第42話 玻璃竜怒る
声だけでもフレアの項垂れる姿は容易に想像できる。ネオンはナデシコの宥めもあって一瞬で殺気を鎮めつつも、冷え切った声を維持してすぐさま叩きつけた。
「フレア。君がナデシコにしでかしたことの意味は理解したね? 理解したなら大人しく、すべてを寄越せ」
「うるさい! わざわざ言われなくても理解した! 十だろうが百だろうが持っていけ!」
フレアの衝撃は自己肯定感そのものが崩壊するほどの大きさだっただろうに、ネオンへの噛みつきは揺らがない。
かつてハルピュイアの王冠を預かっていた暁のフレア。クエリやエンラとはまた異なる王者なのだと、誰もが理解する。
『……どうしましょう。私たちのネオンがいつの間にか鳥さんになってしまっていたわ。姉上、本当にどうしましょう。どうすれば人間に戻せるかしら』
『そうね、暁をどうにか実体化させてすり潰せば、きっと……』
クエリと双子の混乱はもはや隠せていない。ネオンの予期していなかった一面を見た直後に、人間には理解不可能な卵生生物の比喩を、溺愛する妹が実感を込めながら刺し貫いたのだから当然の反応ではあるけれど。
オドゥとヴァーチェはまだ、比喩の重さとネオンがその例えを使えた不可解さが繋がらないようで沈黙している。
どうやら動けるのは自分だけらしい。ナデシコはまた肩を落としながら、ネオンに声をかけた。
「ネオン。どうして卵生の感覚がわかるの? あたしとお父さんは実感できるけど、人にわかるものじゃないでしょ?」
ナデシコに話しかけられると、ネオンは普段通りの雰囲気を取り戻す。
ネオンも自分の感性が人とかけ離れている自覚はあるのだろう。答える声は温和ながら、長期にわたる疲れが滲んでいた。
「……フレアと四六時中一緒で、時々記憶も繋がっちゃって」
「うん」
「たまに夢にまでフレアの視点が混ざるから、いつの間にか鳥の価値観が……」
ネオンは説明しながら、どんどん語勢を落として顔を覆う。ナデシコは何を言っても慰めにはならないと理解して、ただ肩を柔らかく叩くだけにした。
ネオンもフレアも落ち込んでいる。ナデシコは今なら王宮がこれ以上のショックを受けるようなことは起こらないはずと判断して問いかけた。
「クエリ陛下。勝利条件は把握したわ。とはいえ天使がどのようなものかは不明だし、さっき師匠が言った通り、すべてこちらの判断で動いて大丈夫?」
『ええ、すべて委ねるわ。事後の問題はすべてこちらが潰すから気にしないで。……けれど』
「けれど?」
不意にクエリの語尾が曖昧になった。
弑虐の女王らしくない気配。クエリの言葉が乱れる時は確実に、姉としての自我が溢れていることは明白だった。
『いえ。私の気持ちの問題というだけ。ただ、任せるしかないことが歯痒くて』
痛みと自分への怒りが声に現れる。
これがまともな人物の発言なら、ナデシコも尊重しつつ、待っていてと説いただろう。けれど発言者はクエリであり、これまで彼女が仕掛けてきた数々の布石が不意に、ナデシコの脳裏をよぎって。
「──ねえ、姉君?」
柔らかい声で呼びかける。今までは常に君主の呼称で呼びかけてきたナデシコから「姉」と呼ばれたことでクエリの思考は一瞬動きを止めて、ナデシコの怒りを察知できないうちに言葉を叩きつけられた。
「姉君、思い出してほしいのだけれど。あなた、あたしには何にも言わずに、勝手に示唆をばら撒いて、あたしが姉君の関与を確信することを前提に動いていたわよね?」
『え……ええ。リズの反応があれば、ナデシコなら絶対に気付くから──』
「それがタチ悪すぎるってことをいい加減に自覚しなさい!」
ナデシコは躊躇なく怒鳴りつける。何を言われても飄々と躱して、成果を出せば怒られる理由はないという確信から反省しないクエリすら反論できないほどの語気をぶつける。
前触れなく発火したナデシコの怒りに飲み込まれず、むしろ安心して頷いているのは育て親のオドゥだけだった。
「わかる? ねえわかる? 知らないうちに勝手に戦略を成立させるための最低条件を押し付けられて、あたしの考えが間違っていたら何もかも崩壊していたって理解した時の恐ろしさが想像できる?」
『ぅ、で、でも──』
「でももだってもない! 後からわかる恐ろしさに比べれば、何もかも不明な状況でも姉君の意図がわかってるだけ百倍マシなの! ああもう、アンナリーゼさんの状況がほんっとうに恐ろしいわよ! 事態よりもアンナリーゼさんの心労が! どうせ姉君のことだから常人なら倒れるくらいの負荷を躊躇なくかけていたでしょうにそこに天使なんてものが出てきたのよ! 帰ってきたら何も指示せずに絶対に休ませてあげて、いい!?」
ナデシコはぜいぜいと息を荒らげながら、爆発した怒りをすべて叩きつける。
ナデシコの怒りが自分の重すぎる負荷と心労の繋がりを懇切丁寧に説きつつ、反論を許さない速度で行われたからだろう。実妹たちが何を言おうが応えなかったクエリが、しばらくの沈黙の末に初めて自ら敗北を認めた。
『……ご、ごめんなさい……』
「どれだけ謝られても、本は絶対に買ってもらうから」
『ええ、わかっている。わかっているわ……』
クエリは反論する意志も折られて、完全に降伏する。オドゥは普段と何も変わらないぶっきらぼうさで、まだ呼吸を整えきれず、怒気を漂わせるナデシコに話しかけた。
「やっとキレたか。いつもなら俺相手じゃなくてもとっくに五、六回は爆発してただろうに」
「よぉく理解してらっしゃるようで……! 言っとくけど師匠も同罪だからね、無職野郎の根無し草が……!」
「向こうの女王陛下に食い扶持はもらってるから見当違いだ。ざまあみろガラス娘」
空気を圧縮した刃がオドゥめがけて放たれる。オドゥは普段通りに平然と回避しつつも、暗器は投げ返さない。いつもなら絶対に反撃が飛んでくるからこそ気遣われていることは明らかで、ナデシコは歯噛みしながらも攻撃を止めた。
「この、ぐ、全部終わったら絶対呪う……!」
「はっ、やれるもんならやってみやがれ。てめえに素材与えるほど鈍ってねえよ」
「っ──素材なしでも呪えるシステム作ってやるんだから覚悟しなさい……!」
なんとか怒りを飲み込もうとするナデシコの背中を、ネオンはよしよしと言うようにさすり続ける。
ネオンもナデシコの勝気さは知っていた。ナデシコほどの勝気なら本来は短気なのも察していた。短気さがあっても、ナデシコ自身の聡明さから怒りを露わにする前に処理できているのは悟っていたが──まさかクエリを屈服させるほどとは予想できていなかった。
とはいえナデシコの怒りは至極まっとうで、対応もむしろ甘すぎるほど。自分たちが何を言っても聞かなかったクエリがようやく反省してくれた安堵もある。ネオンは姉のことは一旦意識から外して、エンラに尋ねた。
「エンラさん、あとどのくらいで着きそうですか?」
「そうだね、あと十分もあれば」
「ありがとうございます。──フレア、三十翼」
「五から慣らせ。十分あれば間に合う」
ネオンが自分の影に触れれば、かつて交戦の中で叩き折り、以来武器にしているフレアの翼が固体化する。明確な異常現象に、ヴァーチェは慄きながらも呟いた。
「さっきから何かと変なことばかり……あなた本当に人間ですの?」
「うん、そうだよ。ヴァーチェ、悪魔の封印場所はどこに?」
「地下と聞いています。少なくともわたくしが知る限り、地上にそれらしき場所はありません」
「よし、なら簡単だ」
ネオンは安堵するように頷いた。黒髪をまとめて、明確に狩人としての意識に入る。
いやむしろ。フレアの王冠を持ちながら今まで使う必要すらなかった人間がすべて寄越せと要求し、何もかもを壊すという意思が整った今。ネオンに対しての狩人という表現は、おそらく足りない。
「エンラさん、総本山が見えたら私だけ先に降ります。近付いたら少しだけ高度を下げてもらえますか?」
「……ああ、請け負った。降りる頃合いはいつでも、君に任せる」
「助かります」
知略ではなく、存在そのものが他者を下す二人の速度が噛み合う。
フレアがネオンに渡す王冠の力はゆっくりと桁を増しているのだろう。ネオンの瞳に揺らぐ暁色も、徐々に彩度を増していく。
すっかり平静を取り戻したナデシコは、腕を組んで息をつく。
ナデシコは武人ではない。けれど父がネオンの判断にすべてを委ねたという事実で、きっと想像を超える破壊が行われるのだと悟った。本気で暴れようとしているネオンの隣には立てないけれど、見つめていることはできる。
「フレア。あたしの旦那様のことは任せたから。手ぇ抜いたら王冠だけ呪うわ」
「お前なら本当にできそうだからその脅しはやめろ、まったく。……今回ばかりは俺もネオンに従う。これは俺の戦でもあるからな」
「そ。──ネオン」
ナデシコが呼びかければ、ネオンの瞳がやってきた。
いつもの温和さと同時に漂わせているのは、天導教という獲物へ向ける本能からの殺気。その姿にこれまでの歪さはなく、実力と心が一致している。今のネオンなら、見ているだけで安心できる。だから安心して見送れる。
「イウリィとアンナリーゼさんのこと、絶対に連れ帰りなさいよ」
「……うん。ナデシコ、私は壊すだけだから、姉上のやりたいこととか難しいことは任せた」
「はいはい。あたしにできることならね」
ナデシコは手をひらひらと振りながら、ネオンとフレアが根っこの部分で似た者同士なのだと確信する。自分にできる範疇で全力を振るって解決しようとして、できないことは丸投げする姿勢は完全に同類の思考だ。
ネオンはナデシコの言い草に表情を綻ばせる。そのまま立ち上がり、フレアの翼を手に取った。
「──やろうか、フレア。敵は私たちで仕留めよう」
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