第2話

 一年後。


「最近、エキエナの風と政府軍の戦いが激化して首都が業火に包まれているそうだ」


【エキエナの風】政府軍と戦う一般国民軍を皆はこう呼んでいる。エキエナとはアカン語で『今日』という意味。彼らは東から昇る太陽に今日という風を吹かせ国を変えるために戦っている。


 農園主の言葉に、妻は嘆息した。


「たくさんの死者が出てるって聞いたよ。前線で戦うのは少年兵ばかりだってさ。勝って欲しいけど大丈夫かねぇ〜」

「さあ、分からない。だが、エキエナの風が勝てば国は必ず変わる。ウチのような弱小農園のカカオの値段だって、きっと上げてくれるはずだ」

「そうだね。そうなれば子供達にカヤを買ってあげられるし、医者に連れて行ってあげることもできるね」


 そんな農園主夫妻の会話を聞きながら、カッサは無心でカカオの実にハンマーを振り下ろす。外殻を割り、中のカカオ豆と果肉を取り出すためだ。取り出したカカオ豆と果肉は何枚にも敷かれたバナナの葉の上で発酵させる。


 隣で作業しているフリルが呟いた。


「兄ちゃん、大丈夫かな」

「大丈夫だよ。ジブリルは強いもん」


 この一年、ジブリルからの手紙はない。安否を知りたいカッサだったが、彼女に知る手立ては何もなかった。


 農園から去る前、ジブリルは学校で習った全てをノートに書き記してくれた。カッサはフリルと一緒に、そのノートを見て必死に学んできたのである。


 ジブリルが農園に姿を見せたのは、それから二ヶ月ほど後のこと。


「兄ちゃん!」


 駆け寄りジブリルに飛びつくフリル。勿論、カッサだって嬉しいし、飛びつきたい。だが、彼女は頬を赤らめモジモジしていた。暫く見ない間に、ジブリルがすっかり逞しい美少年になっていたからだ。


 ジブリルは背負ったリュックを土に降ろすと、中から服を取り出した。


「カッサ、これ着てみて」

「なに、これ?」

「ワンピース、途中の村で買ってきた。カッサに似合うと思って」


 そのワンピースは青地に黄色いマリーゴールドが華やかに咲き誇るワンピースだった。さっそく着替えるカッサ。


「うん、ピッタリだね。可愛いよ」


 ジブリルの言葉に心臓が爆発しそうにドキドキしてしまう。彼は他にもお土産をくれた。長方形で見たこともない食べ物だ。


「包みを開いて食べてみて」

「うん」


 包みを開くとコゲ茶色の物体が出てきた。


「ポキッて折って口に入れてみて」


 ジブリルの言葉に従い、恐る恐る欠片を口に頬張ってみる。するとカッサの口内にトロけるような甘さが広がった。


「甘い!」

先に叫んだのはフリルである。ジブリルは食べ物の名前を【チョコレート】と言った。


「さて、この甘いチョコレートは何でできているでしょうか?」


首を傾げるカッサ。

「んー、分かんない」


ニッと笑うジブリル。


「カカオだよ」

「えっ、カカオって、この農園の?」

「そうだよ。この農園に限らずカカオはチョコレートになるんだよ」

「うわわっ!すごーい!」


 椅子から立ち上がるフリル。ジブリルはリュックから大量のチョコレートを取り出し、他の子供達にも配るよう指示する。


「うん!分かった!」


 フリルが駆けて行くと、ジブリルはカッサを見つめた。


「女の子って一年で変わるね」

「ジッ、ジブリルだって変わったよ」

「えっ?どこが?」

「わっ、分かんないよ」


 恥ずかしくなり下を向いてしまうカッサにジブリルは言った。


「カッサ、この戦争は僕らが勝つよ」


彼女は顔を上げる。

「本当?」


「うん、本当。だから、僕はこれから前線に戻らなきゃいけない」

「えっ、また行っちゃうの?」

「うん、勝つまで戦わなきゃいけないからね」

「また、帰ってくる?」

「カッサは僕に帰ってきて欲しい?」


「あっ、えっと」

顔を真っ赤にして、また下を向くカッサ。

「チョコレート食べたいから帰ってきて」


「あはは」

ジブリルは笑ってからカッサに横目を流す。

「後、何回チョコレートを食べたい?」


 こんな美味しいチョコレートなら毎日食べたい。でも、そんなことを言ったら彼を困らせてしまう。カッサは小さく口を開いた。


「後、一回食べたい」

「分かったよ。じゃあ今度はリヤカーにチョコレートをたくさん積んで帰ってくるから」

「うん!」


 瞳を合わせてコツンッと額を合わせる二人。


「ねぇ、カッサ」

「ん?」

「僕が大人になったら一緒に暮らしてくれる?」

「えっ?」

「僕はカッサと家族になりたい」

「家族……」


 額を離すと、ジブリルはこめかみを掻きながらこう言った。


「つまり、僕の嫁になれってこと」


 嫁って言葉は、カッサには良く分からない。だけど、彼女は「うん!」と頷いた。ジブリルと家族になれるなんて、それ以上に幸せなことはないと思えたからだ。


 この日より、カッサはジブリルと一緒に暮らす未来を夢に描きながら働くようになる。


 内戦が集結したのは、それから二年後のことだった。勝者はエキエナの風、国民が政府に勝ったのだ。


 これにより国は大きく変わった。外国との交流が盛んになり、カッサ達の住む村に井戸が掘られた。初めて見る濁っていない透明な水。カッサは井戸水で顔を洗ってから飲んでみた。チョコレートほどではないが、綺麗な水は川の水のように辛くない甘い味がすると思った。


 またカカオの価格を適正にさせたことで、小さな農園にも収益が潤うようになった。政府は農園で働く子供達を学校に通わせるよう指導。午前八時から午後三時まで、カッサ達は学校に通えるようになったのだ。寝る場所にもカヤがつるされ、病気になると医師に診て貰える環境も整った。


 ただ、環境の快晴とは逆にカッサの心は酷く沈んでゆく一方だった。終戦から二年経ってもジブリルが帰らないからだ。


 ある日、そんな彼女に来客が訪れた。彼の名は、川上佳祐かわかみけいすけ。日本人で戦場カメラマンだと名乗る。佳祐は一枚の写真を草色ベストの内ポケットから取り出した。


 その写真にはライフル銃を片手に白い歯を見せ笑っている少年兵が映っている。瞬間、カッサにはすぐに分かった。


「ジブリル」

思わず声が漏れてしまう。


「そうです。わたしは戦場でジブリルさんと知り合いました」


カッサは写真から佳祐に視線を上げる。

「ジブリルは?今どこにいますか?無事なんですか?」


写真に顔を落とす佳祐。


「ジブリルさんは政府軍の銃に撃たれ、首都の病院で亡くなりました」

「そんな……」


 写真が手から滑り落ちる。爪先が冷たく浮いたように感じた。


「嘘です!」

首を一回だけ振る。佳祐はしゃがんで土に落ちた写真を拾い上げると睫毛を伏せる。


「残念ですが、嘘ではありません」

「嘘です!嘘です!」


 首を二回振るカッサ。その直後、狂ったように左右に顔を振り続けた。


「嘘だ!嘘だ!嘘だ!嘘だ!」

「カッサさん」

「嘘だああああーっ!!!」


 ジブリルは、農園で一番、木のぼりが上手だった。農園で一番、頭が良くて絵が上手だった。そして、国で一番、優しい人。そんな彼が死んだ?そんなこと信じられない!


「うわあああああーーっ!!!」


 滝のごとく流れる涙をそのままに、絶叫し土に膝をつくカッサ。佳祐も膝を落とし彼女を抱きしめた。カッサが落ち着くのを待って、佳祐はジブリルを語った。


「彼は、死の恐怖といつも戦っていました。内戦は強制ではない。だから、わたしは彼に言いました。『逃げるのは卑怯ではないよ』と。でも、彼は首を横に振ってこう言いました」


『守りたい人がいるんです』

『家族?』

『それは勿論。でも、もう一人、明るい未来を生きて欲しい女の子がいます』

『女の子?恋人?』

『嫁です。マリーゴールドみたいな娘で僕の帰りを待っている』

『そっか』

『僕はこの戦争に勝って、未来とチョコレートをその娘に届けなければいけない』

『チョコレート?』

『はい。毎日カカオ農園で働いているカッサに僕は約束しました。後一回チョコレートを届けると』


 カッサと佳祐の間に、生温い風が淀む。


佳祐は瞳を泳がせた。

「その後、間もなくです。彼が敵兵に撃たれて病院に運ばれたと聞いたのは。わたしが駆けつけた時、彼はベッドの上で、まだ意識がありました。彼はわたしの目を見てこう言った」


『佳祐さん。……僕はもうダメみたい……。お願いがあります。カッサに……彼女に……最後のチョコレートを届けてくれませんか?』

『しっ、しかし、わたしは彼女を知らない』

『僕のリュックに、彼女の似顔絵……あります』


「君の手掛かりはカカオ農園とカッサという名前。それと似顔絵だけだった。ここに辿り着くまで長い時がかかってしまったよ。でも、さっきひと目見て分かった。君はマリーゴールドみたいだ。この似顔絵にそっくりだよ」

佳祐は瞳に涙を溜めて語る。

「最期、彼は涙を流しこう言った」


『一回なんて……嫌だな。笑顔……見れるなら……何回……でも……届けたい』


「ジブリル……」


カッサの頼りなく呟く声に、赤土が舞い上がり、雨の匂いがした。もうすぐ雨季がくる。空にも心にも。


 佳祐から手渡されたチョコレート。彼女は食べず、胸に抱いて泣き続けた。


 一か月後、カッサはしつこい涙を拭いジブリルの画用紙張の破れた場所に佳祐から手渡された自身の似顔絵を挟んだ。


 そして彼の写真をテーブルに置くと、新しい画用紙にクレヨンを走らせた。黒いちぢれ髪。コゲ茶色の肌。


『後、一回、似顔絵を描くと、このクレヨンは終わりだな』


 そう言って溜め息を吐いたジブリルのブラウンの瞳を思い出す。その言葉の通り、コゲ茶のクレヨンは彼の肌色を染めて跡形もなく消えた。


 ジブリルは命を賭けて、甘い水と貧困労働に泣く子供達に未来という名の道を作った。カッサもその子供達の一人である。


 彼が彼女に与えた光。それは水と教育だけではない。


 カッサ、二十二歳。彼女は奨学金制度で大学を卒業後、教師になり、その先に政治家という夢を抱いている。それは……。


 分厚い本を抱え、図書館から出ると、夕暮れがカッサの瞳の奥で滲んだ。また、思い出す。あの白い歯を見せて無邪気に笑う少年を。


 そう、もうとっくに彼女は気づいている。ジブリルと自分の間にずっとあった心。カッサは彼に恋していた。彼もカッサに恋をしていた。二人にあったのは、紛れもない愛だ。


 ジブリルを思い出すたび、カッサは齧りたくなるモノがある。あの日のチョコレート。でも彼のチョコレートは引き出しって名前の胸の奥。だから別のチョコレートを取り出した。チョコレートは甘い。でも、ジブリルを亡くした日から、彼女の頬張るチョコレートは甘くない。


 後、一回のチョコレートは、なぜかいつもしょっぱい味がした。


 傷跡は方位を示す羅針盤。深い悲しみは強さに変わる。幼かった愛は翼になり、いつか高く舞い上がるだろう。


「この国の貧困を、根底からなくしてみせる」


 貧しさに泣かない。あの無邪気な子供達の笑顔を守りたい。


「ジブリルように、わたしも戦う」


 エキエナからマリーゴールドに吹く風が力強く背中を押す。『進め、前へ前へ』その声は酷く優しい。


 遠い未来を見据え、カッサは拳を固く握り締めるのだった。



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エキエナの風はマリーゴールドに吹く あおい @erimokomoko

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