺は退部届を提出した。部員らには冷たい視線を送られ、監督には同情じみた目を向けられた。交わす言葉も少なく、頭を下げて更衣室を後にする。
別になんともない。これで良かったと思う。
俺は、前を向くべきだった。灰色の景色だった理由は、囚われていたからだ。
羽根は折れたが、それが全てじゃない。まだ俺の体にはいくつもの骨と筋肉があって、できることはきっとその数だけある。
新しいことを、始めるときだ。
「あいつ、どこまで行ったのかなぁ」
あの日から、空を見上げるようになった。暇さえあると、ちょっと期待してしまうのだ。あの日のように何かが見えるような気がして。
「俺もいつか羽ばたいてみせるよ」
まずは良い成績を取るところから。参考書を買った帰りにそう独り言ちる。
もしも天使にこう伝えたら、『分かった』とだけ短く返すんだろうなと思った。
(了)
いま、打ち上がれ天使 環月紅人 @SoLuna0617
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