Borderless Snow

諏訪野 滋

Borderless Snow

 午後十一時四十分。あと二十分で今年も終わる。

 がらんとした夜のオフィスの中で、両手で包んだコーヒーカップに息を吹きかける。眼鏡のレンズ裏が一瞬曇ると、すぐに殺風景な室内の光景が戻ってきた。照明は最小限に、と自分の席の頭上だけに点いている蛍光灯を見上げながら、いい加減ボスに洗脳されてしまっているな、と独り苦笑いする。照明を全て点灯したとしても、私を責める人なんて職場には誰も残っていないのに。

 昼間とは全く違った解放感に包まれながら、私は両腕を伸ばして一度大きく伸びをした。メイクはすでにあらかた落ちてしまっているけれど、そんなことを気にする必要はもちろんない。皆が寝静まっているときに自分だけが仕事をしているこの夜勤の時間が、私は嫌いではなかった。さらに言えば、年末年始の勤務は手当てが割り増しになるのだ。一人暮らしのマンションに帰ってもすることは同じなのだから、より集中できて普段よりも割のいい今の時間を見逃す選択肢は、私にはなかった。


 さて、と私は肩をもむと、二面あるディスプレイの片方に広げられた書きかけの小説に手を付ける。昨日の続き、ありきたりなラブストーリー。いい加減早く付き合ってしまえばいいのに、と読者に指摘されるまでもなく私もそう思う。特にこの歳になると、時間の貴重さというものが嫌でも身に染みて感じられるようになるのだ。

 よし、さっさとキスさせよう、とキーボードを叩きかけたところで、もう一面に広げていたメールソフトの通知欄が、柔らかな電子音とともに点灯した。

 ナナセさん、か。メル友であり、同好の士であり、私が本音で話せる数少ない人。人、としか言えないのは、性別も年齢も全てが不詳だから。もっともナナセさんにとっても、アマツ・エマという今の私についての一切が不明であるのは同じことなのだけれど。

 それにしても、年の瀬も押し迫ったこんな時間にメールとは。私はもちろん大丈夫だけれど、向こうは果たしてどうなのだろうか。急いで返事返さないと年が明けちゃうぞ、と思いながら私は該当部分をクリックする。


ナナセ:エマさん、こんばんは。私、唐突に発見をしてしまいました!


 私は口に含んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。まあ、ナナセさんはいつだってこんな調子だが。私は薄暗いオフィスで一人にやにやしながら返事を返す。


エマ:こんばんは、ナナセさん。唐突と言えば、あなたが一番唐突なのですが。私がすぐにメールを返さなかったら、どうしていたんですか? その発見を誰かに話せないままで、もやもやしながら新年を迎えるつもりだったのですか?


 間髪入れずに返事が返ってきた。ナナセさん、かなり前のめりのようだ。


ナナセ:えーでもエマさん、今晩夜勤だって言ってたじゃないですか。あ、仕事中にメールはまずかったですか?


エマ:何かが起きるのを待つ仕事だから、基本的に大丈夫です。それで、発見とは何でしょう?


ナナセ:いいですか、よく聞いてください。全ての恋愛の歌を死別だと思って聴くと、より感動できるんですよ!


 何を言ってるんだこの人は。しかしさすがは良き小説家でありコピーライターでもあるナナセさん、気になる話題を振ることにかけては天下一品だ。

 恋愛の歌ねえ……別れたくない……もう一度出会い直したい……いつまでも愛してる……なるほど、死別のシチュに置き換えると歌詞に深みが増す、かもしれない。というかナナセさん、大晦日にどういうつもり? 病んでる気持ちのおすそ分け?


エマ:確かにあなたの言う通りかもしれません。何か嫌なことがあったのなら、私で良ければ相談に乗りますが(笑)


ナナセ:相談、乗っていただけますか。今年中に解決したいことがあるのですが。


エマ:あと十七分しかありませんが。何でしょう?


ナナセ:年が明けたら、私と会っていただけませんか?


 ……ちょっと、年末にいきなりぶっこんで来たな。ナナセさんとはここ一年間ずっとメールでやり取りをしてきた仲なので、気心は知れているし、悪意のある誘いではないこともわかる。それにしても、と私は張りを失いつつある自分の手の甲をちらりと眺める。いざ実際に伝えられてしまうと、いろいろと引け目を感じてしまうものだ。


エマ:何用でしょう? 同人誌を一緒に売りたいとか?


ナナセ:エマさんが好きです。直接会ってお話ししたいんです。


 胸の奥がきゅうっと締め付けられる。あー。ナナセさん、どうやら相当な覚悟を持って連絡してきたな。だからこんな時間なのか。暇だとは言ったけれど一応仕事中だというのに、全然私のことをおもんぱかってくれていないじゃないか。それにしてもナナセさんよ、正体不明の相手に告るって、ちょっと無防備すぎないかな。


エマ:差し出がましいようですが、こんな大事な時間に私とメールなどしていてよいのでしょうか。お近くにご家族とか。


 しばらくの間が空いて、再びメールが返ってくる。


ナナセ:ブロックしないでいてくれて、ありがとうございます。周りは気にしないでください、私はたいてい一人です。びっくりさせてしまってすいません。


 なるほど、メル友にいきなり交際を求めたりすれば、普通ならブロックか下手をすれば通報案件かもしれない。しかし私がナナセさんにそれをすることはない、なぜなら私はその告白に確かに喜びを感じているのだから。それが決して成就しないだろうという、ちょっとしたあきらめはあるにしても。


エマ:ブロックなどと、ナナセさんに驚かされるのは慣れています。でも、好き、と言っていただけるのはありがたいのですが、ナナセさんは私の書いた文章しか知らないでしょう?


ナナセ:それだけで好きになってはいけませんか? エマさんと沢山メールを交換してきた中で、私が出した結論です。


 確かに私が若いころには、ペンフレンドや交換日記などという、化石のような交際方法も存在していた。私だってプライベートなことに関しては、身バレしない範囲内で、身近にいる誰よりもナナセさんと相談しあってきた。だからこそ失望させたくはないし、今の関係を壊したくないという恐怖が先に出る。


エマ:でも、私にパートナーがいる場合はどうです? いろいろと問題が発生するのでは?


ナナセ:直接好きと言えたら、それでいいかな……その後のことは考えていませんでした。


 私はまたしても笑ってしまった。ナナセさん、きっと若いな。そんなに一生懸命になれたのって、私には遠い昔のことだから。

 仕方ない、私もきちんと向き合うとしようか。逆にナナセさんにブロックされるかもしれないけれど、それが私の精一杯だ。


エマ:私は独り身だから、会うのは構いませんが。それでも白髪を染めて、久しぶりにスカート引っ張り出さなくちゃ。ナナセさんに初めて会うんだから、ちょっとは気合い入れなきゃですね。


 もう戻れないなあ、と私はコーヒーを飲みながら天井を見上げた。年明けまで、あと五分もない。今年はどんな年だったのか……

 柔らかな電子音。


ナナセ:私もスカートと義足を新調しておきます。白髪はないのですが、私もおしゃれして、少しブラウンとか入れてみようかな……


 本当に私は、この一年間ナナセさんには驚かされっぱなしだ。近づく距離、胡散霧消する不安。


エマ:足、ないんかい。


ナナセ:再びブロックしないでいてくれて、ありがとうございます。というか、突っ込みそこですか? 同性なのかとか、私の方こそパートナーはいないのかとか……


エマ:そんなことはいいですから、住所を教えてください。私はババアですが、体力は結構あります。どこにでも飛んで行きますから。


ナナセ:マジですか、オーケーもらったって思っていいんですか?


エマ:そういう大切なことは、会ってからお話しましょう。


 その時、パソコンのデジタル時計がちょうど午前零時を告げた。そうだすっかり忘れていた、と放心している私に、再びメールが届いた。


ナナセ:あけましておめでとうございます。


エマ:おめでとうございます。


ナナセ:今年の抱負、聞いてもらっていいですか?


エマ:どうぞ。


ナナセ:今年は、エマさんと一緒に雪を見るぞ!


 思い出した様に窓の外を見た私は、常夜灯に照らされた雪片が、暗い夜空に花びらのようにちらほらと舞っていることに気付いた。暖かい私の地方では珍しいことだ。


エマ:ナナセさんのところでは、雪が降っているのですか?


ナナセ:豪雪です、真っ白ですよ。


 結構遠いんだな、スーツケースも買っといたほうがいいかな。


エマ:だったら。ナナセさんの今年の抱負、もう叶っちゃってますよ。


ナナセ:え。たしかエマさん、九州でも南の人じゃなかったですか?


エマ:そうなんですが、私もちょっとびっくりしています。ということで申し訳ありませんが、別の抱負を考えておいてもらえませんか。お互いの顔を見ながら、発表しあいましょう。


ナナセ:え、照れる。恥ずかしいですね。


エマ:あなたが告ってきたんでしょうが。


 心地よい疲労感。ほうっとため息をついて目を閉じると、彼女のいる街に雪が降り積もる音が聞こえるような気がした。同じ雪が、手を伸ばせば私のもとにも。


エマ:好き、なんて言われたのは、三十年ぶりくらいです。


ナナセ:私は、生まれて初めて言いました。


 私はくっくと笑いながら、もう一面のディスプレイで飛行機のチケットを探し始めた。

 今年はどうやら、よい一年になりそうだ。

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