犬のワイフと私
口下手の私が言葉に窮することは当然だった。彼女だって慰めの言葉を求めていたわけでもないだろう。
いつだって彼女が求めてきたのは拙い言葉よりも技術だった。
私は大型犬に彼女の脳を移植をすることにした。
彼女の遺伝子を元に大型犬のクローンを生成し、犬の首を彼女の首と挿げ替えて整形することで対応した。神経接続は多少苦労したが彼女の望んだ答えのためには苦労は惜しむつもりはない。
彼女の身体を犬に整形する手段も考えたが、それは犬っぽい人間であって犬ではない。羊頭狗肉だなんてつまらない皮肉を彼女の口から言わせてしまうのは心外だ。
彼女の首を利用した際に人間と同等の発声器官を残したのは私のエゴかもしれないが、しかし彼女の言葉で聞かなければ犬の気持は永久にわからないままだ。それくらいのことは彼女にも受け入れてもらおう。
「やあ、おはよう」
手術が終わった翌日、彼女は無事に犬の姿で目覚めた。目覚めないのではないか、心のどこかに不安はあったが無事に目覚めてくれてひとまず安心だ。
横になったままの彼女に私は鏡を見せた。
彼女は鏡をじっと覗き込み、それから自分の身体を見ようと身体を丸める。その仕草はどう見ても犬そのものだ。
「どうやらうまくいったようだね」
人間時代と変わらない口調で、犬になった彼女は言う。
心配だった脳にも影響は無さそうだ。あとは新しい体にゆっくり馴染んでもらえればそれで幸いだ。
「やっぱり人間の身体とは勝手が違うね。意識をしても身体がうまく動かないや。試しに全身を撫でてくれない?」
神経のリハビリには外的接触は大切だ。神経がきちんと繋がっているかどうか触覚は正常かどうか確認も兼ねて、私は彼女の指示に従い、まずは頭を撫でる。
そういえば彼女の頭を撫でるなんてこれが初めてか。
「好きな人に頭を撫でてもらうってのは僕の夢の一つだったんだけど、こうして叶うなんてね夢みたいだ」
彼女は気持ちよさそうに目を瞑る。
果たしてそれは犬になる必要があった夢なのか、いつか聞いてみたいものだ。そのまま彼女の頭から背中、腰へと手を優しく動かしていく。毛並みは犬そのもので、彼女が人間だったことを感じさせる痕跡は何一つない。喋らなければ誰もこれが妻だとは思わないだろう。
尻尾を撫でた時、軽くこわばる感じがした。
元々人にはない、それこそ退化した部位だ。脳がうまく処理できていない可能性もある。
「いや……大丈夫。少し――ううん、うそ。結構びっくりした、かな? 少しだけ尻尾の部分に手を置いててくれる」
彼女の意向に従い、軽く手を乗せた。
新しい身体に馴染もうとする彼女の積極性と意志の強さには私も頭が下がる。とはいえ術後明けすぐにというのはあまり関心出来たものではない。これから時間はあるのだから、徐々に馴染んでほしい。
私がそう
「甘えた犬の声が出せないのは不満だなぁ。そこまで犬になれたらよかったのに」
彼女の気持ちも分からない人間に、犬の気持ちなんて推し量れるはずもないのでどうか勘弁してほしい。必要に駆られて進化した部分をむやみに退化させるのは私としても惜しいのだ。
「そういえばそんな話してたっけね。犬の気持ちが分かるまでもう少しかかるかな」
その気持ちも犬になった自分の気持ちというバイアスがかかってしまうのだろうけれど、何も言わずに頷いた。
翌日から彼女とのリハビリ生活が始まった。
一番最初に気を使ったのは食事だった。味覚が人間のままだったのをうっかり失念していたたのだ。
そのため最初はドッグフードを拒むかと思ったが、彼女は皿に口を入れると器用に舌を使って平らげた。水を飲むのもいつ覚えたのか疑問に思うくらいに器用に掬って飲んだ。人間時代に得た知識を活用したんだろうか。そういえば動物動画を見ていたんだったか。それにしても受け入れるその度量には感服としか言いようがない。私にプロポーズをした妻なだけはある。
リハビリ生活が進む中で、彼女は次第に犬としての動きに慣れていった。特に印象的だったのはつま先の感覚を確かめるように歩き回る姿だ。四足歩行の彼女は常に前足も後ろ足もつま先で立っている。前足のつま先なんて人間でいえば手の指先に当たる部位だ。そんな奇妙な立ち方、これまでだって一度も体験したことはないだろう。
「四つん這いで歩くっていうのは中々気持ちが落ち着かないね。人間の名残だって頭じゃわかってはいても、なんていうか馴染まない」
馴染めば馴染むほどにそれは彼女が犬に近づいてることに他ならないのだが、それ自体は特に気にならないらしい。あるいは気付いてない振りなのか、私には彼女の考えは分からない。ただ後悔した素振りを見せない彼女に私は安堵するだけだった。
「毎日こうして一緒にいられるんだ。僕は不満なんてないよ」
膝の上を占領する彼女はそう言って私の顔を舐める。
リハビリから二週間経つ頃には立派な犬になっていた。トイレだけは未だに器用に便座に跨ってしてるので、始末が楽だと言えば楽なのだが、そんな器用な犬は他にいないだろう。
ある日、彼女は私に言った。
「そうだ、リードと首輪買ってきてよ。そろそろ外へ出ても良い頃合いだと思うんだけど」
妻に首輪とリードをするなんて一種のプレイにしか思えないが、しかし彼女の姿は大型犬である。リードも無しに外へ出しては大事になるのが請け合いだ。
私は彼女が好みそうな色合いの首輪と大型犬用のリードをその日の内に購入し、彼女に首輪を巻いてあげた。
「二度目の結婚指輪だね」なんて、巻いてる最中に彼女が抱き着いてくるものだから、思わず倒されてしまった。この時点で彼女の方が力は圧倒的に上なのだと知らされる出来事だった。
「こうして二人で連れ立って外を歩くなんていつ以来だろうね。今は一人と一匹だけど」
散歩の道中、隣をぴったり寄り添って歩く彼女はそんなことを言った。周りに誰もいないのは確認済みとはいえ、少しだけ落ち着かない。
「こうして目線が変わるとさ、世界ってのはまた違って見えるんだ。知ってる道なのにすごい新鮮だよ」
犬になっても彼女の好奇心旺盛な様は変わらなかった――どころか抑圧されていた好奇心が解放されてしまっていた。
隣を歩きながら地面を嗅ぎ、草むらに顔を突っ込む姿は以前の彼女とはまるで違う。犬としての生を盛大に楽しんでいる。
「人間のままだったらきっと一生できなかった体験だね。思いついても絶対にやらなかった自信が僕にはある」
それはそうだろう。そんなことが出来るのは子どもか余程の恥知らずだ。大人がやればそれは偏見でもなく変質者になってしまう。私にも最低限気にすべき世間体と言うものはあるので、そんなことはやろうとも思わない。
万が一やってる姿を誰かに見られたら警察のご厄介になりかねない。そうなったら誰が彼女の面倒を見るのだろうか。私には最後までその責務がある。
「プロポーズした時は死ぬまで僕が一緒にいるって誓ったはずなのに、気付けば逆転してるだなんて。こんな嬉しい話はもう一生無いだろうね」
そんなに大仰な事を言ったつもりはない。むしろ面倒を見るだなんてペット扱いしてるのか、なんて怒ってもいいところではないか。
「僕は君の妻である以前に犬だからね。自分のできないことくらいは分かってるつもりだよ、ご主人様」
散歩を終え、家に戻った私達はリビングのソファで一息ついた。彼女は私の足元で丸くなり、尻尾を器用に前足で抱え込んでいる。その姿はどこからどう見ても犬そのものだ。私が彼女の耳の後ろを軽く掻いてやると、彼女は目を細めてゴロゴロと喉を鳴らすような声を漏らした。喉を鳴らすのは猫のはずだがこれは彼女なりの癖なのだろうか。
「癖というよりもコンプレックスかな」
久しぶりの外出で疲れたのか、自嘲するように言う。
「可愛く見られたい、可愛いって思われたい、可愛いって言われたいって思う哀れな僕の気持ちの表れ。君は愛してくれても、好きだと言ってくれても、それだけはまだ一度も言われたことがなかった」
好きだと言ったことも無かったと思ったけれど、それとも似たようなことを言っていただろうか。自分の発言した言葉なんて何一つ私は覚えてないので、きっと彼女の言う通りなのだろうが。
「ははっ、いつだって君はそうだ。自分の言葉をまるで意識しちゃいない。そのくせに僕がほしい言葉は一番欲しいもの以外ならいつだってかけてくれる。まったく悲しいぜ。背伸びする君は可愛いのに背伸びする僕は可愛くないなんて」
別に私が背伸びしても可愛くはないだろう。彼女が可愛いと認識してるだけで、背伸びしようと屈もうと――つま先で立とうが卑屈になろうが私は私で、彼女は彼女だ。
「僕が人でも犬でも同じように?」
違う理由も無いだろうに。
「……やれやれ、本当に君は可愛いとは言ってくれないね。こんなにも言ってほしいってお願いしてるのに。むしろどうしたら言ってくれるんだい?」
おかしなことを言う。
それでは私が妻の可愛さに惚れたことになってしまう。私が惚れたのは彼女であって彼女の要素にではないのだから。
そう言うと彼女は満足そうに眼を閉じた。
季節は巡り、妻は次第に犬らしくなっていった。
ぎこちなかった歩き方も尻尾の振り方も覚え、人間だった頃の事は今となってはうたかたの夢のようだと彼女は言う。それがいい思い出ばかりではないのは私も知っていたので頷いて答えるのだった。
ある日の夕暮れ、河原を散歩していると妻が立ち止まった。空を見上げる彼女の尻尾がゆっくりと揺れている。季節が少しずつ巡るたびに、彼女の動きが少しずつ鈍くなっていった。彼女の肉体の限界がもうそこまで来ていた。
「あの日僕が言ったこと覚えてる?」
妻は唐突にそう言って、こちらを振り返った。
口数の多い彼女の言う、あの日の言葉とは一体どれだろうか。
「犬がずっとつま先立ちの理由。ずっと考えてたけどさ、僕なりの答えが出せたよ」
ああ、彼女が犬になったのはそれがきっかけだった。もう随分と昔の事で忘れてしまっていた。いつか聞いてみたいと思っていたそれに、いよいよ答えが出たのか。
「僕なりの――飼い犬になった僕なりの答えだけどね」
彼女の目は私ではなく、そのどこかもっと遠くを見つめている様に見えた。
「君と遠く離れてしまってもね、すぐ追いつける。そりゃつま先で立つのはやめられないよ」
確かにこの上なく彼女らしい、彼女の答えだった。
夕陽が彼女の毛並みを金色に染める。
少し冷えた風が顔を撫でると、彼女は僕の足に身体をゆっくりと擦らせた。
「もう日が暮れよ。一緒に帰ろう」
私は彼女と並んで歩きだす。
背伸びをしていないのに、影が高く伸びている。
彼女が犬になる日 ナインバード亜郎 @9bird
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