セックスすると出られない部屋

虫野律(むしのりつ)

 ホラー映画でときおり見られるシチュエーションにこういうものがある。

 主人公が目を覚ますと、一糸まとわぬ姿で見知らぬ部屋にいて、そこにはやはり全裸の面識のない他人──大抵が同世代の魅力的な異性だ──がいるのだ。

 その部屋には家具やトイレ、食糧といった生活上必要なものは何もなく、せいぜいが固く閉ざされた扉があるくらいで、その扉には仕掛人からのメッセージらしきものが記されている。


『セックスすると出られない部屋』


 今、僕の目の前にある扉にはそう記されていた。

 もちろん僕はホラー映画の主人公などではなく、ごく普通の高校一年生なのだけれど、どうしてか状況はB級エロチックホラーそのものだった。つまり、自分の部屋で寝たはずなのに、起きたら、施錠された八帖ほどの白い部屋にいたのだ。扉は一枚しかなく、床は、リノリウムというのだろうか、学校の廊下のようにつるつるとしていて、二本ある直菅蛍光灯の光を反射している。部屋の隅には、あまり考えたくはないけれど、排泄用らしき蓋付きの青いバケツがあった。また、見た限りでは監視カメラのようなものはない。衣服はすべて剥ぎ取られていたが、十五センチ角ほどの格子状の通気口らしきものが天井にあり室温は快適で寒さは感じず、幸いなことに(?)、羞恥心にさいなまれるだけですんでいる。

 夢かと思って頬をつねってみたが、普通に痛くてこの理不尽かつ不可解な状況が現実だと知れた。

 セックス云々の少し下には、

 

『この扉は、螟「繧ェ繝�日間、セックスしないで過ごすと開く。』


 とあった。肝心要の期間が文字化けしているところに果てしない悪意を感じる。『日間』とあることから最低でも二十四時間ということは読み取れるが、それだけ。それ以外は仕掛人の性格が悪いということしかわからない。

 僕は両手で股関を覆い隠しながら背後を振り返り、もう一人の登場人物──この悪趣味な映画の美少女ヒロインに尋ねた。


「ねぇ、君はいつからここにいるの?」


 隅の辺りで体を隠すように体育座りをして絶望の表情を浮かべていた全裸の少女が、緩慢な動作で僕に顔を向けた。


「……さっき」


 その声は深く沈んでいたけれど、冬の空のように高く澄んで美しく響き、僕をうっとりさせた。鈴を転がすよう、という形容は、きっと彼女のために生まれてきた表現なのだろうと、そう確信させるほど耳心地のよい声音だった。


「さっきって?」


 と問い返しつつ僕は、彼女の可憐な容姿に見とれていた。

 目尻が儚げに下がった黒目がちな大きな瞳、つんと取り澄ましたような鼻梁、肩口まであるつややかな黒髪に、それと好対照を成す新雪をも欺く北欧人のような純白の肌、そしてどちらかというと小柄で華奢な体つき──まさに深層の令嬢という趣だった。

 有り体に言えば、僕の好みをすべて詰め込んだような理想の美少女だった。


「わからないけど、たぶんあなたと同じ」彼女は答える。「気がついたらここにいて、少ししたらあなたも目を覚ました」


「ってことは君も何も知らないの?」


 うん、と彼女は小さく顎を引いた。「どうすればいいんだろうね……」と、うつむきがちにささやいた彼女の眉間には悩ましげなしわが刻まれている。


 どうしたものか、と思案する──癖で腕組みしそうになり、はっとして慌てて股関に両手をやった。見れば、彼女は膝に顔をうずめていたが、髪の隙間から覗く赤く染まった耳が、僕のそれを見てしまったことを物語っていた。

 ヤバい、と思った。気持ち悪がられるかもしれない。なぜなら、ほとんど完全に勃起してしまっているから。

 でも仕方ないのだ。童貞には刺激が強すぎる。まして彼女のような美少女ではなおさらだ。

 彼女は小さく縮こまりながら、ちらちらとこちらを窺う。その眼差しには明らかな警戒心が見て取れた。


「その、えと、ひどいこと、しないよね?」


「しないよ!」食いぎみにうなずいて僕は、手──ではなく顎で扉を示した。「変なことしたら詰むんだから──っていうか、そもそも、そんなかわいそうなことするわけないよ」


 彼女は、なおも疑わしそうにしながらも、「……そうだよね」と口にした。「しちゃったらアウトだもんね、そんなことしないよね」自分に言い聞かせているようにも、神に祈っているようにも聞こえる口ぶりだった。


 セックスしないと出られない部屋なら聞いたことがあるけれど、その逆は初めてだ。割と意味不明である。

 そういえば、と、ふと思い及んだ。


「僕は優理すぐりっていうんだけど、君のことは何て呼べばいい?」


「ええと……」彼女は、見ず知らずの人間に本名を教えるリスクを考えているのか、ためらうように視線をさ迷わせ、それから、「セラ」と答えた。「セラって呼んで」


「ハーフとかクォーターなの?」


「えっ──うん、そんな感じ」セラはちょっとだけまごついて答えた。「おばあちゃんが向こうの人だから」


「なるほど」


 そう言われれば、たしかに肌の色合いといい、目鼻立ちといい、納得できるものだった。


「ところで」と僕は仕切り直すように言い、「今後のことを考えるためにお互いの情報を共有したいんだけど、いいかな?」もちろんできる範囲で構わないよ、と付け加えた。


 今度はすぐに首肯しゅこうしてくれた。


 この部屋で唯一の他者が協力的なことに安堵の吐息が洩れた。ホラーものにありがちな疑心暗鬼に陥った末のナンセンスな仲間割れ展開は回避できそうで、本心からの、「ありがと」を自然と口にしていた。


 セラの座る隅の反対側の隅に腰を下ろした。四角形の一辺の両端に横並びに座っている形だ──僕らの正面にはお互いの顔ではなく殺風景な白い壁と扉がある。

 まずかいより始めよ、ということで僕のことから話すことにした。

 僕が何の変哲もない公立高校の一年生であること、こんなことをする人物に心当たりがないこと、自室のベッドで眠ったはずなのにいつの間にかここに連れてこられていたことを説明した。

 セラは神妙な面持ちで最後まで口を挟まなかった。次は君の番だよ、というように黙して促すと、彼女は口を開いた。

 そして、セラは、いわゆるお嬢様私立の女子高に通う一年生であること、僕と同じく自室で眠って目を覚ましたらここにいたことを、夜更けにぽつぽつと降る小雨のような静かな口調で教えてくれた。

 が、そこでセラは口ごもった。言おうか言うまいか迷っていることがあるようだった。


「何かあるなら教えてほしいけど、言いにくいこと?」僕が努めて穏やかな声色で尋ねると、


「うん」とも「ううん」ともつかない曖昧な音が返ってきた。


 セラのほうへ視線をやりながら、


「言いたくないなら言わなくも大丈夫だ、よ──っ」

 

 しかし僕は慌てて顔を背けた。体育座りをするセラの膝からわずかに浮いた控えめな胸乳むなぢとその先端のかわいらしい桜色の尖りが見えてしまったからだ。

 鼓動が一気に加速し、もう一度、できればじっくり見たいという劣情が突き上がってきて、全身が焦れったい火照りに包まれる。けれど、何とかこらえる。そんなことをして嫌われたくなかった。


「……」考えるような間があって、セラはささやくようなか細い声で言った。「わたしのせいかもしれないの」


 つららを背骨に突っ込まれたかのような心地がして、たちまち獣欲が冷え、別の意味の興奮が頭を占拠した。


「犯人に心当たりがあるのっ?!」声が少し上擦ってしまった。しかし恥ずかしさを感じるよりも先に、


「うん」セラはうなずいた。「全然違うかもしれないけど」


 セラが言うことには、彼女は学校でいじめられているらしかった。

 にわかには信じられなかった。こんなかわいい子がどうして? という得心のいかない思いでいっぱいだった。容姿の良し悪しは、女子は特に、スクールカーストに直結するのではないのか。

 しかし、続くセラの言葉を聞いたら納得した。


「わたしのクラスにも、やたらと声が大きくて仕切りたがりな子がいるんだけど──そうそう、派手な感じの子。その子の彼氏が、どこで見られたのか知らないけど、わたしに一目惚れしたみたいで、それでその子に目の敵にされるようになっちゃったんだ。たぶんそれがきっかけ」


「つまり、そのいじめっ子が犯人なんじゃないかってこと?」


「うん、彼女の家は旧財閥系の一族で、お金もコネも権力もある。やろうと思えば、高校生の一人や二人誘拐することも簡単にできると思う」


 ううむ、と僕は低くうなった。となると、一般庶民である僕に対抗するすべはない。座して運命──彼らの気まぐれに身を任せるしかないのだろうか。

 そこまで考えて、疑問が湧く。


「仮にその意地悪お姫様が犯人だったとして──」


 そこでセラは、ふふ、と初めて吐息を綻ばせた。「──あ、ごめんなさい、どうぞ続けて」


 思わず顔を向けてしまった僕は、いろいろと魅力的なものを目にできて、心と下腹部がびきゅんびきゅんと浮き立っていたのだけれど、平静を装い、


「ええと、僕が言いたいのは、その子の目的は何なのかってこと──つまりね、監禁して、それで最終的に僕らをどうしたいのかがわからないんだよね」


「えと、それは、嫌がらせ、とか?」セラは虚を衝かれたように戸惑いがちに語尾を上げた。


「でもさ、僕らをいじめて困らせるのが目的なら、これはドッキリの場合にも言えることなんだけど、普通はその様子を観察したいって思うんじゃない?」僕は目を覚ますとまず最初に部屋を見回し、バケツを調べ、次いで通気口の中にも目を凝らした。その結果は白。怪しいものは何も発見できなかった。すなわち、「この部屋には監視カメラのようなものは見当たらないよ」


「あっ」セラは気づきの声を零した。


「単なる嫌がらせレベルじゃなくて、気に食わない人間を消すこと、つまりセラさんの殺害が目的だったとしてもこの状況は整合性が取れない。それが目的なら、僕まで巻き込む必要も、わざわざ監禁して卑猥な設定を強制する必要もないはずなんだ──だから、そのいじめっ子が犯人というのは考えにくいんじゃないかな」


「……」セラは何も言わない。かと思ったら、「じゃあ……も……のかな」と何事かをつぶやいたのが聞こえた。


「え、何?」


「ううん、たぶん関係ないことだから」


 その、うれいを含んだ声音に僕の心がきしんだ。セラの憂鬱に引きずられたのか、拒絶とも取れる言葉に悲しみを覚えたのか、あるいはそのどちらもか、定かではなかった。

 それでも、胸のうずきは鳴りつづける。

 だから僕は、セラを元気づける言葉を見つけたくて、彼女が僕を嫌っていない根拠を探したくて、再び彼女のほうを向いた。

 と、目が合い、どきりと心臓が跳ねた。


「ご、ごめんっ」と謝って僕は、壁のほうに視線を戻す。


 さっきから形のいい乳房やらすべらかなももやらを見ていることを咎められるかも、と思って身をすくめていたのだけれど、


「優理君って、頭いいんだね」セラから返ってきたのは、感心の言葉だった。「それにすごく冷静」

 

 安心して、ほっと息をついたのも束の間、


「でも、えっちなところはちょっとよくないかな。あんまり見られると恥ずかしいよ」


 と言われ、羞恥に顔が熱くなる。「いや、その違うくて」と言い訳しようとして、すぐに諦めた。「──その、ごめん、つい出来心で」なんて、性犯罪者そのものの供述。


 くすっと軽い笑い声が聞こえた。「いいよ別に。そんなに怒ってないし」


「えっ、見ていいの?」思わず本音が飛び出した。


「それは駄目」


「あ、うん、そうだよね」僕はしょんぼりと肩を落とした。


「がっかりしすぎだよ」あきれているような、笑っているような声だった。


 面映おもはゆいような沈黙が降りてきた。どうしたらいいかわからず、尻をもじつかせて座り直してみたり。


「優理君は、彼女とか、いるの?」セラが唐突に聞いてきた。


「いないよ」


「いたことは?」


 見栄を張りたい男心が喉まで出たけれど、「ないよ、年齢イコール彼女いない歴ってやつだね」と自嘲まじりにおどけてみせた。


「わたしと同じだね」セラは事もなげにさらりと言い、しかし一転、「……あのさ、その……」とためらう様子。


 急かさずに言葉を待っていると、


「今も、したい? その、えっちなこと」と尋ねられた。


 どういう意味だろう、といぶかりつつ、「正直に言えば、そりゃあしたいけど」と本当に正直に言う。「でも、しないから安心してよ。早く帰りたいし」


「そっか」


 セラの考えていることがわからず、僕は目の端で彼女を盗み見る。

 と、


「また見てる」


 セラはおかしそうに言った。彼女は頭を膝に乗せてこちらを監視していたのだ。しかも、胸乳の先端は手──いわゆる手ブラで覆われていて見えない。

 巧妙にして卑劣な罠に嵌められた気分だった──悪い気はしないけれど。

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