バランスシート

三日月未来

第1話 人生はバランスが大事

 進一は幼い頃、畳の上でハイハイしていたのを昨日のように思い出していた。

小さな足で縁側を歩く頃には踏ん張ることにも慣れ亡き両親も微笑んでいた。


 砂時計が勢いよく時間を滑って行く頃、進一は運動に慣れ親しみ身体に溢れる無駄な力の行き場に困っていた。あり余る力が別の方向を向く頃、悪天候の丹沢の尾根を無我夢中で登った。


 大倉尾根は駅から近く山の愛好家には人気の山域だ。

山の初心者には楽な登山道ではないことを無知な進一は知らない。

山道の獣道に迷い込むと、突然急斜面が目の前に出てくることもある。


 知らず知らずに背中のリュックを担ぎ直して両手とつま先に力を入れて思い切り踏ん張る。


 都会暮らしでは経験出来ないスリルと危険が山には潜んでいた。


 山登りに慣れた頃、谷川岳の中ゴー尾根で道に迷ってしまい、気付けば切り立って沢の上にいて気持ちを沈めた。心の声が進一に戻れと言っているように聞こえ無意識の声に従い一般道に戻りほっとする。


 夏山の天候は目まぐるしく変わり、稲妻が山肌を這うように光る。進一は姿勢を屈めて当たらないように祈りながら尾根を駆け降りた。


 体力は無限じゃないと知る頃、進一は危険で激しい運動から遠ざかる。

恋人の恵子と一緒にスキーツアーに参加するようになった。


 人生を振り返る暇もなく会社を往復する中、二人は同居生活に入った。


「シン、今年の年末どうする」

「ケイに任せるよ」


「そうね、夏祭りの時期じゃないし御朱印集めする」

「それってさあ、タダじゃないよね」


「じゃあ、お参りだけとか」

「まだ初詣じゃないよ」


「最近ね、年末詣が流行っているのよ」


進一は恵子の話を上の空で聞き流していた。


「ねえ、シン、足の爪長いわよ」

「なんか、つま先を踏ん張る癖があって、そのせいかな」


「ないない」


恵子は進一に言って家計簿を見て、無意識につま先に力が入った。


「シン、最近の物価高で今月も良くないわ」

「じゃあ、収支を見直さないといけないね」


進一は恵子に言ったあと、ネットの記事を見せた。

「これ、これ、十万円って書いてあるよ」


「十万円は魅力だけど、わたしたちは素人よ」

「家計簿のバランスシートを見直すか、十万円に応募するか」


 進一は急に立って恵子の前でシコを踏む真似をして爪先に力を入れた。


「欲しい物のために頑張るなら、両足の爪先に力を入れて身体に覚えさせる」

「シンって、時より変なことを言うわね」




 進一と恵子を乗せたマイクロバスが急カーブを激しい速度で抜けた。

「このドライバー、頭のネジが何本か飛んでないか? 」

「ロケバスのドライバーって、セミプロもどきが多いそうよ」


「まあ、瑣末なことはどうでもいいけど、ケイの家計簿の話が深刻だから頑張るしかない」

「シン、その前にこのバスを降りるのが私たちの未来のためかも」


「そうね、パトカーが追いかけて来るレベルと思う」


進一と恵子はバスのシートベルトを強く握り締め、必至につま先を立てて次のカーブに備えていた。




「シン、起きて、朝よ」

恵子が開けたレースカーテン越しに冬の柔らかな朝陽が差し込んでいる。


進一は夢の中でつま先に力を入れて声を上げた。

「ケイ、足が吊った。ああああ」

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