第10話 擦りむい膝
砂ぼこりが舞うグランドで、古いスピーカーのせいか、音楽がズレ始めた運動会が行われている。
小さな学校の運動会は、町の人が皆、その光景を見にやって来た。
春香が通っていた大きな小学校は、自分の出番よりも、待っている時間の方が長かったけれど、この学校の子供達は、少ない教員と一緒に準備や後片付けを手伝っているので、休んでいる暇はない。何度も水を飲む様にうながされ、テントの中で色とりどりの水筒が、子供達の口を待っている。
「先生、絆創膏ちょうだい。」
4年生の女の子が、春香の前にやって来た。
「転んだの?」
「さっき。」
春香がその女の子の膝に絆創膏を貼ると、
「先生、また会えたね。」
女の子はそう言った。
「遥ちゃんと先生、どこかで会った事ある?」
「あるよ。私がコンビニで転んでた時、おんぶしてくれた。」
「えっ、あの時の?」
「お母さんが先生の事、覚えてたよ。」
「そうだったの。弟くんは元気?」
「うん。今はね、みんなでおばあちゃんの家で暮らしてるの。大きな畑があるからね、私で手伝ってる。」
「そう。遥ちゃん、もう転んだらダメだよ。」
「先生も。」
「先生は転ばないよ。大人だから。」
「だって、橋元先生が春香先生はよく転んでるって言ってたよ。」
春香は4年生の担任の
「保健室が1階じゃなかったら、先生の膝の皿は1枚じゃ足りませんよ。」
橋元はそう言って笑った。
運動会が終わり、後片付けをしていると、遥の母親がやって来た。
「先生、あの時はどうも。」
「あっ、お母さん。今日はお疲れ様でした。」
「同じはるかなんですってね。」
「そうです。同じ名前なんですね。」
「私ね、こんな田舎が嫌で捨てたんですよ。だけど、やっぱりここに戻って来ちゃった。」
「また会えて良かったです。」
あの時は汚れで真っ黒だった手は、日に焼けて黒くなっていた。しばらく櫛を通してなかったであろう髪は、キレイに肩まで切り揃えられ、真っ黒に流れるような遥と同じ髪型になっていた。
「先生、いろいろあったけど、ちゃんと収まる所に収まるのよね。」
遥の母親はそう言って春香に手を振って車に向かった。
「多岐先生、このあと校長先生の家で打ち上げしますよ。」
教頭が言った。
「先生達って、運動会のあと、そんな事をしてたんですか?」
「昔はね、PTAなんかも呼んで盛大にやってたけど、今はそういう時代じゃないからね。先生達も疲れてるだろうし、今はちょっとだけ、お疲れ様って感じの集まりになったんです。」
春香は用具室にあるソフトボールを見つけると、懐かしくてひとつ手に取った。
「多岐先生、やった事あるの?」
橋元が用具室に入ってきた。
「高校の時、やってました。」
「じゃあ、投げてみて?」
橋元は春香をグランドに連れ出した。
「あの、橋元先生。私は受ける方だったので。」
構えた橋元に春香が言った。
「本当に?」
「そうです。」
「意外だなぁ。静かに本を呼んでるイメージだったのに。」
春香は橋元から少し離れると、ボールを橋元に目掛けて投げた。
「俺、野球部だったから、けっこう球は速い方だと思うけど。」
橋元はそう言って春香にむかって投げた。
「速いですね。」
「グローブ持ってこようか。」
「はい。」
橋元はグローブを探しに用具室に戻った。春香もその後をついていくと、石灰の袋に躓いて転んだ。
「先生、またですか。俺の膝の皿あげましょうか?」
春香は笑いながらジャージについた汚れをはらった。
「打ち上げは着替えて行きますか?」
春香が橋元に聞いた。
「そうですね。皆着替えてきますよ。」
春香は時計を見ると、
「じゃあ、もう行かないと。」
そう言って用具室を出た。
「多岐先生、家まで迎えに行きますよ。」
橋元は言った。
「大丈夫です。だって、すぐそこじゃないですか。」
春香は教員住宅を指差した。
「そうでしたね、多岐先生はあの建物でしたっけ?」
「そうです。橋元先生は?」
「俺はそのむこうです。」
「じゃあ、また後で。」
春香は家に帰ると顔を洗った。日焼け止めでベトベトになっていた顔は、生きかえった様に皮膚が呼吸をしているのを感じる。
高校の頃、キャッチーマスクの通りに日に焼けて以来、日焼け止めは何重にも塗るようになった。
遠山くん、私の顔を見て、すっとゲラケラ笑っていたっけ。
春香は砂が混じった髪にブラシを入れると、絡まった髪が、ゴリゴリと音を立ててほどけた。
鏡に映った顔は、昨日も今日も変わらないのに、どうして過去だけが、ついこの間の様に蘇っていくのだろう。澤村のアパートですれ違った女の人のつけていた香水の匂いが、忘れられないでいる。
玄関のチャイムがなった。ドアを開けると橋元が立っていた。
「多岐先生、準備できた?」
「今行きます。」
「先生ってスッピンなの?」
「あっ、そうでした。これで行きますけど、いいですよね。」
「別にいつもと変わらない感じがしますけど、家ではメガネなんですか?」
「そのまま寝ちゃうんで、帰ったらすぐにコンタクトを取るんです。」
「スボラなのか、几帳面なのかわかりませんね。」
橋元はそう言って笑った。
玄関を出ると、隣りの先生と一緒になり、校長の家に着く頃には、ほとんどの先生達と一緒に歩いていた。
打ち上げが始まると、少しお酒が入っていたせいか、元々声の大きい先生達は、さらに大きな声で、いつまでも話しが尽きなかった。
午前0時を回ったので、春香は洗い物を済ませ、先に家に帰った。
「多岐先生、帰るの?」
橋元が後を追いかけてきた。
「すみません、お先に。」
春香がそう言うと、
「飲まなかったの?」
橋元は春香に聞いた。
「少し飲みましたけど、明日は実家に行くので、今日はもう寝ます。」
「送っていくよ。」
「いいですよ。すぐそこだし。」
橋元は春香の後をついてきた。
「多岐先生、彼氏いるの?」
「いますよ、たくさん。」
春香はそう言って笑った。
「じゃあ、俺は何番目になればいい?」
「冗談です。」
「どうして、先生になろうと思ったの?」
「なんとなくです。」
「なんとなくで、なれちゃうなんてすごいね。俺なんか、何回も試験に落ちたから。」
「ごめんなさい。そんなつもりで言ったわけじゃなくて。」
「多岐先生の周りには、きっといい先生がばっかりいたんだろうね。反抗なんてした事ないでしょう?」
「そんな事ないですよ。」
春香は少し早足になった。
「多岐先生、良かったら今度一緒に出掛けませんか?」
「ごめんなさい。」
春香は走って家にむかった。
「せっかく皆が仲良くなったのに、春香のせいで感じ悪くなるよ。」
真紀に言われた言葉を思い出した。
冷蔵庫にある3.5リットルのペットボトルの水を、そのまま口をつけてガブガブ飲むと、春香は膝を触った。うまく生きてきたつもりなんてない。いつも言いさせなかった言葉を飲み込んで、それが一番いい方法だと思ってきただけなのに。
次の日の朝早く。
春香は誰にも会わない様に家を出た。実家までは車で1時間。通えない距離じゃないんだし、やっぱり教員住宅を出ようかな。春香はそう思っていた。
実家に着くと、父が出掛ける準備をしていた。
「春香、どうした?」
「昨日、運動会で、明日も休みだし。お父さん、今日は仕事?」
「そうだよ。講演会があるんでな。その挨拶。」
「なんの講演会?」
「春香も来るか?大阪の学校の先生の話しだ。」
「ふ~ん。行かない。」
「春香、会場まで送ってくれるか?」
「それって、終わったら迎えに行くのもありって事?」
「そうだな、そうなるな。」
「じゃあ、今日はお父さんの知り合いのお寿司屋さんに寄ってもいい?」
「なんだ、ずいぶんえらそうだな。」
「娘を足に使うんだから、それくらいいいじゃない。」
春香は父を車に乗せて会場まで向かった。
「聞いて行かないのか?」
父が言った。
「お父さんの挨拶なんて聞いてもしょうがないよ。」
「違うって、先生の講演。管内の先生達も皆来るんだぞ。」
「じゃあ、聞かない。だって今日は休みの日だし、私は普通の人だもん。」
「お前は率先して、働き方改革してるんだな。人を育てるって、休みなんかないはずなのに。」
「そんな事言ったら、誰も先生になんてならないよ。」
「春香、さっきからずいぶん言い返してきて、遅い反抗期がきたのか?」
「何言ってんの?お父さんってきっと嫌な上司なんだろうね。」
「あっ、そうだ。今日は遠山くんもいるぞ。春香と違って、嫌がらずに休日出勤してるぞ。」
父の言葉に春香は一瞬固まった。
「私も昨日は、休日出勤だったよ…。」
父を迎えに行った時。玄関先でスーツ姿の遠山を見掛けた。愛想笑いも上手にできる遠山を見て、春香は大きなため息をついた。
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