月は無慈悲な僕の祖母

まくるめ(枕目)

月は無慈悲な僕の祖母 第一話

今日の新月は赤かった。

「あれってコーラのマークなんだよね」

 それを見上げて息子は言った。

「そうだよ」

 息子の言う通り、赤い月の中央には、あの誰もが見たことのあるコカコーラのロゴが光り輝いていた。

 昔の人間は月のクレーターが作る模様を見て、ウサギだとか蟹だとかいろんな想像をしたらしいが、そんな想像力が入り込む余地は失われてしまった。今では月は何色にもなるし、どんな形も映し出せる。ちょっとしたアニメーションだって可能だ。月面に設置された無数のライトによって表現できる範囲なら。

 月面広告というあまり上品でないアイデアが月開発セクターから出されたとき、世界中の文化人がはじめ一笑に付し、続いて強硬に反発した。

 しかしながら、結局のところそれは実行に移された。それも、反対派には不愉快なことだが、大いな盛り上がりを見せた。

 新月の、本来なら暗黒であったはずの月面いっぱいに広告を打つことは、それすなわち、この資本主義の惑星の勝者が誰であるかを宣言するに等しい。企業や富豪はこぞってその広告枠を買いたがった。

 月に広告を映せば、あらゆる夜の下にいる人間がそれを見る。若いカップルも、夜泣きしている赤ちゃんも、戦争中の兵士も、曇ってなければだが。

 実際の費用は明らかにされていないが、新月の画面を一晩「買う」のに、ちょっとした軍事費ぐらいの予算が必要だとまことしやかに言われている。

 人類の月開発の歴史の中で、成功したーーなお、ここで成功したというのは儲けが出たという意味だがーープロジェクトは今のところふたつしかない。そのひとつが月面広告だ。

 そしてもうひとつが……。

「おばあちゃんももうすぐ月に行くんだよね」

 息子は聞いた。

「そうだよ」

「お年寄りになったらみんな月に行くんでしょ?」

「最近はね」

「昔は違ったの?」

「子供にはややこしい話になる」

 私は言った。実際ややこしい。

 21世紀前半なら、まだ老いの問題は比較的単純だっただろう。医療は発展していたにしろ、人は老いて、何やかんやはあるがやがて死ぬ。という大筋の流れは維持されていた。

 なにしろあの時代には、サイバネティクスも普及しておらず、意識のアップロードや蘇生可能な冷凍睡眠はフィクションの中の存在だった。闇のヒトクローン業者やそれを使って臓器を新しいのと交換する金持ちなんかもいなかった。

 それらの技術がどう「老い」をややこしくしたか、そんなちょっとした講義を息子にしてやる気はなかったので、私は話を逸らすことにした。

「月に人が行ったのは百年以上前だけど、それから長いこと、人間は月をどうこうしようとはしなかった。開発しても割に合わないっていうのが、大筋の見立てだった」

 息子はよくわからないような顔で、私の目をじっと見た。

「つまり、100年ぐらい月はほったらかしだったってこと?」

「そうだよ」

 月面開発が人類によって実用的な価値を持ち始めたのは、核融合発電の分野でいくつかのブレイクスルーがあったあとだった。夢の発電方法だった核融合炉は、かつての原発のように急速に普及するはずだった。

 そこで注目を浴びたのが月面開発だった。核融合炉の燃料となるヘリウム3が月には大量にある。そのとき、大国にとって月は予算を食う研究プロジェクトの対象から、一気に実用的な開発の対象になったのだ。各国は月面開発に血眼になった。

 その開発競争は激烈なものだった。宇宙条約で規定されている領有の禁止などという文言は、ほとんど公然と無視されはじめた。なにしろ、膨大なエネルギーを生み出す資源が文字通り頭の上にあって、早い者勝ちなのだ。

 その熱狂を「冷戦以来」と表現する者もいる。じっさい、月の領有権をめぐって戦争になりかねないと思われていたし、各国の指導者はほとんど聖杯の探究者のような強迫観念に駆られていた。月の資源を手に入れた国が、向こう千年の世界の覇者になるかのように。

 月面基地がいくつも建てられ、技術者や作業員が送り込まれた。そうした国同士の陣取り合戦の結果、月は、かつてのアフリカがそうされたように直線で区分けされ、その「鉱区」ごとに細かく所有者が規定されるようになった。

 月開発は民間も大いに賑わせた。のちに「月バブル」と呼ばれるようなおもに投資分野の熱狂だ。当時は宇宙開発に関わる分野の株がほとんど現実離れした価格になった。怪しげなベンチャー企業が盛んに立ち上げられ、それらも実態の有無に関わらず資金を集めた。

 さて、問題はここからだった。

 結論から言うと、儲からなかったのだ。

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