6.

「ねえ、姉さん。姉さんにとって、愛と恋の違いって、何だと思う?」


 そんな質問をしたのは地方雑誌の取材を受け、姉の家に帰ってきた後のことだ。

 簡単な家事を終わらせ、いつも通りクッキーをつまみ一息ついたところで、会話の内容が尽きた。

 故の、どうでもいいような問いかけだった。


 洗濯機はまだ脱水に入った段階だ。

 扉の向こう側からガタゴトと音が漏れていた。

 姉は、「菫」に心底入れ込んでいて、何か他の話をしていないと、すぐに惚気話をするようになっていた。


 初夏のマンション十一階の部屋は、春以上に冷房が効いていた。私は、カーディガンに袖を通してから、姉が淹れたアイスティーを一口飲む。氷が入っているのにも関わらず、それはひどく濃かった。蒸らす時間が長すぎたのだろう。


「愛と恋? また、ベタな質問ね」

 答えながら、姉は人差し指を右頬に当てる。

 白シャツに夏空を映したような色のロングスカートを履いた姿は、ちょっとした仕草でも絵になる。

 今まできちんと考えたことはなかった、とでも言いたそうに、彼女は首を捻った。

 視線の先には当然「菫」の写真立てがあった。

 黒いローテーブルの上で、姉の最愛は変わることなく均整を保ち続けている。


 解答を待つ間、脳内で「菫」の字をなぞった。

 正しい書き順は、以前姉に教えてもらっていた。

 草冠、一、口、縦線。そして最後に三を描く。

 私の視線を、ゴシック体の「菫」は何ということもないように受け止めた。

 思えば、ここまで「菫」という字を観察したのは初めてだった。

 注目したのは、いつか姉が「脊椎」と呼んだ八画目の縦線だった。

 軽やかに浮かんでいた一と口を、縦線は否応なく突き刺し、固定してしまう。

 後から書き足される三など、最初からあなたの居場所はここにしかないのです、と言われているようなものだ。

 たった一本の脊椎に定められた線達は、なるほど完璧な左右対称を保っている。誰もそれに、文句を言うことはない。

 当たり前だ、縦線が脊椎ならば、他の線は肋骨だと言えるだろう。身体の一部を形成するものが、我儘を語る訳にはいかない。

 しかしそれは、完全なシンメトリーを作り出すために、個々の意志を削ぎ落としているようにも見えた。

 この、全てを形の美しさに費やして出来たような字が、道端に咲く紫色の小さな花と結びつくなんて、不思議でならない。


 私は写真立てから視線を逸らした。

 アーモンド入りのクッキーを、もう一つ摘まむ。

 しばらく冷房と、洗濯機の脱水音、ベランダから聞こえてくるセミの合唱、そして二人分の咀嚼音が、混ぜ合わさって室内を支配した。


「信仰と諦念、かしら」

 姉は不意に、そんなことを言った。


「信仰?」

 首を捻る私に、姉はゆっくりと微笑んだ。

 隙がないはずの口端には、一欠片の寂しさが含まれていた。

 透明のグラスに入れられた氷が音を立てる。


「恋は信仰で、愛は諦念」

 姉は、そう言い直した。


 恋は信仰。

 愛は諦念。


 私は、何度か、脳内で言葉を反芻した。

 それが、押澤みずきを作る要素の一部分だということは、すぐに分かった。

 姉が口を開く。


「誰かのことを盲目的に好きになり、相手が欲しくて欲しくてたまらなくなる。それって、すごく宗教チックだと思わない? 地球上だけでも、七十八憶以上人間がいるというのに、その中からたった数人を、下手をすればたった一人を、ほぼ無条件で好きになるのよ? しかも、その感情自体はひどく不安定で、次の瞬間には冷めてしまう危険性をはらんでいる。まるで、神さまはやっぱりいなかったんだと、絶望するように。それが、恋」


 私は、姉の瞳が必ずしも写真立てを見ているわけではないことに気がついた。

 私と同じ、僅かに赤の入り混じる虹彩は、過去を映し出しているように見えた。

 姉は熱しやすく冷めやすい。かつ、本人もそれを自覚しながら相手に尽くそうとするのだから、たちが悪かった。

 姉の元恋人たちは、彼女の性質を理解しながらも「自分だけは違うはずだ」と思い込み、自分勝手に傷つくことになる。

 そして、「信じていたのに」と、安っぽいドラマのような台詞を吐いて、姉を非難するのだ。


 くだらない、と、私は胸内で溜息をついた。

 ふと、イッポンセンのことを思い出す。

 姉や私には劣るが、映える笑みを持つ人間。

 純粋さとそれを利用できる強かさを抱いていて、姉を好意的に思っている。

 その癖真実には気がつかない、滑稽な人物。

 「菫」に出会う前の姉なら、ひょっとしたら、恋に落ちていたかもしれない。


 私は首を横に振った。

 例え、仮に姉とイッポンセンが付き合ったとしても、長続きするとは思えない。

 「信仰」の対象が一人増えたとして、それは瞬く間に過去へと変わるだけだろう。


 姉の細い人差し指が、写真立ての縁をなぞる。その仕草は艶やかで、だのに少女のような清らかさを保っている。

 俗世じみた欲を持たない指先は、一切の揺らぎを許さない「菫」の字に、よく似合っていた。


 脱水が終わったのか、奥の部屋が沈黙する。

 元来ロマンチストである姉は、まるで自分に言い聞かせるかのように、言葉を紡いだ。


「その点、愛はもっと現実的だと思うの。数多の選択肢の中から、自分が抱えられる分を掬い取る。そして、『これが私の選んだものだ』と決めてしまう。他は当然だけれども、『選ばなかったもの』として扱うことになる。でもそれは、『選んだもの』を尊重しただけのこと。半永久的な諦念こそ、愛に他ならないわ」


 だから、愛は諦念。


 彼女の話は抽象的で、穴も多かった。質問をしようと思えば、いくらでもできた。結局似たようなものじゃないかと指摘することも、できただろう。

 しかし、私はそれをしなかった。

 ただ一つだけ、尋ねた。


「姉さんにとって、『菫』は恋? それとも、愛?」


 その時、奥の部屋で、ピイ、と電子音が洗濯終了を告げた。

 姉は小さく笑った。

 そのまま立ち上がると、彼女は奥の部屋に続く扉を開けた。

 足取りは軽く、鼻歌さえしてみせる。

 生温い風が、澄み切った部屋の中に入り込んでくる。


 思わず顔をしかめた私に、「ベランダ開けといて、カゴごと持っていくから」と声が飛んだ。

 言われた通りに窓を開けると、夏空がうるさいくらいの音量で部屋に駆け込んできた。

 明日行われる街巡りのロケは、さぞかし暑いだろう。冷凍庫でスポーツドリンクを凍らせておいた方が良いだろうか、だなんてことを考える。

「シーツも洗濯しちゃったから、場所が足りないかも」

 振り返れば、バニラアイスクリームのような、ささやかで極上の微笑みがある。


 私は一瞬黙り込んでから、ふっと笑い返した。自分が唯一誇ることのできる、姉と同じ笑い方。

「多分大丈夫だよ、姉さん」

 恋は信仰で、愛は諦念。

 ならば、私にとって、姉は。

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