第7話 溶けない雪

 さっきまでチラチラと降っては消えていた雪が、気がつくとアスファルトを白くしていた。

 明日から一気に気温が低くなる。溶けることがない今日の雪は、きっと根雪になって、その上にまた新しい雪が積もっていくだろう。

 冬の太陽の日差しは遠い。


 春香は成人式が終わり、真紀と里穂と会場を後にした。

 夕方にはクラス会がある。うまく断る理由が見つからなかった春香は、遠山がくるかもしれないと思うとソワソワしていた。

 さっきから何度も熱を測っている春香を見て、

「具合が悪いのか?」

 父が言った。

「着慣れない物を着てたせいか、なんだか寒くて。」

「女の人は大変だな。」

「ねえ、お父さん。」

「なんだ?」

「なんでもない。」

「そう言えば、澤村くんは?」

「実家に帰ってる。」

「そうか、ここは地元じゃないんだったよな。就職はやっぱり向こうに戻るのか?」

「よくわかんない。ねぇ、晩ご飯はどうするの?」

「寿司でも取るよ。なんだよ、急に晩ご飯の心配なんかして。いつもは澤村くんの所に行ったきりだろうに。」

「そうだね。」

 玄関のチャイムがなった。

「春香、行くよ~。」

 柊子が迎えにきた。


 クラス会の会場に着くと、遠山と目が合った。

「春香、こっち。」

 柊子が春香を呼ぶと、仲の良かった女の子達で輪ができた。

「春香、大学はどう?」

「そうだね、けっこう退屈な時もあるよ。」

「バイトはしてるの?」

「うん。新しくできたお弁当屋さんでね。」

「彼氏は?」

「いる。」

「本当に?」

「うん。」

「多岐に彼氏ができたのか?」

 近くにいた数人の男子が、春香の事を大声で話し始めた。

「鉄壁の多岐に男ができたなんて、やっぱりあの大学ってすごいところだなぁ。」

 男子の1人がそう言った。

「多岐から言ったのか?」

「もういいじゃない。」

「多岐、吹奏楽部の部長、振ったよな。卓球部の部長も。おまえ、部長キラーって言われてたんだぞ。」

「知らないよ、そんな事。」

 春香は遠山の方を見た。遠山は仲の良かった男子達と楽しそうに話している。

 あれほど会いたくなかったくせに、会えば昔みたいに隣りで話しをしたくなる。 

 ダラダラと過ぎていく時間は、懐かしさよりも、もどかしさの方が募っていった。

「春香、二次会行くんでしょう?」

 柊子が言った。

「ううん。行かない。」

「どうして、彼氏怒ってるの?」

「違うよ。私まだ二十歳じゃないし、皆楽しそうで羨ましい。」

「えー、春香も行こうよ。」

 柊子がそう言って春香の腕を掴むと、

「多岐、行くぞ。」

 そう言って遠山が背中を押した。

「元気だったか?」

「うん。遠山くんは?」

「まあ、なんとなく。多岐はなんの教師になるんだ?」

「私は養教。遠山くんは?」

「俺は体育。そう言えば、松下は退学したんだ。学校推薦だったから、今年からうちの学校の枠がなくなったよ。」

「そうだったの。」

「多岐が選ばれたら良かったのにな。」

「仕方ないよ。松下さんは今どうしてるの?」

「留学したらしい。今日の成人式も来てなかっただろう。」

「そっか。」

「ずっと誤解してただろう。」

「何が?」

「俺と松下の事。」

「そうだね。だってそう見えたから。」

「松下は多岐と同じ幼稚園だったらしいよ。」 

「本当に?ぜんぜん覚えてない。」

「多岐のそういう所なんだって。自分じゃあ、何とも思わなくても、嫉妬させてしまうっていうかさ。」

「私、松下さんの事は、本当に覚えてないから。」

「劇の主役がどうのって言ってたわ。」

「遠山くんは、幼稚園の事覚えてる?」

「覚えてないよ。」

「普通そうでしょう?」

「だけど、松下は忘れないんだよ。ずっと多岐の事が羨ましくって、いつか追い越そうと思って無理して辛くなって。まぁ、それでも自分のやりたい道に進んだんだし、良かったってわけか。」

「良くないよ。私、どうすれば良かったのかな。」

 春香は俯いた。

「多岐、何にも変わってないな。」


 家に帰ると、遠山からラインがきた。

“明日学校のバス停で13時に待ってる”

“行かない”

 春香は返信をした。

 来なかったくせに、何よ、今さら。

“ずっと待ってるから”

“行かない”

 春香は澤村に電話を掛けた。

「どうしたの?こんなに遅く。」

「いつ帰ってくるの?」

「明後日。」

「明日は?」

「こっちの友達と会う約束してる。どうした?」

「ううん。別に。急に話したくなって。ごめんね。遅くに。」

「明後日帰ったら、家にこいよ。」

「うん。」

 

 眠れずに迎えた朝。

 カーテンを開けると、冬なのに珍しく青空が広がっている。空と山の境目がはっきりして見える日は、後から必ず荒れ模様になると聞いたことになる。

 行かないと返信したくせに、澤村が帰って来ないとわかると、遠山の事で頭がいっぱいになる。浮気や不倫をする人って、こんな風に始まるのかな。自分なんかそんなに恋愛の経験も多くないくせに、大人びた事を考えて馬鹿みたい。

 何度もため息をついていると、

「春香、父さん今日から出張だから。」

 父が大きな荷物を持っていた。

「そうなの?珍しい。」

「急に決まったんだ。先週、春香に言ったはずだけど。」

「いつ帰ってくるの?」

「明後日。」

「そっか。気を付けて。」

 誰もいない家の中で、テレビをつけては消して、ソファに寝転んでは起きて、何度も時計を見てはため息をついていた。

 そんなに気になるなら、バス停に行けばいいのに。遠山と会えば、気持ちが溢れ出しそうで、それに、1人で待っているかもしれない遠山の事が心配になって、春香は大きく息を吸うと、出掛ける準備をした。

 澤村に嘘をついている後ろめたさよりも、遠山に会いたい気持ちが手を震わせる。少しだけつけようと思っていた赤い口紅が、人を食べたように真っ赤に色づいた。春香はティッシュでこすって取ると、いつもつけている薄いピンク色の口紅をつけた。クマのできた目の下を、呪文の様に撫でたが、顔色は良くならなかった。

 春香は家を出て、バス停まで歩いていると、コンビニの前で小学生くらいの女の子が転んでいた。

「大丈夫?」

 春香は女の子に駆け寄ると、その子は足を押さえて泣いていた。

「歩けないの。」

 女の子はそう言った。

「お母さんは?」

「家で熱を出してる。」 

「弟も寝てるから、食べる物を買いにきたの。」

「お家はどこ?」

「このコンビニの向こう。」

 春香は袋から飛び出したあんパンを拾い、女の子を背負うと、彼女が指を差した方に向かって歩い始めた。

「お父さんは?」

「いない。ずっと帰ってこないから。」

「そう。熱を出したのはいつから?」

「もうずっと前。お正月は病院が休みだから薬はもらえないよってお母さんが言ってた。」

 女の子の家に着いた。古いアパートのドアを開けると、ストーブのギリギリに敷かれた布団の中に、女の子のお母さんが咳をしていた。

「お母さん!」

 女の子が母親に寄り添う。

「大丈夫ですか?」

 母親は顔色が悪い母親に声を掛けた。隣りで眠っている小さな男の子は、力がない様子だった。

「あの、救急車呼びますから。」

 春香が言った。

「大丈夫です。もういいですから。」

 母親は春香の手を掴んだ。熱があるはずなのに、冷たいその手は、爪が伸びて春香の手の甲に刺さってくるようだった。

「この子、意識ないですよ。お姉ちゃんも足が折れてるかもしれないし。それにお母さんもこのままなら、死んじゃいますよ。」

 春香はそう言って救急車に電話を掛けた。

「もうどうなってもいいんです。」

 母親は泣いていた。

「お母さん、死なないで。」

 女の子は母親の手を握った。

 隣りにいる男の子の首に触れると、ドクドクと血の流れる感触がある。

「その子、ずっとオムツ取り替えてないの。」

 母親が言った。

「どこにありますか?」

「向こうの部屋。」

 春香は隣りの部屋からオムツを持ってきた。重くなったオムツを取り替えると、赤くなったお尻が目に焼き付いた。

「ごめんなさい。水が出ないんです。」

 母親がそう言うと、救急車の音が近づいてきた。玄関を開けて、救急隊を呼ぶと、慌ただしく3人は救急車に乗せられた。

「あなたは家族?」

「いいえ。さっき、この女の子に会いました。」

「ちょっと警察呼ぶから、悪いけどここにいて。」

「あの、あの子達は?」

「大丈夫。病院に入院したら、ちゃんと命は守られるから。」

 静まり帰ったら部屋の中で待っていると、間もなく警察がやってきて、春香にいろいろ質問をした。市役所の職員らしい人も後からやってきて、春香にいろいろ聞いた後、たまたま通り掛かっただけだとわかると、割とあっさり、帰っていいよ、と言われた。

 女の子が転んでいたコンビニで手を洗うと、暖かいお茶を買って店を出た。

 バスが目の前を通り過ぎると、春香は携帯を見た。16時か。遠山はもうとっくに帰ってしまっただろう。

 春香はラインを開いたが、新しいメッセージは何もなかった。


 次の日。

 澤村が帰ってきた。

「今日は家に泊まって。」

 春香はそう言って澤村を家に呼んだ。

「お父さんは?」

「出張。」

「春香?」

「何?」

「なんかあったの?」

「なんにも。」

 澤村は晩ご飯の準備をしている春香の隣りにきた。

「クラス会、楽しかった?」

「うん。そうだね。」

 澤村がずっと見ている事に気がついた春香は、

「何?」

 そう言って少し距離を置いた。

「隠し事してる時は、すぐにわかるんだよ。」

 澤村は春香に近づいて耳を触った。

「赤くなってるよ。」

「なってないよ。」

 春香は澤村の手を払おうとした。澤村は春香の手を掴むと、

「ちゃんと彼氏ができたって好きだった奴に言ったのか?」

 そう言って微笑んだ。

「何が?」

「そいつに会って困ってたんだろう?」

「そんな事ないよ。そんな人なんていないし。」

「嘘つくなよ。」

「嘘じゃない。」

「俺はちゃんと言ってきたぞ。」

「どういう事?」

「昔付き合ってた女の子と会って、春香の話しをしてきた。」

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