第8話 温い水
買ってきた水が、テーブルの上で温かくなっている。太陽の日差しは、透明な物にも平等に降り注いでいる。
春香はペットボトルを冷蔵庫に入れると、ひんやりとする冷蔵庫の冷気に顔を近づけた。
「春香、クーラーつけようか。」
父が言った。
「うん。」
春香は窓を閉め、クーラーをつけた。子供の頃は、クーラーなんて贅沢品だったけど、この頃はこの地方でも、ずいぶんと30度を超える夏日が増えた。
「来週、澤村くんと向こうに行くんだろう?」
「うん。」
「向こうの教員採用試験が受かったら、春香も出ていってしまうのか。」
父は寂しそうな顔をした。
「まだ受かるかどうかわからないよ。向こうは倍率が高いみたいだし。」
「こっちも受けるのか?」
「どうしようかな。」
次の週。
澤村の実家に泊まった春香は、澤村の家族とのぎこちない会話に、少し疲れていた。
「春香、明日は何時から?」
「9時から。」
「春香なら、きっと大丈夫だろう。」
「なんだろうね。いつもの試験とぜんぜん違う。澤村さんは?」
「俺は面接だけだから。」
「そっか。1次試験は終わったんだよね。」
「なぁ。春香がこっちにきたら、一緒に暮らそうか。」
「そうだね。」
澤村が眠る横で、春香はこのまま澤村の隣りにいてもいいのか迷っていた。
母が亡くなってから、行けなかったコンビニにも、1人で入れる様になった。車の免許も取ることができた。一つ一つ当たり前の生活を取り戻していく中で、転んで起き上がれなかったあの女の子が、ずっと自分の背中に張り付いているようだった。
冷え切った部屋の中に入ったはずなのに、腐敗した生ゴミの臭いが鼻についた。男の子のオムツの臭い、お風呂に入っていないだろう女の子の髪の毛の臭い、母親の黒ずんだ手。
待っていたかもしれない遠山を遠ざけた自分。
見たくない物を見えないふりして、取り繕って生きていく事は、その歪みに気づいた時は、もう一度糸を解かないとキレイにならない。
あの子、今どうしているのかな。
「眠れないのか?」
澤村が起きた。
「大丈夫。」
春香は澤村に背中をむけた。
「疲れたんだろう。慣れない人の中で話すのって、気を遣うから。」
澤村は春香の背中を抱いた。
「合格する魔法あげようか。」
「なにそれ。」
春香が澤村の顔を見ると、澤村は春香にキスをした。澤村は春香の服に手を入れてきたが、
「もう、寝ないと。」
春香はそう言って澤村の手を掴んだ。
「そうだな、おやすみ。」
澤村は春香の耳を触ると、もう一度キスをして眠りについた。
次の日。
試験開始が合図されると、春香は答案用紙をめくり名前を書いた。解けると思われた問題さえも、いろんな音や匂いが気になって頭に入ってこない。問題すらろくに読めないまま、試験は終わった。
春香が試験会場になっている大学を後にすると、澤村が少し離れた路肩で待っていた。
「帰ろうか。疲れただろう。」
試験が終わったら、澤村の車で地元へ戻る事にしていた。その日うちに帰らないと、次の日には落とせない授業があるから。
「試験はどうだった?」
「どうかな。澤村さんは?」
「俺は意思確認みたいなもんだから。」
澤村はそう言って笑った。
住み慣れた町の入り口が見えてくると、春香は胸が熱くなった。もう何年も帰っていなかったようにいつも見ていたはずの風景が色付いていくと、春香はひとつ深く呼吸をした。
「ここはもう少しだな。」
澤村はそう言うと春香の耳を見た。
「そうだね。」
1週間後。
澤村には内定通知と、春香には不合格通知が届いた。
「ごめん。」
そう言って謝る春香は、どこかホッとしているようだった。
春香が用事があるからと言って会えないと言ってきた日曜日。
春香の家の前で待っていた澤村は、スーツ姿で帰ってきた春香の肩を掴んだ。
「こっちの試験受けたのか?」
春香は何も言わず下をむいた。
「やっぱり、ここから出る気がなかったのか。」
「ごめん。」
「春香、ちゃんと話そうか。」
澤村は春香の手を引っ張って車に乗せた。
「なんで話してくれなかったの?」
「どうしていいか、わからなくて。」
「ここから離れたくないなら、初めからそう言ってくれれば良かったのに。」
「澤村くんと会えて、すごく楽しかったから。」
「そう言うところだよ。知らないうちに、相手を気持ちを傷つけていくんだ。」
「ごめん。」
「今さら謝られても、ずっと一緒にいれないなら、もう終わりだね。それとも、ここを離れる決心をしてくれる?」
「少し考えさせて。」
「もう答えなんて決まってるだろう。俺は春香の都合には合わせられない。離れても好きでいる自信がないよ。捨てるもの捨てていかないと、これからずっと辛くなるだけだぞ。それとも、ここで、そんな風に迷って暮らしていくつもりなのか?」
澤村は春香の手を握った。
「ずっと大切にするからさ、考え直せよ。」
春香は澤村の手を離すと、
「ごめん。」
そう言って車を降りた。
次の日のお昼休み。
図書館で本を探していると、
「澤村くんとなんかあったの?」
真紀がやってきた。
「うん。もう終わったの。」
「そっか。澤村くん、死んだような顔してるよ。春香は鬼だね。」
「そうかな。」
「向こうの採用試験、難しかったの?」
「そうだね、けっこう、難しかった。」
「嘘。春香ならできたはずじゃん。わざとに白紙で出したんでしょう?」
「わざとじゃないよ。本当にできなかったの。」
「じゃあ澤村くん、もらっちゃっおうかなぁ。私、就職試験これからだし。」
「澤村くんは私の物じゃないから。」
「春香のそう言うところだよね。知らない間に周りを傷つけてるの。なんでも器用にできるからって、手に入らない物なんてないって思ってるでしょう?澤村くんだって、ずっと自分を待っててくれるって思ってる。」
「そんな事ない。」
「皆、欲しいものなんて簡単に手に入らないの。転んだら自分で立たないとダメなんだし。」
「知ってるよ。」
「春香、ちゃんと話しなよ。せっかく皆が仲良くなったのに、春香のせいで皆の感じが悪くなるよ。」
「真紀、ごめんね。」
「食堂行こうよ。皆待ってるから。」
「あっ、」
食堂に行くと澤村と目が合った。
「春香、考え直したみたいだよ。」
真紀がそう言った。
「澤村、1年くらい我慢しろよ。多岐ちゃんが、来年また採用試験受ければいいだけの事だろう?」
真下が言うと、
「簡単に言うなよ。」
澤村がボソッと言った。
「1年ってけっこう長いぞ。」
和田が言った。
「春香は大丈夫だと思うよ。頑張れないのは、澤村くんの方。」
里穂がそう言うと、
「多岐ちゃん、澤村と一緒にいろよ。」
和田が言った。
「私達、午後から授業ないからもう帰る。和田くん真下くんも行こうよ、早く。」
真紀はそう言うと、春香と澤村を残し、食堂を後にした。
「卒業まで、楽しくやろうよ。」
和田が言うと、
「余計な事言わないの。」
里穂は和田を引っ張った。
「お昼食べたのか?」
澤村が言った。
「朝、遅く起きたから。」
「教師になったら、そんな生活できないぞ。」
「そうだね。できないね。澤村は食べたの?」
「食べれるわけないだろう。けっこうショックだったんだから。」
「ねえ、むこうでアイス食べようか。」
午後の講義が始まる時間になると、大学のロビーは人がいなくなった。
「講義は?」
「14時から。春香は?」
「私も。」
春香は買ってきたアイスを澤村に渡した。
「もう少し溶けるまで待ってた方がいいかも。」
「なぁ、春香のと取り替えて。」
「澤村くん、いつもこっちじゃなかった?」
「たまには別の味が食べたくて。」
春香は澤村も持っているクッキークリームと、自分の持っているストロベリーを取り替えた。澤村は一口掬って食べると、
「やっぱり、そっちの方が美味しいわ。」
そう言って春香のアイスと取り替えた。
「母が生きてた時は、ここから離れるなんてなんにも怖くなかったのに、父と2人になってから、誰もいない家に帰るのが嫌でね。ずっと家にしがみついてきたせいか、澤村くんの家族と会った時、あんな風に楽しそうに笑って話す事が、うまくできなくて。」
「春香の耳を見てたらわかったよ。そんなに迷っているなら、離れて暮らすのも仕方ないか。俺は待ってるからさ。1年経ったら、ちゃんと答えを出してほしい。」
「むこうに行ったら、実家に済むの?」
「一人で暮らすよ。俺は次男だし、割と自由だから。」
「お兄さんと、弟さんがいるんだっけ?」
「そう。兄貴は嫁と子供を連れてきたし、弟はまだ高校生。俺の居場所なんかないんだよ。」
「そっか。」
「春香のお兄さんは?」
「お兄ちゃんは東京にいる。年が離れているから、あまり話さないし。家族って、一番近くにいるのに、なんか難しいね。」
「まだ、自分のせいだって思ってるのか?」
「母の事?」
「そう。」
「自分のせいだって思わなきゃ、忘れちゃうから。謝る度に怒ってる顔が浮かんできて、すぐ近くにいるみたいで安心する。」
「春香、本当はここを離れる方が、俺はいいと思うんだけどな。」
「そうだね、わかってる。」
「夢を見た時はどうする?」
「大丈夫。クモの巣の夢は、最近見ないから。」
「そろそろ14時だな。今日は家に来いよ。」
「うん。じゃあ、あとで。」
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