第11話 傘のかかった月

 街灯が少ない田舎の道は、夜になるとアスファルトまで紺碧に染まる。角まではっきりと見える星を繋ぐと、昔の人はどれほど空を見ていたのだろうかと、そんな思いが頭をよぎった。

 実家から通おうと思いながら、結局それを言い出せず、毎晩飽きもせず空を眺めている。 

 自分で作る美味しくないご飯は、何日も冷蔵庫を埋め尽くした。給食がなければ、とっくに飢え死にしているかもしれないと思うと、教師は自分の天職だったと、堂々と胸を張って言える。

 

「多岐先生、胃薬ありますか?」

 橋元が保健室にやって来た。

「いつの間にか、橋元先生のための常備薬になってますね。」

 春香は橋元に胃薬を渡した。

「多岐先生がいい返事をしてくれないからですよ。」

 橋元は笑っていた。

「水、入りますか?」

「お願いします。」

 春香は紙コップに水を入れて橋元に渡した。わざとに春香の手を触る橋元を見てると、こんな人とずっといたら、本当は楽なのかもしれないと思ってしまう。

 穏やかな時間がくれる薬は、孤独の毒を消してくれる。だけど、孤独の毒を手に入れた事のある人間は、時々その薬を眺める事が、心地よくさえ感じてくる。

「今度、どっか行きませんか?」

「行きません。橋元先生、ここは子供達がくる場所ですから、大人は自分でなんとかしてください。」

「多岐先生、本当に冷たいですね。」

 橋元はそう言って教室に戻って行った。


「先生、この子、熱を出したみたいなんだけど。」

 6年生の男の子が熱を出して早退してから、インフルエンザがあっという間に拡がった。町の診療所は人で溢れ、先生達からも感染者が出て、学校は臨時休校となった。


 流行に乗れなかった春香がぼんやり夜空を見ていると、いつもははっきり見える月が、今日は二重に見えた。

 明日は雪になるかも。

 春香はストーブをつけると、図書室から借りてきた本を開いた。

 子供の頃は素直に読んでいた話しも、本当は裏があるのではないかと、ネタバレを探している。


 夜21時を回ったところで、突然携帯がなった。

 誰?春香はそう思いながら、着信を見ると、遠山の文字が浮かんでいる。

「多岐か?」

「うん。」

「多岐の小学校、学校閉鎖になってるんだろう?」

「そう。」

「多岐は、大丈夫なのか?」

「大丈夫。」

「そうか。」

「それだけ?」

「元気なら、いいんだ。」

「ねぇ、」

 春香は電話を切りたくなかった。

「何?」

「待ってたの?バス停で。」

 遠山は少し間が開いた後、

「待ってないよ。多岐は行かないって言ってただろう。」 

 そう言った。

「そっか。そうだったね。」

「それが多岐の答えだったんだろう。」

 遠山がそう言うと、

「違うよ、違う。でも、ごめん。行かないって言っておいて、待っててほしいなんて思ってて。」

 春香は必死で否定した。あの日、本当は行こうとしていた事も、気持ちとは反対の言葉を言ってしまった事も、どうやって遠山に伝えたらいいだろう。

「もう遅いよ。」

 遠山が冷たく放った言葉を、春香は思い切って跳ね返した。

「じゃあ、なんで電話なんかしてきたの?」

 春香が少しきつい感じで言い返すと、

「熱出してるかと思ってさ。」

 遠山の声が少し小さくなった。

「熱出してるって言ったら、来てくれるの?」

「熱なんか出してないだろう。さっき、そう言ったくせに。」

「遠山くん、アイス食べたいな。」

「バカ言うなよ。多岐の所まで行く間に溶けてしまうよ。」

「こっちにも、お店あるよ。」

「じゃあ、自分で買えばいいだろう。」

「遠山くんが買ってきてよ。」

「嫌だよ。」

「私、転ぶかもしれないよ。」

「そんなの自分で起きればいいだろう。」

「歩き方教えてくれるって言ったじゃない。」

「いつの話しだよ。もういい大人だろう。」

「ずっと待ってる。高校生の時からずっと待ってる。」  

「もう、バスなんて来ないって。」

「バスじゃないの、遠山くんがくるまでずっと待ってる。」

「いい加減にしろよ。もう切るからな。」

「明日、13時に待ってるから。」


 自分の気持ちをぶち撒けたあと、なんにもなくなってしまった心は、破れた紙ふうせんの様にゴミ箱に捨てられた。二度と膨らむ事のない紙ふうせんは、役目を終えて明日は燃えて灰になってしまうのか。

 それでもいい。遠山に言いたい事を伝えたら、もう誰かを好きになったりしないから。

 

 次の日の朝早く。

 春香は遠山に会いに行くために支度をしていた。

「多岐先生、手を貸してください。羽田先生が倒れたんです。」

 橋元が呼びにきた。

「俺、男だから、一人で部屋に入る理由にはいかないし。」

 春香と橋元は、羽田の部屋に入って行った。

「先生、大丈夫ですか?」

 春香が声を掛けると、羽田は薄っすら目を開けた。

「診療所に連絡しますね。橋元先生、車出してください。」

「救急車の方がいいんじゃないですか?」

「車の方が早いです。行きましょう。」

 診療所に着くと、橋元は羽田を背負って診察台までやって来た。

「脱水かな。点滴すれば良くなるよ。」

 診療所の医者はそう言った。少しすると、羽田が意識を取り戻した。

「大丈夫ですか?」

 春香と橋元が羽田の顔を見る。

「迷惑かけてすみません。水がなかったので、買いに行こうと思いながら寝ちゃって。朝起きれなくなって、橋元先生に電話しちゃいました。」

「良かったです。」

 春香はそう言うと、壁に掛かっている時計を見た。時計の針は12時を少し過ぎたところだった。

「すみません。帰りますね。羽田先生お大事に。橋元先生、後はよろしくお願いします。」


 春香は大粒の雪がフロントガラスに張り付いてくる中を、バス停に向かって急いでいた。気持ちは焦るばかりなのに、視界が悪くて、トロトロと運転している。何度も時計を見ては、13時には間に合わないと思いながらも、運転してるので連絡をする事もできない。

 バス停に着く頃には大粒の雪が吹雪になって、前が見えなくなってきた。車で行くのは危ないと思った春香は、コンビニの駐車場に車を停めると、あと数百メートルのバス停まで歩いてむかった。帰りの事なんて、今は何も考えられない。遠山がいなかったら、このまま雪に埋もれてしまってもいい。

 ぼんやりと影が見えると、春香は氷の塊に足を取られて転んだ。

 ギュッと肩を掴んだ影は、黙って春香を立たせると、すぐ近くに停めてあった車に乗せた。


「遠山くん?」

「多岐、雪だるまみたいになってるぞ。」

 春香は雪を手ではらった。

「このマフラーじゃなかったら、気づかなかったよ。」

 春香は高校の頃と同じ青いマフラーをしていた。

 遠山の家に着いた。

「入れよ。」

「家の人は?」

 遠山の家は中に入っても誰もいなかった。

「母さんは去年亡くなったんだ。父さんは除雪の仕事をしてる。姉ちゃんはとっくに家を出てる。」

「じゃあ、遠山がご飯を作っているの?」

「適当にな。ちょっと前まで彼女がいたんだけど、やっぱり地元に帰るって言われて別れたし。」

 春香は雪が水になっていくマフラーを外した。

「わざとか?」

「何が?」

「わざとにそのマフラーをしてきたのか?」

「あっ、これ?これは2代目のマフラーだよ。ちょっと模様が違うでしょう。」

 春香はそう言ってマフラーを遠山に見せた。

「俺、騙されたのか。」

 遠山は笑った。

「騙してないよ。遠山くん、マフラーの色なんてよく覚えてるね。」

「いつもマフラーに顔を埋めてただろう。その色を見ると多岐を思い出すんだよ。」

春香はポケットから青い手袋を出した。

「これは昔と同じ。なくしてもなくしても、ちゃんと見つかるの。」

 春香がそう言うと、遠山は濡れた手袋を掴んだ。

「風邪引くぞ。早く乾かせよ。」

 遠山は春香の上着をハンガーに掛けた。体が軽くなった春香は、遠山の後ろに黙って立っていた。

「こっち。」

 遠山の部屋に入ると、春香はストーブの前に座った。

「寒いだろう。今すぐ暖かくなるから。」

 遠山は春香の隣りに座った。

「あの日、本当は待ってたんだ。ずっと待ってても来ないから、仕返しされたと思っててさ。高校の頃、俺が熱を出して、連絡が遅くなった事があっただろう。その時の仕返しなんだろうなって。」

「あぁ、バレンタインデーの時の事ね。」

「そっか、あれはバレンタインデーだったのか。なんでわざわざ明日会おうって言うのか、全然わからなかったよ。」

「遠山くんは、いつもたくさんもらうんでしょう。」

「ああ、まあな。今度、多岐にもわけてやるよ。甘い物好きだろう?」

「いらない。」

「怒ったのか?」

「別に。」

「多岐と同じ大学だったら、どんなだったのかなぁ。」

 遠山は春香の肩を抱き寄せた。

「遠山くん、女の子と話すの慣れてるんでしょう?」

 春香は肩に乗っていた遠山の手をはらった。

「誰かと会っても、いつか終わりがくるんだなあって思うんだよ。それは仕方ない事だけどさ。だけど、多岐とは、まだ始まってもいないのに、ずっとこうしていられるんじゃないかって、そう思う。」 

「都合のいい解釈だね。お互い、ずっと待ちぼうけだったのに。」

 春香はそう言うと少し俯いた。

「あの時、やっぱり来てくれなかったのか?」

 遠山が春香の顔を覗く。

「ううん。ちゃんと行こうとしたよ。なのに、なんで会えなかったんだろうね。」

 遠山はもう一度春香の肩を抱き寄せた。

「もう、待ち合わせなんてやめようか。」

「そうだね。」

「ここにいろよ。」

 遠山は下を指差した。

「私が遠山くんの家にくるの?」

「俺ん家の方が学校に近いだろう?」

「そうだけど、」

「俺、部長の家なんかには泊まれないよ。」

「お父さん、あと2年で定年だよ。」

「それでも無理だよ。絶対気を使うだろう。」

 遠山は春香の膝を触った。

「お皿あげようかって、言われてるの。」

「そんなに転ぶのか?」

「そうみたいだね。」

「多岐。」

「何?」

 遠山は春香の頰を包むと、ゆっくり唇に近づいた。静かに口づけをすると、春香をベッドに連れて行った。

「膝、見せろよ。さっきも転んだだろう。」

 遠山は春香の服に手を掛けた。

「湿布貼ってくれる?」

 春香がそう言うと、遠山は笑った。

「自分で貼れよ。いつも保健室にいるんだろう?」

「遠山くん、なんか寒い。」

「えっ?」

 遠山は春香のおでこに手をあてた。

「風邪引いたのかもな。」

 遠山がそう言うと、

「入れよ。」

 春香に布団を掛けた。

 

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