糸電話

朋峰

街中で、たびたび糸電話を見かけるようになった。

 街中で、たびたび糸電話を見かけるようになった。

 糸電話と言っても、普通は両先に紙コップがあるはずだが、見かけるものは片方しかない。赤い糸の先には茶色い紙コップがだらんと垂れ下がっている。

 反対側にはなにもない。糸の先にあるのは壁だ。コンクリートの隙間から咲く植物のように、壁から紙コップがぶら下がっている。いや、壁だけじゃない。時には電柱や誰かが持っているペットボトルから生えていることもある。日に二、三ほど目に入ってくる。

 不思議なことにその糸電話は私のほかに見えていないようだった。大学の友人に話したら、怪訝な顔をされたので自分の目がおかしいのかと黙った。

 気味が悪いのでしばらくはその存在を無視していたが、ある日自分のリュックから紙コップがぶら下がっていることに気づいた。体調が悪く、大学を早退した日だった。熱で幻覚を見ているのだと思い、なんの気なしにその紙コップを手に取った。触れてしまった。夢かと思っていたのに、指に力を入れると紙コップはべこりとへこんだ。確かな感触。いや、自分の頭がおかしくなって、あると感じているだけだろうか。

 コップの中身を覗いてみると、本物と同じように白い底が見え、穴から糸の端が飛び出していた。見る限り、なんの変哲もないただの紙コップだ。リュックから生えている以外は。糸を手に取り引っ張ってみると、ぴんと張るだけで切れることはなかった。もっと強く引っ張っても糸はちぎれない。

 たるんだ糸を張って紙コップに耳を近づける。囁くような声が聞こえてきた。知らない声だった。ぞっとして紙コップを床に落とした。向こう側のない糸電話なのに、一体なにが聞こえてきたのか。震える身体を無理矢理動かして、リュックをクローゼットに押し込んだ。

 もう一度聞いてみる勇気はなかった。一人暮らしなのにそんな恐ろしいことはできない。それから次の日、クローゼットをのぞき込むとリュックから糸電話は消えていた。

 どうやら糸電話は一日だけしか現れないらしい。そういえばいつも違う場所で見かける。

 結局私がその糸電話にもう一度耳を澄ましたのは、リュックの糸電話から二日後のことだった。

 大学の教室で、友人のノートから糸電話が伸びていた。友人は見えていないのか、まったく意に介さずノートを手に持ち、私に差し出した。

「こないだのノート、今のうちに写す?」

 私にノートを渡してくれる。糸電話は机の上に転がった。二日前のことを思い出し、あたりを見渡す。ひとりの時は怖かったが、これだけ周りに人がいる場であれば、聞いてみるのもありな気がして、紙コップに耳を近づけた。


 ――死ねばいいのに、あいつ。浮気ばっかしやがって。


 心臓が跳ね上がった。慌てて隣の友人を見る。彼女は無表情でスマホを見ていた。機嫌が悪そうにも見える。確かに聞こえてきたのは彼女の声だった。もう一度耳を近づけると、同じ言葉が聞こえてくる。


「あのさ、彼氏となんかあった?」


 糸電話を持ったまま私が尋ねると彼女はスマホから顔を上げて目を丸くしたあと、泣き笑いのような顔を見せた。


「やっぱわかる? マジさあ、もう別れようと思ってて。浮気されてさ」


 そう言って、彼女は恋人が浮気したことつらつらと話し始めた。彼女の恨み言を聞きながら、手の中の糸電話を見つめた。もしかしたらこれは人の心が聞こえてくるのだろうか。

 友人には見えていないようだったので、もう一度紙コップに耳を近づけた。目の前でうつむいて話している友人とは別に、紙コップから友人の声が聞こえてくる。先ほどと一言一句同じだった。けれどそれは目の前の人と違って憎悪に満ちた声だ。よっぽど彼氏への恨みが強かったんだろう。

 一度聞いてしまえば正体がわかった気がして恐怖が薄れた。講義が終わったあとに、駅の柱から生えていた糸電話を手に取る。


 ――あのクソ上司、怒鳴りやがって。今度ぶん殴ってやる。


 知らない男のどす黒い感情に、紙コップから耳を離す。誰だかわからないが上司と揉めたらしい。

 友人のときといい、人の悪意みたいなものが聞こえてくるのだろうか。あたりには他に紙コップはなさそうだ。

 紙コップを手放すとこめられた気持ちとは裏腹に、落ちたあと軽く揺れ動いていた。

 それからも紙コップを見かけたときにいくつか耳を寄せてみた。いずれも誰かに向けられた悪意や愚痴が聞こえてくる。気持ちの良いものではないので辟易し、目についても糸電話を無視していた。

 けれどある日、ネットで糸電話について調べていたら、糸電話は離れた場所でコミュニケーションができる道具だという記述が目に入った。とても当たり前のことなのに、天啓を受けたかのようにその場から動けなかった。見かける紙コップが片方しかないから全く思いつかなかった。

 悪魔のようなささやきだ。いや、私がこれから悪魔のささやきをするのかもしれない。

 そう、あの紙コップに、話しかけられるかもしれない。


***


 私は友人の紙コップで試すことにした。今度は彼女のリュックからぶら下がっていたのだ。自分のリュックについていた紙コップを思い出し、念の為一度聞いてみて、彼女の声であることを確認する。

 彼女ならお手頃に試せるし、結果も誰だかわかっている分、確認しやすい。声を聞いてみると、浮気したという彼氏とまだ続いていて、どうやらまたなにか気に食わないことがあったらしい。

 そこで彼女がリュックを置いて席をたったところを見計らい、糸電話に話しかけた。


「別れちゃいなよ」


 紙コップに耳を当てる。


「できるなら、そうしてるよ!」


 セリフが変わった。繰り返すばかりだった言葉から、会話になった。驚いて耳を離したが、気を取り直して、もう一度紙コップに話しかける。


「別れたほうが、幸せだよ」


 そう言うと、今度は彼女の迷った声が聞こえてくる。


「それはそうかもしれないけれど」


 もうひと押しすればいけそうだと心が踊った。


「他にいい人がいるかもしれない」


 紙コップを耳に当てると、今度は無言だった。しばらく待ってみたが、なにも聞こえてこない。不思議に思っていると友人が帰ってきた。手にはスマホを持ってスッキリした顔をしている。


「大丈夫?」


 糸電話が気になって尋ねると彼女はにっこり笑った。


「うん、なんだかわかんないけど、すっきりしちゃった。今、こないだいってた人と別れてきたの」


 笑いそうになるのをぐっとこらえて、神妙な面持ちでそうなんだ、と頷いた。


「なんかね、急に別れたほうがいいかなって気持ちになって。もっと他にいい人がいるんだって思えたの」


 彼女が朗らかにそう話すので、相槌をうつ。こんなに早く結果がわかって、私も笑顔になる。わかったことがいくつかあった。

 ひとつ、私の声も届く。ふたつ、届いた声は私とわからない。みっつ、おそらく相手は会話をしているとはわかっていない。知らないうちに心変わりする。

 それから見かけた糸電話の声を聞いては、ささやき続けた。上司の愚痴を言う声には会社をやめてしまえばいい、店員へのイラつきは怒鳴ってやればいい、そんな風にどんどん話しかけた。戸惑いの声が返ってくることもあったけれど、無視してそちらへ誘導することができた。力強い反論はなかった。思うに私がしているのは、相手の背中を押しているだけなので、自分の本当の声だと錯覚するのかもしれない。

 ささやいた人たちがどうなったのかはわからない。一度だけ駅前のコンビニで店員に怒鳴り返している男性を見かけたが、私のせいかは見当がつかなかった。

 しばらく見つけた糸電話に片っ端からささやき続けていたが、ある日糸電話が見つからない日があった。その頃にはささやきかけるのが日課になっていたし、日に二つ三つ見かけていたので、気になっていろいろなところを歩き回った。

 駅前の人だかりの多いところまで来たのにひとつも見かけず、仕方なく今日は諦めるかと改札を通ったところで、ポスターにひとつぶら下がっているのに気づいた。

 そそくさと近づき、それを手に取る。周りからは一体どのように見えるのかわからないが、そっと耳を押し当てた。


「殺したい」


 静かな落ち着いた男の声だった。寒気がして紙コップから手を離す。今までのような怒りを感じない声色、なのにそこにはしっかりとした殺意があり、喉元にナイフを突きつけられたように一瞬ひるんでしまった。

 これになんと返すべきか迷った。緊張で口の中が乾く。たった一言からではなにも読み取れない。なのに強烈に引き付けるなにかがある。怒っているわけでも、なにかに疲れている様子でもない。けれど鋭利な殺意。なにを言ってやろう。

 しばらく考えたあと、今まで通りに相手の背中を押すことにする。「じゃあ、刺しちゃいなよ」と囁く。これが一体誰なのかわからない。それでも、こうやって糸電話になっているということは、なにかしら鬱憤が溜まっているのだろうと思った。

 糸電話からの返事は「刺すだって?」という戸惑いだった。だからもう一度囁いてやる。


「そう、刺してしまおう」


 糸電話からの返事は途絶えてしまった。


***


大学までの通り道で警察を見かけた。パトロールという人数ではなく、ブルーシートでなにかを囲っている。野次馬たちがスマホを取り出して撮影しようとしていた。

 人だかりに戸惑っていると、講義が一緒の子が親切にも声をかけてくれた。


「通り魔だって。誰か刺されたみたい。こっちの道結構混んでるから、回った方がよさそうだよ」


 通り魔。刺されたのはうちの学生だろうか。こんなに人がいるっていうことは犯人は捕まっているのか。そんなことを考えたとき、手前のガードレールに糸電話を見つけた。

 好奇心だった。事件現場の前にある糸電話が一体なにを聞かせてくれるのか。

 声をかけてくれた子にお礼を言い、彼女が立ち去ってから地面に転がっている紙コップを手に取る。特に汚れた様子もない。今までと同じように深く考えず、耳を近づけた。


「さあ、殺そう。殺すんだ、殺そう」


 語りかけるように低い男の声が響いた。どこか楽しそうだ。警察が集まるブルーシートに視線を向ける。これは犯人の殺意だと確信があった。

 犯行前の声がこうやって残っているのだ。楽しそうな声色でも、糸電話になることがあるのか。

 一瞬警察に伝えようと思ったが、馬鹿げていると考え直した。伝えたところで信じてもらえるわけがない。糸電話は私にしか見えないし、この声のことを伝えても一体なんの手がかりになるのだろうか。

 それに、ふと思い出した。数日前、ポスターにぶら下がっていたあの糸電話のことを。もはやどんな声かは忘れてしまっていたが、もし仮に同じ人であれば背中を押したのは私だということになる。彼は本当にやったのだ。自分の内なる声だと思い込み、他人の声に従って。

 つまり、ここでまたなにかを言えばきっと彼は従うはずだ。

 口を開いて、なにを言おうか迷った。これはもしかして、完全犯罪というやつだろうか。捕まるわけがなく、証拠もなく、ただ相手を動かせる。

 彼を止める気はなかった。これまでは心の声の後押しをしているだけだったから、そもそも心の声と反対のことを言って止められるかはわからなかった。だから、今まで通りに肯定してあげた。


「そうだよ、早く、やろう」


 ポスターのあの糸電話は、人が死ぬまできっとやめないだろう。そうなると、もっとひどくなることが想像できた。自分の声が本当に影響しているのかもわからないが、これでニュースにでもなればきっとわかるだろう。


「ちがう、俺はもっと時間をかけたい」

「悩んでいる暇なんてないよ」


 そう言って糸電話から手を放し、そのままにして自分も大学に向かう。返事は聞かなかった。

 SNSで事件について調べると、被害者は軽傷のようだった。動画がいくつか上がっているが、いずれも犯行の瞬間はなく、被害者がうずくまっているところだけだった。

 きっとこの犯人はすぐに捕まらないだろう。あの声を聞く限り、彼は殺したい誰かがいるわけじゃないのだ。誰かを殺したいだけなのだ。

 そう思いついて身震いした。誰でもよいということは、彼の狙いが読めないということだ。ささやいた言葉がきちんと彼に届いていれば、きっと無差別にまた襲うはずだった。

 次の被害が出たのは三日後だった。朝のニュースで深夜に男が刺され、重傷だとアナウンサーが話している。地元の名前が耳に入ってきた瞬間、あの犯人だとぴんと来た。

 捕まっていなかったのかという安堵と、またやってくれた感心と、そして重傷の文字が映るテレビを見て、この前の事件よりも成長を感じた。

 アナウンサーがレポートしている現場はどこか検討がついた。私は迷ったあげく、結局そこへ行くことにした。糸電話があるかもしれないと思うと、気になってしまい放っておけなかった。

 現場は警察もメディアもいなかった。代わりに私と同じような野次馬と思われる人たちが現場の写真を撮っているのが見えた。

 あたりを歩いてみたが、糸電話は見当たらない。今回は発生しなかったんだろうか。

 そもそも糸電話がなにを条件に発生するのかわからないのだ。今回はないのかもしれない。しばらくあたりを歩いても見つけられなかったので帰ろうかと考え始めたとき、コンビニ前の自販機に紙コップがぶらさがっているのを見つけた。

 現場から少し離れているがせっかく見つけたのでそれを拾い上げる。一度深呼吸して紙コップを耳にあてた。


「今度こそ、次こそ、やるんだ」


 ガードレールと同じ声だ。

 数日前に聞いた声と重なり、やはり同じ人が犯人だったと確信する。今日の声はこの前よりも少し焦っているようだった。自分に言い聞かせるような話し方だ。

 そこまで考えてふと、彼はこれまでの糸電話とは違い、悪意がないことに気づいた。殺意ではあるけど、これまでの糸電話は特定の誰かへの恨みと悪意だった。けれど彼にあるのは純度百パーセントの殺意だ。普通、殺意というものは恨んで殺したい誰かがいる。でもこの犯人は、「誰か」を殺さなければいけないというだけで、そこに「誰を」という悪意なんてない。

 ポスターの声もそうだった。誰かへ向けられたわけではなく、ただただ冷ややかな殺意だった。彼がどこに向かおうとしているのか気になり、もっと先を見たくなる。

 犯行をやめるように言っても彼は聞かないだろう。手の中の糸電話を見つめる。反対してしまったら、相手はいったいどうなるのだろうか。内なる声を壊してしまうかもしれない。

 それならば、やはり私は彼の心の声を肯定してやるだけだ。

 糸電話にささやく。


「そうだよ、きっと次こそ、殺せる」


 明確にそう口にして、神のような甘美な言葉に震えた。きっと彼はこれから多くの人を傷つけていくだろう。だって彼はまだ殺せていない。今朝のニュースを思い出し、糸電話を見つめる。警察は彼を捕まえられるだろうか。

 その前に彼は本懐を遂げるだろうか。


***


「警察が聞き込みしてるって」


 警察と聞いて一瞬ぎくりとしたが、どうせ誰もわからないのだと考え直して落ち着く。後ろの席の友人を振り向いた。


「警察って、こないだの通り魔?」

「そう。うちの学生かもって」


 驚かなかった。その可能性もあるだろう。


「犯人目星ついたんだ?」

「どうだろうね。若い男だったって刺された人たちが証言しているらしいよ」


 落ち着いた声を思い出す。学生だというのにあんなに冷ややかな殺意を持てるのか。


「どこで聞いたの?」

「警察に話しかけられた子がそう言われたって」


 被害者が犯人の顔を見ているならきっと逮捕も近いだろう。彼が誰かを殺す前に、捕まってしまうのかと思うとがっかりした気持ちになった。

 講義が終わって教室を出ると、スーツの男性二人が講義から出てきている学生に声をかけているのが見えた。その向こうには制服姿の警官たちも見える。

 糸電話のことが思い浮かび、もし誰かがあの糸電話のことを知ったら自分の罪は一体なんだろう。会ったこともない人間にどうやって教唆をしたと立証できるのか。

 警察の横を通り過ぎようとしたとき、私の前に男の背中が現れた。黄色いリュックが目に入る。どうやら後ろから追い越されたらしい。

 少し視線を落とすと、彼の手に持っているもうひとつのカバンに糸電話がついていた。それだけならさほど気にならなかったかもしれないが、そのカバンには三つも紙コップが揺れている。

 ぎょっとして顔を上げた。後ろ姿しか見えないが背の高い男だった。うちの学生だろうとは思うけれどこんなに糸電話が密集しているのは初めて見た。

 もしかして彼が、あの犯人なのだろうかと心が踊る。歩く速度を上げて、彼を追い越した。振り向くとごく普通の青年だった。自分よりも年下に見える。今まで学内で見たことはないが、うちの学生だろう。

 男は警官たちを見ても特に顔色を変える様子はなく、そばを通り過ぎるときにちらりと横目で見るだけだった。犯人じゃないのだろうか。あの糸電話を聞ければわかると思い、勇気を持って男に声をかけた。


「すみません。あの、そのバッグはあなたの?」


 男は目を丸くしている。そりゃそうだ。いきなり知らない人に話しかけられたのだから。それでも戸惑ったように彼は答えてくれた。


「これですか? はい、俺のですけど」


 その声を聞いて、彼ではないとわかった。穏やかすぎる。あの殺しを求める声ではない。なら彼の糸電話はどこから来たのか。彼自身の悪意だろうか。

 片手で持ち上げられたバッグ。ぶらさがっている紙コップが揺れたが、音はたたなかった。男が不思議そうな顔をしている。数の多い紙コップを見て、自分のリュックを思い出した。知らない人の声。そうだ、あれは、誰の悪意だった?


「すみません、それ、どこかに置いてたりしませんでしたか?」

「え? なんでですか?」


 怪訝な顔で聞き返されて言い淀む。彼の疑問はもっともだったが、どう答えてよいのかわからなくて、慌てて言い訳を探す。


「えっと、似たようなバッグをさっき講義中に見かけたなと思って……」


 お粗末な言い訳で納得したようには見えなかったが、「学食にちょっと置いてましたけど」と答えてくれた。

 学食。そこに犯人はまだいるだろうか。男にお礼を言うと、私は目立たないように急いで学食へ歩き出した。

 学食の入口のところに糸電話があった。それを手にとって耳を澄ます。学食の賑やかさにかき消されそうな中、低い男の声が聞こえてくる。


「今日こそ、殺すんだ」


 彼だ。短い音声ファイルのように再生される。紙コップから手を放して、中を見渡す。

 驚いたことに、ある一角に紙コップが落ちている。テーブル、イス、お盆から糸電話が生えていた。一瞬だれかが学食で使っている紙コップをばらまいたのかと錯覚した。けれどよく見ればそのどれもが糸がついている。ざっと数えても十はあるだろうか。近づいて、机に転がっている糸電話を聞いた。


「はやくやらないと、一人でも多くやらないと」


 ―― 一人でも多く。

 響いてきた声にあたりを見渡す。この声の持ち主は一体だれなのだろう。犯人の声はだんだん切羽詰まっているように聞こえた。この異常な量の糸電話は、彼が爆発寸前なのかもしれない。

 彼はここにいる。学食には昼時を過ぎていてもまだ人はたくさんいた。糸電話をもうひとつ手に取る。もったりとした感覚が身体中にまとわりついて離れない。手に取った糸電話から「今度こそ、失敗しない」と聞こえてくる。

 なぜ彼が殺すことに固執しているのかはわからないが、今までの二人は失敗しているから相当焦っているのだろう。周りに耳を澄ませてみるが、同じ声は聞こえてこない。

 私は学食の入口に戻り、糸電話を手に取った。


「ねえ、聞いてよ」「この間さ」「次の授業って」


 周囲の会話が入り混じり、不協和音が学食の中を満たしている。私は糸電話に囁いた。彼は望んでいた。今日こそ殺すと。だからそれを肯定してあげるのだ。


「そうだ、今こそやるときだよ」


 囁いたあと、学食に入らずにそこで待っていた。しばらくして、食器がわれる音と、悲鳴が聞こえてきた。学食の扉が勢いよく開いたかと思うと、学生たちが飛び出てきた。


「やばいって!」「ケーサツ、ケーサツ!」「あの子大丈夫!?」


 不協和音が大きくなって聞こえてくる。やったのだろうか、そっと扉の向こうを覗き込んでみるが、ここからでは見えなかった。

 糸電話にもう一度話しかけてみる。「もっと徹底的にやらないと」と話しかけると「黙れ!」と学食の中から怒鳴り声が響いた。一瞬で学食が静かになったのがわかる。堪えきれずに私は扉を開けて、学食の中に入った。

 一人の男が血まみれになって立っていた。

 

 ――ああ、彼だ。


 見つけた。危険な状況なのに、私はなぜか感動して呆然と彼を見つめた。頭を抱えているので顔は見えないが、Tシャツを着た普通の男性だった。その手には包丁が握られていて、体を揺らしている。彼の足元には刺されたらしい男性が呻いていた。


「やってやる、やってやるさ」


 聞こえたのはそれだけだった。あとはぶつぶつとなにかを言っているようだったが、距離があって聞こえない。彼が顔を上げて、叫んだ。


「神が殺せって言うんだ!」


 その神は私か、それとも彼の心の声なのか。犯人が包丁を振り回し始めた。悲鳴が再度あがる。なんだか映画を見ているような心持ちで、自分でも驚くほど冷静だった。バレないように外へ出ようと歩き出した。


「俺はやりたくないのに、神が、神が言うんだよ!」


 ――なんだって?

 足を止めて振り向いた。彼は今、なんと言った? やりたくないだって? どうしてそんな嘘をつくのか。扉の外にでて、糸電話を鷲掴みした。


「やりたくないだって? お前の望みだろ!」


 声を荒げて言うと、向こう側から大声が聞こえてくる。


「うるさい、俺はまだやるつもりはなかったんだ! なのに、どうしてこんなことさせるんだ」


 かすれた悲鳴を聞きながら、糸電話を見つめる。ちょっと思っただけ? 糸電話があるというのに? こいつは一体、なにを言っているのだろうか。あれだけ、誰かを殺したいと考えていたはずなのに。


「俺はもっと、もっと計画を立ててやりたかったんだ」


 その言葉を聞いて息を呑む。今の彼と、数日前に聞いた糸電話の主はまったく印象が違う。あんなに静かな殺意だったのに今は錯乱状態だ。

 ――私が返事をしたからか。

 彼はもっと計画を立てるはずだった。私の返事によって今やらなければと焦ったのだ。だからこんなお粗末なことになっているのか。

 私が壊したのか。もっとうまくやれていたのに。私が、台無しにした。

 扉の前に立ち尽くしていると、騒ぎを聞きつけたのか外にいた警官がやってきた。開けっ放しにされた扉の向こうで、男性がハッとして身を強張らせたのが見えた。警官たちもそれに気づいたのか男性を逃さないようにジリジリと距離を詰めた。

 手の中の糸電話を握りつぶした。彼はこのまま捕まる。なんて呆気ない結末だ。

 糸電話は悪意や殺意で生えてくるのかと思っていた。でも誰かに聞いてもらいたい気持ちがあると生まれてくのかもしれない。

 彼は自分がこれから計画することを話したかっただけなのかもしれない。私はそれをただ待っていればよかったのだ。

 興奮していた犯人は大きなため息をつき、それから観念したようにゆっくりイスに座って頭を抱えた。それからしばらくして犯人は警官たちと一緒に学食から出ていった。出ていくときに顔を見たが、普通の男だった。ただその顔に生気はなく、ひどく疲れた顔をしている。

 学食の中に残されたたくさんの糸電話が目に入る。あれも明日には消えているのだろう。握りつぶした糸電話も、誰にも気づかれない。

 相手の背中を押していたはずなのに、いつの間にか相手を追いついめていた。見知らぬ相手に返答する恐ろしさに身震いした。

 テレビのニュースであの男がやはり犯人だったと流れたのはその日の夕方だった。動機は神が急かしたからだと話しているそうだ。それはある意味正しい。彼は私という心の声を聞いたのだから。

 彼の美しい計画を見られるはずだったのに、凡人にしてしまった後悔は消えない。このあと取り調べをする警察や、弁護士はもしかしたら知ることになるだろうが、おそらく世の中の人にそれが伝わることはないだろう。

 糸電話は消えることなく、今でも日に二つ三つ見かける。誰しもがこの世界で悪意や殺意を抱いている。ときおり戯れにそれに返事をしたくなる気持ちになるが、私は無視を決め込むことにした。

 糸電話の先の相手は見えないのだ。顔の見えない相手の悪意を聞いて、その手でなにかを台無しにしてしまうなら、無意味な時間だ。

 だから今では、糸電話をすべて無視をしている。決して手に取らないと心に決めたのだ。たとえ自分のリュックからそれが生えていたとしても、私は美しき殺意をもう二度と壊したくない。

 静かなる殺意に期待を込めて、私は糸電話を眺めている。

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糸電話 朋峰 @tomomine

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