第43話 水底揺籃シェスカ
人魚の磔刑場で、アンナリーゼはじっと教皇を睨め付けていた。本来なら睨み合い、攻め入る隙を互いに推し量る場面なのに、相手が教皇だからただアンナリーゼが睨むだけになっている。アンナリーゼからすれば、本能的な気持ち悪さすら覚える違和感だった。
イウリィは歌い続けている。アンナリーゼに促されてからは教皇にも意識を向けず、母が目覚める瞬間を祈り、歌っていた。
人魚の歌は人に聞こえず、空気だけを振るわせる。アンナリーゼはイウリィが生み出す波に身体感覚を委ねて、波が崩れたと察知した瞬間に踏み込み、教皇の首を刎ねた。
やはり教皇は無警戒のまま、一度目と同じように絶命する。アンナリーゼも無闇に殺しても意味がないことは悟っていたから、シェスカの目覚めを待っていた。
教皇が戻ってくるまではイウリィとシェスカに注視できる。アンナリーゼが振り返ればやはり、イウリィは大粒の涙をこぼしながら、うっすらとまぶたを開くシェスカに縋りついていた。
「っ──お母様、お母様! 起きてください、お母様! 私です、イウリィです……!」
「……イウ、リィ……?」
透明な声だった。大海の慈母、水底揺籃のシェスカは朧げな視界を取り戻して、自らに縋り付き、涙を流す半人魚の少女を見つめる。アンナリーゼが右腕を縛る鎖を破壊すれば、今にも重力に崩れそうな速度で、イウリィの頬に触れた。
「あ──ああ。やっと……会えた。はじめまして、イウリィ。思っていた通り、可愛い子」
「ぅ──あ、あ、ああああぁあ──!」
生まれて初めて聞く、母の声。イウリィは言葉も作れないまま母に抱きつき、ただただ泣き続ける。
シェスカはゆっくりと、柔らかにイウリィの頬を撫で、アンナリーゼに目を向けた。
「あなたが、私のイウリィを守ってくれたの?」
「拙たちにとっても大切な妹だから。──シェスカ殿、一つ尋ねたい。あなたを救う方法はあるか?」
アンナリーゼは躊躇なく切り込んだ。イウリィは泣き続けていても、感情に恐怖が混ざる。シェスカは目線を落として、イウリィの涙を拭った。
「いいえ。封印されたときに、もう死んでいるようなものだから。叶うことなら海で眠りたいけれども」
「っ──」
イウリィの喉が引き攣る。
母を取り戻すことを願っても、命はとうの昔に諦めていた。だからせめて水底の暖かな闇に包まれ、海と一つに戻れるようにと、ずっと思っていた。
けれど、直に姿を見て。言葉を交わし。温度に触れて。嫌だと、感情が叫ぶ。
「いや、嫌です、お母様。やっと会えたのに、やっとお母様の声を聞けたのに」
「イウリィ……」
「お母様。私、アゥダーリーに会ったんです。私にあの男の血があっても、私を海の子だと、お母様の子だと認めてくれたんです。お母様、帰りましょう。アゥダーリーにも、お母様と会って欲しい……!」
イウリィの脳裏に、優しく包んでくれたセルキーの姿がよぎる。シェスカはアゥダーリーの名前に驚き、微笑むと、穏やかな声で懐かしさを呼んだ。
「アゥダーリー……やっぱりあの子は優しいままなのね。──イウリィ」
瞬間、声音が変わった。
母としてではなく王として。大海の命を庇護し、慰撫する王として、シェスカはイウリィを呼んだ。
「王冠を。水底揺籃の王冠を預かって。二十年以上も海を空けてしまった。私の罪はもはや贖えないけれど──王冠だけは必ず、戻さないといけない」
「……ぁ」
イウリィからすれば明白で、致命的な宣言だった。
まだ望みが一欠片でもあるならば、シェスカは王として自ら抗うはず。力を持たないイウリィに託すと伝えた言葉こそ、もはやシェスカは助からないと実感させるもので。
「……ごめんね、イウリィ。あなたを守れなかった。あなたに苦しみだけを背負わせてしまった」
シェスカはイウリィの手を取った。涙すら流せず、固まるイウリィの手を導いて、自らの頬に触れさせる。イウリィの腕に輝く鱗を見て、シェスカは微笑んだ。
「あなたの歌はずっと聞こえていた。あなたの歌があったから、私は砕けずにいられたの。イウリィ、私の可愛い子。何もできなかった母だけれど、どうか、私を救ってほしい」
「や……いや、いやです、お母様。帰りましょう、一緒に、海に。私は、私では、王冠を守れない」
「──イウリィを、お願いできる?」
シェスカの視線はアンナリーゼに。アンナリーゼは唇を噛みながら、はっきりと頷いた。
「必ず。大海の慈母、貴殿の娘は拙たち姉妹が必ず守る」
「感謝します。……ね? あなたは、一人じゃないから。ずっと教えてくれていたでしょう? 大切な人たちに会えたんだって」
「……お母様」
──大切な人、と。シェスカの言葉が、涙すら失っていたイウリィの心に触れた。
ネオンと出会ってから、ずっと歌い続けていた。ネオンに与えられた救いを、わずかでも母に届けられないかと。
自分の歌が母まで届いているのか、ずっと知らなかった。母の暖かさも聞こえていた歌も、錯覚ではなく本当に繋がっていたのだと実感して、イウリィの感情がようやく現実を受け入れた。
飲み込む。心に支配されては、母の願いを果たせない。母の祈りに報いられない。母の娘である資格は、慈母の愛を与えられる価値は、自ら掴む。
「──お母様がずっと、私の心に寄り添ってくださっていたから。お母様が歌ってくださったから。私はネオンさまに救われるまで、生きていられたんです。お母様の心を感じられなければ、私に生きる理由はなかった」
「……イウリィ」
「お母様が名前を与えてくださったから、私はイウリィになれました。……我らが王、私たち大海の慈母よ。私は御身の命に従い、王冠を繋ぎます。海の誇りを、御身の意思を、海に届ける」
「──ええ。今代の水底揺籃として、託します。我らが海の安寧を、取り戻して」
母娘は最後に額を合わせる。王冠の継承を示すようにシェスカの腕が落ちて、意識が閉ざされた。
イウリィは嗚咽をこぼし、尽きることない涙を落としながらも、自らシェスカから離れた。イウリィの瞳がじっと、アンナリーゼをまっすぐに見つめる。
「アンナリーゼさま、お願いします。私を守ってください。王冠を海に戻すまで、私は何があっても死ぬわけにはいかないんです」
「承った。拙は必ず、あなたを守ろう。姉妹としても、水底揺籃のシェスカから託された者としても」
アンナリーゼは振り返る。やはり、教皇が立っていた。存在のないままに水底揺籃の継承を眺めていた男は枯れて乾いた声で呟く。
「強引に王冠を継承させて、意思を砕く予定だったが。そうだな。さして問題ないか」
「拙が許すとでも?」
「お前が折れるまで試せばいい。完成させれば、腐敗は終わる」
返答がやってきたようで、やはり本質的には成立していない。教皇はただ、自分の意思を告げているだけ。
アンナリーゼは静かに、嫌悪の息を落とした。人生で最も憎い相手は自分たち姉妹を破壊した先王だが、最もおぞましい相手は教皇だ。存在が何もかもおぞましくて、生きていなくて、命ではない。
もとから何かが外れているのは重々承知していたが、イウリィとシェスカへの執着を見てようやく悟った。これは、クエリでは決して読めない異形だ。ここにきて姉の盤面が噛み合わないのも当然だった。
「イウリィ、まずは外に出る。拙の殺人を大量に見る覚悟を」
「はい。お願いします、アンナリーゼさま」
アンナリーゼの言葉に、イウリィは迷わず頷いた。アンナリーゼはイウリィの手を握って、大剣の柄に触れる。
教皇は問題ない。なぜ死なないのかはともかくとして、警戒も抵抗もしない相手だ。現れるたびに斬れば押し通れる。だから考えるべきは、天導教の戦力と異質。
脱出経路を頭に思い浮かべる。宣戦布告の混乱をついて抜け出すという想定は崩壊している。正面から斬り伏せて、強引に進むしかない。
アンナリーゼの思考が冷え切っていく。生存と守護だけを残して、それ以外のすべてを意識から排除する。
三度目は剣も振るわなかった。無詠唱で魔術を成立させて、大気を圧縮した刃で喉と心臓を貫く。
イウリィの手を引いて走り出す。磔刑場から廊下に出た、その瞬間。
この世のものとは思えない破壊と粉砕の轟音が響いて、地下空間に太陽の光が降り注ぐ。澱んでいた空気が新鮮なものに攫われる。バチバチと、焔の音が立ち昇る。
最適化のために認識する情報を削ぎ落としていたアンナリーゼの思考に、その暴威はあまりにも過重な衝撃で。もはや何が起きているのか把握もできず、反射で足を止めていた。
「はあ──思ったより壊せなかったな。あと二十は使うんだった」
少女の声だった。イウリィにとっては馴染み深く、大好きな声で、けれど知っているものよりも確かに直っていて。アンナリーゼにとってはかつて、自分をリズ姉と呼んで、愚かな男に壊されながらも笑ってくれた妹の姿を呼び起こす声だった。
天導教の総本山ごと砕き、地上と地下を繋げたネオンはフレアに文句をこぼしながら顔を上げる。瓦礫の山を踏みしめながら人の気配に向けた視線は冷たく、けれど一瞬でほどけていた。
「……イウリィ、リズ姉」
ぽつりと声がこぼれる。ネオンの瞳に涙が滲んで、それと同時に駆け寄り、二人まとめて抱き寄せた。
「──見つけた」
「ネオン、さま」
イウリィの声が震える。ネオンはイウリィのヒレに触れて、目の前の少女が自分を癒してくれた、大切な人なのだと確信して。未だ目を丸くして、何も言えずにいるアンナリーゼに笑いかけた。
「迎えにきた。帰ろ。イウリィ、リズ姉」
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男装王女と竜姫は、政略結婚で家族を選び取る 卯月スズカ @mokusei_osmanthus
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