夜海光

ぴのこ

夜海光

 夜風が頬を撫でる。

 波の音が鼓膜を揺らす。

 潮の香りが鼻をくすぐる。

 

 視界に映るものは暗い雲が立ち籠めた夜空と、暗澹たる黒と化した海だけ。辺りに人影はひとつとして無い。しんと冷えた空気の中、ざあざあと寄せては返す波の音に、私の足音と杖と息の音が交じり合う。

 私は砂浜で右の靴を脱ぐ。冷えた砂と夜の寒気とが素足にひんやりとした感触を与える。


 私は右脚を高々と掲げる。蓄光塗料を塗ったつま先が、夜闇の中でぼんやりと光る。

 とん、とん、がしゃり、くるり。足を上げ、下げ、振り、回る。杖を突きながらの不格好なバレエで。闇の中で、つま先の光を踊らせる。


 そうら、来た。

 私の愛しい観客たちが、光に釣られてやって来た。

 昔からいつも、海の中からどうやってこの光を察知するのか。あの日も気づけばこうしてここに居て、私の踊りに歓声を上げていた。


 さあ、随分と不格好になってしまったが、久しぶりの公演だ。

 鑑賞料は後払い。

 私のお願いを聞いておくれ。




 昔から、夜の海が好きだった。

 周りは皆、夜の海が怖いと言う。真っ黒で怖いからと。

 だが私は、あの黒が好きだった。一面の黒の中に、光を踊らせることが好きだった。


 初めて夜の海で踊ったのは、小学五年生の夏だった。その時の私は、少し前に生まれて初めて見たホタルがあまりに綺麗で、目に焼き付いて離れなかった。だから再現したくなったのだ。私のバレエで、あのホタルを。

 その日もバレエの練習をこなして疲れてはいた。だが衝動が抑えられなかった。私は父の釣り道具の蛍光塗料を足の指に塗り、その晩に夜の海に繰り出した。私の家は海沿いにあり、砂浜には一分とかからずに辿り着いた。

 

 砂浜には誰も居なかった。私は息を整え、夜闇につま先のホタルを飛び回らせた。綺麗だった。この美しいものを作り出しているのは私なのだという思いが、より感動を引き立てた。

 観客の視線は無い。この光を見る者は私だけ。私は私のためだけに踊っていたつもりだった。


「なんとも美しい踊りではないか」


「光の粒の優美なことよ」


 海風に交じって、声が聞こえた。確かに、海から聞こえた。

 私は踊りを止め、きょろきょろと辺りを見回した。私よりも海側の砂浜には誰の姿も無かった。


「止まらないでおくれ」


「もっと見せておくれ」


 野太い男たちの声のようでいて、風の唸り声のようでもある。そんな声だった。

 恐怖はあった。だが私は踊りを再開した。恐怖よりも、嬉しさが勝ったのだ。私の踊りが、この光の美しさが認められた嬉しさが。


「素晴らしい踊りを見たものよ」


「またここに来て踊っておくれ」


 しばらく経って踊りを止めると、海からの声が満足気に響いた。私はその言葉通りに、それからも何度も夜の海で踊った。つま先に光を灯して。



「いつもいつもありがたい」


「何か礼をしなければ」


「海のことなら何でも良い」


「願いを我らに言うと良い」


 それは小学六年生の時。沖縄への修学旅行を明日に控えた夜のことだった。

 その頃の私は、ある同級生にひどいいじめを受けていた。その主犯格の同級生が居なくなればと、毎日のように思っていた。

 だから、つい願ってしまったのだ。


 あいつを沈めてくれと。


「容易い願いだ」


「ちと遠いけれども」


「それは我らの本懐よ」


 その翌日、その同級生は溺れて死んだ。シュノーケリング体験中に、海水を飲み込んでしまったのだ。

 私は背筋にぞくりとしたものを感じつつ、口角を吊り上げた。本当に、叶えてくれたのだと。

 踊れば、願いを叶えてくれるのだと。


 とはいえ人を沈めてほしいと願う機会などそうそう無く、私は珍しい魚や貝などを鑑賞料として彼らから貰って暮らしてきた。恐ろしい願いなど、あの一回きりだと思っていた。



 今日、私の古巣のバレエ団が乗った旅客船を沈めてほしいと願うなどとは夢にも思わなかった。


 私の左足が潰れたのは、バレエ団での練習中のことだ。突如として金属柱が倒れ、私を押し潰そうとした。咄嗟に避けられたと思ったのも束の間、私の左足を激痛が襲った。左の足首から先が、金属柱の下敷きになっていた。

 もう踊れなくなった私など用済みだと言わんばかりに、バレエ団は淡々と私の退所手続きを進めた。私ははらわたが煮えくり返る思いだった。ふざけるな。私はお前たちのせいで未来を奪われたというのに、お前たちは。

 私がその思いを口に出すことは無かった。声を荒げるなど無駄だと思ったのだ。

 奪われたのならば、奪えばいいだけだ。


 少し先に、団を挙げてのクルーズの予定が入っていることを聞いていた。それが今夜だ。クルーズといっても安い旅客船だが、彼らは今頃船旅を楽しんでいることだろう。

 私は五匹のホタルを宿したつま先を高く持ち上げ、鈍い光を月明かりよりも美しく輝かさんと踊り舞いらせた。


「なんと見事なものだ」


「光が減って惜しいものの」


「不思議とさらに美しく」


「この世のものとは思えぬよ」


 さあ、お願い。鑑賞料だ。


「容易いことよ」


 左足の、五匹のホタルの弔いを。


「魚を獲るより楽なことよ」


 私のお願いを聞いておくれ。


「いったい何人喰えるやら」


 あいつらの船を、沈めておくれ。



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夜海光 ぴのこ @sinsekai0219

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