エキエナの風はマリーゴールドに吹く

あおい

第1話

 カッサ、六歳。彼女の手には既に無数の傷跡があった。西アフリカの小さな村で生まれ育った彼女は、学校に通うことなく、毎日カカオ農園で働いている。朝早くから夕方遅くまで、重いカカオの実を収穫し、砕き、発酵させる作業を繰り返していた。


「カッサ早く!今日はたくさん収穫しないといけないんだ!」

農園主の厳しい声が響く。


 カッサに父親はいない。母の話によると内戦と呼ばれる戦争で亡くなったらしい。以来、病気がちな母を助けるためカッサは農園で働くようになった。


 彼女は疲れた体に鞭を打ち、重い籠を背負って畑を歩く。足元は泥だらけで、靴もボロボロ。


 そんなカッサがいつも足を止めてしまう場所がある。それは兄と慕うジブリルが登っている木の下だ。


 ジブリルは十一歳。彼の身のこなしは熟練の大人さながらに器用で、次々とカカオの実を捻って落としてゆく。


 ジブリルは十メートルもあるカカオの木に猿より上手に登る。足は木の幹にしっかりと踏ん張り、手はしなやかな動きで枝を掴む。カッサは、そんなジブリルに憧れていた。


「カッサ、下にいたら危ないよ」

ジブリルの声。


 いけない、また見とれてしまった。カッサは慌てて仕事に戻った。


 このカカオ農園では、カッサとジブリルを含め、アカン族、十二人の子供達が朝から晩まで働いている。みんな貧困家庭の子供達。家計を助けるため労働に従事していた。子供達の中でカッサは最年少。女の子ということもあってかジブリルはカッサをとても可愛がっていた。


 夕方六時、仕事が終わると待ちに待った夕食時間が訪れる。輪になり、しゃがんで待つ子供達の前に銀色の深皿と平たい大皿が置かれた。今日は魚とクズ野菜のスープにパクブレと呼ばれる茹でたトウモロコシを潰した主食だ。


 柔らかいパンのようなパクブレを手でちぎりスープにつけて食べる。みんな腹が減っているのでパクブレはあっという間に終わってしまう。やっとふた口ほど食べれて人差し指と親指にくっついたカスを舐めとっているカッサに「いつも遅いなぁ〜」ジブリルはそう言って自分のパクブレを分けてくれるのだ。


「カッサ、昨日のたし算覚えてる?」

「うん」

「2+2は?」

「んーっ、2」

「あはっ、全然ダメ。夕食を食べ終えたら勉強する?」

「うん、勉強する」


 ジブリルはカッサと同じ去年から農園で働くようになった少年。事情もカッサと同じ、内戦で父親を亡くし母と弟達を養うため農園にきたのだ。カッサと違うのは、去年まで彼が学校に通っていたということ。


 ジブリルはノートと画用紙を持っていて、十二色のクレヨンで勉強を教えてくれたり、絵を描いてくれる。太陽が沈むまでの僅かな時だが、その時間こそがカッサの日々の楽しみであった。


 勉強が終わり太陽の位置を確認すると、ジブリルは画用紙帳を取り出した。


「今日はカッサの似顔絵を描いてあげるよ」

「うわあーっ、嬉しい!」

「ほらほら、動かないでじっとしてて」


 ジブリルは頭も良くて絵も上手い。クレヨンで描いた画用紙の中のカッサはダボッとした大人のTシャツを着て、ちぢれた黒髪の痩せっぽっちだった。


「襟首のとこ、伸びて切れちゃってるね」

カッサの首元に手を伸ばすジブリル。

「明日、叔父さん(農園主)の奥さんにお願いしてワンピースを貰おう」


「ワンピース?」

「うん、叔父さんの娘が学校に行く時に着てるだろ?きっと古くなったのがあると思うんだ」


 農園主の娘は八歳。家業も手伝っているが、朝の八時から十五時まで学校に通っている。本来なら、カッサも学校に入学できたはず。


「学校かぁ」

体育座りで膝を抱えるカッサ。

「学校は楽しい?」


ジブリルは丸太の椅子から下に尻を落とした。

「うん、楽しいよ。机があって椅子があって大きな黒板もある」


「黒板?」

「そうだよ。その黒板に先生がチョークで色々書いて勉強を教えてくれるんだ」

「ふーん、楽しそう」

「カッサも学校に行きたい?」

「仕事があるから無理。わたしが働かないとお母さんが死んじゃうもん」

「そう……だよね」


 長い睫毛を伏せるジブリル。その時、子供達が一斉に集まってきてジブリルを囲んだ。


「あーっ、カッサの似顔絵だ。ズルい、わたしも描いて!」

「僕も僕も!」

「分かったよ。みんな順番に並んで」


 ジブリルは一人ひとりの似顔絵を画用紙に描いてゆく。一番多く使うクレヨンの色は黒とコゲ茶。みんな黒い髪とコゲ茶の肌色だからだ。子供達、全員の似顔絵を描き終わると、ジブリルはコゲ茶のクレヨンを見て溜め息を吐いた。

「こんなに小さくなっちゃった。後、一回、似顔絵を描くと、このクレヨンは終わりだな」


 夜、農園主家族は母屋と呼ばれる家の中、マラリア蚊に刺されないようカヤの中に布団を敷いて眠る。


 中庭を挟み、その母屋の正面に建てられた隙間だらけの古屋。ここが十二人の子供達の眠る部屋だ。


 床に布団を横長に三枚敷いて、三枚のタオルケットを共有し十二人でピッタリ寄り添い眠る。小さい子供は布団、ジブリルや同じ年代の子は、はみ出してしまうので床で寝ていた。子供達にカヤはない。蚊に刺されマラリアを発症しても、農園主は医者に診せてはくれない。そのため、死んでしまう子供も多いのだ。一人いなくなると、すぐにまた新しい子供がやってくる。カカオ農園は、どこもみな同じ扱いだった。


 別に農園主が意地悪なのではない。


 カカオの価格は国際市場の需要と供給によって異なるが、比較的安値で取り引きされている。特に西アフリカの小規模農家は低価格に苦しんでいた。生産者の手元に残る収益は少ない。そんな生産者に医療費が払えるはずもなく、死亡させて新しい子供を雇う一択。それしか道がないのだ。子供は低賃金で使える。それが今の現状だった。


 早朝、日の出と共に子供達の労働は下の川への水汲みから始まる。それぞれに大きなバケツに水を汲み、頭にドンノと呼ばれる布を乗せ、その上にバケツを乗せて運ぶ。こうすることで重量のあるバケツを安定させ、頭と首への負担を軽減できるのだ。


 農園から川までは往復四十分。帰りは坂道をひたすら登る。カッサは小さいので頭にバケツを乗せることはできず、皆より小さなバケツを二つ持って坂道を歩く。これが一番辛い作業だった。


「ハアハア」


息を切らしていると、カッサの手からバケツが一つさらわれる。ジブリルだ。彼は白い歯を見せて彼女に微笑んだ。


「後もう少しだよ。頑張ろうな」


 夜、彼は農園主の妻に娘の古くなったワンピースをカッサにあげて欲しいと頼んだが、妻は眉を潜めて即答した。「古くなった洋服は従兄弟の娘にあげるから無理だよ」と。落ち込むカッサの肩に手を置きジブリルはこう約束した。


「もう少し待ってて、僕がカッサに似合うワンピースを買ってあげるから」

「本当?」

「うん、約束」


 ジブリルは、カッサにとって過酷という名の暗闇に差す一筋の光である。


 ある日、農園主に買い物を頼まれ、ジブリルとカッサは町に行くことになった。町までは片道一時間かかる。だが、カッサにとって、ジブリルと会話しながら歩く道のりは楽しかった。


 買い物を済ませたジブリルは「ちょっとだけ寄り道しよう」とカッサを誘う。後に着いて行くと、彼は大きな草ぶき屋根の建物の前で止まった。指を差す。


「カッサ見てごらん。これが学校だよ」

「うわあーっ、おっきいなぁ〜」


 生まれて初めて学校を見たカッサは両目を見張って興奮した。遠くからだが、教室には生徒が椅子に座っている姿が見える。


「カッサ、学校に行きたい?」

「うん!……でも仕事が」

「僕が仕事の時間を減らしてカッサを学校に通わせてあげる」

「そんなこと叔父さんが許さない」

「許すようにさせればいいんだよ」

「どうやって?」

「政治を変えるんだよ」

「政治?」

「うん。今の国の偉い人は悪い人ばかり。それと戦う人達がいるんだ」

「悪い人?戦う?」

「カッサはまだ小さいから分からないよね」


 ジブリルは腰を曲げ、カッサと目線を合わせる。


「良く聞いて。僕は農園を辞めて戦争に行く」

「戦争」


 カッサの胸に母の言葉が飛来した。『お父さんは戦争で死んだのよ』

首を激しく振るカッサ。


「ダメ!戦争行ったらダメ!ジブリルが死んじゃう!」

「大丈夫だよ、僕は死なない。必ずカッサの元に帰ってくる」

「うっ、嘘だよ!」

「嘘じゃない。本当だよ」


 大泣きするカッサをジブリルは抱きしめた。


「カッサ、僕は君を学校に行かせたいし綺麗な水を飲んで欲しいんだ」

「綺麗な水?」

「そう、僕らの飲む川の水は濁っているだろ?それは身体に良くないって同胞が言ってた」

「同胞?」

「うん、一緒に悪い政治家と戦う仲間達だよ。大勢いるんだ。僕は彼らと一緒に戦う」


 次の日、ジブリルと入れ替えに、彼の二歳下の弟が農園に働きにやってきた。名前はフリル。ジブリルは弟にカッサのことを頼むと農園から去って行く。


「必ず、帰ってきて」


 カッサはジブリルからプレゼントされたノートと画用紙帳、そして十二色のクレヨンを胸にギュッと抱きしめた。






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