第4話

 抱擁されて、一瞬混乱した。

 目を丸くしている『ジィナイース』に、ラファエルは嬉しくなる。

 昔はいつも、逆だった。嬉しい。天真爛漫で優しいジィナイースの言動に、いつもラファエルが目を丸くしていた。

(嬉しい) 

 彼が名前を呼んでくれた。

 十年、手紙のやり取りも無かった。

 幼い頃、再会を約束することもしないまま突然別れたから、忘れられていたって仕方ないと思っていたのに、彼は自分を、覚えていてくれた。

「僕を覚えてくれてたんだね」

 ネーリは目を瞬かせた。

「……ら、ラファエル……、ここ、ヴェネトだよ……どうして君がここに……」

 ラファエルは笑顔で応える。

「君に会いに来たんだよ。ジィナイース!」

 ネーリは驚いた。

「どうしてそんなに驚いた顔をするの」

「どうしてってそんな……」

 驚くよ。

「君は……、……フランスで、幸せに暮らしてるかと」

「そうだね。暮らしてる。ジィナイース、僕はもう独立して、フランスのフォンテーヌブローに屋敷も持って、爵位を王から頂いたんだ」

「そう、なの……大きくなったねラファエル」

「そうなんだ。僕背が伸びたんだよ」

 まだネーリは上手く状況が飲み込めていない。その様子が可愛くて、ラファエルはくすくすと笑っている。目が輝いて、子供が、悪戯を成功させたみたいに。

 何故彼がここにいるのかは分からないけど、ラファエルのその様子を眺めていると、そのうちに、笑みが零れた。


(そうか……幸せになったんだね、ラファエル)


 きっと彼は、そうなれると思っていたけど。

 良かった。

 ネーリは微笑んだ。

 祖父の船に乗っていた人たちの消息は、もう誰も分からなくなってしまったけど、みんな、どこかで幸せになっていて欲しいと思っていた。

 ラファエルはそうなったのだ。良かった。

「そうなんだ。おめでとうラファエル。公爵様になったなんてすごいよ。もう立派な……」

 騎士様だね、と言おうとして、帯剣しているラファエルの服装を初めて見た。

「それって、フランス海軍の軍服だよね?」

「そうだよ」

「ラファエル今は海軍にいるの?」

「今はね。ヴェネトに到着したフランス艦隊の駆逐艦八隻は僕の艦隊だよ。僕は今回ヴェネトに送り込まれたフランス艦隊の総司令なんだ」

「そうしれい……」

 ネーリの頭に「?」が浮かんでいるのが分かって、ラファエルは楽しそうに笑った。彼と共にいた時は、本当に何も出来なかった無力な子供だったから、その自分が総司令だ、なんて言われても、分からない顔をするのは当たり前だと思ったのだ。

「総司令官の証である金の錫杖を、あとでジィナイースにも見せてあげるよ。とても綺麗なんだ。薔薇の花の装飾で飾られていて」

「……それって……港に、フランス艦隊が留まってるの、僕も見てきたよ……大きな船……あれをラファエルが率いて来たってこと?」

「そうだよ。フランス国王が、ヴェネト王の近海警備の要請に応じて送り込んだフランス艦隊を僕が率いてる」

 ようやく、少し事情を飲み込んだのか、ネーリは驚きながらも頷いてみせた。

「そ、そうだったんだ。本当に驚いた……どんな人が率いてるのかなぁとは思ってたけど、まさか君だったなんて。でも……、嬉しいよ、君に会えて。こんなところで会うなんて、本当に偶然だねラファエル」

 ネーリは今度は、自分から手を伸ばして、ラファエルの身体を抱きしめた。

 ラファエルは微笑む。そして、ネーリの手を取ると、彼の手の甲にそっと口づけた。唇を触れさせたまま、青い瞳がネーリの方を見てきた。

「本当に偶然だと思ってる?」

 美しい青い瞳が微笑む。

 そこに、愛情深い色を見つけて、ネーリは驚いた。

「……偶然、でしょ?」

「志願した。まあ他に望む人がいなかったから争わずに来れたけど、誰か手を上げる人がいたら、争ってでも総司令官の座は勝ち取ってここに来ただろうね」

「な、なんでそんな……」

「なんでって。君がいたから」

 黄柱石の瞳が驚きに見開かれている。

「君が、ヴェネトにいることは、掴んでた。いつか訪ねて行こうと、ずっと思ってたよ。

機会があったら絶対逃さないって。君の祖父の、死の報せは知ってたんだ。父や、国王陛下がその話をしていたからね。

 きっと君は寂しがってると思ったから、本当はその時に駆けつけてあげたかったけど。

その時はまだ俺はなんの力も無くて無理だった。ごめん。ジィナイース。寂しかっただろ」

 ラファエルが両腕でもう一度抱きしめて来た。

「ジィナイース?」

「ごめん……ぼくに、……ここまで会いに来てくれる人なんていないと思ってたから……、驚いて……」

「会いに来るよ!」

 ラファエルはジィナイースの手を握り締めて、瞳を覗き込んで来た。

「ジィナ。僕の領地の湖畔に美しい城が一つある。君の為に用意してある。フランスに、フォンテーヌブローに来てほしい。君の祖父――ユリウス・ガンディノに約束したんだ。

ジィナイースの為に城を持ち、もし彼に何かあった時は、彼の代わりに君を、生涯かけて守るって」

「ラファエル」

「君が気に入る家具も、部屋も、もう全て用意してある。一階にはアトリエも作って、道具も全部。あとは、君が好む動物たちを、庭に住まわせればいい。君が大好きだったあのローマの城みたいに、何でも好きなものを僕が用意してあげる。小さい頃みたいにまた僕と一緒に暮らそう。ずっとずっと一緒に」

「……、」

 あまりのことに、返す言葉を一言も用意出来なかった。

 でも、彼が、自分に会うためにここに来てくれたということだけは分かったから、それは、礼を言わなければとそれだけは思った。

「ありがとう、ラファエル……」

 ラファエルは微笑む。

「本当はヴェネトに来て、もっと早く君を見つけたかったんだ。王宮にも早々に挨拶に行ったけど――君がいなかったから城下を探した。色んな貴族の家や、アトリエを回って――だから時間が掛ったよ。まさかこんな場所で君が描いてると思わなかった。でも……」

 ラファエルは歩き出して、海の絵の前に立った。

「……相変わらず、君の描く絵は素晴らしいよ」

 ラファエルの、背の高い後ろ姿を見た。本当に、フランス海軍の軍服だ。腰の剣。

 立派になったんだな、と惚れ惚れする。特別な感じのする少年だったけど、やはりあの予感は正しかったのだ。

 フォンテーヌブローと言えば、フランスの王都パリを守るフランス聖十二護国の一つ。

 公爵家は名門中の名門だ。元々ラファエルの父親は王弟オルレアン公なので、大貴族だったけれど。

 みんなの期待に応えられないと泣いていたあの子が、全ての人の期待に応えて、望まれる、全てのものを手に入れた。

 それは血の約束じゃない。

 諦めずに努力した、ラファエルの力だ。

「……本当におめでとう。ラファエル」

 ネーリは声を掛けた。

 ラファエルが振り返る。


「本当に立派になったね。光り輝いてるよ」


 ネーリが目を細め、微笑んで優しい声でそう言ってくれたので、ラファエルはそれまでの、自分の全ての努力が一瞬で報われたような気がした。

 嬉しい。

「ありがとう。ジィナイース」

「君に会えて、驚いたけど本当に嬉しかった。君が、フォンテーヌブローに僕を招こうとしてくれたこともね。でも、僕はヴェネトから離れようとは、思ってないんだ。本当に嬉しいけど、君の用意してくれた城は、別の人に……君の大切な誰かに使ってもらって。きっとその人は喜んでくれる」

 ネーリは足元に擦り寄る白猫を撫でてやった。

「そうだ、この子にミルクをあげないと……、ちょっと待ってて。ラファエル、時間あるの? あるんだったらこのあと少し一緒にヴェネツィアを歩かない? 君がどんな風に公爵様になったのか、知りたいよ。ご家族はみんな元気?」

「ジィナイース」

 白猫を抱き上げたネーリは顔を上げた。


「……城にいる、あいつは誰だ?」


 ラファエルの背を見る。

「……あいつ、って……?」

「【ジィナイース・テラ】と名乗ってるあいつだよ」

 ネーリの手から、猫が飛んだ。部屋の外に出ていく。

「ラファエル……」

 彼がどこまで知っているのかは分からなかった。

 でも、一つ確かなことは。

「僕は今【ネーリ・バルネチア】というんだ。もうジィナイースじゃない」

「お前はジィナイースだよ」

 ラファエルが振り返った。優しい眼差しで、こちらを見ている。

「初めて会った時、僕にそう教えてくれた」

「変えたんだ。不都合になったから」

 ラファエルが歩いて来る。無意識に、ネーリは一歩下がって、背が壁に触れた。

「ジィナイース」

 頬にラファエルの手が触れる。ネーリは首を振った。

「だめだよ、ラファエル……もう、その名前で呼んじゃダメだ。……君が、危険な目に遭ってしまう」

「俺が? お前を本当の名で呼んだだけで、一体どんな危険な目に遭わされるというんだ?一体だれに?」

「【シビュラの塔】が何をしたか、知ってるから君たちはこの地に来たんでしょ?」

「そうだよ。でも、お前はあんなことを絶対しないってことだけは、俺は分かるよ」

 ネーリは目を閉じ、俯いた。

 シビュラの塔の閃光が脳裏に蘇る。

「……うまく言葉に出来ないけど……、でもラファエル、君が、フランス艦隊を率いてきたなら、僕の名前は呼ばない方がいいし、もうこれ以上会わない方がいい」

「いやだ」

 瞳を開いた鼻先に青い瞳があり、止める間もなく、唇が重なっていた。

 腰をかがめ、覗き込むようにネーリに口づけると、ラファエルは彼を抱きしめた。

「……ジィナイース。城であいつが【ジィナイース】と名乗った時、どんなに俺が怖かったか、分かるか? お前が、殺されてしまったんじゃないかって不安が過った」

 ネーリは目を見開く。

「ラファエル。君は……どこまで知ってるの?」

「ヴェネトの前国王がユリウスという名の、偉大な王だったこと。彼は在位五十年にあり、数多の船を操って、ヴェネトを外界からの攻撃や侵略から守り続けていたこと。海軍を持たないヴェネトにおいて、彼はまさに、国の守り神のような存在だったこと。それは突き止めた。ユリウスの船とよく取引していた人間を、貿易界隈で探し回って、ようやく見つけたんだ。

 次の継承争いでヴェネトが揉めて、ユリウスは仕方なく王都に戻った。

 今の王は王家の外から入って来た余所者の王だが、ユリウスには直系の孫が一人いた。

 彼がいずれヴェネトの王位を継ぐことが決まってた。その話が分かった時に、俺はは泣いたよ。いつかまた君と再会して、仲良く一緒の城で暮らすのが夢だったから。でも、その子がヴェネトのたった一人の世継ぎの君なら、一緒に他国で暮らすなんてことは有り得ない。出来ないことだ。

 一緒に暮らすことは諦めたけど、いつか会いに行きたいと思ってた。

 公爵くらいになれば、他国の王とも謁見は出来ると思ったし……そんな風に思って暮らしてたら、ある日隣国の【ファレーズ】が一夜で吹っ飛ばされて消滅した。

 誰もが【シビュラの塔】を所有するヴェネトがやったことだと言っていたけど、俺は信じてなかった。やったとしても、君以外の誰かだ。君が他国の消滅なんか、望むはずがない。こんなことになって、君が悲しんでいることだけは分かったから、側に行ってやらなきゃダメだと思ったんだ。丁度ヴェネト行きの話が出たから、喜んで手を上げたよ。そして今、ここにいる。

 ヴェネト王宮に行ったら、王妃だとかいう女に会ったよ。

 多国籍の勇士を雇い、どんな国にも赴いてその地の人々と親交を結び、様々な国と貿易をしていたユリウスの思想とは全く相容れない人間だ。

 ヴェネトの民を、地上で最も美しく罪のない民だと公然と口にする。

 そしてその女が自分の息子だと紹介したんだ。

【ジィナイース・テラ】をね。

 ……小さい頃、一番最初に会った時から、俺に明るい、優しい瞳を向けてくれたお前とは全く違う、似ても似つかない王子だった。

 嫌な予感が過ったよ。

 ジィナイース。

 聞きたいのは俺の方だ。

 君は何でこんな暮らしをしてるんだ?

 こんな場所で、名前も変えて、王家の人間なのに、ヴェネト王宮は君を冷遇してる。

 なんでそんなことになったんだ。誰がそんなことを君にさせた?

 ……なんで君は――」

「……。」

「ヴェネトから離れられないなんて言う。君がここを出たいと、俺の提案を喜んでくれれば、今すぐにでもフランス艦に乗せて、俺の城に連れて行くのに。ヴェネトから出るなと言われてるのか?」

 ネーリは首を振る。

「城からの援助は。屋敷は? 離宮だって全てユリウスのものだ。彼が個人で成した財産がヴェネト以外にもある。彼はその全てを、いずれお前に与えると言ってた」

 ネーリは驚いた。

「……そっか。知らなかったのか」

 ラファエルは微笑んだ。

「言ってたよ。いずれ俺が大きくなって、フランスで一番大きな城を貰って、ジィナイースをそこに呼び寄せると言ったら、ユリウスに鼻で笑われた。自分はジィナイースに山ほど財を残して、それを与えるつもりだから、フランスの小僧の援助などいらないってね」

「……でも……」

 それは、王妃の言っていた話と違う。今ある現実とは。

「おじいちゃんは、……遺産を残してくれたよ。王位を継ぐ、僕のお兄ちゃんに」

 ネーリは努めて明るく言った。

「亡くなる時僕を王宮に連れ帰って、王宮で過ごせるように、王妃様に頼んでくれた。僕はしばらく、王宮で暮らしたんだ。でも……馴染めなくて、だから自分の意志で、勝手に城下に出て来たんだ。城にいれば、何でも与えてもらった。自分で出て来たんだから、あとは何も無いのは当たり前のことだよ。

 僕は今、この教会でお世話になってる。

 お金はないけどね、……けど絵は自由に描ける……。

 昔とは違う暮らしだけど、幸せだよ」

「……。そう……。」

「……うん」

 ラファエルは小さく溜息をついた。羽織っていた外套を脱ぐ。

 ――と。

 バサリ、といきなりネーリは頭からその外套をかぶせられた。

「⁉」

 ひょい、とラファエルはネーリの身体を抱き上げた。

「ちょ、ちょっと、ラファエル?」

「軽いな。ちゃんと食べてるの?」

 笑いながら、ラファエルは歩き出した。口笛でも吹きそうな楽しそうな足取りだ。

「ヴェネト王宮の王妃がね。優しい温かな性格の人だったら、ジィナイースの今の話、全部信じたよ。君は確かに、王位や権力に固執する人じゃない。王宮よりも、自由に行き来する世界を愛する人だ。ユリウスのように。でも俺が感じた印象はそうじゃない。

 自分の邪魔になるものは、消そうって考えるのがあの王妃なんだ。

 ……ユリウスが死んだ後、

 王宮で、たった一人で辛かっただろ。ジィナイース」

 ジィナイースの目から、ぼろ、と大粒の涙が零れた。

 ラファエルはジィナイースを抱えたまま外に出ると、待たせてあった馬車に乗り込む。

 すぐに馬車は迎賓館へと走り出した。

 隣に座らせたジィナイースの方を見ると、彼は押し黙っていたが、ぽつ、と膝に乗せた手の甲に、涙の雫が落ちるのが見えた。

 声も無く、泣いている。

 幼い頃、いつも明るく幸福な光の中にいたジィナイースが泣いている。

 いつだって、側にいる人間を穏やかで温かな気持ちにしてくれていた少年。

 そっと、頭に被せた外套を上に捲り上げると、初めて見るジィナイースの泣き顔があった。ラファエルは優しい顔でそれを見下ろすと、すぐに両腕で抱きしめた。

 白い額に唇を寄せる。

「泣いていいよ。小さい頃、泣いてばかりの僕を君は笑わずこうやって抱きしめてくれた。

僕はいつか、君にもそうしてあげれる自分になりたいと思っていたんだ。だから泣いていいよ。ジィナイース。ここには僕以外、誰もいないから安心して」

 ジィナイースはラファエルの胸に顔を埋めた。

 初めて彼が、小さな嗚咽を漏らす。

「これからは僕が、君を守るよ」

 例え相手が誰であろうとも。



「――俺が必ずお前を守る。」











【終】

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