拝啓、五月雨の君へ。
中瀬古 馨
五月雨の季節に
五月の初め、アパートの一室に新たな住人が来た。
若い男女で三十代半ばといったところか、男はサラリーマンのようだが、女は特に働いている様子はなく、日中は部屋にいることが多かった。
「もう…そろそろかしらね」
「今日も…やらなきゃね」
夕刻、女は時計を見て呟くと、そっと机の上に置かれた小さなビンにいけられたスカビオサの花を撫で部屋を後にする。
アパート近くの踏切で帰宅途中らしき男を見つけると女はそっと駆け寄り何かを話しかける。が、男は反応を返さない。それでも女はひたすらに何かを語りかけるが、反応はない。女が怒ったように男の腕を掴むと、やっと男は反応を見せる。女はそのまま男を捕まえて自宅へ戻る。そんな日々が続いた。
常日頃部屋にいることが多い女は雨の降る日は外出するようで、その日も男と共に黒の傘を片手に雨の中へと繰り出しては、暗い顔をして帰って来た。男もまた、いつもより深刻な顔で帰って来る。心なしか目元が赤いように思われた。
「ねぇ、もうやめない?」
女が話しかける。
「これ以上は、あなたが辛いだけよ」
更に続けるが、返答はない。
女は諦めたのか、それ以上の会話はなかった。
五月中旬、男はその日珍しく有給をとり一日部屋にいて、室内を整理していた。
翌日、女は普段と違い日中便箋に手紙をしたためていた。よほど夢中になっていたのか、普段の時刻ギリギリまで書いており、慌てて隠しては男を迎えに行った。
次の日も、その次の日もそれは続いた。
五月三十一日、その日は朝から雨が降り、湿度が高くじめじめした一日であった。
いつも通り、外出の準備を進める男。しかし、女は一向に準備を始めない。そして、男が玄関に向かう時になっても何もせず、ついに男は部屋を出て、女は部屋の中に取り残された。
「ねぇ、あなた。今日がなんの日かわかる?」
女が話す。相手は………………私。
「五月三十一日。私の死んだ日」
「交通事故だったの。居眠り運転した車に轢かれて。彼と道を別れた直後だった。」
「責任を感じたんでしょうね。それから毎月雨の降る日にあの場所に来るの。彼には何も責任がないのに、馬鹿みたいでしょ?でも、彼優しいから」
女は笑っていった。
一筋、涙が頬を伝った。
「あなた、私達がここに越してからずっと見てたんでしょう?」
「私が彼の自殺を止めていたことも、手紙を書いてたことも」
「………三年。幽霊は三年しか現世にはいられない。」
「今日がその三年目。だから、彼とはもう会えない。だから、彼がこの先自殺を選ぼうとしても私は止めることができない」
「だから、手紙を残す。彼がこの先、前を向いて生きていけるように、私に囚われることから逃れられるように。」
「……………今日はついていかなくていいのかって?……ふふっ、大丈夫よ。外を見てごらんなさい」
「……………もう、雨はやんだから」
「あなた、まだこの世にいるんでしょう?なら、彼を見ていてくれないかしら?やっぱり……心配だから」
「そして、あの世で聞かせてくれると嬉しい」
「…それじゃあ、私は行くわ」
彼女はそういうと、日差しの中に消えた。
彼女が消えて室内に静寂が広かった数分後、玄関のドアが開き、男が入ってくる。
荷物を下ろし、ふと机に目をやる。
一封の封筒。
開けると中には四枚の便箋。
男は彼女の筆跡だとわかったのだろう、驚きの表情と共に、手紙を読む。
彼女の想いに触れた男の顔にはもう昨日までの男はいなかった。
拝啓、五月雨の君へ。 中瀬古 馨 @Naka_Kaoru
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