第9章 空に祈る
子供の手を併せたような真っ白い木蓮の花は、空に向かって祈りを捧げているようだった。
あの日転んでいたあの女の子は、ちゃんと1人で歩いているだろうか。
春香は小さな町の小学校へ赴任が決まった。家から通える場所ではなかったので、結局、教員住宅での一人暮らしが始まった。
こんな事なら、澤村について行けば良かったと、自分の靴しか置いていない玄関を見て、ため息をついていた。
一度でも誰かのぬくもりを覚えたら、1人で眠る夜が辛くなる。寂しさの病なんか、母がいなくなってからちゃんと免疫がついていたはずなのに。
冷たいベッドに入ると、澤村が車を運転している横顔や、料理をしている父の背中や、バス停で待ちぼうけしてたかもしれない遠山の顔までもが浮かんでくる。
孤独って、毒なんだね。
眠れずに過ごす夜は、夢を見るどころか、暗闇の中で目を閉じても、どこから差し込んでくる小さな光りが邪魔をする。
もう一度あの夢が見れるなら、こんな時間を終らせてほしい。きっと大きなクモが待ち構えているクモの巣には、孤独という毒がついていて、毒が回って動けなくなっていく自分を、早く食べてくれないだろうか。
春香は携帯を手に取った。
“もう寝たの?”
やっぱり寝たのか。
澤村からの返信は今日もなかった。
5月の連休。
こっちに戻ってくると言っていた澤村は、体調が悪いからと戻って来なかった。6人で会おうと言っていた約束も、結局叶う事はない。学生という時間は、社会に出る準備なんかじゃなくて、ほんのひとときの休み時間なんだ。
春香は父と居間でテレビを見ていた。
「仕事は慣れたか?」
「うん。小さな学校だから、そんなに忙しくないし。」
「小学校はかわいいだろう。ランドセルが歩いてるみたいだし。」
「そうだね。小さな町だから、中学校と併設してて、兄弟で通っている子も多いの。少し背が違うだけで、笑った顔は皆おんなじ。大きなランドセルと、大きな目の制服と、なんであんなに可愛いんだろうね。」
「小さな学校は、そのうち大きな学校と統合されて、教師も余ってくるんだろうな。まあ、教師の成り手も少ないって聞くから、数的にはうまくいくんだろうけどな。」
「お父さん、今年から教育委員会に異動したんだっけ?」
「そうだよ。今の学校は、発達障害やら、不登校の問題やら、教師の鬱、なんだか大人の社会の問題が凝縮されてる様に感じるよ。」
「私、やっていけるかなぁ。」
「そう言えば、遠山くんは春香と同じ高校だったって言ってたけど、知ってるか?」
「遠山くん?」
「今年、教育委員会に入ってきたんだよ。いろいろ資格があるみたいだから、町のスポーツ教室で力を発揮してもらおうと思ってね。」
皆、新しい生活を始めているのに、自分だけが取り残されている気がした。
あの女の子と会ったコンビニまで歩いて行くと、「多岐さん?」
名前を呼ばれて、春香は振り返った。
「もしかして、松下さん?」
春香は目の前に立つ女性に見覚えがあった。松下の手には、男の子の小さな手が握られている。
「少し話せない?」
松下が言った。
「うん。」
松下と春香は公園まで歩いていった。冷たいベンチに腰を下ろすと、
「いくつなの?」
春香は男の子の年を聞いた。
「3歳。聞いてるでしょう?大学を退学したって。」
「留学してたんでしょう?」
「ううん。この子を妊娠したのよ。彼も学生だったし、どうしようか悩んでね。結局、大学を退学して、1人で産む事に決めたのよ。」
「そうだったの。」
「いつも多岐さんが羨ましくってね。なんの努力もしないのに、勉強もできて、なんでも器用にできるから、人がチラホヤするじゃない?多岐さんはそういうつもりはなくっても、それがまた悔しくって。同じ高校になった時、初めは多岐さんの真似ばかりをしてたんだけど、やっぱりうまくできなくてね。そのうち、多岐さんが悔しがる事をしてやろうって、とにかく邪魔をするようにしてたの。」
「私、嫌われてたんだね。」
「ショックでしょう?」
「うん。」
「失敗して落ち込むよりも、人から嫌われる方怖いって思ってるでしょう?」
「そうだね。」
「うまく生きられる力が人と違うの。多岐さんはそれに気づいてない。私の様な人間は、そういう多岐さんに腹が立つの。」
「どうしたらいいだろうね。」
春香はため息をついた。
「別にいいのよそのまま。それが多岐さんなんだから。」
「ねぇ。今、何をしてるの?」
「この子が3歳になったから、保育園に預けて大学に通ってるの。結局、多岐さんと同じ大学に入ったんだけどね。」
「すごいね。お母さんもやって、勉強もしてるの?」
「そうよ。私は多岐さんと違って1人で起き上がれるから。」
「私だって、ちゃんと起き上がれるって。」
「嘘。遠山くんがいないと起き上がれないでしょう?あの時、ごめんね。遠山くんのは何もなかったの。わざとに多岐さんを困らせたかっただけ。」
「そんな事も、あったね。」
春香は少し俯いた。
「ねぇ、過去問ってある?」
「あるよ。まだ捨ててないはず。」
「今度ちょうだい。」
「うん。いいよ。」
2人は連絡先を交換して別れた。
次の週末。
春香は連絡が来なくなった澤村に会いに行くために新幹線に乗っていた。
澤村のアパートのチャイムを鳴らすと、起きたばかりなのか、ぐちゃぐちゃな髪を撫でながら、澤村が出てきた。
「春香…、」
「どうして連絡をくれないの?」
春香は澤村の胸を叩いた。
「入れよ。ここで騒ぐと人が見るだろう。」
澤村は春香を中に入れた。
「なんできたんだ?」
「だって、連絡しても返事がないから。」
「こうなる事は、自分が一番わかっていたはずだろう?」
「澤村くん、1年待っててくれるって。」
「こっちにくる決心したのか?」
「したよ。」
澤村は春香の耳を触った。
「ただ、寂しかっただけだろう。」
「寂しいって思うは、そんなに悪い事?」
「だったらなんで、ここに一緒にきてくれなかったんだよ。会社で働くってすごく大変なんだよ。学校の延長線の春香にはわからないだろうけど。毎日クタクタになって家に帰ってきて、一人で飯食って、そんな時だよ。昔の彼女からどうしてるって連絡があったら、もう、春香の事なんて忘れたよ。」
「ごめん。」
春香はそう言って澤村の部屋を出た。アパートの階段で、キレイな女の人とすれ違った。春香はいい香りのするその女性に気を取られると、階段の最後の一段を踏み外した。
ぶつけた膝を撫でながら、澤村がきて声を掛けてくれないかと思い、自分の影さえも勘違いしてしまう。
春香は立ち上がり、涙を拭った。
転んだくらいで泣くなんて馬鹿みたい。
春香は痛む足をかばいながら、駅に向かった。
「春香!」
澤村が追いかけてきた。
「大丈夫か?」
「見てたの?」
「彼女が、入り口で転んでる子かいるって言ってたから。」
「そう。優しい人なんだね。」
「春香、あのさ、」
「澤村くん、ありがとう。」
春香はそう言って澤村に手を振った。
帰りの新幹線で眠っていると、久しぶりにあの夢を見た。びっくりして起きると、ほらっと隣りの中年女性がみかんをくれた。
「いくつ?」
「22です。」
「学生さん?」
「いえ、働いてます。」
「うちにも娘がいたのよ。あなたと同じくらいね。生きてたら、こうして隣りに座ってたのかなぁって思ってね。」
女性はもう一つみかんを春香に渡した。
「何があったのか知らないけど、そのうちきっといい事があるから。じゃあね。」
女性はそう言って席を後にした。
春香はみかんをおでこにあてると、ひんやりした感覚と、みかんの涼し気な匂いを感じて、少し目を閉じていた。
キレイな思い出にしようと思うほどに、寂しさが募っていく。どうしていつも、クモに食べられる前に起きてしまうだろう。夢なのに、ずっと緊張から覚める事ができない。
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