7.
夏も終わりに近づくその日の空は、溜息をつきたくなるような厚い雲に覆われていた。
夕立が来そうだ、と誰かが呟く。
「やっぱりやめておくべきだったかしらねえ」
収録後の車内で、メイクスタッフはやれやれと首を振った。
それはボックスカーに乗る全員の心情を、まとめて言ってくれたようなものだ。
「とはいえ、仕事を断りにくかったのも確かです。『押澤みずき』の知名度が上がったのは、明らかにあのコマーシャルがあったからですし」
運転手がフォローを入れてくれるが、状況が変わらないことは確かだった。
当の本人は、窓枠に頬杖をついて外を眺めている。
我関せずとでも言いたげだった。
ただその瞳孔が揺れていることを私は見逃さなかった。
幾度となく繰り返されてきた動揺だった。
私は後頭部をボールペンで強く掻いてから、「いえ、これは私の判断の甘さから来たものですから。私の責任です。既に、上には報告しています」と頭を下げる。
ふと見ればペンの軸には例のドラマのロゴがあった。思わず舌を打つ。
姉を除く全員が小さく息をもらした。
姉に恋愛感情を抱く人間の特徴として、粘着質だということが挙げられる。
誰に対してもさりげなく愛想良く振る舞う姉の行動は、好意的に見られる分、面倒な人間を引き寄せやすい。
イッポンセンが一対一での食事を望み、姉がそれをやんわりと断ったところまでは良かった。しかし彼は食い下がり、「あなたがうなずくまで、毎日お誘いしますよ」とまで言ってきた。
当然ながら姉にそのような気は全くない。
彼女の唯一は、「菫」の字だからだ。
第三者にかぎつけられても困るため、早急に片づける必要があった。
だが、一番の近道である「理由」を伝えることは、かなりリスクが高い。
私は考えをまとめようと手帳を開いて、固まる。
降ってきたのは、姉の言葉だった。
それは投げやりで、ごみがあったから拾いましょう、くらいの言い方だった。
疲れているのが見て取れた。
「いいわ、この際再起不能なくらい断りましょう。そうね、私の代わりに言っておいてくれる?」
彼女は私の方を向いて、そう言った。
「あんたの演技も、最初に比べたら薄目で見ることくらいはできるレベルになってきたし、見せる相手も一人だけなんだから、きっと何とかなるわ」
姉はそう言って、私を送り出した。
相手も姉も私も、都合のつく日がなかなか取れず、姉に代役を頼まれた日から二週間ほどが経っていた。
事務所で着替え、メイク係に頼んで「押澤みずき」に仕立ててもらう。
大きく息を吸って吐く。
目を開ければ、見え方が切り替わる。考え方が変わる。地味で猫背の私から、姉へ、「押澤みずき」へスイッチを入れ替える。
姉が好きなブランドのサマーニットにパンツを合わせ、大きめのトップが付いたネックレスを首から下げる。
サングラスをかけ、キャップを被る。
そこにいるのは一人の自信たっぷりな俳優だ。
ストイックで、気まぐれで、身内に対しては横柄な態度をとる。
そして、文字と結婚した人間。
俳優としての「押澤みずき」ではなく、姉としてのそれに成る。
つまり、いつものことだった。
こちらが指定した場所は、人目につきにくい、顔見知りが営む喫茶店だった。他言無用と貸し切り状態にすることをお願いした。
電話やメールも考えたが、直接目の前で断ったほうが後腐れもないだろう、と踏んだ。
声の演技だけでは正体がばれるのではないかと、やや不安だったこともある。
静かなクラシックメロディが流れる店内は、涼しく心地良かった。
白いカップには、姉の好きな紅茶が軽い湯気を立てている。
私はかばんの中から手帳を取り出そうとして、それがないことに気がつく。
当たり前だ、私は今「押澤みずき」なのだ。
思考を切り替えようと首を横に振る。
なぜか今日は、妙に心が落ち着かなかった。
かばんを探れば、指先にいつもの丸みが触れる。ふ、と息を漏らした。
家を出る前に「これくらいは」と突っこんできたボールペンだった。
例のドラマのロゴがついたボールペンは、全体的にシックなデザインでまとめられていて使い勝手が良かった。
それは手帳を開くたびに視界に現れ、私を苛つかせたが、なぜか捨てることができなかった。
細く、黒く、一寸の歪みもないそのボールペンは、今から「押澤みずき」に会いに来る男にどこか似ていた。
かばんの中に手を差し入れたまま、指先でペンを弄ぶ。
――姉について、姉の代わりにここに座ることについて、特に思うことはない。
ただ、「押澤みずき」に囚われた人間が哀れでならなかった。
姉の言う通り恋は信仰なのだろう。ただ、姉を信仰対象とした者は救われることがない。
彼女の内面を知るすらできない。
そして私はその信仰対象の偶像であり、蓄音機であり、誰かから見れば信仰対象そのものであるわけだ。
私にとっては仕事であり義務でしかない。
――だから、大丈夫だ。
そこまで考えたところでドアベルが鳴った。
ひときわ大きな蝉の声と共に、緊張した面持ちでひょろりと長い男が入ってくる。
私はかばんから手を引き抜いた。
イッポンセンは奥のこちらの席へ案内されると、「やあ」と笑った。
姉には決して届かない、やはり中心のずれたぎこちない笑み。
だのに不思議と人目をひく微笑み。
腰かけた彼は、コーヒーとケーキを二切れ注文してから「しばらくでしたね」と口を開く。
「お互い、忙しくなったものです。また『駆け出し桜組』のメンバーで飲みたいのですが、そうも言っていられない。嬉しい悲鳴ですよ、本当に」
彼の話に私はゆっくりと相槌を打つ。
「ええ。前川さんはバラエティの方に回りましたけれど、彼女はそっちが性に合っているみたいですね。『比べまショー』を見ましたけれど、とても自然体で話しているように見えました」
サンカクの話題を振れば、イッポンセンは「うん、僕もそう思います」と肯定する。
そのままお互いの近況を話していると、二人分のチーズケーキが運ばれてきた。
姉が好きなケーキくらいは把握済みらしい。
「僕もこの喫茶店、たまに来るんですよ。チーズケーキが好きなんです」
あの時と同じように、お世辞と本音の入り混じった台詞を彼は言う。
私はケーキに手を付けなかった。
半分ほど瞼を落とす。数秒かけて息を吸い、少しずつ吐く。
そうして浮かべるのは、姉と同じ気高い香りのする柔らかな笑みだ。
彼が息を呑んだのが分かった。
「そろそろ、本題に入りましょうか」
出だしの声が震えたことに、イッポンセンは気づかない。それほどに、私の、姉の微笑みは人を惹きつける。
「結論から言いましょう。もう、お互い不都合なことはやめませんか。確かにあなたは同僚として尊敬するべき人物だけれど――残念ながら、私の隣にあなたは必要ないんです」
じわり、と背中に汗がにじむ。
汗?
姉はこんなとき、汗をかかない。
傷つくのはいつだって、他人の言葉を聞いたときだ。
自分の言葉を伝えるとき、彼女は誰よりも堂々としている。
それが、「押澤みずき」という人間だ。
クラシックの音が妙に大きく聞こえる。
イッポンセンはしばらくの間黙り込んでいたが、「……は、は」と笑い声を漏らした。
「見事な振り文句ですね、見習いたいところだ。……ひょっとして、お相手が?」
私は答えない。
静かに口端を上げているだけだ。
ただ、今まで感じたことのない気持ち悪さだけが、私を包んでいる。
まるで他人の脊椎を差し込まれたように、動くことができない。
私はぴんと張った姿勢のまま、知らない笑みを浮かべている。
彼はすがるようにこちらを見る。
嗅ぎなれている紅茶の香りが鼻につく。
「肯定も否定もなし、ですか。優しいようで、残酷ですね、あなたは。いつだってそうだ。周りをよく見ていて、あなた自身をすらどこか俯瞰しているように思える。僕とは違う、俳優らしい俳優だ」
もう、やめてほしかった。
彼がやっていることは、砂の詰まったぬいぐるみの顔に、油性マーカーで落書きをしているようなものだった。
姉が彼に対して好意を感じたことは一切ない。
だから、目の前の細長い人間に思うことは一つたりともない。
だのに。
どうしてこんなにも、私は動揺している?
「ねえ、みずきさん」
彼は、私のものではない名を呼ぶ。
そのゆがんだ口元には、すでに諦めが浮かんでいる。そうでありながら、彼はどこか夢見心地であるようにも見えた。
私はようやく気がつく。
目の前のイッポンセンは、記号ではなく、一人の、同年代の青年なのだ。
ここからの流れなどとっくの昔に読めている。
姉に扮した私が彼を振る。彼はここを出ていく。単純な話だ。
唇を噛む。
ひどく寒気がする。
指先が震え始めたところで、彼は私のそれを自身の指先で包んだ。
ひゅ、と喉が鳴る。
布越しに触られているようにさえ思えるのに、振り払うことができない。
姉だったら、「押澤みずき」だったら、こんな時どうしているだろう?
頭が回らない。
他者を演じることを諦め。
自分の道を閉ざし。
姉に成り代わり。
その私が今、どろどろに溶けたマグマのような視線を受けている。
否、否と首を振る。
私は姉ではない。
この場面において、この舞台において好意を向けられているのは、彼を振っているのは姉なのだ。
姉である「押澤みずき」なのだ。
であるなら――今ここにいる私は、誰だ?
今彼に手を握られている人間は誰だ?
決まっている。
押澤みずきだ。
「菫」という文字を愛する人間。
ふと、胃液が上ってくるのを感じた。
必死に飲み込む。
喉がひりつく。
やめろ、という言葉を吐くこともかなわなかった。
彼は、私に向かって言う。
「僕は、他でもない、あなたの微笑みが好きなのです」
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