雪国へ続く魔法の道

秋色

残雪の秘密

 子どもの頃、とても不思議だった経験。塾で知り合った早矢香ちやんの家に何度か遊びに行った時、季節は初夏から真夏にかけてだったけど、いつも雪景色を見た事。早矢香ちゃんの家へ行く途中のバスの窓から……。早矢香ちゃんの家の窓からも……。長い間、これは私にとっての疑問であり、心の中の宝石のような秘密だった。




 もちろん冬が過ぎても山頂に雪を頂いている山は寒い地域には珍しくない。万年雪という言葉もあるくらいだから。

 でも私達家族がその当時、つまり私が十才の頃に住んでいた地域はそんな寒い地域ではなかった。

 それは私が九才の春に親の転勤で引っ越して来た北部九州の都市、K区。それまでいた四国の田舎よりは寒かったけど、滅多に雪の降らない地域だ。

 その地方に来て初めての冬にも三、四日しか雪は降らなかったし、そのうちの一日に数センチの雪が積もっただけで、クラスメート達のテンションは上がった。もちろん私も。その冬一番の寒さをものともしないくらいに。慣れない手付きで小さい雪だるまを作って、見せあいこし、やがて午後の陽射しに溶けていくのを悲しんだ。


 対して初めて早矢香ちゃんに誘われ、家に遊びに行った初夏の日はとても暑かった。お母さんから勧められたワンピースが恨めしいくらいの夏日だったのだ。

 早矢香ちゃんの家へ行くのに、駅前から路線バスで何十分もかかった。一人でバスに乗り、早矢香ちゃんがバスの着く時刻に目的地の停留所の前で待っていてくれる約束だった。

 賑わった商店街、レストラン、大きなパン屋さんのウインドウをバスの窓から見ているうち、景色はどんどん色が失われていった。やがて住宅地が並ぶような道を通ったかと思うと、だんだんまた辺りは賑わってきて、ショッピングモールのある場所を通ったり。

 目的地まであと十二、三分という所で、その向こうに白い団地の立ち並ぶ、大きな屋根付きのバス停に停車した。

 次に大きな交差点を曲がって坂道を上った時、バスの中の温度が急に下がって、一気にヒンヤリした気がした。そんなに高くまで来ている気はしなかったので不思議な感覚だった。

 そしてその時、窓の外に雪の積もった山を見たのだった。

 夏だというのに、青空の下で雪を被った山を。正確には、真っ白に覆われているわけではなく、ところどころ雪に覆われているという感じ。

 バスの車内には数人の乗客がいたけど、みんな窓の向こうの雪の積もった山に驚いた様子もなく、普通に座席に座っている。私は一人、窓の外の風景に眼が釘付けになっていた。


 ――え、このバスに乗っている間に一体何が起こったんだろう?――

 頭の中はパニックだった。


 やがて目的地のバス停で降り、そこで待っていた早矢香ちゃんに会うと、ついさっき見た風景の事はもう忘れ、二人でおしゃべりに夢中になった。バスの着いた場所からは雪山は見えなかったせいもある。


 それでも早矢香ちゃんの家に着くと、そこからまた遠くに雪の積もった山が見えたので驚いた。早矢香ちゃんの家は、丘の上にあり、二階にある早矢香ちゃんの部屋には大きなガラス戸があってベランダに通じていた。そこからも雪を被った山は遠くに見える。


「ねぇ、さーちゃん、あの山、白いところがいっぱい。ここにいると、アルプスの少女みたいな気分になるね」

 私がそう言うと、早矢香ちゃんは「そうかねー。もう見慣れた」と私の感激した様子とは、大違いだった。

 一緒に勉強していても、ゲームをしていても、私の眼は常に雪景色の山を追っていたし、心はそちらに持っていかれた。やがて早矢香ちゃんのお母さんがお菓子とジュースを持って来てくれた。

「さあ、どうぞ」

 早矢香ちゃんのお母さんは、「可愛いワンピースね」と褒めてくれ、また、「さーちゃんは塾で仲良しが出来て喜んでるのよ」とも言った。

 でも早矢香ちゃんと同じで、早矢香ちゃんのお母さんも、外の雪景色には無関心な様子で、窓の外を見ようともしない。

 私はと言えば、窓の外の風景を見ながらお菓子を食べるのが、何だかすごく贅沢な事に感じられ、心がぽかぽかしてきた。


 早矢香ちゃんの家への訪問は四、五回あり、その度、同じようにバスの中から、そして早矢香ちゃんの家の窓から雪景色に見入った。もうまるで異世界に通じている町としか考えられなかった。


 九月になると、学力テストの結果で私と早矢香ちゃんの塾のクラスは別々になってしまった。そしてその翌年には私は別の塾に移る事に。

 よくある、女の子の友情の終わる方程式の一つだった。

 翌年、お父さんに再び転勤の話が出て、わが家はまたも引っ越す事になった。今度は、ちょっと都会の街。

 もう一度、あの、夏の雪景色を見たいという願いは叶わないまま、私は家族とその町を去った。



 *



 大人になっていく過程で、時々あの景色を見たのは夢だったのではないだろうかと考えたりもした。

 でも友達の顔も名前もそのお母さんの顔かたちも鮮明で、すべてが幻とは思えないのだ。

 当時の私と早矢香ちゃんには塾の中で他に、共通の友達もいなかったので、このミステリーについて確認のしようもなく。

 忙しい両親に、「今日遊びに行ったお友達の家から雪山が見えた」と何気なく話したけど、いつもの空想癖がまた始まったと思われただけだった。

 それで私はまるで秘密の宝物のように、この事を胸にしまっておく事にしたのだ。そしていつしか、あの夏、バスで不思議な町へ向かった時の道のりや、あの家で雪景色を見ながら食べたお菓子を思い出す事は、悲しい事があった時に頼る最後の砦、胸の痛みの特効薬となった。



 何せ、大人になるのにはまだまだ時間があると信じている頃というのは、色々な不安が押し寄せ、未来が怖くなるものだ。

 いつか、まともにこの教科書に書かれてある内容を理解できる日が来るのだろうか、とか。こんな冴えない子がいつか、毛虫が蝶に変わるように美しく、いや責めて可愛く、ブサカワでもいいので変身できる日が来るのだろうか、とか。


 そんな時、思い出すのは、子どもの頃の奇跡の雪山のこと。奇跡って意外と起こるものなんだと信じさせてくれた。


 *


 もし私が薄命で若くしてこの世を去っていたなら、この奇跡について書き残し、死後、一作のファンタジーが出来上がっていただろう。

 でもそうはならなかった。

 いつの間にか大人になり、結婚して、子どもが出来、平凡ながら幸せな毎日を送っている。積み重なるありふれた日々。


 そんな私に青天の霹靂のように、謎が解明する日は、突然やって来た。

 K区に二十数年ぶりに戻るようになったのがきっかけだった。

 これも転勤のため。今度は夫の転勤だった。 

 引っ越しが終わり、住居がある程度見栄え良く片付いたところで、居間のソファに座ると、その日どこからかもらってきたK区の観光案内を兼ねた卓上カレンダーが目に入った。何気なくめくってみた。そして七月のカレンダーをめくった時、目を疑った。いきなり目に飛び込んできたのは、かつてバスの窓から見た、あの雪の山の風景だったから。


「これ……。雪の山、昔見たやつ……」


 でも何かが違う。近くから撮影したその山は。


「あー、それ? 見たって、どこで? でもそれ雪じゃないよ。雪が積もってるみたいに見えるけど、カルスト台地だから」夫が私の心の声を遮るように言った


「カルスト台地?」



「石灰岩からなる地形。 九州に親戚いるから、小さい頃連れて行ってもらった事もあるんだ。ウィキ、見てみ。ちなみにここの鍾乳洞はマジで冒険家でないとツラい」


 私はスマートフォンでカレンダーの地名とカルストとを合わせ、検索した。夫の言った通りだった。そしてかつての塾の友達、早矢香ちゃんの家の住所もこの地域にあったのだ。



「私、昔、こっちに住んでた時、塾の友達があの山の近辺に住んでたの」とカレンダーを指す。家にも遊びに行ったけど、その時、雪が残っているものとばかり思ってて。でも私、『山に雪が積もってるね』とか何とか言ったと思うんだけど、否定されなかったよ」


「単にめんどくさかったからじゃない? 冗談で言ってると思ったとか」


「え? 私は雪の降る異次元にでも通じている町だと子どもの頃、わくわくしてたのに。雪じゃなくて石だったなんて」


「何それ」夫はケラケラ笑って、私の唯一の神秘体験が消え去った。

「あのさ、雪はさんざ降る地域もあるし、世界的に見ればカルスト台地の方が珍しいから。有効活用もできるしね」


「ふうん」力なく答えた私だけど、何となく分かる気がした。分かるというか理解できるというか。雪はロマンチックだけど、現実にはカルストの方がきっと本当に貴重なんだろう。

 子どもの時にこれを知っていたらもっとショックだったかもしれない。


 ただ納得できるものがあったのは、成長過程で知っていった事があるから。

 幼い頃からぼーっとして空想好きな少女で、将来どうなるんだろうと微妙だった私。年月を重ね、そんな自分に、意外と現実的な問題解決能力が備わっている事に気付かされていった。私も雪じゃなくてカルストの方だったのかもしれない。だから雪が雪でなかった事を、自分でも意外なくらい受け入れられたのだろう。


 早矢香ちゃんの住む町に向かうバスの中で感じた、一気に温度が変わる瞬間には、その後の人生で何度か出会っている。

 急に標高が高くなって、これから何か起こるというような、分岐点の瞬間。

 魔法のかかる瞬間。

 だから雪景色へと続く魔法の道は、まだ自分の中で消えてはいない。今もバスの車窓から何かを探している気分になる時がある。



〈Fin〉



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