空へと背伸びする

清水らくは

空へと背伸びする

 彼が寝たきりになって一か月がたつ。

 次第に動きは鈍くなり、今は首をゆっくりと傾けるぐらいしかできない。

「こんなになっても、頭ははっきりしているんだな」

 彼は笑っていた。私も笑った。笑えていると思う。

「おしゃべりだもんね。一生そのまんま」

「そうさ。俺、死んだのも忘れて喋るんだろうな」

 死。私が避けている言葉を、彼は簡単に使う。もう、覚悟ができているのだ。

「想像つく。きっと、ずっと、うるさい」

「はは。初めて会ったとき言ってたもんな。『静かでまじめなタイプが好みです』って。……俺で、ごめんな」

「何言ってんの」

「次は、理想の人と幸せになれよ」

 もう、笑えない。私は必死で唇に力を入れていたが、涙はとめどなく流れ始めた。

「次なんて……」

「なあ。俺はもう、幸せだった、そう言えるんだ。お前も幸せになってくれなきゃ、悲しいぜ」

「幸せだよ。私、幸せ」

「もう一度キスしようか」

「えっ」

 穏やかな顔だった。私を見上げながら、彼は目をつぶった。

 キスをするときは、いつも少し背伸びをしていた。何度言ってもしゃがんでくれなかった。でも、少し背伸びしてするキスが、好きだった。それを彼もわかっていた。

 今彼は、横たわっている。背の高い彼の顔が、私の腰ぐらいの位置にある。

 キスをするにはしゃがまなきゃいけないけど、確かに、なんか違うかもね。

 おしゃべりな彼が、何も言わずにじっとしている。私が覚悟を決めて身をかがめようとした、その時。

 彼が立ち上がった。

 その顔が私の胸から頭の高さに、そしてそれよりも高くに。

 私はつま先立ちをして、彼にキスをした。何の感触もないキスをした。手を伸ばしたが、何もつかめない。彼は目を開いて少し悲しそうな顔をした後、声を出さずに「さよなら」と口を動かした。

 彼の顔が、体がどんどんと天井へと上がっていく。私は必死で背伸びをしたが、もう手が届かない。

 彼の姿は見えなくなった。建物の外で、空へと向かっているのだろう。

 背伸びをやめた私が見下ろすと、彼のはベッドの上で全く動かなくなっていた。目元には涙の跡があった。結局泣いてんじゃん。

 幸せなわけがなかった。ただ、うつむかずに生きていこうと思えていた。

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空へと背伸びする 清水らくは @shimizurakuha

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