何も起きないまま、おそらくは二日が経った。

 その間、脱出の方法や仕掛人についてセラと二人で思考を巡らせた。けれど、成果は挙がっていなかった。

 そして、何も口にしてもいない。


 ──ぐぅ。


 お腹が不満そうに鳴き、胃がきりきりと疼く。

 しかしそれよりも、喉の渇きのほうがつらかった。水分を摂れないことに比べれば、空腹なんてたいしたことがないと知った。頭がぼーっとするし、じんわりと痛む。

 セラも怠そうにしていて、大事な所を隠すのも億劫そうだった。

 しかし、その蠱惑的こわくてきな美しさはいささかも損なわれていない。それが少し不思議だった。もしかしたら命の危機に瀕した生殖本能がそう感じさせているのかもしれない。

 どうせ死ぬなら目の前の雌を犯してしまえ──そんな考えが脳裏をよぎりもした。童貞のまま死ぬのは嫌だろう、と。

 かぶりを振って、くすぶりつづけているその誘惑を振り払う。


「ごめんね」不意にセラが言った。「わたしのせいでこんなことになっちゃって」


 セラは自分が原因だと思い込んでいるようだった。僕の周りに怪しい存在が皆無なことを聞いて、いじめっ子への嫌疑が再燃したようなのだ。無理やりにでも理由をこしらえて、この理不尽な状況を自分に納得させようとしているようにも見えた。

 セラは眉を曇らせて、ごめんね、と繰り返した。


「セラさんは悪くない。悪いのは犯人だよ」僕も、もう何度目かになる同じ台詞を返した。


 するとセラは、「優しいね」と一度ほほえみ、


「本当にどうしようもなくなったら、わたしのことを殺して」


 セラの考えは想像がついた。「犯人の狙いは自分なんだから自分が死ねばこのゲームは終わるって考えてる?」


「うん」セラは弱々しくうなずいた。「そうすれば、無関係な優理君は助かる」


「嫌だよ、そんなの。せっかく知り合えたんだから、一緒に出ようよ」


「ううん、いいの」セラは卑屈そうに答えた。「帰れたところでわたしに居場所はないから」


「いじめのことを言ってるんなら──」そんなのいくらでもやりようはあるよ、という言葉は、


「違うの、それだけじゃないの」静かだが強い声に掻き消された。


 どういうことか尋ねると、セラは自嘲的に笑った。


「わたしはね、出来損ないなの。パパもママも弟も家族はみんな優秀なのにわたしだけ、何にもできない。勉強も運動も何をやっても全然上手くいかなくて、小さいころからずっと〈いらない子〉扱いされてきた。だからここで目を覚ました時、とうとう捨てられちゃったんだな、って思った。きっと悪い人たちにわたしを売ったんだって。

 ──ごめんね、隠してて。情けなくて、恥ずかしくて言えなかったの」


「き──」


 気にしなくていい。その秘匿は現状に何の影響も与えていない──僕の悪い癖で、理屈で物を言いそうになったけれど、すんでのところで飲み込んだ。

 今のセラに必要なのは論理ではない。そう直感したからだ。

 僕は、乾燥した唇を一度舐めてから口を開いた。


「セラさんは、僕にとっては〈いらない子〉なんかじゃない」


 呆気に取られたような気配が伝わってきて、その台詞が愛の告白とも取れるものだと気づいた。

 僕は猛烈に恥ずかしくなり、言い訳がましいことをまくし立てる。


「セラさんがいるからまだ冷静でいられる。こんな部屋に一人だったらと思うとぞっとするよ。それに話しやすいし、顔も性格もかわいいし、ここから出た後もずっと一緒にいたいと思ってる──あ、いや、友達としてって意味だよ?」


〈語るに落ちる〉だよ、という心の声は聞かなかったことにした。

 何を言われるかと戦々恐々としていると、セラはやおら聞いてきた。


「そっち行っていい?」


「えっ」予想外の問いだった。「……そりゃあ構わないけど」


 セラは、す、と立ち上がって歩み寄ると、僕のすぐ横──触れるか触れないかの所に座った。

 その瞬間、優しくて甘い女の子の香りが僕を襲った。心臓が高鳴り、かつてないほどの情欲が込み上げてくる。体育座りの、立てた膝の間に隠した男根に官能的な熱が集まっていく。


「き、急にどうしたの?」


 と動揺する僕にセラは追い打ちを掛けた。


 ──こてっ。


 体をもたれさせるようにして僕の肩に頭を乗せてきたのだ。

 セラの、かすかに湿った柔らかな体温に、一瞬、頭が真っ白になった。


「我慢しなくていいからね」静かな口調でセラは言う。「優理君が決めたことなら、それでここから出られなくなってもわたしに不満はないから」


 荒々しい動悸が体を揺るがし、理性がぐらぐらする。目を向けると、セラはもう隠そうとしていなかった。露になった生の女体が、すぐそこにあった。

 セラの手が僕のそれに重ねられた。


「今からでもいいよ」


 とささやかれ、ぞくぞくとする甘い戦慄が僕の体を駆け抜けた。


「──っ」


 しかし、僕は唇を噛んでそっと手を押し返した。「自棄やけになっちゃ駄目だよ」と言うのが精一杯だった。


 ──ふぅ。


 セラの吐息が聞こえた。「わかった、優理君がそう言うなら、わたしも我慢する」

 

 わたしも、だって? それってつまり……。

 僕の脳髄は、眠気が限界を迎えるまで沸騰しっ放しだった。







 事態が動いたのは、その翌朝──つまりは四日目の朝だった。

 まつわりついてくる倦怠感に辟易しながら起床すると、ぐったりとしたセラの体が、文字どおり淡い光を放っていたのだ。

 あまりに非現実的な光景に憮然とし、夢か幻でも見ているのかと我が目を疑ったけれど、すぐにセラに駆け寄り、


「何が起きてるのっ?! 大丈夫なのっ?!」


 と抱き起こした。


 長いまつ毛をおもむろに持ち上げたセラは、困ったようにほほえむと、「大丈夫、じゃ、ない」切れ切れに答えた。「もう、維持、できない……」


 ──パリッ。

 

 薄氷が割れるような音がしたかと思うと、セラの体を包む光が、まるで氷のように欠片となり崩れ落ちた。

 そして現れたのは、セラとは似ても似つかぬ褐色肌の少女だった。

 年の頃は同じだけれど、グラビアアイドルのように起伏に富んだ体つきや目尻の上がった猫目、鮮やかなピンクのショートヘアにセラの面影はなく、そしてそんなことよりも人間にあるはずのないものがあることのほうが問題だった。

 少女の頭には小さな角が二本生えており、背中には蝙蝠こうもりのような翼が、お尻には先端が矢印状になった黒いしっぽがあったのだ。

 これじゃあ、まるで悪魔みたいじゃないか。そう考えた時、


「ん……」


 少女の口から微弱な声が洩れた。喘ぎながらも懸命に声を出そうとしているようだった。

 僕は少女の口元に耳を寄せた。熱っぽい息が当たってくすぐったいけれど、息を凝らして耳を澄ます。


「……く、ちょう……」少女は何かを言ったが、聞き取れなかった。「……して」


 僕は曾祖母を看取った時のことを思い出していた。その時の喪失感が蘇ってきて胸を苦しくさせる。


「ごめん、もう一回言って」


 と催促すると、少女は大きく息を吸い、最後の力を振り絞るように強く言った。


「すぐりのおちんぽみるくがっ、ほしいのっ。わたしのなかにっ、こくてあついのっ、いっぱいちょうだいっ」


「………………なるほど」







 まどろみを振り切って目を開けると、見慣れた天井が見え、安堵した。

 よかった、戻ってこれたんだ。

 僕は自室のベッドに仰向けに寝ていたのだ。

 しかし、すぐに違和感を感じた。その原因は明白だった。


「えへへ」なぜか僕にひしと密着して添い寝していた褐色肌の少女──セラが、うれしそうに頬を緩め、「来ちゃった」と絶頂の余韻が抜け切っていないようなふわふわした甘え声で言った。

 

 僕はどきどきしながら、「どうしてここにいるの?」


「いちゃいけないの?」セラはむくれて反問し、


「そんなことはないけど」と僕が答えると、


「ね、何でわたしのことを助けてくれたの?」弾むような調子で質問を重ねた。


 結論からいうと、僕はセラのおねだりに応えた。そうすることが最も生還率の高い選択だと考えたからだ。

 その根拠、つまり前提条件は、セラの正体が人間の精をかてとするサキュバスであったこと。それは外見からもおねだりの内容からも明らかだろう。

 その前提条件からセラの心理を演繹えんえきすると、彼女の目的が僕の精であったとわかる。彼女が僕好みの美少女に化けていたことや監視カメラがなかったことも、その推論を傍証ぼうしょうしている。

 そして、〈セックスすると出られない部屋〉への不可解な監禁も、魔法やらの超常的な力によりなされたと推測できる。 

 しかし、ここで矛盾に気づく。

 精が目的なら、〈出られない部屋〉ではなく〈出られない部屋〉にすればよかったのに、なぜそうしなかったのか?

 その答えは、この映画のフィルムを遡って確認していくと推測できた。

 ヒントは、第一に解放条件の期間が文字化けしていたこと、第二には当初のセラが絶望の表情を浮かべていたこと。

 つまりあの設定は、おそらく魔法を失敗してしまったのだろう、セラが意図したものではなかったのだ。また、先に覚醒していたにもかかわらず僕の寝込みを襲わなかったことから、サキュバスのセックスにはルールとして相手の同意が必要であると帰納きのうできる。

 和姦縛りとそれに相反する設定ミス──絶望するのもむべなることである。

 ここまで推理できたら、セラの一連の言動──嘘の真意もおのずと判明する。

 一言で言えば、僕に警戒させないため。

 サキュバスであることを明かして精を要求した場合、警戒されて応じてもらえない、それどころか反撃されて殺されかねないとセラは考えたのだ。たしかに、悪魔の一種であるサキュバスの言葉を素直に受け取るかというと、首を横に振らざるを得ない。状況によっては強硬手段に訴えることもあるだろう。彼女の選択は正しかったと言える。

 セラは、同じ被害者のふりをしつつ、自然とセックスする流れになるように、彼女が僕を好きになることに説得力のある〈キャラ設定〉を演じた。おそらく僕がセラに対して好感と劣情を抱いているのを察した時に、勝算があると見てそうしようと決心したのだろう。

 セラのシナリオは順調に進んだ。

 けれど、クライマックスで僕はシナリオどおりには動かなかった。セラの誘惑を拒んでしまった。

 その結果が、ガス欠による衰弱と変身の解除だ。

 さて、なぜセラを抱くことが最も生還する確率が高いかだけれど、これはセラの事情に併せてサキュバスのある伝承も考慮した推測による。

 彼女たちが女夢魔おんなむまとも呼ばれることからもわかるとおり、その狩り場は対象の夢の中だ。

 そう、僕は夢を見ていたのだ。

 その状態で術者であるセラが死亡した場合、どんな結末になるか予想がつかなかった。バグった魔法の部屋──夢の世界に永遠に囚われたままという可能性もあった。だから、セラの目的の達成により魔法が解けることに懸けたほうが得策だと考えたのだ。


「──以上が、僕がセラさんを助けた理由だよ」


「ふうん」セラは、期待していた答えと違ったのか、不満な様子。「素直じゃないなぁ」


 どきりとした。「何でさ? 正直に話したよ」


「嘘ね」とセラは断じた。「だって、普通は悪魔が死んだら魔法が解けて解放されるって考えるんじゃない?」


「それは……根拠がなかったから」


「それを言うなら、わたしが満足すれば魔法が解けるっていうのも同じでしょ? それに、精を搾り取られすぎて死んじゃう可能性や部屋の設定どおりに出られなくなる可能性にだって、頭のいい優理なら気づいてたはずだよ」


 僕は観念して肩の力を抜いた。論理よりも感情を優先してしまった自分を認めよう。


「……セラさんを失いたくなかったんだ。たとえ演技だったとしても僕は楽しかったし、もっと話したいと思ってしまったんだ──自分でも馬鹿だと思う。けど、僕の心は、種族も理屈も何もかも関係なくなるくらい君を好きになってたんだよ」


「だからだよ」セラはどこか得意げに言う。「リスクを押してでも助けてくれたことが本当にうれしかったの。そんなに想われたことなんて初めてで──わたしも好きになっちゃったの!」


 顔を向けると、セラの、はにかんで赤らんだ微笑が視界を埋め尽くした。潤んだ瞳に捕らわれ、見つめ合う。

 二人分の息遣いが淫靡いんびな熱を帯びていく。

 やがてセラの朱唇しゅしんが、悪戯っぽく、甘やかにささやいた。


「ね、もういっかい、しよ?」







(了)

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セックスすると出られない部屋 虫野律(むしのりつ) @picosukemaru

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