8.

 そこからどうやって家に帰ったのか、私はよく覚えていない。

 いつの間にか、私は姉の部屋にいた。姉はおかえりと言ったのかもしれないし、私の形相に驚いて言葉に詰まったのかもしれない。

 そんなことは、どうでも良かった。


 適当なことを言って姉をコンビニエンスストアに送り出してから、私はテーブルの額縁を手に取った。

 そこには、姉の最愛があった。

 「菫」の字は、憎たらしいくらいに左右のバランスを保っていた。一片の狂いもなく、そこにただ、佇んでいた。


 私はそれを、思い切り床に叩きつけた。


 毛の短い絨毯に落ちた枠は、なさけない音を立てて壊れた。

 ガラスが砕け、辺りに飛び散った。

 壁には、さまざまな字体の「菫」がいた。

 私はそれを一つ一つ剥がし、破り捨てた。

 ただの紙切れが床に積み重なった。

 譜面台に置かれた「菫」を半分に破りながら、なぜ私はこんなことをしているのだろう、と思った。

 私は姉ではない。

 私は押澤みずきではない。

 でも、私は姉にしか成れない。

 でも、私は。

「私は、こんな偏屈な文字、好きじゃない」

 バスルームにハサミを持って行って、ラミネートフィルムに包まれたそれを切り刻んだ。

 キッチンの冷蔵庫に貼られた小さなメモ紙たちを残らず破片にし、ごみ箱に捨てた。

 リビングの紙切れを蹴り飛ばせば、それらは紙吹雪のように宙を舞った。


「――は、はは、は」


 口から笑い声が漏れる。それは不細工で、ひどく震えていた。

 とても聞けたものではなかった。


「あぁ、私の旦那に、何てことしてくれるの」


 不意に、言葉が投げつけられた。

 私は振り向く。

 いつの間にか、私の後ろに姉が立っていた。


 白い紙片を踏まないように気をつけながら、私と同じ輪郭で、私と同じ目尻で、私と同じ鼻で、私と同じ薄い唇で、姉は立っていた。


「ねえ、さん」


 私は、彼女を呼んだ。

 膝が自然と折れた。

 その場に座り込む。床がひどく冷たい。

「は、は、は」

 私はいびつな笑い声を止めることができなかった。

 それが、私が持つ唯一のものであるかのように、姉の前で笑い続けた。


 しばらく経って、私は口をつぐんだ。

 空調がよく効いていた。寒くて寒くて仕方がなかった。


 姉は一つため息をつくと、「まったく、困った子ね」と言った。

「――は」

 私は、それを茫然と見つめるしかなかった。


 なぜ、この姉は。

 なぜ今、まるで小さな子どもを叱るかのように話す?


「せっかくの左右対称が台無しじゃない。何があったか知らないけれども、八つ当たりはやめなさい」

 そう言って彼女は飛び散ったガラスの破片を摘まんだ。


 テーブルに乗っていたティッシュの上に置きながら「私に関わることなら、はっきり口で言いなさい」と唇をとがらせる。

 私の口からは、もはや言葉も笑い声も何一つ出てこなかった。

 ただ、彼女を見上げるしかなかった。


 姉の、「菫」への信仰は。

 あるいは、諦念は。

 目の前の「それ」が破れられた程度では、覆りはしないらしかった。


 私は黙ったまま、半分に破られた「菫」の字を拾い上げる。

 ちょうど背骨の部分で破られているそれは、対照とは言えなかった。

 ただ、不思議なものでそれが「菫」を指す文字であることは見て取れた。

 「新しく印刷するから、手伝いなさいよね」と言う彼女に、私は「姉さん」と呼びかける。

 

「私多分、失恋した」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

シンメトリー・アシンメトリー 桜枝 巧 @ouetakumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ