青肌えにし

こどー@鏡の森

青肌えにし

 出立を予定していた日はいやに風が強く、視界の不明瞭さは先行きを暗示しているようでさえあった。空の月は糸のように細く、あまりに頼りない。

 人の気配に視線を動かすと、石積みの階段から一人の男が上がってきたところだった。外套を目深に下ろし、表情はうかがえない。剣を佩いている様子はなく、小脇には竪琴のような楽器を抱えている。

 先ほど隊商宿に入った一行の仲間だろう。中庭では見知らぬ男たちが取引を始めていた。

 楽器の男は階段の最上段で立ち止まっている。塀の上ですれ違いたくはないが、わざわざ声をかけるのも癪に障る。二歩で踏み切り、塀から飛んで両の膝を抱いた。中空で一回転して中庭に降り立つ。中庭の男たちの反応は無視して、砂埃を払った。

 楽器の男はこちらをうかがったあと、塀へと歩を進めたようだ。いけ好かない男だ。

「おお、フィズ・ス。よいところに来た」

 豊かな髭を蓄えた商人に声をかけられ、フィズ・スと呼ばれた少女は片手を上げて応じた。

「今日は風が強すぎる、出立は明日に延ばそうぞ。護衛の者らに伝えてくれ」

「おれは構わんが、ほかはどうかな。どうせ延ばすなら二日後にしてはどうだ、翡翠殿。わざわざ月のない夜を選ばずとも」

 話しながら、フィズ・スは近くの雑役夫から赤い果実を受け取った。白い歯を立て、瑞々しい果肉をかじり取る。〔翡翠殿〕ことフィズ・スの雇い主の隣で、商人らしい男が露骨にしかめ面をした。

「……ふん、翡翠殿らは女子供に護りの長を任せるのか。魔道の心得でもあるのかな」

「何を言う、フィズ・スは我らの護り神ぞ。戯言の間に体が二つに分かれても知らぬよ」

 相手をする気にもならず、フィズ・スは二口目をかじった。外見で判断されるのはいつものことだ。

 その商人──カナリアを象った首飾りの男と翡翠殿は顔見知りのようだった。

 カナリアの男は中庭に視線を巡らせ、やがて塀の上で止めた。目が記した場所では、竪琴の男がこちらに背を向けて座っていた。

「護り神か。神とは、あのような者のことを言うのだよ。美しく、心強くも恐ろしい…」

 吹き荒れる風が音を立て、塀の上を駆け去ってゆく。剣を佩きもしない楽士がどのように隊を護るというのか。 一陣の風が楽器の男の外套をめくり上げた。銀糸のような髪が風を含んで舞い上がる。目立ちすぎる髪色を外套で隠していたのかと思ったが、フィズ・スはすぐに考えを改めた。

 青肌。

 伝説と言い切られるほどに遠くはなく、されど巷で存在を疑われる程度には希少な一族。

 青みがかった鼠色の肌の男は、荒れ狂う風にも微動だにせず座り込んでいた。


 弓なりの細い月に寄り添うように、宵の星がきらめいている。

 出立前夜の景気づけにと翡翠殿からふるまわれた杯を手に、フィズ・スは果てのない空を眺めていた。宿にいる間、翡翠殿の楽士たちが奏でる楽は交代で夜が明けるまで続く。

 宵の星は后宮へと望まれた乙女が故郷の男に残した宝玉のきらめきであるという。乙女の涙が変化した宝玉とともに旅に出た戦士の物語は楽士語りの定番であった。由来を伝え聞いた賊に絶えず狙われ、策謀にさえ利用された宝玉は戦士最大の危機にあってみずから砕け散り戦士を護ったという。

 楽に聞き覚えのない重低音が加わった。次いで鳥のさえずりのように小刻みな高音。あの男だ。

 音は、異質であるはずなのに実によく和合していた。ふと周囲を見やれば、翡翠殿をはじめ、護衛の剣士たちや多くの雑役夫も楽に酔い、ある者は口ずさみ、ある者は体を揺らして拍子を取っている。

 肌の色と夜が相まって、壁際に立つ男は壁面の飾り彫りのようにも見える。その指先が奏でる音は、精霊たちの囁き声のようにさえ聞こえた。

 楽に区切りがつくと青肌の男は手を休め、翡翠殿へと歩み寄る。「それはなんという楽器かね」翡翠殿が尋ねた。

「わが血統の楽器で、ツィクと呼ばれている。ツィクグ氏の筋のみが鳴らすことができる」

「ほう。血統ごとに楽器があるのか」

 翡翠殿は興味深そうにうなずいた。

「われわれは律動をこよなく愛する。ゆえに多くの楽器が生まれた」

 青肌の口ぶりは淡々として厭味がない。フィズ・スは杯の中身を眺めて揺らした。

「それにしても、この宵の楽は素晴らしい。この長大な商いの道にあって、老いも若きも多くのひとびとに愛されるだけのことはある。悲しくも美しい物語だ」

「くだらぬ」

 フィズ・スは思わず吐き捨て、そのあとで口を挟んだことを悔いた。翡翠殿に免じて舌打ちはこらえ、代わりに杯を一気に飲み干す。

 青肌はわずかな間を開け、喉を鳴らして笑った。

「何を笑う。そもそもは乙女とやらが未練たらしく宝玉など残すから悪いのではないか」

「いや、いや。勇ましい戦士殿には楽士の情はご理解いただけぬようだ」

 揶揄に面食らい、言い返しかけたところで松明を持った翡翠殿の腕が上がった。今度は思わず舌を打つ。

 翡翠殿の朗々とした声が中庭に響いた。

「さて、わが旅のともどもよ。この希代の楽士をともに加えようと思うのだが、いかがか」

 ざわめきが生まれ、伝播してゆく。

「承服しかねる!」

 楽士たちの音が応える前に、フィズ・スは言い放った。

 一瞬、途切れかけた楽が動揺を振り払うように小刻みな波を放ち、数呼吸ののちに調子を取り戻す。

「青肌のあるところ、災いの矢が降るという。護られた僻地にこもっておればよいものを、なぜわざわざ旅をする」

 フィズ・スは年若く麗らかな外見にそぐわず、剣を佩き護衛の先鋒を務めている。その発言とあって、非難の声を上げる者はなかった。再びざわめきが起こり、揺らぎを生む。「あいわかった」翡翠殿が手を上げざわめきを静めた。

「では青肌の楽士殿に疑義をただそう。青肌のあるところ、災いの矢は降るのかね」

 楽士の指先が弦を弾いた。一指のさりげない動きと見せかけて、その指先は和音を生む。

「災いはあるが、ないとも言える」

 夜を伝う音に歌を乗せるように、青肌の楽士は応えた。

「答えになっていないではないか。謎問答など御免だ」

 いら立ちもあらわにフィズ・スは踵を打ち鳴らす。応えたのは、翡翠殿だった。

「まあ、よいではないか。聞けばその青肌は、砂に隠れた盗賊をその場から動くことさえなく追い払ったという。災いの招き手には、それを払う力も備わっておるのだろう」

 翡翠殿がそう言うのであれば過剰に楯突いてもしかたがない。釈然としない思いでフィズ・スは青肌の男をにらみつけた。

 同行の証として半月と翡翠鳥の飾りを受け取った男は、オロ・サイド・イ・ツィクグと名乗った。


 翌朝、隊は西の偃月えんげつ国に向けて出立した。聡明な王を戴くかの国は肥沃な土地と鉱脈に恵まれ、小国ながら豊かな国であるという。

 ここから偃月国に至るまでは点在する小集落を経由しながら十日ほどの旅程になる。フィズ・スは愛馬を駆り、隊列を併走していた。

 隊の後方を行く翡翠殿は新しい旅のともに夢中のようだ。客人扱いの青肌は翡翠殿から特別に馬を貸し与えられている。翡翠殿の声は朗々としてよく通り、楽士に引けをとらなかった。

「私は三十と六の年に国を出た。以来十と八年になる。この旅の中にあって、青肌を見るのは初めてだ」

「交易のために里を出入りする者はいるが、少ない。旅をする者となれば、なお少ない。私が生まれてこの方、里を出た者はいなかった」

「ほう。里にはどれほどの青肌がいるのだね」

「私が里を降りたことで二百と八になった」

 思っていたより少数の民族なのだなとフィズ・スは胸中につぶやいた。

「二百と八、それは少ない。希少な一族であるわけだ。各人の務めは大きかろうに、なぜ旅をする。見聞を広めるためか、それとも」

 翡翠殿の問いが終わる前に、フィズ・スの耳はふと異質な音をとらえた。

 高いところで土を踏みしめる硬い音。目線で周囲を探る。この先、路は左手のなだらかな岩肌に沿って緩やかに右へ、次いで左へ。隊の前半はすでに岩肌を通り過ぎている。右手は下り斜面、その先は岩山で、路は左右の岩肌の間を縫うように開かれている。

 護衛の戦士は隊全体に散らばっている。先の隊商宿で翡翠殿はずいぶん隊を縮小した。護衛たちはいずれも手練ではあるが、フィズ・スの人並み外れて鋭い感覚は生来のもので、他人と共有できたことはない。

 襲撃があるとすれば前後からの挟撃か。翡翠殿に警告する直前、フィズ・スはもう一つの音に気がついた。弓を引く音!

 フィズ・スは咄嗟に手綱を引き、翡翠殿の行く手に躍り出た。岩肌の上からやや右に向かって放物線を描いた矢が落ちてくる。フィズ・スの動きで勘付いた護衛が雑役夫と駱駝を前方へと追い立てた。上方に騎乗した射手が姿を現す。

 フィズ・スは巧みに手綱をさばいて向きを変え、剣を抜いた。射手は二人で、翡翠殿に狙いを定めている。射手の両脇から現れた賊が馬ごと斜面を駆け下りてくる。しんがりの護衛が迎え撃つ後方でフィズ・スは矢を叩き落とした。

 大人数でこそないが、賊の動きには統率がある。射手の片方が身を翻し、他方は弓を捨てて斜面を駆け下りてきた。尽きるほどに矢を放ったようには見えなかったが、いぶかる暇はない。フィズ・スは三人の護衛に加勢した。間を抜けてきた賊の剣を受け、払い、あるいは流して返す力で再び切り結ぶ。非力さを補う剣さばきで主導権を握り、相手の反応が遅れた隙に切り下ろした。

 砂埃で視界が悪い。左からの攻撃に短剣で応じ、刀身が離れた直後に上体を倒して翻した手首を突き上げた。鈍い声を上げた賊の馬を蹴り、巻き添えにならぬよう離脱する。

 初動が幸いして優勢は明らかと思われた。翡翠殿の無事を確かめようと振り返ると、背後には誰もいない。下り斜面に落ちたなどということはあるまい、先へ行った隊に合流したか。

 剣戟の音に交ざって何かが爆ぜる音が聞こえた。隊が逃れた方向からだ。焚き火が爆ぜる小さな音と思えたが徐々に大きくなり、危機感を覚えた直後、爆音が上がる。勢いよく立ち上った白煙が風に押され、左手の岩肌に覆いかぶさるように見えた。

 岩肌の上、白煙の中に人影が見える。先に身を翻した射手ではない。あの男だ。

 胸騒ぎに襲われ、フィズ・スは手綱を引いた。白煙はほとんど上に流れ、視界を邪魔するのは砂埃だけだ。岩肌を回り込んだ時、フィズ・スの耳は信じがたい音をとらえた。聞き覚えのある重低音と小鳥がさえずるような音。あの楽士の奏でる音だ。

 なぜあのような場所にいるのか、翡翠殿は、隊はどうなったのか。疑問を解決する間もなく煙幕を突っ切ると、突然に視界が晴れ渡った。向かい風に煽られ、白煙はもちろんのこと砂埃さえもない。翡翠殿は切り立った岩壁を背にした隊とともにいた。

「状況は?」

 隊を囲んで立つ護衛たちが互いの顔を見合わせ、首をひねり、視線でフィズ・スの背後を示す。翡翠殿はおどけるように両手を広げて肩をすくめた。どうやら危機は去ったらしいが、あの青肌はいったい何をしているのだ。

 こちらから見る岩肌は傾斜がきつく、その上部を覆う白煙は徐々に薄れつつあった。登り口がないわけではなく、単身ならばどうにかなりそうだ。

 フィズ・スは馬を降りて護衛仲間に預けた。軽く助走をつけ、足場を選んで岩肌を駆け上る。

 頂上に降り立つと、白煙の中からぬっと賊が姿を現した。剣を持ってはいるが、目の焦点は合わず足元は覚束ない。弛緩した口元からはうめき声が漏れている。

 賊は緩慢な動作で剣を振り上げた。フィズ・スには止まって見えるほどの動きだった。剣を避けて正面から足を払うと、賊はふらついて倒れ、岩壁を転がり落ちていった。

 下からは巨大な岩と見えたが、上ってみると反対側はごく緩やかな坂道になっていた。あたりには砂の匂いとは異なるほのかに甘い匂いが漂い、青肌の楽士が奏でる音に交じって大勢のうめき声が聞こえる。

 白煙が晴れる。辺り一帯には同士討ちをしたと思われる賊が倒れていた。その数ざっと四十ほど。青肌の楽士はまだ音楽を奏でている。

 何があった。フィズ・スは足音を殺しもせずに青肌に近づき、正面から剣を突きつけた。青肌の緑がかった眼が開く。高い音を残して楽が途切れる。

「貴様の仕業か?」

 警戒心もあらわにフィズ・スは問うた。青肌は一瞬、思案の表情を見せる。臆するでもなく、返答に窮したふうでもない。今の顔はいったいなんだと眉間に皺を寄せたフィズ・スに向かって、青肌はふっと笑った。

「そうであるとも、ないとも言える。……謎かけは嫌いだったかな?」

 フィズ・スは呆気にとられた。からかわれたのだと気づいたが、言い返す言葉が出てこない。

 傾斜の緩い側から騎乗した護衛仲間たちが上ってくるのが見えた。


 隊は残党を警戒してその場を離れ、見通しのよい場所で休息をとることになった。移動中、翡翠殿は青肌と何やら話し込んでいたようだ。

 話の内容は気になったが、付き合いの長い仲間を捨て置くわけにもいかなかった。彼らには彼らの面子というものがある。フィズ・ス自身、何やらお株を奪われたようで面白くない。

「影が落ちる前にフィズ・スが動いたから、荷と仲間を護ることができた。しかし、連中の狙いは荷ではなかったのではないか」

 併走する護衛仲間の声にフィズ・スはうなずいた。荷が狙いならば岩上にあのような人数を残す必要などない。

 足止めと威嚇を図る最初の弓に続けて、翡翠殿を長と見抜いての狙い撃ち。野盗にしては統率のある動きと装備品。単なる賊ではなく、偃月国へ向かう商隊の足止めが目的か。しかし不穏な噂を耳にしたことはないし、何より翡翠殿に二の足を踏む様子はない。

 半刻ほど休息したのち、翡翠殿は何事もなかったかのように移動を再開した。そこからの道程は予定どおりに進み、小さな集落にたどり着く。そのあとは当然のようにその日の出来事を語らうことになった。翡翠殿は何やら書きものがあるとかで、早々に寝所にこもってしまう。

 あの白煙は風向きを読んだ青肌の仕業で、吸い込めば急激に酩酊を招く効果があるのだという。岩上の残党に気づいた青肌が翡翠殿の許可を得て仕掛けたらしい。強く酔うほど音への感度が高まり、判断力が低下する。視界の不明瞭さも相まって混乱を招き、馬に蹴られ、あるいは同士討ちをして果てたのだと青肌は言った。青肌の一族には耐性があり、ただびとのようには酔わぬのだという。

「酩酊の末の悪夢か。酒や草ならばそうそう酔わぬ、試しに使ってみたいものだ」

 いささか意地の悪い口調で護衛仲間が言った。

「いたずらに使うものではない。まして旅の仲間となればなおさらだ」

 青肌はやんわりと拒絶する。フィズ・スは護衛仲間に便乗した。

「仲間? おれはおまえを仲間とは見なしていないぞ」

 護衛仲間からどっと笑い声が上がる。フィズ・スは唖然とした青肌の顔をしてやったりという気分で眺めた。得体の知れぬ新参に活躍の場を奪われたのだ、これくらいは構うまい。

「おれも! おれもだ、仲間ではない」

 尻馬に乗る男まで現れて、青肌は諦めたようだった。「先のものとは種類が異なるが」断りながら、懐の小袋から二つの丸薬を取り出す。管の長い煙管を手にし、指先で軽くほぐした丸薬を火皿に入れた。ただの刻み煙草ではないかとフィズ・スは思ったが、黙って眺めることにする。

 火を入れ、具合を確かめるようにみずから一息吸ってから青肌は煙管を近くの男に手渡した。青肌にならって一息吸い、男は首をひねりながら仲間に回す。フィズ・スも途中で手を伸ばし、加わったが、こくのある甘さのあとにくる渋みを独特と感じただけだった。

 おや、と思ったのは煙管が四、五人の手を渡ったあとのことだ。最初に吸った男が膝立ちになり、中空へと視線を泳がせていた。口を半開きにした間抜け面で黒目を徐々に上向け、そのまま頭を回し始める。

 見回せば、周囲の皆が奇妙な動きをしていた。様子を見ていた青肌が楽器を抱え、短くかき鳴らすと、大勢がはっとしたように体を震わせ、頼りなくふらついてへたり込む。何事もなく残ったのはフィズ・ス一人だ。

「百を数えるまでもなく戻る。……まれに効き目のないただ人もいる」

 音を止めた青肌と目が合った。物言わぬ瞳に見透かされるような気がして、フィズ・スは咄嗟に立ち上がった。かすかな立ちくらみを感じはしたものの、異常と言えばそれくらいのもので、周囲の男どものように体から力が抜けるようなことはなかった。


「フィズ・スよ。おれは恐ろしいものを見たぞ」

 夜半、交代の見張り番についた護衛仲間が話しかけてきた。子供の頃のフィズ・スを知る、同郷の男だ。

 いわく、ただの草ではないかと思った一呼吸後、夜が極彩色を生んだ。酩酊の自覚はなかった。黄金の光が差したと思ったら赤や青や白に変化し、極彩の鳥になり、それから巨大な羽を広げてすべてを覆ったのだという。

「酔いはすぐに醒めたが、命を落とすには十分な時間であった。あれが夢まぼろしであると承知していても、なお恐ろしい」

 もっともな言い分だった。敵地で皆があのような状態に陥れば全滅は必至だ。

「おまえは昼間もなんともなかったな。おれはあの男に問うたぞ。青肌の一族というものは、みな肌の色が青いのか?」

「何を言う。あれは人界の果ての山麓の隠れ里だろう!」

 目にかすかな怯えを浮かべた男に、フィズ・スは早口に反駁した。話すうちに声が大きくなる。

「ただの悪童だったおれに剣を教えたのは、誘ったのはおまえではないか。そのおまえが」

「悪かった、気に病むな。あの男の話によれば、まれに何も感じぬ者もいるそうだから」

 ならばなぜそれを先に言わなかったのかと思ったが、口にはしなかった。

「たとえ話にしても不愉快だ。……翡翠殿とおれを引き合わせたのは、おまえなのに」

 男からは返事がない。

 灯りがついたままの天幕から青肌の奏でる音が聞こえてきた。あの楽器は、おかしな楽器だ。間近でじっくりと見たことはないが、触れてもいない弦から音が出ている気がしてならない。


 出立の日を除けば、偃月国への旅路は実に穏やかだった。賊はもちろんのこと強風に遭うこともなく、退屈とさえ感じたほどだ。

 青肌とは時折、会話を交わすようになった。親しいはずの護衛仲間からなんとなく距離を置かれたような気分だったせいかもしれない。

 いよいよ明日には偃月国へ着くという日に寄ったオアシスの町では、若い女が喪に服していた。

 青肌が翡翠殿の楽士たちとは離れて奏でる弔いの音を、フィズ・スは青肌の隣で聞く。女は楽にひとしきり涙を流して帰っていった。

 いまだ半分に満たない月を仰ぎ見る。月は何度も尽きては満ちるのに、人のいのちはなぜ一つきりなのだろうと柄にもないことを考えた。青肌は血族の楽器を抱えて弦を張り直している。

「……その楽器は、ツィクと言ったな。不可思議な音を出す」

 青肌の楽器は象牙色で、本体はよく磨かれた硬い木でできているようだった。太らせた三日月の上部を引き伸ばし、その上端にはめ込んだ板と三日月の間に弦が張られている。弦の向こう側には小ぶりな円形の装飾板がはめ込まれていた。

 青肌は何も答えず、弦に対して垂直に中指だけを滑らせた。腹に響く低音に続いて、鳴るはずのない高音が出る。

「その音だ。楽の中に遅れて聞こえる」

 青肌は弦に指を置いて音を止めた。低音にやや遅れてもう一つの音が止まる。

「共鳴音が聞こえるのか」

「共鳴音?」

 耳慣れぬ言葉だった。

「ツィクは二つの共鳴胴を持つ。共鳴胴の中の仕掛けを利用して最後の音を出す」

 青肌は複数の指で弦を弾いていくつもの音を重ねた。

「共鳴音の音の幅は広い、ただ人の耳に届く音を出すこともできるが、あまり出さない。耳の境界に近い音を使うので、犬猫はこの音を聞き分ける」

「犬猫と一緒にするな。……耳のよい家系なのだ」

 ふてくされたフィズ・スの顔を一瞥して、青肌は声もなく笑んだ。笑われたと気づいても文句をつける気になれない。この男は一枚も二枚も上手という気がする。

「偃月国は、翡翠殿の故国なのだそうだ」

 不意に青肌が言った。翡翠殿と何年も旅をともにしていながら、フィズ・スには初めて聞く事柄だった。

 ふぅん、とフィズ・スはさも興味のないふうを装う。新参のくせに、どのようにしてそんな話を引き出したのだ。

「私は故郷を追われた追放者だ。帰ることのできる国があるというのはうらやましい」

 淡々とした口ぶりで、青肌は突然に告白をした。フィズ・スは青肌の横顔を盗み見る。彫り深く、精緻な彫像のように整った男の顔に悲壮の色はない。

「……追放。いったい何をしでかしたのだ」

 オアシスの湖面を風が吹き抜けるさまが見える。夜の帳に暗く沈んでなお、フィズ・スの瞳はわずかな光の変化をとらえることができた。

「女がいなくなった月の翌月に生まれた。それだけだ」

「それだけ……? 女が死んだのか」

 青肌は小さく声を立てて笑った。

「そうではない。一人が死ぬたびに一人を追放していては里が枯れてしまう」

 青肌の言葉はあいかわらず謎めいている。それもそうかと思いはしたものの、代わる答えは簡単には見つけられそうになかった。青肌はしなやかな指先で楽器を鳴らす。

「もう一つ誤りを正しておこう。災いの矢は青肌のあるところではなく、青肌の重なるところに降る」

 音に乗せ、歌うような口ぶりで青肌は言った。

「里は女の行く末を憂え、悲しみが里を支配した。そこで悲しみ《オロ》を背負う者が必要となり、私は十と六年を経て追放された。カナリア殿は次の町に翌年まで逗留すると言ったから、私は翡翠殿に同行を申し出た」

「一つところに長く留まると、問題があるのか。その、悲しみ──が」

 青肌はすぐには答えなかった。

 フィズ・スは再び青肌の横顔を盗み見る。夜の闇をすくってこすりつけたようにも見える鼠色の肌に白目が浮く。湖を滑ってきた風が白銀の髪を後ろへ押し流す。いつの間にか動きを止めていた指を追って、高い共鳴音が止んだ。

 いつにない沈黙だった。的外れな問いだったのだろうか。

 乾いた風に運ばれてきた無数の砂粒が肌に当たった。

「どうであろうな。無用な災いを呼ぶよりはと長く旅を続けてきたが、重なりが偶然の上に成り立つものならば、それもまたえにしというもの」

 風と砂が大地を駆ける音は天然の楽器だ。月光を受けて揺らめく水面のさざめきが、共鳴音のように遅れてやってくる。


 翡翠殿の隊は東門から偃月国に入ることになっていた。先行の隊はないと聞いていたから到着後すぐに入国できるのかと思いきや、くぐった門は外周壁のものであるという。

 壁内には入国待ちと思われる大勢のひとびとの姿があった。どうやら偃月国は往来の多さゆえ、入国にずいぶんと時間を要するようだ。より混雑する他門を避け、わざわざ回り込んでくる商隊もあるらしい。

 時には入国までに数日を要することもあるようだった。そうして人が留まるとなれば宿が立つ。外周で商人同士が取引をすることもあり、それを目的とした往来さえもあるらしい。

 翡翠殿は雑役夫に書状を渡し、東門へと向かわせた。フィズ・スは待ち時間の過ごし方を思案しながら馬上で翡翠殿の号令を待つ。

 足元を吹く風がどこからか落ち葉を運んできては巻き上げた。笛の音のような短く乾いた音がそこここに踊る。合間にごく短い旋律が交わって、フィズ・スは顔を上げた。視界の右上、検問所の屋根の向こうで何かが光る。城壁通路からこちらを狙う矢じりの反射と気づくまでに一呼吸も要しなかった。

「翡翠殿!」

 翡翠殿が振り向く間に放たれた矢が風を裂く。

 違う! 矢の向きが想定と異なることに気がついて、フィズ・スは周囲を見回した。目を留めた先の男、外套を目深に下ろした青肌は状況を察しているようには見えない。よほどの手練か、矢は正確に的を射るかに思われた。

 間に合わない──。

 一か八か落馬させるか、それですら間に合わぬかと手綱を引いた時、青肌の頭がわずかに上がった。足元から突然、突風が起こる。砂と落ち葉を巻き込み、風は渦を巻いて激しく舞い上がった。

 視界を奪われた一瞬に刺客は城壁から姿を消した。どのみち、この場所からでは追跡のしようもない。風がほとんど治まってから馬を降り、愛馬の動揺を静めた。

 突然の旋風に驚き、身を守ったに違いない人々の視線は、いまやあらわになった青肌へと注がれている。馬上の青肌はゆるりと周囲に視線を巡らせ、外套をかぶり直した。珍かなものを見る目には少なからず畏怖も混じる。青肌にとっては平常のことなのだろうが、フィズ・スはいたたまれない気分になった。

 翡翠殿が徒歩で近づいてくる。青肌が乗る馬の目前に突風で折れた矢が落ちていた。

「これは手荒い歓待を受けたものだ」

 腰を屈めた翡翠殿に馬上の青肌が声をかける。

「その矢には触れぬがよい」

 地に降り立った青肌は懐から厚手の布を取り出した。地に落ちた矢を布で挟んで拾い上げ、匂いをかぐようなしぐさをする。

「効用はさておき、全体に何か塗りつけてあるようだ。……地味な仕事だな。嫌がらせ程度のものだろう」

 青肌の言葉に翡翠殿は苦笑いをしたようだった。射手がいたであろう城壁を振り返りはしたものの、それ以上、言及する様子はない。

 東門から戻ってきた雑役夫が、半月に留まった翡翠鳥を織った旗印を翡翠殿へと手渡した。隊の全員が仲間の証として与えられた飾りと同じ意匠だ。翡翠殿は旗印を手に号令をかけた。集まりはしたものの、隊の一部は怪訝そうな顔をしている。

 翡翠殿は旗印を左手に持ち替え、右手を上げた。

「わが旅のともどもよ、旅路における諸兄らの働きと神々の庇護に最上の感謝を。これよりわが隊は東門をくぐり、年若き偃月王に品々を献上する」

 初耳だった。

 翡翠殿が改めて号令をかけると、護衛よりは従順な雑役夫たちが動き出す。決定権は翡翠殿にあり、説明の義務はない。二度の襲撃から明らかな危険は予測できるが、翡翠殿は承知の上で行くと言っている。フィズ・スは逡巡した。

 青肌の同行を渋った時とは何やら状況が違う。もともと品の献上を目的に偃月国を訪れたのであれば、けちをつけたところでなんの意味もない。おまけに翡翠殿は、書状をもってすでに入国の許可を得たようだ。

 フィズ・スは緩く首を振り、馬に飛び乗った。それを合図に、他の護衛たちも動き始める。


 東門をくぐった先は潅木の緑豊かな広場で、左手は市場になっていた。右手から正面には住宅が建ち並び、市場との間に大路地が開かれている。

 外周壁の外からもうかがうことができた宮殿を目指し、隊は大路地へと進み行く。後方にいた同郷の男がフィズ・スのそばまで駆け寄ってきた。顔を見合わせたあと、フィズ・スは隊からいくらか距離をとる。

「聞いていたのか?」

「いや。賊どもはおれたちより先に目的を把握していたようだな。旗印まで用意されているところを見ると、確かなつてがあるのだろう。……故国ではあるらしいが」

 どうやら、このことは同郷の男も知らなかったようだ。

「いずれにせよ、おれたちの役割は翡翠殿と荷を護ることだ」

 諦め混じりにフィズ・スが言うと、男はうなずいて持ち場へ戻る。フィズ・スは隊の中ほどを行く青肌の隣に移動し声をかけた。

「嫌がらせがどうのと言っていたな。さっきの矢には毒が?」

「いや。警告の意味で言うには言ったが、せいぜい触れればかぶれる程度のものだろう」

「なんだ、それは。地味とも言ったのはそのせいか。とは言え、おまえのことは邪魔なようだな」

 それに関しては青肌も同意らしく、外套からのぞく口元に苦笑いを浮かべたように見えた。

 書状一枚で宮殿にまで迎え入れるほどだ、故国を出るまでの翡翠殿はそれなりに身分のある立場だったのだろう。当人の命を取りはしないが帰ってくるな、ということなのかもしれない。

「もう一つ聞きそびれていた。さっき、楽器を鳴らしたか?」

 矢が放たれる前に聞いた旋律は、青肌が鳴らす共鳴音だった気がする。しかし青肌は、フィズ・スの意に反して首を振った。

「いや、私は何もしていない」

「ふぅん……。空耳だったのかなあ」

 いまひとつ腑に落ちないなりに、フィズ・スはそう結論づけた。青肌は好んで謎めいた言葉を使うが、嘘をついた試しはない。


 白地に金糸を這わせたような大理石の石柱が陽光を反射してきらめいている。

 朝には朝、夜には夜の神々が浮かぶように配された回廊を抜け、翡翠殿を筆頭とする数名は謁見の間へと通された。回廊さえも絢爛たる造りに国の裕福さがうかがえる。無論のこと、謁見の間には素人目にも見事と知れる装飾が施され、高い窓から注ぐ光がそれらを一層美しく引き立てていた。

 案内役の恭しい態度には、どうにも気分が落ち着かぬ。翡翠殿に恥をかかせるわけにもいかぬと平静を装う隣で同郷の男がきょろきょろするものだから、足の一つも踏みつけてやりたくなった。

「なんとお懐かしい。よくお戻りになられた」

 いそいそと玉座を降りてきた王と翡翠殿は互いに歩み寄り、腕を広げて親愛の抱擁を交わす。

 年若く聡明と伝え聞く王は、四十を超えたばかりというところだろうか。翡翠殿との関係は、容姿を見比べれば明らかだった。血族。ならばこの歓待は当然のことだ。

「遠来の地で今も翡翠を名乗っておられると聞き及び、無理を申した。まこと、叔父上には感謝しかない」

「なに、先王との約束が導いてくれたのだ。わが旅のともどもを紹介しよう」

 翡翠殿が振り返り、フィズ・スは慌てて跪いた。国に属さぬ旅の身なれど、敬意を払うべき相手には違いない。呆けていたのは自分と同郷の男くらいで、他はとうに跪いていたようだった。青肌の楽士に至っては、いつの間にやら外套を取り素肌まで晒している。

「そなたが青肌の楽士殿か。危機にあって多大な働きがあったと聞き及ぶ。他の皆々も長きに渡る護り、叔父上に重ねて礼を言う。楽にしてくれ」

 その他大勢という扱いかと思いはしたが、無論、態度には出さなかった。

 姿勢を直し、背後から来た気配に振り返る。護衛を伴った青年が到着したようであった。

「おお、来たか。……兄はどうした」

 やって来たのは、翡翠殿に紹介するために王が呼んだ青年らしい。

 青年は王や翡翠殿に比べると柔和な顔立ちをしていた。王族にしては頼りない印象だが、王の話によれば王位の二位継承者であるようだ。王太子たる兄は雲隠れしているようで、王に所在を聞かれると、青年は「探してまいります」と言い残し身を翻してしまった。

「勉学に励むよい子なのだが、あのとおり気が弱くてなあ」

 身内ゆえの気さくさか、翡翠殿相手に王はぼやく。

「まあよい、晩餐の席までには顔合わせもできようよ。湯浴みの用意がある、ともの皆も身を清められよ」

 厚遇に口笛を鳴らした同郷の男の腹を、フィズ・スは無言で肘討ちしておいた。


 その男が姿を現したのは、湯殿で身を清めていた最中のことだった。

 男どもと別れて案内された湯殿は蒸気風呂ではなく、熱した湯を張った贅沢な造りだ。旅の女が宮殿を訪れることなど滅多とないであろうから、よもや私的な湯殿を提供したのではと思うほどだった。

 遠くから女たちの騒ぐ声が聞こえてくる。その騒々しさで状況はだいたい予想することができた。よほどの手練が相手でない限り丸腰でも引けを取るつもりはないが、いかんせん場所が、そして相手が悪い。

 追いすがり、おそらくは引き止めたのであろう女を殴打する音が聞こえた。よく日に焼けた浅黒い肌の男の姿が湯気の向こうに見え、フィズ・スはひそかに嘆息する。先ほど引き合わされた青年に通じる整った面立ちながら、どこか浅薄な人柄が透けて見えるようだ。雲隠れをしていた王太子殿か、と当たりをつけるのはたやすかった。

「ほう……。これは噂に違わず端麗な女子であることよ」

 遠慮のない足取りで近づいてきた男は、一糸まとわぬフィズ・スの前に形ばかりは恭しく跪き、手を取った。フィズ・スが無反応であるのをよいことに手の甲に口付け、舌先で一の腕まで舐め上げる。

 込み上げる嫌悪を押し隠し、フィズ・スは努めて無表情に男を見下ろした。

「そこまでになされよ。氏も育ちも知れぬ女と戯事に興じるようでは、偉大なる王にも嘆かれましょうな」

「違いない! そこまで聞き及びとは恐れ入る。欲を言うなら、もう少しふくよかな方が好みだがな」

 男は芝居がかったしぐさで身を引いた。踵を返すと、改めて駆け寄ってきた女を突き飛ばし、湯殿を出て行く。

 フィズ・スは手近の女中に頼んで新しい湯を受け取り、流すと、ありったけの香油を男が触れたあたりに塗りたくった。


 湯殿を出て案内されるままに進むと、途中、中庭を見下ろす通路の柱に寄りかかるようにして青肌が佇んでいた。血族の楽器さえ携えておらず手ぶらで、差し込む陽光にたださらされるさまには哀愁さえ漂うようだ。

「湯浴みに行ったのではないのか。こんなところで何をしている」

 よほど呆けていたのか、青肌は声をかけられて初めてフィズ・スに気づいたらしい。

「この国の香か。足音さえ聞こえぬうちからよく匂った」

 瓶の中身を使い切るほどに塗りたくったのはやりすぎだったかもしれない、とフィズ・スは反省した。

「何やら、薬学について相談があると言われてな。人待ちをしているのだが、あまり誠意のない相手だったようだ」

 呼ばれるまでこの場に留まることを案内の女に告げ、青肌の隣に立つ。湯上りの肌に乾いた風が心地よい。

 翡翠殿は王の求めに応じて故国に戻ってきたようだ。身分を捨て商いの旅に出ておきながら戻ったのであれば、再び旅に出ることはないのかもしれぬ。

 よい雇い主だったなあ、などと考えていたら、階下、視界の外れの方からただならぬ声が聞こえてきた。

 もっとも、ただ人に聞こえるほどの声ではなかったようだ。少し離れたところに控える女の表情にはなんの変化もない。

「……あの方角には何がある」

 視線を動かしもせずフィズ・スは問うた。青肌の楽士の耳にも、あの声は届いているはずだった。

「湯殿だな。その手前で止められ、この場に呼び出された」

 そうと聞けば行かねばならない。先がどうあれ、翡翠殿の護衛の任はまだ解かれていない。

「先に行く」

 言い残し、返事を待たずにフィズ・スは通路から中庭へと飛び降りた。階下の通路にいたらしい女が悲鳴を上げるが、無視して中庭を駆け抜ける。音を頼りに通路へと飛び入り、別の場所から駆けつけた兵士を追い越しざまに剣を奪い取った。勢い負けして転んだ兵士を振り返る間もなく、布を巻いて顔を隠した賊と白刃を合わせる。

 賊が突き出した幅広の短刀を弾いて頭上へと飛ぶ。体をひねって降り立った直後に踏み切り、飛んできた短刀の柄を左手で受け止め、そのまま払った。切り裂いた布の合間にのぞいた鼠色の肌に赤い筋が走る。肌の色に目を奪われた隙に、賊は体勢を立て直して逃亡した。

 賊を追ってきた兵士たちが両脇を駆け抜けていく。フィズ・スは幅広の短刀を見下ろし、柄を握り直して唇を噛んだ。しばらくして、賊を捕らえたぞ、と兵士たちが沸き上がる。急ぎ駆けつけ、兵士を押し分けて進み出ると、通路の先で取り押さえられていたのは今さら見間違うはずもない青肌の楽士だった。


 灯りのない地下の間にどこからか高く悲壮な楽の音が届く。冷たい床に尻を下ろし、フィズ・スは瞼を伏せてしばし音に身をゆだねていた。

 手足ともに拘束されていないのは幸いだ。余計な抵抗をしなかったせいかもしれない。

「なぜ庇った? 周囲の言うとおり、ともにいた私はまぼろしであったかもしれぬのに」

 隣に座る青肌が尋ねてきた。フィズ・スは何も応えない。

 問いを重ねようとはしない青肌を横目に見て、フィズ・スはその肩口に頭をもたせかけた。「よい音だ」小さくつぶやく。

「呼んでいるな」

 青肌は低く囁いた。

 二呼吸を置いてフィズ・スは身を起こし、鼠色の肌を視線で伝う。取り押さえられた時に負ったらしい指先の切り傷にうっすらと赤い血がにじんでいた。

「怪我をしているな。……血は赤いのだな……」

 青肌は無言で指先を見下ろした。フィズ・スはその手をとり、頭を垂れて傷の近くに口付ける。ただ人と変わらぬ血の匂い、脈動、温もりがそこにはあった。

「賊は翡翠殿の宝玉を盗んで逃げたそうだな。王位継承者たちが先王から授けられた、集合すれば国の未来さえ転ずることができる石だという。そのようなものを盗んでいったいなんの利得がある?……何より」

 唇についた血を舐め、フィズ・スは青肌の瞳をのぞき込む。

「同じ闇を見、同じ音を聞く。これ以上の証拠がどこにある……」

 青肌が何も応えないので、フィズ・スは目を伏せ、青肌の胸に顔を埋めた。

「おれの母親は暗闇の中、赤い血を流して死んだ。青い肌を憂えて陽の光を浴びることなく、助けを呼ぶこともなく。そうではなかった。最初は、そうではなかったはずなのだ」

 温かな青肌の手が肩に触れ、首筋をなぞって髪をすくった。豊かな弦を操る指の皮膚は硬く、厚い。

「リィル・ス・ラピ・マリ・イリークグは楽器よりも舞を好んだと聞く。とび色の瞳の、美しく不羈な娘であったと」

 淡々と語る男の声からは、遠く見知らぬ故郷の香りがするようだ。

 いつまでもそうしていたかったが、フィズ・スはやがて深く息を吸って身を起こした。

「そろそろ行くか。おまえの楽器が呼んでいる」

 声もなく笑む青肌の前に立ち、堅牢な扉に手をかける。錠は下ろされておらず、扉の向こうには見張り番の姿さえなかった。

 青肌の楽器は、湯殿へと続く通路から外に打ち捨てられ震えていた。砂にまみれてはいたが目立った傷はなく、弦も無事だった。「先に行くぞ」、フィズ・スは鳴り止んだ楽器から砂を払う楽士を置いて走り出す。

 通路には多くの兵士が駆り出されていた。号令から判断するに、賊は宝玉を盗んで逃げる途上でどこへやら隠したらしい。

 中庭の近くまで来たところで、首に布を巻いた男を見つける。近くには例の王太子もいた。渋面の翡翠殿と王と相手に何やら申し立てている。

「逃走経路だけに絞ってもこの広さ、闇雲に探して見つかろうはずもない。まして青肌は奇妙なまぼろしを操る一族と伝え聞く。大叔父上、どうか尋問の許可を」

 さて、どう出るか。通路を行き交う兵士たちを観察していたら、中庭の向こう側から破裂音が上がった。瞬く間に煙が吹き上がり、場が騒然とする。

 回り込んだ青肌の仕業だ。フィズ・スは物陰を飛び出し、間近にいた兵士の足を払って短剣を奪った。風の速さで兵士たちの間を抜け、驚き振り返った男の額を指先で突いて飛び越える。解けかかった首の布に手をかけて引っ張ると、布にはまだ新しい血がにじみ、さらには拭い取った色粉が大量に付着していた。弾みで懐から飛び出した包みを中空で受け、翡翠殿に向かって投げる。

 地に手を着き逃れようとする男を捕らえ、フィズ・スは短剣を首に突きつけた。通路の向こうから姿を現した青肌は血族の楽器を抱えている。場を沈めるように鳴らされた音には、紛れもなく青肌にしか乗せられない音が重なった。

「正体が知れたな。色粉を処分する間もなかったと見える」

「なんと、わが臣下が賊であったか!」

 フィズ・スの声に唾棄すべき言葉がかぶせられた。

「これは、大叔父上の楽士には申し訳が立たぬ。希少な宝玉に目が眩みでもしたものか」

 あいかわらず芝居がかった男だ。捕らえた男を哀れと見下ろす間に、翡翠殿は無言で包みを開く。

 翡翠殿が歩を進めねば、王太子はすり寄ろうとしていたに違いない。しかし翡翠殿は王太子に一瞥をくれることもなく歩み出て、中庭へと下りる階段の前で止まった。中空の半月に向け、包みから取り出した翡翠石をそっと掲げる。

「……実を言えば、迷い続けた旅であった。求められ帰郷を決めたはよいが、戻ったところで何ができる。十と八年の空白は長い」

 朗として響く声は、さながら楽士たちの歌のようでさえあった。興が乗りでもしたのか、青肌の楽士の指が踊り出す。

「しかし翡翠よ、半月よ。今宵、私は確信したぞ。他者を謀りおのが欲望のままに動く者にわが故国を託すわけにはゆかぬ」

 ひときわ高い音が夜の闇に響き渡り、名が示すとおり深い緑と見えた宝玉からふわりと光の羽が立ち上がった。目を丸くした翡翠殿の手の中で羽は輝きを増しながら広がり、緑から黄金へ、黄金から紅、あるいは深い蒼へと色を変えてゆく。

 ゆらめく光はやがて瑠璃色の巨大な鳥へと姿を変え、大きく羽を広げて舞い上がった。その美しさに楽士を除く誰もが動きを忘れかけた中、一人だけ後じさる者がある。

 鳥は天空に向け大きく広げた両の羽に大気を溜め、突然に回転して回廊へと突っ込んできた。轟音とともに大気にこすれて起こった火は業火と化し、腰を抜かした王太子その人を包み込む。

 誰一人、熱を感じなかった炎に包まれ、もんどり打つさまに追い討ちのように無数の音が重なった。


 まぼろしに包まれた夜は足早に去り、人々は慌しく回廊を行き来していた。翡翠殿を含めた王族のほとんどが集められ、話し合いの席に着く。

 瑠璃色の鳥に焼かれたと見えた王太子は気を失ってこそいたが怪我一つなく、当人を含め王太子派とされた王族や兵は捕らえられた。とは言え人望があるとは言いがたかった王太子のこと、立場上仕方なく付き従った者が大半で、多くはじきに解放される予定だという。

 青肌の楽士とフィズ・スは再び賓客扱いとなり、仲間たちと再会した。夜半に見たまぼろしの神々しさに、かつて見せられた禍々しいまぼろしはすべて吹き飛んだと仲間たちは笑う。

 昼過ぎ、中庭に転がって青肌の楽士が奏でる音に身をゆだねていたら、翡翠殿がやってきた。正装し見間違えた朝方に比べ、ずいぶんとくたびれた格好だ。

「やれ、わが護りの神どもは羽毛の寝台よりも石畳の方が好みかな」

 軽口を叩かれ、フィズ・スは仲間たちと顔を見合わせた。

「久しぶりに羽に包まれて休んだが、あれはいかんな。体が沈み、かえって歪む。好きな時に月を見に出られぬのもまずい」

 話の途中で笑いが込み上げる。翡翠殿はよくよく旅が性分に合っているようだ。

「騒動が片付いたら再び商いの旅に出る。次は南に下り、最果ての港を目指してみようか。フィズ・スよ、青肌の楽士よ、懲りずに付き合ってくれるかな」

 乞われ、断る理由もない。

 懐から取り出した半月と翡翠鳥をあしらった飾りを、フィズ・スは高らかに空に掲げた。

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