第12話 雲の温もり
雪が降る前の分厚い雲は、古くなった真綿の様なぬくもりを感じる。やる事のなくなった暇な太陽は、その雲を一つ一つ丁寧にちぎって、泣いている誰かの足元にそっと落としているのだろう。
遠山は冷たい春香の手を握った。
「風邪引いたなんて嘘だろう?」
「バレてた?」
「なんでそんな嘘をつくんだよ。」
遠山は春香を顔を自分にむけた。
「遠山くん、嫌いになった?」
春香は少し微笑んでいる。
「そんな簡単に嫌いになるわけないだろう。」
そんな言い方をした春香に、遠山は少し驚いた。人を試すような言葉なんて、ほとんど言った事がない奴だと思ったのに。
「少し前に、松下さんに会ってね。嫌われるのって案外簡単だよ。」
春香は遠山の手を離した。
「松下が多岐に思ってたのは、嫉妬だろう?」
「ううん。うまくやれないの、私。」
「そんな事ないって、多岐に言われなくないって思ってるやつの方がたくさんいるぞ。」
「遠山くんに会って、ちゃんと謝りたかった。それでもう十分だから。」
春香は起き上がり、窓を見た。
「帰れないぞ。外は大雪だから。」
「一緒にいるのに、ずっと待ってるみたいな気がする。」
春香は寂しそうに目を伏せた。
「多岐、どうしたんだ?俺、何か嫌な事言ったか?」
春香は少し考えていた。
「ううん。何も。」
「じゃあどうして、そんな風に言うんだよ。」
遠山は春香を押し倒し、服を脱がせた。
「遠山くん、あのね。」
春香が何かを言いかけると、遠山はキスをして口を塞いだ。何も言えなくなった春香は、黙って遠山を受け入れた。
「遠山くん。」
春香は遠山の手を止めた。唇に近づいた遠山の頬を両手で包むと、
「こういう事すると、もうそれが最後だって辛くなる。遠山くんが来るのをずっと待ってた方が、好きだって気持ちが続いていくような気がして。」
「多岐はそれでいいのか?」
「仕方ないよ。嫌われて寂しい思いをするなら、私は影を見てるだけでいい。」
自分の視線から逃げようとしている春香を、遠山は押さえつけた。
「もう、始まってしまったんだ。」
そう言うと、春香の首に唇をあてた。
遠山は春香に服を渡すと、
「晩ご飯作るか。」
そう言った。
「信じられない。気まぐれでこんな事するの?」
遠山は春香を自分の胸を抱き寄せると、
「本当はずっと撫でててほしいのか?」
そう言って春香の髪を撫でた。
「遠山くん、なんで?」
「腹減ったよ。ご飯にしよう。」
遠山は着替えて下に降りていった。春香も着替えて下に降りると、遠山の父が新聞を読んでいた。
「こんばんは。」
「こんばんは。」
春香が挨拶すると、遠山の父は春香を見て微笑んだ。
「お前、よくそれで挨拶できたな。」
遠山が小声で言った。
「ん?」
「しばらく消えないぞ、これ。」
遠山は春香の首を触った。
「何よ、もう!」
春香は小声で言うと、遠山を腕をグーで叩いた。遠山の父が笑っているのに気がつくと、
「すみません。」
そう言って謝った。
「父さん、また行くのか?」
「ああ。今日は2時に集合だ。」
「娘さん、冷蔵庫にケーキがあるから食べなさい。」
「はい。ありがとうございます。」
春香の作ったあまり美味しくない料理を、遠山も遠山の父も、美味しいと言って食べていた。お世辞で言ってくれてるなら、そんなに食べなくていいのに。春香は後片付けをしながらそう思っていた。
「娘さん、先に風呂に入りなよ。男の後は嫌だろう?」
「いえ、お父さんから。」
「いいから早く。」
遠山は春香を浴室に連れて行った。
「一緒に入るか?」
「何言ってんの!」
春香は自分の顔や耳が赤くなっていくのがわかる。
「別に恥ずかしがる事ないだろう。もう見ちゃったんだし。これ、着替え。」
春香は遠山を追い出すと、急いでシャワーを浴びた。鏡に映っている首についた大きなキスマークを見ると、恥ずかしさがこみ上げてきた。
ブカブカのスウェットのズボンをつかみながら、部屋に戻ると、
「えっ、ずいぶん早かったな。」
遠山が驚いた様に春香に言った。
「なによ、これ!」
春香は首を指差した。
「俺の気持ちだ。」
遠山は春香をストーブの前に座らせると、
「待ってろ。すぐにくるから。」
そう言って浴室にむかった。スウェットからほんのりとする遠山の匂いが体を包みこんでいる。春香は膝を抱えると、これから襲ってくる寂しさの毒が怖くなった。
遠山は静かにドアを開けた。春香は膝を抱え、顔を伏せていた。
「寂しかったんだろう?」
遠山は春香の背中を抱きしめた。
「そんなんじゃない。」
「いい子でいるなよ。まだわからないのか?」
春香が驚いて遠山の顔を見ると、
「なんでそんなに怯えて生きてるんだよ。昔の多岐はもっと笑ってだろう?」
春香は目を伏せた。
「もう一つつけようか。そしたら、いいバランスになる。」
遠山はさっきと反対側の首を強く吸い付いた。
「遠山くん、わざとそんな事してるの?」
春香は遠山を見つめた。
「ずっと好きだから、安心しろ。」
遠山はそう言って春香を強く抱きしめた。
遠山の肩に春香の涙が溢れる落ちた。
新学期。
「多岐先生、胃薬くれますか?」
橋元が保健室にやって来た。
「橋元先生のせいで、胃薬だけ毎週補充しないとならないんですよ。」
春香が言った。
「多岐先生が悪いんですよ。いい人がいるなら初めからそう言ってくれれば良かったのに。言っておきますけど、教育委員会なんて、ろくなやついませんよ。」
「橋元先生、うちの父もろくなやつじゃないですよ。私はその血が入ってます。」
「あっ、先生。それは失礼しました。今度から、診療所へ行って薬をもらう事にします。診療所には、優しい看護師さんがたくさんいるんでね。」
「先生、絆創膏ちょうだい。」
女の子が入ってきた。
「どうしたの?」
「紙で指を切っちゃって。」
「あらっ、少し大きな目の絆創膏貼るね。」
春香がそう言うと、
「多岐先生、こっちにも貼ってくれよ。心が傷だらけだ。」
橋元は心臓を押さえた。
「大人は自分で治したら?」
女の子の言葉に橋元と春香は笑った。
夕方。
食事の支度をしていると、
「今日はシチューか。」
遠山の父がそう言った。
2人が黙々と食べている様子を見て、
「美味しくないなら、無理に食べなくてもいいですよ。」
春香はそう言った。
「春香さん、人の作ったものってたいていみんな美味しいんだよ。相手の事を考えてるからね。自分が作ったものって、人が作るものに比べて美味しくなんてならないんだ。だから、皆の好みに合わせてる母親って、すごい味覚をしてると思うぞ。」
「そうですかね。」
「春香さんはまだ娘さんだからね、いろいろ悩むといいんだよ。たまにはむこうのお父さんにも作ってあげなさい。待ってると思うから。」
遠山の父は黙々とシチューを口に運んでいた。
「春香。」
部屋で窓を見ていた春香の隣りに遠山が座った。
「星なんて見えないぞ。冷えてるからもうすぐ雪が降る。」
「ねぇ、遠山くん。お母さんが亡くなった時、どんな気持ちだった?」
春香は遠山の顔を見た。
「悲しかったし、寂しかったし、悔しかったのもあるかな。なんでだろうって、思う時もあった。」
「私もそう。好きな人と別れた時もそうだった。」
春香は俯いた。
「俺、春香が来なかった時もそう思ったよ。なんでだろうな。彼女ができて別れても、そんな風に思う事はないのに。」
「ひどいやつだね。女の人は好きになった人に、自分の心の半分以上を渡してるのに。」
「半分なんて言わずに全部くれよ。男はそうしてほしいんだよ。だいたい気持ちに隙間があるから、寂しいなんて思うんだろう。」
「心が窮屈になったら、そのうちビビが入るかもしれないよ。」
「じゃあ、そこを埋めればだけのこと。」
「簡単に言うんだね。」
「なぁ、ここから学校に通うのは大変か?」
「そうだね、朝寝坊できないもん。私は給食があるけど、遠山くんとお父さんはお弁当だからね。たまには自分で作ってよ。」
春香はそう言って遠山の手を軽くつねった。
「そう言えば、部長の弁当も頼みたいって言ってたぞ。」
遠山は自分の手の甲をつねっている春香の手を握って、そう言った。
「あ~、本当にやりづらい。」
「自分は器用にやれてるつもりかもしれないけど、春香はけっこう不器用なんだよ。」
「私が?」
「そう。」
「やっぱり、ご飯美味しくなかった?」
「そうじゃなくて、ちょっとタイミングがズレてるところがさ。」
「そっか。そういう事か。」
「気に触らないのかよ。そんな風に言われて。」
「なんとなくわかるから。だけど、どうしようもないの。そうやって生きてきたから。」
春香は膝を撫でていた。
「松下が言ってた主役って何の役?」
「雪の女王。」
「そりゃあ、松下はやりたかっただろうな。どっちかっていうと、松下の方が合ってるし。」
「先生が決めた事だから。」
「スラスラセリフが言える春香を押したんだろう。余程のドジをしなければ、みんなうまくいくんだろうし。」
「それがね、大事なところで転んだの。松下さんはそれを見て、がっかりしたって話してた。自分ならもっとうまくやれたのにって。」
「春香、その時は1人で起きたのか?」
「ううん。隣りの男の子が起こしてくれた。」
「そこなんだよ。松下がこだわるって。」
「何が?」
遠山は春香を膝を触った。
「ずっとそのままでいろよ。」
遠山は春香を見て微笑んだ。
部屋の中を埋め尽くしている空気は、こんなにも温かいのに、指先も、膝かぶも鼻の頭も、冷たいままで、待ちくたびれている。体の先の方は、本当は忘れたくない何かを、大切に守っているのかもしれない。
7回転んだら、起き上がった自分は、大人のいう大人になっているのかな?何もなかった様に、痛みをごまして歩いて行くのかな?
本当は1人で起き上がる事なんて簡単だよ。ただちょっと、誰かに見られて恥ずかしかっただけ。
遠山くん、私が転んだらすぐに雲を呼んで太陽を隠して。1人で起き上がって空を見上げたら、きっとあなたを包み込める様な、そんな強い人間になっているから。
遠山はカーテンを少し開けた。
「やっぱり降ってきたな。明日の朝は、早く起きないと。」
終
曇り空の太陽 @kuromoru320
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