彼女が犬になる日
ナインバード亜郎
動物園
「相手の気持ちに立って考えろって言う人って、言うほど相手の気持ちを考えてないよね」
檻の向こう側で眠たそうに欠伸をするチーターを眺めながら妻は言う。そんな話をわざわざ動物園ですることでもないと思うのだが、今日は妻の慰労を兼ねたデートなので私は黙って頷いた。
「そもそも相手の気持ちに立つこと自体どうしたって難しいってのはあるけどね」
妻は後ろに誰もいないのを確認してからつま先立ちになって背伸びをする。そこまでしなくても彼女の背丈なら檻全体を見渡せるだろうに、そんなにチーターが気になるのだろうか。
と思ったらそのまま腰を
「つま先立ちになって僕の背にちょっとでも合わせようとしてくれる君の事が、僕は愛しくて愛おしくて大好きだけど、こうして僕がつま先立ちになりながら君の背に合わせても、君の気持ちはきっとわからない。逆もまた然り」
その言葉に私は肩を竦める。気持ちが分からないのはお互い様だ。
妻の場合はまず何を考えてるのか分からないと言うべきかもしれないが。いや、それもお互い様なのか。
「お互い様なんだよ。そして僕はお互い様だと言ってくれる君に惚れて結婚したと言ってもいい」
はて、それは初耳だ。
それとも久しぶりのデートに気を使って惚気てくれているのだろうか。しかし彼女は苦笑いを浮かべて続ける。
「やれやれ。ここまで僕の気持ちがわかってもらえてなかったなんて逆に清々しいね。僕はいつだって君にぞっこんだっていうのに」
確かにプロポーズは彼女からではあったけど、まさかそこまでとは。
「きっかけは君の背伸びだけどね。可愛くなれない僕としては可愛い君を隣に置いておきたかった――支配欲とは言わないまでも所有欲ではあるのかな、こういうのって」
確かに彼女に支配欲という言葉は似合わない。
普段の彼女は飼い主と言うよりも飼い犬に近い。
「飼い犬か。言われてみるとそうかもしれないね。さすがは僕のご主人様だ」
ふふんと彼女は自慢げに笑う。
ペット動画のアテレコみたいな台詞だ。
「おや、君もそういうの見るんだね。てっきり興味が無いと思ってたのに」
今日のデートのために色々と下調べをしていただけで、そういう動画に興味があるわけではない。そんな興が醒める事はもちろん言わないが。
「こうして些細な発見があるのはとても嬉しい反面寂しくもあるね。その内忘れられるんじゃないかと僕は心配だよ」
動物園でここまで惚気られる様な妻をどうして忘れられようか。これほどの妻を忘れようとも忘れられる気はしない。
「そう言ってくれると信じてたよ。いや、言ってくれなきゃ泣いてたが正しいかな。僕のこの愛情が一方的だったなんてあんまりにも寂しいじゃないか」
いや、さすがにそこまでの愛情を持ててる自信も返せてるつもりもない。そんな身の丈に合わない愛情は持たない主義だ。背伸びしたって届きそうもない。
「いやいや」と彼女は首を横に振る。
「さすがに僕と同じ程度なんてそんなものは求めてないよ。それこそさっきの話じゃないけどさ、相手の立場を考えたら出来る出来ないはあるだろう? 一方通行じゃなければ、両想いだったらそれだけで幸せなのさ」
それが幸せなら私はそれで構わないが。
しかし、いつまで私の顔を覗いてるつもりなんだろうか。せっかくの動物園なのだから、見るべきは動物の方だろう。
私がそう言うと、彼女はようやく踵を地べたに着け背を伸ばした。
「こうしてつま先立ちで立ってるとすごく疲れるね。犬猫やチーターなんかは狩りのためにつま先立ちに進化したって言うけど、ずっと飼われ続けたら楽な姿勢に進化するのかな」
チーターはともかく、犬猫はそれこそ長い年月を掛けて愛玩動物用にミックスされてきても尚、本質的な歩き方は変わってないのだから進化はないのではないだろうか。
向こうだって今更慣れた歩き方を変えようとは思わないだろうし
「んー……でもそれって結局
アンニュイな表情で檻の向こうを見つめる。やはり動物園に来たのはタイミング的にまずかったのだろうか。選んだときは嬉しそうだったのに。
「あー……ごめんね、空気悪くして」
何かよくない雰囲気を察したのか、妻は罰が悪そうに片手で拝む。彼女の慰労のためのデートなのに何を謝るのか。
「僕が君の妻でいることをどうにも気に入らない人がいてね……参ってたんだよ。少しだけ」
その人の人となりも知らない私としてはあまり変な事は言えないが、客観的に見ればその人の主張は至極真っ当――悪く言っても普通ではないだろうか。
私がその立場なら世間体を気にした上で同じように言うだろう。
「優しいね君は。その優しさを僕にだけ与えてくれたらもっと優しいって言えるのに……なんてね」
そう言って彼女はつま先立ちになって、大きく伸びをする。
「あーあ、いっそ犬にでもなれたらいいのに。そうしたらずっと君といられて悩みも消えて、ついでにずっとつま先立ちの気持ちがわかるかもしれないのに」
なんて声をかけるべきか、私は答えに窮した。
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