年末の変態
来栖もよもよ
年末の変態
「……ふう」
ベランダに出て冬の冷たい風を感じながらの一服は、いつにも増して心地良かった。
白い煙が風に流されるのを眺めていると、よーし今日も働いたぞー、という気になる。
(ま、女がやるのはちょっとアレだけど、部屋では吸わないので、すみません)
誰に向かってか分からない許しを求めて煙草の吸殻を灰皿に押しつけると、私は室内に戻って窓を閉めた。
時計を見ると、もう深夜一時近かった。
「思ったより時間がかかったなあ」
起動したままだったソフトのデータを改めて保存すると、出来た依頼をファイルで添付して担当の編集さんにメールした。これで年内の仕事は終わりっと。
下では祖母が寝ているので静かに階段を降りて、温かいミルクティーを入れてまた二階に上がる。
私は売れてるわけでもないが、全然仕事が来ないわけでもない、いわゆる中堅どころのイラストレーターである。
七年前に小さな賞を取ってからボチボチと仕事が入るようになり、小説の表紙や挿絵、イベントキャラの作成など、声を掛けていただいたものはなるべく受けるようにしている。
四年前まで会社勤めもしていたが、それなりに絵の方で安定した仕事が入って来るようになったことと、諸事情で今は専業だ。
普通の会社員と同じぐらいは稼げているが不安定なのは間違いなく、それでも専業に踏み切ったのは、同じ職場の恋人と別れたのがきっかけだった。
原因は浮気。しかも相手は可愛がっていた後輩である。
一度偶然会った居酒屋で一緒に飲んだだけなのに、いつの間にか連絡先を交換していたらしい。
手が早いというか何というか。
まあ気づかない私もとことん見る目のないアホだったと言うことだ。
三年付き合っていた彼のことも信頼していただけに、彼女の謝罪で事実が明らかになった時は精神的に来るものがあり、心のどこかが壊れたような気がした。
「若い子に対するちょっとした気の迷い。結婚するならお前しかいない」
と再構築を望む彼と、
「先輩の彼と分かっていたのに、何故か好きになってしまった。どうか別れて欲しい」
という後輩。
どっちも素晴らしく自分勝手だが、本気ならまだしも彼女の気持ちを利用して、据え膳食わぬはの感覚で職場の女性と体の関係を持った彼の方が圧倒的に不快だった。
別れを切り出した後も相当に粘られたが、私が彼を見る目が冷え切っていることに気づいたのだろう。最後には、
「もう若くないんだから後で後悔するなよ」
という捨て台詞を吐き、ようやく縁が切れた。
その後輩とも付き合わず、職場の別の女性に手を出したという最低男のテンプレのようなことをして、後輩が自殺未遂したため彼が解雇になるかもしれないような大ごとになったと聞いた。
仲の良かった同僚は事情を知って私よりも憤慨していたので、ざまあみろと言う気持ちがあって私に教えてくれたのだろう。
ただもう彼のことは思い出したくもないし、解雇になろうがどうでもいい。
後輩の子もあんまりだとは思ったが、死に急ぐほど不幸になれとまでは思っていなかった。
一番悪いのは手を出した彼だし、それまでの彼女は仕事熱心で真面目ないい子だったのだ。
彼に偶然出会ったことで不幸になったのなら、巡り合わせた私にも多少の責任はある。
もう会うこともないだろうが、彼女が幸せになれる方向へ進んでくれればと願う。
私の反応が思ったものじゃなかったことで察したのか、すっと情報を引っ込め、
「まあ因果応報ってあるのかなって。それじゃまた時間が出来たら食事しましょ!」
と終わらせ、その後一切その後の話をしなかった同僚に心の中で感謝した。
中学生の頃、両親が高速の事故に巻き込まれ亡くなってから、私はずっと祖母と二人で埼玉の古い一軒家で暮らしている。
小さいが庭もあり、意外と甘い柿が収穫出来る木があったりする居心地のいい家だ。
最寄り駅まで二十分程度とあまり最寄ってはいない地域だが、そこそこ人は住んでいるし、歩いて五分で大きなスーパーもあり、数分歩けばバスの停留所もある。
駅に近い病院に通っている祖母はシルバーパスで無料で乗れるので、不便はないようだ。
この年齢でも電動自転車を乗りこなし、軽快に買い物にも行っているし家庭菜園もしているせいか、足腰の衰えや健康的な不安もさほど感じない。
だが祖父は私が生まれる前に亡くなっているし、祖母もまだまだ元気だが七十を越えている。
私も三十一歳になって独身だ。恋人もいない。気になる相手もいない。
あの経験から今は子供どころか結婚すらどうでもいいと感じている。
この桜庭家もやっぱり私の代で尽きるのかもなあ、家族薄命だしなあ、などとミルクティーを飲みながらふと考えてしまった。
別に歴史ある家でも何でもないので尽きたって構わないのだが、祖母がたまに、
「みちる、ばあちゃんは妖怪みたいに百年も二百年も生きてらんないんだから、あんたも家族になれるような相手を早く見つけなさいよ。孫とかはどうでもいいから」
と言うようになった。私が三十歳になった頃からだ。
祖母は祖母なりに自分が死んだ後のことを気にしているのだと思うが、いつか家族になれればと思っていた相手から裏切られた私には、同じことを繰り返す気がして新たな出会いを求める気持ちになれなかった。
だって、自分の見る目に信用がおけないんだもの。
「……でもおばあちゃんに気を遣わせるのは良くないな。家にばかり引きこもってないでたまには外に出てみるか」
仕事が片付いたのに、モヤモヤした考えごとのせいでスッキリしない気分になってしまった。
今日は思いっきり寝坊するかと愛用のどてらを脱いでパジャマに着替えようとしたところで、表からエンジン音が近づいて来る音がした。
窓を開けてるのか大音量の音楽が洩れており迷惑この上ない。
そして何人かの若者の話し声に続き、バカ笑いが聞こえたと思ったらバンッとドアを閉めるような音がして、急な発進音で音楽が遠ざかって行った。
(夜中に大きな音させてまったく。おばあちゃんが起きちゃうじゃないの)
この辺でもたまに爆音を響かせて夜中でも気にせず車を走らせてる人たちがいるが、どうせ民家が多くてスピードも出せないんだから広い道で騒げばいいのに。
何だか今夜は気分が盛り下がることばかりだ。
さっさと寝ようと着替えを再開させようとすると、庭の方から小さな声が聞こえたような気がした。
「ん?」
猫の鳴き声かな? と思っていると少しして、
「……た、助けて、くだ、ください」
と明らかに男の声がする。
ぎょっとして何事だと細く開いたカーテンから下の庭を見ると、柿の木の下あたりに素っ裸のような男がうずくまっていた。年代は暗くてよく分からないが声からすると年寄りではない感じだ。
変態かと一瞬思ったが、まあ変態は助けを求めないだろうし、あんなにあからさまに変態では変態行為がしにくいだろう。
さっきの爆音車のことも気になった。
このまま眠りたい気持ちはやまやまだが、こんな寒空で放置したまま、朝起きたら柿の木の下で全裸の男が死んでいたなんて寝覚めが悪すぎる。我が家を事故物件にされてはたまらない。
今夜はツキがない日なんだと思うことにしよう。
たまにあるよねそんな日も。
私はため息を吐くと改めてどてらを羽織る。
少し考えて机の引き出しからカッターを取り出しジャージのポケットに入れると、静かに階段を降りて行った。
素っ裸、いや正確にはボクサーブリーフと靴下だけは履いていた男は、よく見ればあちこちにケガをしていた。
二十代半ばぐらいだろうか。頬の腫れと切れた唇がなければ、まあまあ整った顔立ちの男ではないかと思う。
私が小さく声を掛けた際にも、彼は返事をしようとしていたが歯がガチガチとなってまともに喋れなかった。こんな真冬にパンツ一枚と靴下ではそりゃ寒いだろう。
夜中の不審者には間違いないが、裕福でもなさそうな古い一戸建てに入り込む強盗とも思えない。
パンツの中に武器を持っていたらそれはそれで感心するが、ケガも偽装には見えなかった。
念のため周囲の人の気配を確認するが、誰かが潜んでいる様子もなさそうだ。
「……とりあえず家族が寝てるの。詳しい話は後で聞くとして、そのままじゃ寒いだろうから家に入って。お風呂に入っている間に何か着るものを用意するから」
「い、い、いいんですか」
「助けを呼んどいていいんですかもないでしょ。うちだって他人が裸で庭にいるよりマシよ。ほら、さっさと入って。静かにね」
「すみ、すみません」
カチカチと歯を鳴らしながらも何とかそれだけ答えると、男は私の後についてきた。
キッチンのテーブルに座らせると、風呂を沸かし直す。私が入ってから二時間も経ってないし、すぐ温まるだろう。
急いで両親の部屋の押し入れから使ってない毛布を取り出し、男に渡した。
「今着替えると汚れちゃうからとりあえずそれ巻いてて。温かい飲み物でも用意するから」
「お気遣い、ありがとうございます」
毛布を巻き付けたことでようやく人心地ついたのだろう。
体の震えも少し収まったようだ。
丁寧な言葉が使える子だと思ったが、出したほうじ茶も両手で受け取って飲む所作も上品だ。
育ちのいい子という印象で、私の変態押し込み強盗疑惑は薄まったが、私の見る目は信用出来ないので、警戒心は捨てなかった。
お茶を飲んでもらっている間に父の部屋着だったスウェットの上下をタンスから出し、救急セットを準備しているうちにピロローン、と風呂場の方から音がした。
「お風呂沸いたから先に汚れ落として温まって。話はそれから聞くから」
「はい。すみません」
男はスウェットとタオルを渡され、おずおずとした感じで毛布を巻いたまま案内された風呂場に向かった。
時計を見るともう二時だ。普段ならとっくに眠っている。
(こんな時間に何をしてるんだろう私は)
少し笑いたいような気持ちになったが、悪人にも見えないし、年下に見える彼の悲惨な姿があまりに可哀想に思えてしまったのだ。
ケンカに巻き込まれたとかカツアゲにでも遭った感じだ。
んー、カツアゲって今言うのかしらね。単に強盗でいいのかな。それなら警察かな。いやもしケガの具合がひどければ救急車を呼ぶ?
ポットに水を足して再沸騰ボタンを押しつつそんな考えに耽っていると、居間の奥の襖がスッと開いた。
「──みちる」
「あ、ごめんおばあちゃん、起こしちゃったね」
祖母が手を振った。
「年寄りなんて夜中にトイレで一度は起きるもんさ。……ところで何があったんだい?」
私はかいつまんで彼を発見した際の様子を伝えた。
「軽率に家に入れてしまってごめんなさい。でも流石にこの寒さでパンツ一枚の子を外にほったらかしに出来なくて」
「いや、私が見つけても同じようにするよ。それにしても強盗かねえ。物騒だね東京でもないのに」
「本当よね」
「しかし冷えるね。ちょっとトイレ行って来るわ」
祖母はどてらを掻き合わせると廊下に出て行った。
祖母のどてらと私のどてら。
茶系と紺系の違いはあるが、どちらも同じ久留米織で祖母のお手製である。もう五年以上は愛用しているが、お洒落女子はこんなものを着ないんだろうなあ。あったかいんだけど。
色気も何もあったものじゃないが、冷え性の私には必須である。
我が家はそこそこすきま風が入る古い木造なので、特にこの季節には欠かせないのよね。
少しして戻って来た祖母は台所に立ち、
「少しお腹に何か入れた方がいいだろうね」
と雑炊を作り始めた。カツオブシの出汁の香りが私の鼻をくすぐる。
たっぷりの長ネギと卵を入れただけのシンプルな雑炊は私のお気に入りだ。
「おばあちゃん、私も食べるから少し多めにお願い」
「はいよ」
祖母がいることで安心感が増したのか、私の緊張も少しほぐれたらしい。
ポケットのカッターがあるのを改めて確認し、私は椅子に座った。
雑炊が出来上がる頃になって、ちょうど風呂から上がった男がスウェット姿で台所に戻って来た。
腫れ上がった顔はそのままだが、顔色も戻ってさっきよりも元気に見えた。
祖母の顏を見て少し驚いたような顏をしたが、すぐに深々と頭を下げた。
「お騒がせしてすみません。この度は真夜中にも関わらず──」
「まあいいから。腹が減っては何とやらって言うだろ。まずは腹ごしらえだよ」
「いえっ、そこまでしてもらうわけには」
慌てた男が断ろうとしたタイミングでキュウウ、と小さくお腹の鳴る音がして少し笑ってしまった。
恥ずかしそうにうつむく男に、
「そう言わずに。私も食べるから一緒に付き合って」
と明るく声を掛けた。
祖母の淹れてくれたお茶を飲みながら男の話を聞くと、やはり酔っ払い集団に絡まれて、文字通り『身ぐるみ』剥がされたのだそうだ。
食後、傷のチェックをしたが、骨には異常はなさそうだし、縫わなければならないような切り傷はなさそうでホッとした。
お風呂にも入れるぐらいだし、一応消毒してばんそうこうを貼ったり、服で擦れて痛まないように包帯は巻いたが、素人判断だから必ず病院に行って診断書はもらうよう勧めた。
被害届を出すにしても、そういう情報ものちのち重要だと聞いた覚えがある。
コンビニでしつこく男に絡まれていた女の子二人組を助けようとしたら、ぞろぞろと車から仲間が降りて来て車に乗せられ、人気のないところで四人から殴る蹴るの暴行に遭ったらしい。
「何とまあ、えらい災難だったねえ。人数が多いと気も大きくなるって言うしねえ」
祖母が不快そうに眉をひそめた。
彼──日向(ひなた)宗太郎(そうたろう)というらしい──は、格好つけるつもりは毛頭なかったらしい。
「お恥ずかしい話、亡くなった父がモラハラというかDV気質だったもので、私の母がひどい目に遭っていたのです。私はまだ子供で守りたくても父に殴り飛ばされて敵わなかったので……」
マザコンと言われても仕方がないが、女性に暴言や暴力振るったり、嫌がっているのにしつこく付きまとっているような男を見ると無意識に助けたい気持ちになるのだと言う。
「昔、母を助けられなかったことの贖罪というか……多少は体も鍛えてるんですが、一人二人ならまだしも、四人は厳しかったですねえ」
アハハハ、軽率でしたと恥ずかしそうに笑う日向に私は少し呆れた。
「……自分が大ケガして丸裸にされたのに、あなた呑気よねえ」
「これみちる! 失礼なことを言うんじゃないよ!」
祖母に叱られてしまったが、日向はですねえと笑みを浮かべたまま答えた。
「でも女性は助けられましたし、こうやって私も親切な方に助けていただきましたから、まあ結果的に丸く収まったのではないかと」
丸く収まった、じゃないわよ。一方的にケガして服まで奪われて彼は損してばかりじゃないか。
そこで私はハッと気づいた。
「日向さん、あなた財布とかも取られたのよね? スマホとかも?」
「え、ええまあお会いした時の通り、下着と靴下以外は……」
「カードとかスマホはすぐに止めないとダメじゃない! お茶飲んでくつろいでる場合じゃないわ」
「でも、真夜中ですし──」
「盗難関係は悪用されると大変だから二十四時間受付よ。ほらネットで連絡先調べるから財布に入っていたカード書き出して! キャリアはどこ?」
メモとボールペンを渡して急いで書き出してもらう。
世間知らずというか世話の焼ける弟のような感じに思えて、初対面だと言うのについ以前の会社員モードになってしまっていた。
スマホやクレジットカードなど緊急性の高いものはすぐに連絡をさせて止めさせた。まだ不正利用はされてなかったのが幸いだ。
免許証や銀行のカードなど再発行手続きが必要なものは朝イチで動くよう伝えつつ、
「ああ、でも仕事してるのよね? 家に戻ったら会社に連絡して休めるようなら一日休みをもらった方がいいかもしれないわね。病院や警察にも行かないとだし」
「昨日が仕事納めだったので仕事は大丈夫です。ただ連絡も出来なかったので母さんに心配かけちゃってるだろうなとは思いますが」
私は時計を見た。もう四時になろうかというところだ。
流石にこの時間に連絡をするのは非常識だろう。
夜中の電話などかえって不安を煽らせる心配もある。
「お母さんには朝起きてから連絡すればええよ。あんたも少し眠んなさい。明日は、いや今日だね、色々動かないといけんのだから」
祖母がそう言うと、両親の部屋に布団を敷いてくれた。
日向も遠慮したところで動きようがないのは分かっているのだろう。
お礼を言って素直に布団に入ったようだ。
戻って来た祖母はあくびをした。私も目がショボショボだ。
「みちる、私たちも少し寝ようかね。乙女に寝不足は大敵だよ」
「乙女って年じゃないわよ二人とも」
「やだね、女は死ぬまで乙女なんだよ。心はね」
話をしてほぼ不安要素は消えたとは言え、万が一のこともある。
今日は祖母の部屋に布団を増やし、久しぶりに一階で一緒に眠ることにした。
「この度は息子が大変お世話になりまして、ご迷惑をお掛けして申し訳ございませんでした」
日向とその母親が揃って自宅にやって来たのは三日後のことだった。
もう明日は大晦日である。
本来ならすぐに伺うつもりだったが、日向が車のナンバーを覚えていたことで警察が犯人をすぐに捕まえてくれたようで、確認だの手続きに追われていたそうだ。
こちらは別に気にしてなかったし、早々に捕まったのなら何よりである。
五十代ぐらいの母親は細面の女優のような美人だったが、左足が不自由なようで少し足を引きずるように歩いていた。
居間へ案内した祖母にも、
「子供の命の恩人にここは正座でお礼をすべきところではございますが、身体的な事情で正座が出来ないことを先にお詫び致します」
と深々と頭を下げていた。
「そんな大げさな。うちはソファー置いてるし、正座するスペースなんてありませんて」
祖母が笑ってとっときの玉露を淹れて振る舞った。
無意識なのだろうが、祖母は自分が気に入った人にはいいお茶を選んでいると思う。
母親は物腰も柔らかで話し方にも品がある。
親子で全く似ていないタイプもいるが、明らかにいい意味でそっくりな印象だった。
「あの日が年内最後の平日だったから、銀行回るのも大変だったでしょう?」
ニコニコと機嫌良さそうに祖母と母親の話を聞いていた日向に私は尋ねた。
「でも教えていただいた通りに、対面対応している銀行をピックアップして近いところを回ったので思ったよりは楽でした。免許証もセンターに直接行ったら即日で発行してもらえましたし」
「そう。よかったわ」
健康保険証などは会社から出ているので、手配するのは年明け出社してからだそうだが概ね問題なさそうだとのこと。
彼の母親が私を見て申しわけなさそうな顔になった。
「本当にこの子はボケていると言いますか、仕事は出来るのに自分に関することはかなり大雑把なもので、介護が大変だったでしょう?」
私は飲んでいた玉露を喉に詰まらせた。
「ケホッ、いえ、介護というほどのものでは」
「それでも真夜中にパンツ一丁の男が女性ばかりのお宅に潜り込むなんて、変質者待ったなしですものね。二十七歳にもなって己の力量も見極められないなんて、我が息子ながら情けないったら」
「あたた、すみません」
通報されなかったことに感謝するのよ、と日向の背中をバシバシ叩く母親にぺこぺこする息子。
本人の言っていたマザコンとはだいぶ違うと思うが、親子の力関係を感じて面白かった。
祖母がまあまあと諫め、
「でも私は偉いもんだと思いますよ。可哀想だと思っても見てるしか出来ない人も多いから」
「そう言っていただけると居たたまれなさが少しだけ薄らぎますわ」
「ただ近頃はカッとすると刃物出して攻撃したり、集団でボコボコにされて亡くなったりって危ない事件も増えましたから、正しいと思う行動でも気をつけた方がいいとは思います」
いくらいい事でも褒められてまた同じことをして、今度も命があるとは限らないのだ。
日向には理性が働かない人もいると少し警戒心を持った方がいい。
母一人子一人なのだから、母親を泣かせる羽目になるのはダメだ。
私は両親が亡くなって泣き暮らした後はしばらく呆然自失で、本当に何も手につかない毎日が続いていたのだ。祖母は気丈だったが隠れて泣いていたのを知っている。あんなに暗く絶望的な気持ちは生まれて初めてだった。
どんなに卑怯だと思われてもいい。
私は命を落とすまで家族や友人に勇気を出せなどとは思わない。
それで誰かを助けられたとしても、本人が死んだらそれでおしまいなんだもの。
「はい、気をつけます」
全然気をつけなさそうな笑顔で私に頭を下げる日向に、やれやれと思いつつも、元気そうな姿にホッとした。
母親から気持ちだからと薄からぬ封筒を渡そうとするのを巧みに押し返した祖母は、彼らが帰ってから、いい人たちだったねえ、と呟いた。
「お母さんだってたしなめるしかなかっただろうけど、内心では嬉しかったんじゃないかねえ」
「母親の足に障害が残るほどのケガを負わせた父親が反面教師だったんだろうけどね。でも危ないと思うわ。今回も私が仕事で夜遅くまで起きてなければ気づかなかったかもしれないもの」
「まあそりゃそうだけどさ。でも親としては真っ直ぐ育ったことは誇らしいじゃないか」
私は台所で湯のみを洗いながら答える。
「私が子供を持つ母親だったとしたら、少しは嬉しいかも。でも先に逝かれるのは悲しいから」
「……そうだね。まあ散々お灸をすえられたんじゃないかねあの子も」
祖母も何となくしんみりしてしまい、私は慌てて話を切り替えた。
「あ! おせちの煮物の野菜、買い忘れたって言ってたじゃないおばあちゃん!」
「おっといけない。やっぱりお煮しめにはゴボウとタケノコがないとしまらないんだよ」
「明日はスーパーも早く閉まるだろうから、今日のうちに買い物行かないと。他に足りないものも忘れずメモしておいて。私も荷物持ちで一緒に行くから」
「あいよ。醤油とみりんも足りないかねえ、えーと、お餅はあるし……」
メモを取り出し、冷蔵庫の中をチェックし始めた祖母を見て、いつもの日常に戻ったと思っていた。
いや、本当に思っていたのだ。
まさか正月から日向親子がまた挨拶に来て、その後も定期的に交流があり、気づけば日向が一人で週末に来ては祖母と一緒に庭いじりしたり、ご飯を食べるようになると誰が思うのだ。
しかも、しかもだ。
四つも上の私と正式に付き合いたいと言い出す頭のおかしさだ。
「みちるさんは僕のヒーローなんです」
「私は女なんですけど」
「それでもヒロインじゃなくヒーローです。庭にいる俺に最初に『あんたはただの変態? それとも訳アリの変態?』と聞かれた時に、何か魂に響いたんですよね」
家に頻繁にやって来るうちに、いつの間にか「私」から「俺」になっていたが、それでも丁寧な口調は変わらない。しかし魂に響くポイントがおかしい。
「大体、初対面の私ってどてら姿にスウェットにどスッピンじゃないの。言いたくないけど日向くんもパンツと靴下よ? この出会いのどこにときめく要素があるの」
「いやまあ確かに自分はかなり情けない姿でしたけど、みちるさんが助けてくれなかったら庭の肥料になるところだったんですよ俺は」
「よしてよ縁起でもない」
のれんに腕押しというか、断っても諦めない。
「日向くんは会社の跡取りなんでしょう? こんな年上に構ってないで、同世代とか年下の女性選び放題でしょうよ」
あれから聞いたら、父親が始めた事業が上手く行き、父親が亡くなった後は母親がさらに大きくしたらしい。日向はそこで働いており、未来の社長である。
いい家の子じゃないかとは想像していたが、本当にお金持ちの息子だった。
そして爽やかなイケメンである。モテる要素しかない。
住む世界が違うとしか言いようがない。
だが、
「うちも十年ぐらい前まで貧乏でしたよ。何しろDVモラハラ父が浮気までやらかして、まともにお金入れてくれなかったですしね。俺も高校時代からバイトして、母も外で働いてましたよ」
と祖母の家庭菜園の小松菜を収穫しては、これゴマ和えにすると美味しいんですよねえ、などと笑顔を向ける。
今では祖母まで完全に日向の味方になっている。
「きっかけこそアレだけど宗太郎ちゃんいい子じゃないか。ちっと付き合うぐらい減るもんじゃなし」
「出会いの時点で十分おかしいでしょうよ。ちょっと助けたぐらいでヒーローにされてるのよ私」
「ドラマだと助けられて愛が芽生えるとかよくあるじゃないか」
「それ普通は男女逆だから」
困ったことに、日向の母ですら好意的なのだ。
「抜けたところのある宗太郎を容赦なく𠮟りつける姿に惚れ惚れした」
と言っていたらしい。親子そろってどこか響くポイントがずれている。
別に私は日向が嫌いではない。
むしろ素直だし好感は持っている。
ただ『吊り橋効果』って言葉があるように、人間は極限状態の時には通常の二倍三倍ぐらい相手がよく見えるものじゃないか。
そうでなきゃ三十路の、美人でもないスッピンのどてら女に惚れるわけがない。
絶対勘違いしているとしか思えない。早く更生させるべきだ。
そしてもっと問題なのは、付き合って欲しいとしか言わないくせに、
「結婚したら日向みちるになりますよ。桜庭みちるも美しいですけど、日向が満ちるって、何だか光合成出来そうな温かい名前じゃありませんか?」
などと付き合うだけでない方向に話を持って行こうとする。
私は前の恋人の話をして、もう男性に付き合うほど信用が持てないのだと突っぱねても、
「いろんな男性いますから。時間を掛けておいおい俺を信用してもらえればいいなと思います。でもそんなアホみたいな男、別れてよかったじゃないですか」
と歯牙にもかけない。
マズい。
このままではなし崩しに付き合ってそのまま結婚という方向に流れてしまいそうで、何とか正気に戻って欲しいと試みているが、私に対するヒーロー幻想は一年近く経つも未だ解消されていない。
祖母と彼の母親も反りが合うようで、一緒に芝居を観に行ったり、スーパーの物産展に連れ添って出かけたりと楽しそうである。
外堀が埋められていく恐怖を感じつつ、いい加減目を覚ませと思いながらもほぼ毎週末ごとに現れる日向に馴染んでしまっている自分もいる。
もうヒーローならヒーローでいいか。ずうっと勘違いしたあんたが悪いんだからね、などと思い始めている自分も怖い。
(万が一付き合って結婚することになったら、披露宴で「初めての新婦との出会いはパンツと靴下でした」とか馴れ初め言われるの? それはちょっと……)
と夜、仕事をしながら頭を抱えたりもする。
……まあ、なるようにしかならないか。
一階で祖母とバラエティー番組を見ながら笑っている日向の声に笑みをこぼしながら、私は仕事に戻るのだった。
年末の変態 来栖もよもよ @moyozou777
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